第十七章 血に交われば赤くなる
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その後、中林と不倫関係にあったという女が見つかり、次いで彼の口座に三百万円の入金があったこと、女の元夫の口座にその三百万円が振り込まれたことが判明した。中林の証言の裏は取れたのである。
これによって中林の立場はどんどん悪い方向へ転がって行ったのだった。
それから私たちは矢立警部と共に関係者一同へ再度事情聴取を行い、事件当夜のアリバイについて訊いた。が、結果は芳しくなく、誰も事件が発生したと思われる午後十一時四十三分から零時までのアリバイを証明できる者はいなかった。
「ほとんどの人間は部屋に戻って休んでいたようだな。まあ時間帯を考えれば不自然なことではないが」
矢立警部は面倒な仕事が片付いて一段落したような面持ちであった。もう彼の中で本命は中林に固定されているのだろう。
その後、関係者について簡単に検討をした。
「空次郎さんは除外していいんじゃないでしょうか。かなり酩酊していたようですし、知世さんが彼の部屋から出てきた時、いびきが聞こえましたもん」
私が自分で見聞きした生の情報を伝える。
「そっか、きーちゃんは五十嵐知世と一緒にいたんだったね。ま、事件の直前の時間に起きて犯行に至ったとは考えられなくも……ないね。うん」
「疑ってるとかではなく、俺が個人的に気になったのが、この新山という使用人なんだが」
矢立警部は神妙に切り出す。
「新山さん?」
「昨日一人だけ先に休んだというじゃないか。一人だけ蚊帳の外にいる、といった感じで少し気になるんだ」
「それはあたしも感じていたけれど」
たしかに新山は昨夜、誰よりも早く二階へ上がった。本人が言うには体調不良ということだが……
「雨に打たれたせいで、体調を崩しちゃったみたいです」
私が言う。
「雨、ねぇ」
「本当にそうだったのか、気になるってこと? 仮病のふりをして、淡々と二人の命を狙っていたとでも?」
「いや、そこまで穿った見方はしてない。彼と被害者との間にこれといってトラブルはなかったようだし」
「……」
その時、聞き覚えのある声が聞こえた。親鳥を呼ぶ雛のように切ない声が。
「先生」
芽衣子だった。扉の影に隠れて、ちょこんと顔だけを覗かせている。
「どうしたの?」
猫子が優しい声を返すと、芽衣子は小さく手招きをした。矢立警部が「かまわん」と顎をしゃくるので、私たちは彼女の許に走った。
「何か気になったことでもあった?」
「この家の中にお兄様を殺した人間がいるというのが、とても恐ろしくって。一人でいるのが心細いんです」
肌はシルクのように白いのに、目の周りは依然として赤いままだった。
「ここじゃあ、あれだから、落ち着いて話ができるとこに行こう」
「でしたら、私の部屋に」
そうして三人は二階の芽衣子の部屋へ向かった。芽衣子は猫子の腕にくっついて離れなかった。
「どうぞ、先生」
思っていたよりも広くはない、十畳ほどの部屋だった。しかし、この部屋がこの家のどの部屋よりも凝った趣向に溢れていることは一目で理解できた。
壁は薄紅色に塗られ、ところどころにハートの柄が散りばめられている。部屋の中央には真っ赤なラグマットが敷かれていた。家具は赤を基調とし、中でも存在感を放っていたのが右手奥にどんと構えているシングルソファだった。
その赤い空間が表しているのは乙女の恋心だろうか。
燃え上がる恋煩いの色。
一歩足を踏み入れただけで、私は一気に体温が上昇するような錯覚に囚われた。赤色には交感神経を刺激する効果があるというから、あながち錯覚でもないのだろう。この部屋ならば、冷え性に悩まされることはないだろうな、と思った。
「どうぞ、そちらの方へ」
芽衣子に促され、私たちはラグマットの上のテーブルセットに腰を下ろした。テーブルの上には造花のバラを挿した花瓶がある。そのバラも例に漏れることなく赤かった。
