第十二章  忌まわしい血

 1


 少しだけ時間は遡り、午後十時半。


 芽衣子は机に向かっていた。右手にペンを持ち、分厚い日記帳を開く。


「七月十六日、天気は曇りのち雨っと」


 毎晩ベッドに入る前に日記をつけるのが彼女の日課だった。


 ただ、日記といっても、想い人――兄への恋慕の情や恋への葛藤などを簡単に書き留めているだけなのである。日によって何ページも続くこともあれば、たった数行で済んでしまうこともある。今日は後者だった。



 七月十六日。天気は曇りのち雨。

 忌まわしい、この血が



「……」


 芽衣子はペンを置き、小物入れからカッターナイフを取り出した。カチカチと刃を出し、左手首に当てる。


 そして――


「痛っ」


 ほんの数ミリ程度しか切っていないのに、とてつもない痛みが芽衣子を襲った。やがて、傷口からとろりとして血が溢れてくる。芽衣子の恋を奪った忌々しい血が。

 赤い。どこまでも赤い血。


(これが……)


 今日のページに血が垂れ、真っ赤な染みが広がっていく。


(この血のせいで……)


 猫子が語ったことによれば、二親等同士、つまり、兄弟姉妹は婚姻の契りを交わすことはできないというのだ。例えそれが異父兄弟、または異母兄弟だとしても、この国の法律がそれを許可しないのである。


 いったい誰がそんな悪法を定めたのか。芽衣子は憤慨した。

 そして芽衣子は恨んだ。ただひたすら、この血を恨んだ。


 自分と兄とを繋ぎ合わせる絆でありながら、二人の交わりを許すことはないのだ。


「憎い」


 ぎゅっと拳に力を入れると、血はいっそう強く噴き出した。もう痛みなど気にならない。すでに自分はより大きな痛みを抱えているのだから。


「この血が、憎い」


 2


「お兄様っ」

「あ、だめよ」


「離してください先生。ああ、お兄様」


 部屋に飛び込もうとする芽衣子の腕を掴み、猫子は半ば強引に扉を閉めた。


「警察が来るまでここに立ち入ることはできません。誰か、警察に連絡を――」

「あたしがしたわ」


 携帯電話を片手に知世が答えた。あの混乱の最中でも、彼女はあくまで冷静にことを理解しようと努めていたのだ。

 私は彼女の芯の強さに感心するとともに、その対応の速さに一抹の猜疑心を抱いていた。


「……」

「なぁに、桔梗ちゃん。その目は? 『どうしてそんなに冷静なの?』って言いたそうね」


「そんなことはないです」


「な、なあ。朱李はなんで、なんで殺されたんだ?」


 中林がきょろきょろと辺りを見回しながら言った。そんなことは自分が聞きたい、と私は思ったが口にはしなかった。


「皆さん、警察が来るまで全員でまとまっていましょう」


 猫子の言葉に一同は従うほかなかった。皆、このような緊急事態に直面したのはこれが初めてだろうから無理もない。


 署長を筆頭にF**署の刑事たちが紅月邸にやってきたのは、それから三十分ほど経ってからだった。

 一階のリビングに集められた一同は所轄の刑事に事の次第を説明した。第一発見者のすずが満足に話せる状態ではなかったため、これは猫子が担当した。その後、K県警の一団が到着した。


「ええつまり、こういうことですな。今日の朝六時頃、金田すずさんが紅月朱李さんを起こすために彼の部屋を訪れた。その部屋には彼の婚約者である谷山佐夜子さんも宿泊しており、そこで遺体となった二人を発見する。その時、金田さんは驚きのあまり大きな悲鳴を上げ、それを聞いた皆さんが足早に駆け付けた、と。ここまでで修正を加えるべきところはありませんね?」


「はい」


 K県警捜査一課の警部矢立吾郎は脂ぎった額を撫でながら、その場にいた関係者たちの顔を見回した。その眼光は「吐くなら今の内だぞ」と脅しをかけているようにも見えた。


 肌は浅黒く焼け、短く刈った白髪交じりの頭。本人にその気がなくとも、相対した者にプレッシャーを感じさせるには十分な見た目だ。


「……」


 私たちは気まずい思いで関係者としてその場にいた。猫子は探偵として警察から依頼を受けることも多く――非公式ではあるが――、彼女に殺人事件の捜査依頼を持ってくるのが矢立警部だった。到着直後に私たちの姿を認めた彼は、「どうしてお前らがここに?」という目をしていた。


「金田さんが朱李さんを起こすのは毎朝のことだったそうですね。ちなみに今朝、部屋の鍵は掛かっていなかったのですね?」


 振られて、すずは強張った表情のまま首を縦に振った。


「ふうむ、それでいつものように彼の部屋に向かった」


 矢立警部はそこで言葉を切り、考え事をするかのように顎に手を当てた。


 一同はリビングの奥にあるダイニングテーブルに並んで座っていた。

 誰もが自分から口を開くことはしなかった。互いが互いを監視するような無言の圧力が場を支配している。その横で捜査員たちが忙しそうにらせん階段を上り下りしていた。


「ところで、朱李さんと一緒に部屋にいたのが彼の婚約者である佐夜子さんということですが、彼女が昨夜この家に来たのは何時頃のことでしたか?」


「七時前ぐらいだったかしら。朱李くんが自分で迎えに行ったって話していたわ」


 知世が言った。


「なるほど、判りました……それでは皆さん、これで一度解散していただいてけっこうです。また後ほど、一人一人詳しくお話を聞かせていただくことがあるかもしれません。その時は協力をお願いします。それと、しばらくの間は二階の朱李さんの部屋に近づくのは控えていただきたい。では」


 あっさりと場は解散となったが、その足で二階に上がろうとする者はいなかった。

 すずはまだショックが癒えないようで白い顔を凍りつかせている。

 新山は場の空気を探ろうとするように視線をうろうろとさせ、中林は落ち着きなく卓上で手を弄んでいた。

 空次郎は放心状態といった様子で中空を見つめている。そんな彼の隣では知世が、自分は無関係だ、とでも言わんばかりに携帯電話をいじっていた。


「ねこさん、どう思います?」

 私は耳打ちする。

「何がさ」


「この中に朱李さんを殺した人がいるんでしょうか」

「……断定はできない」


 芽衣子が席を立ったので、私と猫子は彼女の後について行った。


「……紅月さん」


 何かから逃げるような足取りで芽衣子は歩いていった。その小さな背中に、今どれだけの苦痛がのしかかっているのだろうか。


「ううぅ、先生……お兄様が、お兄様が」


 芽衣子の心境を読み解くのは容易だった。死者を生き返らせることはできないし、死者に言葉を伝えることもできない。どれだけ願おうとも、彼女はもう朱李に会えないのだ。


「先生」


 か細い声で芽衣子は言う。


「お願いします、お兄様を殺した犯人を捕まえてください」


 彼女の目は真っ赤に腫れていた。





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