第十八章  激怒

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 空次郎はまだリビングにいた。椅子に浅くもたれ、額に手を当てながら半開きの目をダイニングテーブルの上に落としている。

 他には誰もいない。

 知世もすずも新山も、皆、自室に籠っているのだろう。


 生気がごっそり抜け落ちてしまったような、憔悴しきった様子の彼だった。

 干し柿のようにしわがれ、その目には昨日までの精根は全く感じられない。こんな彼を相手に、例の話を持ち出すのはどうだろうか、と逡巡した私だったが猫子はまるで意に介していない。


「紅月さん」


 猫子に声をかけられ、空次郎は顔を伏せたまま目だけをこちらに向けた。その眼球の動きはまるで力がなく、油の切れた機械のようだった。


「少しお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか?」

「……何か」


 空次郎はこちらに向き直った。そして朱李と佐夜子との結婚について猫子が訊くと、彼は眉間にしわを寄せて、


「それが事件に関係あるというのかね?」


 その返事は暗に認めているとも取れた。


「つまり、あの二人の婚約の裏には、あなたから何かしらの口添えがあった、ということでよろしいですか?」


「さあな。だとしたらどうなる。それが息子が殺された理由なのか? この事件の原因を私が作ったとでも言いたいのかっ!」


 空次郎はどんっと拳をテーブルに打ちつけた。その衝撃は思いのほか強く、真上に吊るされているシャンデリアがわずかに揺れ出した。


 文字通り大気が震えているのを感じた。


「そう聞こえましたか?」


 猫子は臆さず、挑発する。


「小娘が」


 彼は今まで事件の衝撃で忘れていた怒りを爆発させるかのように勢いよく立ち上がり、威圧的な目で猫子を見下ろす。そして――


「馬鹿も休み休み言いたまえ。私はそんなことなど知らん」


 そう怒鳴りつけると、彼は思い切り踏みつけるような大股で二階へ上がって行った。その腹に響くような足音が遠くなると、私は椅子の背もたれに手を置き、へなへなとしゃがみ込んでしまった。


(……怖かった)


 深呼吸をしながら気を落ち着かせていると、二階から矢立警部が心配そうに下りてきた。


「どうした? すごい音が聞こえたぞ」

「ちょっとね」


「万野原さん、すごい汗じゃないか」

「きーちゃんはビビりだから」


「男の人に怒鳴られたら、びっくりするに決まってるじゃないですか。もうねこさん、慎重に行きましょうよ」


「ああいうタイプはゆっくり切り崩すより直接爆弾を投げかけた方がいいんだ」


 気が落ち着くのを待ってから、朱李と佐夜子の婚約から始まる一連の経緯を説明すると、矢立警部は興味深そうに目をしばたたかせた。


「ふうむ、そんなことがあった……いや、あったかもしれないのか。なるほどねぇ」


「事件には関係がありそう?」


「なんとも言えねぇ。仮にその話が本当だとすると、紅月朱李殺害に最も強い動機を持つのは彼の婚約者である谷山佐夜子その人だということになってしまう。いや、もしかしたら中林が密かに谷山に好意を持っていて、それを奪った紅月朱李に――」


「ちょっと、強引に話を持っていかないでよ。どれだけ中林に疑いを向けたいの」


「そんなにムキになるな。とにかく、結局中林が最も大きな動機を持っていることには変わりないんだ。今の話が本当だとしよう。それによって捜査線上に浮かんでくる人物がいるか? いないじゃないか」


「それはまあ、そうだけど」


「当の谷山佐夜子本人も被害者の一人となってしまっている。それにその縁談の関係者となっているのは被害者二人とその親たちで、双方の家に利益があるからこそ、まとまった縁談なわけだろう。谷山佐夜子の父親はあの〈こうつき総合外科〉の医師だそうだな。谷山家にしてみれば、娘を紅月家の嫁に出すことにより、紅月家に交わることができる。今後の地位と安泰が確定しているわけだ。それがなぜ、娘を死に追いやらねばならない?」


 矢立警部の言い分はもっともだった。

 たしかに、どれだけ汚いやり取りがあの二人の婚約の裏にあろうとも、それが理由で捜査の目が向くような者はいない。それに被疑者は事件当日にこの家にいた者に絞られてしまっている。


 先ほどの空次郎の反応から見ても、二人の婚約の裏で空次郎が動いたことはもはや疑う余地はないけれど。


「……」


 本当に事件とは関わりがないのだろうか。この事実を無関係なものとして、このままフェードアウトさせてしまってよいのだろうか。


 中林は朱李から多額の金を借りていた。

 佐夜子は朱李と無理やり婚約させられた。


「そうだ」と矢立警部。



「何さ」



「三木松への事情聴取が先ほど終わった。何でも息子が熱を出しているものだから、こっちには来れないようだ。うちの刑事を一人出して三木松の家で訊いてきた」


「ああ、そう。そういえばそうだったね。でも三木松さんは早退したのだから、事件には関係ないんじゃない?」


「一応、関係者の一人ではあるから、形式的なものとして聞いてくれ」


「判った」


「三木松は昨日帰ってから、妻と一緒に息子の看病をしていたそうです。しかし、昨夜の十時半頃に息子の容体が悪くなり、市内の救急病院に連れて行ったそうだ」


「ああそう、だいじょうぶかな」


「息子さんについては大事には至らなかったそうなんだが、我々にとって大切なのはここから。三木松は午後十一時半までその救急病院にいたようなんだ。この裏は取れていて、ここからだと、どれだけ車を飛ばしても三十分ほどはかかるため、彼のアリバイは成立する」


「その他に気になる証言は?」

「ありません」


「そう」


 これで三木松は完全に被疑者の枠から外れる。


 こうして残ったのは、空次郎、芽衣子、知世、中林、すず、新山、そして私に猫子の八名だった。


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