第十六章 三百万の負債
1
「警部」
部屋の外から声が聞こえた。見ると、一人の刑事が駆け足で矢立警部のところに駆け寄っていくところだった。二人は顔を寄せ、何やら神妙な顔つきで話を始めた。
(何だろう)
矢立警部は眉間にしわを寄せながら無言で耳を傾けていたかと思うと、突然かっと目を見開き、その後わずかに口角を上げた。どうやら悪い知らせではないようである。
気にはなったものの無理に割って入ることは立場上控えることにし、私たちは今の検討で得た情報を吟味することにした。
「犯人は内部の人間である。加えて、朱李と親しい距離にいた……」
「この条件を満たす人物っていえば、やっぱり芽衣子さんですよね」
「ま、まず浮かび上がってくるのは彼の肉親たちだね」
芽衣子と空次郎。
(そんな馬鹿な)
「ちょっとねこさん、血を分けた家族なんですよ? 昨日もあの人たちの間にいさかいなんてなかったし、そもそも朱李さんを殺す動機が彼らにはないはずです」
「そうすると、次に浮かび上がってくるのは中林だね。古なじみの友人というポジションは付き合いが長いだけに意外と摩擦を生みやすいものだから。彼らの間に何かしらのトラブルがあって、それについて話し合う名目で中林が朱李を訪れたとしたら……いや駄目だ」
猫子は自分で自分の意見に首を振った。
「そもそも殺人まで発展するほどの怨恨を持った相手を不用意に部屋に招き入れるだろうか? 朱李の方が問題を軽視していた可能性もなくはない。彼にとってはささいなことでも中林にとっては殺人を決意するほどの重大な問題だったのかもしれない。しかし昨日の中林は、腹に一物抱えている、といったふうには見えなかった」
「たしかに、あの人はただの女好きって感じでしたし」
あの軽さが演技だとしたらたいしたものだ。
矢立警部と刑事の会話が終わったようだ。
「よし、呼んでおいてくれ」
「判りました」
急ぎ足で去っていく刑事の背中を見つめながら猫子は尋ねる。
「何だったの?」
「中林について、非常に興味深いタレコミがあった」
「中林に?」
「なんでもやつは被害者――紅月朱李に金を借りていたそうなんだ。しかも千円、一万円どころの騒ぎじゃない。中林の負債は三百万円」
「さ、三百万ぅ?」
私は開いた口がふさがらなかった。
三百万円という大金を中林は朱李から借りていた。とんでもない爆弾が放り込まれたようだ。
真っ白になった頭の中を整理しようと努めたが、あまりのインパクトに思うようにいかない。金銭トラブル、というありふれた言葉が辛うじて私の頭に浮かんだ。これで中林は被疑者として崖っぷちに立たされたわけだ。
(三百万円……)
その金額は人が人を殺すのに十分すぎる額だった。
「これで決まりだろう。いやぁ、案外早く片がつきそうでほっとした。後は吐かせるだけ。ああいう今どきのなよなよした男はちょいと揺すればすぐに落ちるからなぁ。よかったよかった」
矢立警部はさも嬉しそうにラウンジへ出て行った。
2
別室に呼ばれた中林は、まるで親同伴で校長室に連行される悪ガキのように重苦しい顔をしていたが、そこに私たちの姿を認めるとたちまち普段の調子を取り戻した。
「あれ、猫ちゃんさんも一緒ですか?」
「百合川さんには捜査の協力をしていただいています」
矢立警部が簡潔に説明した。
「へぇ、やっぱりすごいんですね。やり手の女探偵ってかっこいいっすよね」
猫子の同席に中林はすっかり安心しきった様子だった。が、矢立警部が例の借金の件について切り出すとその顔は再び曇った。
助けを求めるように猫子に目配せする中林だったが、矢立警部が痰を切るように唸ると、父親に叱られている子供のように小さくなってしまった。
「ご自分の口から話していただけますね? こちらはすでに裏取りを完了しています。正直に話していただければ、幸いです」
もちろんタレコミのすり合わせなどまだ行っていない。しかし、今の中林の挙動から彼が多額の借金を抱えていたことは事実のようである。
「……」
猫子は黙したまま中林を見据えている。耳が痛くなるほどの静寂である。
「やましいことがないなら、きっぱりありのままを話した方がいいよ。別にこんなことで犯人扱いされるわけでもないし」
猫子が水を向ける。
「えっと……誰からこのことを聞いたんですか?」
「それは捜査上、秘密にしておかねばならないことですので」
「……」
最初は言い淀んでいた中林だったが、隠しても無駄だと判断したのか、それとも矢立警部の威圧感に根負けしたのか、情けないほどのぼそぼそ声で語り始めた。
中林が朱李に借金の申し立てをしたのはおよそ二か月前のことだった。少額が積もり積もって三百万という大きな山になってしまったわけではなく、一括で借りたとのこと。
「まとまったお金が必要だったのですか。何のために?」
彼の反応を見ると、大きな買い物をするためではないだろう。もっと後ろ暗い事情があるはずである。
「何なのかしら」
「その、慰謝料、です」
中林は声を落として言った。
「慰謝料?」
「ええ、まあ」
中林はバツが悪そうに苦笑した。
「いったい何の?」
「それは、その……」
「言い渋っても得はありませんよ。警察の捜査力を舐めない方がいい。ここで話さなくとも、いずれは知れ渡ることなのです。膿は早めに出し切った方が心労は少ないですよ」
そうして中林が語った事実は、私たちを大きく落胆させた。事件への関連性ではなく、彼の人間性について。