私は目の前の少女を見据える。
慕っていた兄との突然の別れ。
それがどれほどの傷痕を彼女に残したのか。それは本人にしか判らない。今にも、このガラス細工のような繊細な彼女の心が床に叩きつけられたように粉々になってしまうのではないか、と一抹の不安を覚えた。
しばらく無言の時間が続いたが、意を決したように芽衣子は薄暗い顔を上げた。
「先生、なぜお兄様は殺されなくてはならなかったのでしょう」
今さらとも思える疑問を、芽衣子は改めて口にする。それは自分に言い聞かせているのようにも聞こえた。
「何か、朱李さんの身の回りでトラブルがあったとかは聞いていないのよね?」
「はい、その辺りのことは警察の方にもはっきり伝えました。お兄様はとても弱い人なのです。誰かから恨みを買うようなことは決してなさりません」
「中林くんとは古くからの付き合いだったそうだね。彼との様子はどうだった?」
芽衣子は不思議そうに、
「中林さんがどうか? もしかしてあの人が疑われているのですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「たしかに、お兄様と中林さんはよく喧嘩をしますけど、それはお互いをよく知っているからこそなのです。喧嘩をするほど仲がいいってよく言うじゃありませんか。それに周りが心配するような大きな喧嘩なんて過去に数回あったくらいでしたわ。普段のそれは喧嘩というよりかは、ただじゃれているだけにも見えました」
「じゃあ最近は大きな衝突はないのね?」
「はい」
この分だと芽衣子は例の借金の件を知らないようだった。それに中林と朱李の仲も芽衣子の目からは変わった様子もないらしい。猫子は話題を変えた。
「紅月さん自身は、何か気になることはある? どんな小さなことでもいいんだけど」
問われて、芽衣子はひどく深刻そうな顔つきになった。その彼女の変化に、ただならぬ何かを感じた。
「何か知っているみたいだね」
芽衣子は俯いたまま小さく息をつくとやがて消え入りそうな声で話し始めた。口にするのもはばかれる、といった彼女の心情が端的に感じられる。
「実は、まだ警察の方にも話していないことなんですが……」
そうして彼女が語ったことは、朱李と佐夜子の結婚の裏で働いていた紅月家の力についてだった。佐夜子の親が空次郎の経営する病院に勤めていたこと、朱李からのアプローチを佐夜子は鼻にもかけなかったこと、にもかかわらず、あの二人が婚約したこと。
「佐夜子さんはきっとお兄様のことを愛していなかったと思うんです。親の事情で無理やり結婚させられて、こういうのって政略結婚というのでしょう?」
「……つまり、その辺りの事情が事件に関係あるかもしれない、と紅月さんはそう思っているのね。ちなみにそれは誰から聞いたのかしら」
「お兄様とお父様がお二人で話しているのを盗み聞きしました。直接そういった言葉を口にしてはいませんでしたが、おおよそのニュアンスで判りました」
「空次郎さんや朱李さんに直接聞いてみたりは……しないわよね。そうよね。そんなこと聞けるはずもないのよね。それで、紅月さんはこのことが今回の事件に関係があるかも、って思ったわけね」
「だって、他にお兄様が恨みを買うようなことなんて考えられないのです」
「そう」
もし芽衣子の語ったことが真実ならば、朱李に対して最も不満を持っていたのは他ならぬ佐夜子ではないか? 好きでもない男と無理やり結婚させられる彼女の心境は、朱李殺しの動機となり得るはずだ。しかし――
(谷山さんもまた、殺されている)
「谷山さんはどのくらいの頻度でこの家に来ていたのかしら」
「週に二、三日ほどです。泊まっていく日もありました」
「それも朱李さんが迎えに?」
「はい」
「そう」
たしかめる必要があるだろう。朱李と佐夜子の婚約について。
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