第十一章 事件発生
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広大な別荘地帯の外れに佇む紅月邸。
深みのある赤に塗られた外壁は数刻前まで降りしきっていた雨に濡れて、まるで血が滴っているような風情だ。
雲の切れ間から差した朝日が濡れそぼった草花を煌めかせている。次第に雲は山の裾から流れる風によってちぎれ、空は澄み切った青色に染まっていく。
静かな朝だった。
電線に並んだ雀たちが、ちゅんちゅんと朝の挨拶を交わす。それに応えるかのように、再び風が吹いた。F**市を抱く雄大な山稜に朝霧がかかっている。雀たちは紅月邸の庭に降り立つと、愛らしいくちばしをつんつんとし始めた。
いつもの朝の和やかな光景である。紅月家の朝は小さな火種がぽっと燃えるように、静かに始まっていくのだ。
しかし、今日ばかりは様子が違った。
七月十七日、午前六時。
まるで夜道で鋭利な刃を向けられた女のように、金田すずは甲高い悲鳴を上げた。その喉を絞り切るような声は紅月邸の隅々まで轟き、いまだ眠りに落ちていた者たちを強引に夢から引き上げる。
紅月家を襲った事件はこうしてその赤い幕を開けたのである。
*
私は今しがた聞こえた悲鳴に何かよからぬものを感じて飛び起きた。
(今のは金田さん?)
彼女の身に何かあったのだろうか。起き抜けの体はひどく重かった。
胸騒ぎがするのだ。あのような悲鳴を日常生活の中で聞く機会など皆無だ。それもこんな朝早くから……
パジャマ姿のまま廊下へ飛び出した。初夏とはいえ、まだ朝は冷えるようで、少し肌寒かった。声がしたのはラウンジの方角だ。私は急ぎ足で進んだ。途中、廊下に並んだ扉の一枚が開いた。
「あ、ねこさん」
目元をぐしぐしとこすりながら猫子が出てきた。それとほぼ同じタイミングで向かいのドアが開く。
「あ、おはようございます」
芽衣子である。
「今のは何なのでしょうか?」
彼女は口許を両手で覆い、まるで極寒の地に立ち尽くしているかのように震えていた。顔は青白くひきつり、視線が右往左往している。彼女も先ほどの悲鳴に胸騒ぎを感じている様子だ。
「判らない。ただ嫌な予感がすることだけは確かだね。とにかく行こうか」
猫子を先頭に再び廊下を進んだ。
ラウンジに辿り着く。昨夜と何ら変わりない広々としたスペースである。
「金田さん、どうしました?」
猫子が声を投げる。
金田すずは右手の壁の前で尻もちをついていた。こちらに向けた顔にはどっと汗が浮かんでいる。少なくとも、彼女の身に何かがあったわけではなさそうだ。彼女は小さく首だけを動かし、
「あ、あ、あの、あれ、あれ」
「どうしたんですか」
あまりの衝撃に腰が抜けたのか、彼女は立ち上がることすらできずにいた。必死に体をねじり、その場から動こうとするも上手くいかない。
私と芽衣子が駆け寄り、すずの体を起こして椅子に座らせた。ちょうどその時、すずの悲鳴を聞きつけた家人たちがラウンジに集まってきた。
「何の騒ぎ? こんな朝っぱらから」
くたびれた声で知世が言った。不満そうな顔で使用人をねめつける。
「金田さん、どうしたというんだ」
その後ろから空次郎が声を投げた。二日酔いなのか、しきりにこめかみに手を当てていた。
中林と新山も怪訝そうな顔で歩み寄ってきた。一同の視線が、すずに突き刺さる。
「あ、あの、あの」
すずは震える手を伸ばし、ある一カ所を指し示す。それを見た芽衣子の顔が曇る。
「お兄様のお部屋に何か?」
すずが指していたのは右手の壁にある一枚の扉。それは紅月家の長男、紅月朱李の部屋である。
「しゅ、朱李様が」
「朱李がどうしたというのだ」
要領を得ない説明に苛立ったのか、空次郎が怒鳴りつけるような声を飛ばした。
「落ち着いてください、紅月さん。金田さん、朱李さんの部屋に何かあったのね?」
猫子が優しく問いかけると、すずはすがるような目を向けた。
「ねこさん?」
猫子はさっと立って問題の扉の前に向かった。
「……」
その扉は恐ろしい災厄が封じられているかのような物々しい威圧感を放っている。猫子の小さな背中の後ろにすずを除いたその場にいる全員が集まった。すずだけが、その先にあるものを恐れるように椅子の上で顔を背けていた。
「……開けます」
生唾を飲み込む音がどこからか聞こえた。
ノブを掴み、捻る。鍵は掛かっていなかった。カチャリ、と乾いた音を立てその扉は開かれた。
十五畳ほどの部屋である。
右側の壁は一面クローゼットとなっており、少し幅を置いてダブルベッドがあった。正面の壁には大きな窓がはめられている。カーテンが閉まったままなので部屋は薄暗い。
「嫌っ」
芽衣子が叫んだ。
その部屋の惨状を目にし、ある者はすっとその場から離れ、ある者はただ泣き叫び、ある者は呆然と立ち尽すばかりだった。
彼らの目にまず飛び込んできたのは男の死体だった。
机の上に突っ伏すような形で背中を向けている。白いTシャツを着た男の背中は、まるでペンキでもこぼしたように赤く染まっていた。
部屋に充満する血の臭いが鼻をつく。
「これは……」
「ねこさん、これって」
赤、赤、赤。
そのあまりの衝撃に、私はしばし赤以外の色を認識することができなかった。周囲の色彩が、血の気が失せた顔のように白くぼやけていく。
「お、お兄様……ああ、佐夜子さんも」
ベッドの上では女が仰向けになって死んでいる。大の字に手足を伸ばし、胸に深々とナイフが刺さっていた。
その部屋に封じ込められていたのは、人類を破滅に導く災厄でも、予兆でも、希望でもなかった。二人の人間の死、という現実だけがそこには残されていた。
「誰か、警察を。朱李さんと佐夜子さんが殺されています」
猫子の声に応える者はいない。誰もがその突然の状況に平素の理性を保てないでいたのだ。
そう、犯人以外は。
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