なんと中林は勤め先の同僚女性と不貞の関係にあったというのだ。それも一度や二度ではなく、少なくとも一週間に一度は郊外のラブホテルで体を重ねていたという。
当然、そんな頻度で密会していれば、どれだけ上手く隠そうとも相手の夫も怪しむだろう。結局、夜の街で逢引きしているところをとっ捕まえられたという。
「それで、なんとか会社には連絡しないように示談が進んだんですが、相手方の離婚は必至で、どでかい慰謝料を払わなくてはいけなくなって……」
遊び人気質だった彼にそんな大金をポンと出す余裕などない。貯金もなかったので、裕福な親友に泣きついたのだ。
意外なことに朱李は渋い顔一つせず、中林の頼みを聞き入れた。こうして中林は人生の窮地から救われたわけである。
「……呆れた」
猫子は三角コーナーの生ごみを見るような目で中林を一瞥すると、深く溜め息をついた。その反応がショックだったようで中林はますます小さくなる。
「それで、借用書などはありますか? 具体的な返済の時期や紅月さんから返済の催促の頻度なども教えていただきたい」
「いや、特に返済の期限なんかは定めてなかったです。『友達が困ってるなら見捨てておけない』と
矢立警部は今までの内容を手早く手帳に控えると、訊きたいことはあるか、とこちらに目配せをした。質問の主導権が猫子に移る。
「空次郎さんや芽衣子さんはこのことを知っているの?」
「おじさんの方は知っていると思います。何度か『もっと上手くやらんからいかんのだ』とか『お前もなかなかやるな』とか言われたので……ははは」
「……」
「でも芽衣子ちゃんは知らないでしょう。あの子は無垢な子ですから、そういう大人の欲みたいなものは毛嫌いしているんです。あ、芽衣子ちゃんにはくれぐれもこのことは言わないでくださいよ。彼女にまで嫌われたら俺は生きていけない」
「判っていますよ。ところでね、中林さん」
いくぶん声を落として矢立警部は言った。
「な、なんでしょう」
中林の声が強張る。
「あなた、昨夜の十一時四十分頃から深夜の零時まで、どこで何をしていましたか?」
一瞬の沈黙が流れる。
「それは、つまり、アリバイ調査、ということですか? もしかして俺は疑われているんですか? よしてください。俺と朱李は幼稚園の頃からの仲なんですよ。金のためにあいつを殺すなんてありえないし、そもそも返済を迫られていたわけでも――」
「つべこべ言わず、訊かれたことだけ答えてください」
矢立警部はぴしゃりと言った。中林はごくりと唾を飲み込んで、
「昨夜は桔梗ちゃんたちと別れてから一度自分の部屋に戻りました。その後、軽くシャワーを浴びてさっさと寝ました。零時過ぎぐらいだったかな」
「シャワーを浴びるために一階に降りた、ということですか?」
「いえ、部屋のシャワーです。客室にはシャワールームがあるんですよ。だから部屋からは出ていません」
紅月邸は一階に浴室が一つ、客室と使用人の部屋に小さなシャワールームが設えてある。私も昨夜は自分の部屋でその日の汗を流したのだ。
「では昨夜、ここで皆さんと別れた後は誰とも会わなかったということでよろしいですか?」
「ええ」
矢立警部の口角がわずかに上がる。中林にはアリバイが成立しないのだ。
「ふむ、なるほど結構です。ありがとうございました」
中林を開放すると矢立警部はぐっと背中を伸ばした。大きな体がより大きく見える。
「本当に彼なのかな」
猫子はぼそっと言う。
「やつは被害者に大きな借金をしていた。他にそれらしい動機を持つ者が見つかれば話は別だが」
「でもそれだったら、何も谷山さんがいる日にしなくてもいいじゃん。下手をすれば彼女がいるということで殺人計画が失敗に終わることもあったかもしれないのに」
「元々二人まとめて殺す予定だったんじゃないか?」
「彼に谷山さんを殺す動機はないよ。それに昨日谷山さんがこの家に来たのは彼女から『会いたい』と朱李さんに伝えたからなのよ。犯人にとって昨日の彼女の存在はイレギュラーだったのよ」
「それだけ切羽詰まっていた、というだけだろ。中林は返済の催促はなかったと言い張っているが、死人に口なし、真実はどうだったか判らん。昨日が返済期限だったのかもしれない。まあ、それも調べれば判ること。それより、他の関係者たちのアリバイ調査も一通り済ませておこう」
「……」
本当に中林があの二人を殺したのだろうか。
昨日、目にした限りでは、朱李と中林の関係は良好のようだった。とても金銭がらみのトラブルを抱えていたとは思えない。
それに仮に朱李が返済を迫っていたとしても、彼は友人が金に困っていたという事情で金を貸したのだ。耳を揃えて三百万返せ、などとはさすがに言わないのではないか?
「さすがにこれだけじゃあ逮捕状は取れないから、もっと執拗に揺すってやらなくては」
「中林だと決めつけるのは早計じゃない?」
「そんなことは判っているさ」
言って矢立警部は顔を引き締めた。
「ただ、現状で中林が最も犯人たる条件を持っている、ただそれだけのことだ」
「……でも、何かを見落としている気がする」
「何か?」
「現場もじっくり観た。それなのにまだ何かを見落としているような気がしてる。単純でいて、事件の根幹に関わるような何かを」
私たちはここで気づくべきだった。もしここでそれに気づけていたのなら、この一連の事件の最後を飾る、あの「死」を防げたのかもしれない。
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