第十五章  悲劇の流れ

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「それじゃ、改めて現場を見てくれ」


 矢立警部はすっくと立ち上がり、その大きな背中を向けた。


 今朝は現場保存のためにすぐ部屋を封鎖してしまったので、細部をよく観察することができなかった。あちこちに視線を飛ばしながら、朱李の部屋の中央まで歩く。

 床はフローリング張り。右手の壁は一面クローゼットとなっており、今は開けられている。衣類は意外と少なく、大部分のスペースが空いていた。


「物色されたような形跡はない。物取りの犯行じゃあないね」


 クローゼットの手前にはベッドがある。佐夜子が死んでいたのはこのベッドの上だ。乱れたシーツに濡れた血が生々しい。

 正面の窓の手前には年季の入った机がある。ノートパソコンと読みかけの文庫本が置かれていた。また朱李の物と思しき財布が机の上に残されている。有名なブランドの品だ。


「これは朱李さんのお財布ですか?」

 私が訊く。


「そのようだ。中身は手つかずでカード類もそのままだよ」

 矢立警部は鷹揚に答えた。


 机の横にはよく使いこまれたリュックがかかっている。朱李はこの机に突っ伏すようにして死んでいたのだ。椅子の下には乾いた血溜まりが残っている。

 机の右横にはキャスター付きの小さな棚があった。それぞれの抽斗の隅に収納物の名前が書かれたシールが貼られている。紅月朱李は案外几帳面な性格だったようだ。道楽息子、といった彼の印象を改めなくてはいけないかもしれない。


「あ、不用意に触るなよ」


 手を伸ばしかけた猫子に釘を刺すように矢立警部は白い絹の手袋を投げた。


「判ってるよ。ふん、凶器に使われたナイフはこの棚に入ってたの?」

「そのようだ」


 渡された手袋をはめ、上から順に抽斗を検めようとした猫子に再び矢立警部が言う。


「そこだ、上から二番目の抽斗にナイフ類がしまわれていた」


 猫子は「ナイフ」というシールを一瞥する。


「開けるよ」


 開けてみると、たしかにナイフが並べてあった。本数は全部で五本。中にはアウトドアには適さないであろう形状のナイフもあった。

 こんな物騒なものを夜な夜な弄って遊んでいたのだろうか。男というものは判らない。


「ふうん」

「犯人はまずこの棚からナイフを取り出した。そして近くにいた朱李さんを殺害したんですね」


「……その後、ベッドにいた谷山さんを殺した。たしかにそれらしい血の跡が残っているけど」


 窓辺の机の前からベッドにかけて、小人の足跡のように血が点々と続いている。おそらく犯人が朱李の血に濡れたナイフを手にしたまま動いたためにできたのだろう。

 右手の壁は有名バンドのポスターやら古い写真やらが飾ってあった。その下には腰の高さほどのキャビネットが据えられていた。さすがにここまでは血痕は飛び散らなかったようだ。

 次に猫子は机を迂回して窓の前に立った。隙間から漏れる光はすでに初夏の晴れ晴れとした輝きを帯びている。


「この窓は閉まっていたのよね? 鍵も掛かったままなのね」


「その通りだ。だから、そこから逃走したということはない。逆にそこから入ってくる、とも考えられない。高さは四メートルほどある上、昨晩は雨が降っていたそうじゃないか」


「でしょうね」


 昨夜は激しい雨が降っていた。もしこの窓が侵入または脱出に使われたのなら、当然それらしい形跡――濡れた跡や汚れが目につくはずである。しかし、それらしいものは見当たらない。

 また、すずが遺体を発見した時、部屋の鍵は掛かっていなかったようだからつまり、犯人は、そしてのだ。

 もはや内部の人間が犯人であるということに疑いの余地はない。私は心の中で重い溜め息をついた。


「紅月朱李は昨夜の午後十一時から遠方の友人と携帯電話のメールアプリでやり取りをしていたようだ。内容は捜査には無関係なものばかりだから省略するが……最後に紅月朱李側から送信したのが十一時四十三分、それ以降は相手から一方的に送られている。これはすでに裏取りを終えていて、送信メールは紅月朱李にしか知りえない情報が書かれている。内容も疑う点はない」


「十一時四十三分、それまでは生きていたのね……」


 だいたいの事件の流れが掴めてきた。


「まず犯人は十一時三十五分より後の時間に、この部屋に侵入した。その時間帯はもうラウンジに人はいなかったから、犯人にとっては好都合だったんだね。無理を言って入ったのか、快く迎え入れられたのかは判らないけど」


「強引に押し入った、とは考えられない。婚約者のいる中で迎え入れたんだから、よほど心を許していた相手のはずだろう。そうして四十三分以降に犯行に及んだ」


 矢立警部は腕を組みながら言った。


「そして問題は次よ。判ってるわね?」

「ああ」


「どのような経緯で事件が起こってしまったのか。犯人に最初から殺意があったのかしら。警察はどう見ているの?」


「今のところ我々としては、犯人は殺意を持ってこの部屋を訪れた、と結論を出している」


「朱李さんは机に向かって死んでいた。見たところ現場に争ったような形跡もないね。首の辺りを刺されたようだから、不意打ちだったってわけね」


 矢立警部は神妙に頷く。


「犯人の挙動に気づかなかったのかしら?」


「それだけメールに熱中していたあるいは、よほど気心知れた仲だったんだろう」


「でも」と私「凶器として使われたのは元々現場にあったナイフですけど、これはむき出しのままそこらに放置してあったわけじゃないんですよね?」


「普段この部屋の清掃をしている使用人の金田によると、被害者の紅月はとても潔癖な男だそうで、使い終わった私物はきちんと元の場所にしまわなくては気が済まなかったようだ。CDを聞き終ったら、きちっと元のケースにしまうように。だから、まあ、たまたま目についたナイフを手に取った、とは考えられない」


「かといってこっそり朱李さんの目を盗んでナイフを手にしたとも考えられないね。だって谷山さんの目があるし、何よりナイフがしまってある棚は朱李さんの目と鼻の先なんだもの」


 猫子は棚の前まで歩く。


「そうすると、犯人は何かしらの理由をつけて朱李さんの許可を得て、ナイフを手に取った。そしてそれで不意の一撃を食らわせた……ってことですか?」


「一応矛盾はないけど」


「これで何かしらの口論から殺人に発展した、という線は消えるな。口論中の相手に武器を渡すなんてことはするはずがないし、激高した相手がナイフを持ち出したのにのうのうとメールをするなんて考えられない。犯人は最初からこの部屋のナイフを凶器にするつもりだったんだろう。凶器から足がつくのを防ぐために」


「明確な殺意があった、ということね。しかし谷山さんも気の毒に。びっくりしたでしょうね。突然、自分の目の前で婚約者が殺されたのだから」


 あの白百合のような美しい女に、私たちは哀悼の念を捧げた。

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