第十章  後に私はこう証言する

 1


「さて、そろそろ」


 甘ったるい欠伸をしながら、知世は立ち上がる。


「もう寝るんですか?」

「ええ、おやすみなさい。あたしの部屋は角を曲がって左の奥だから、もし寂しくなったら遊びに来ていいわよ。鍵は開いてるから」


「おやすみなさい」と知世の背中に呟いたのが午後十一時ちょうどだった。

 一人ラウンジに残った私は、はっとあることに気づいた。


(どうすんのよ、これ)


 ガラステーブルの上はぐちゃぐちゃに散らかってしまっていた。

 知世は自分が持ち出したグラスや酒瓶やらを片さずに辞してしまった。

 知世がいなくなった今、これらを片づけるのは私の役目となるわけだが、その様子を誰かに見られては、人様の家で勝手に酒盛りを始める失礼なガキだ、と思われるかもしれない。

 目の前には朱李の部屋もある。いつ彼が出てくるかも判らない。


「とりあえず、まだ空いてない瓶は、戻して――」


 とそこで再び私は、はっと身構えた。階段の方から足音が聞こえたのである。

 伸ばした手を引いてそちらに目を配ると、二つの人影が目に入った。中林とすずである。


「あ、桔梗ちゃん」


 中林はひょいっと手を挙げた。


「もう酔いは覚めたみたいですね」


 まだ少し顔は赤いが、意識は明瞭のようだ。


「おかげさまでね、ちょっと寝たら回復したよ。でもひどいよねぇ。起きたら皆いなくなってんだもんなぁ。結局すずさんに起こしてもらっちゃって」


 中林は頬を掻きながら隣に立つすずを見た。その斜めに落ちた視線の先はすずの豊満な胸に刺さっている。


(どうして男ってこう……)


 すずの方はというと新山抜きで大人数を相手に働きつめたのがこたえたのか、疲労困憊といった顔をしていた。


「あら、万野原さん、それは……」


 眼前の状況を見るにつけ、彼女の顔はいっそう青さを増していった。


「ちょっとちょっと、君、未成年でしょ」


 中林が呆れたように言う。


「いや違っ、あ、その、これはですね」


 すずは「もういい、判った」とでも言いたげに顔を振った。


「知世さんですね。だいじょうぶです。いつものことですから」

「判るんですか?」


「あの人の香水の匂いがしますから」


 小さく溜め息をつくと、すずはてきぱきと酒宴の後始末を始めた。知世が中途半端な時間に気の向くまま飲み散らかすのは常習的な行為だったらしい。じきに正式な妻として紅月家に入るかもしれない知世に、すずも新山も苦情をぶつけることはできないようだった。


 使用済みのグラスを手に、すずは小走りで階下へ引き返す。


「あれ、まだ降ってる」


 中林がバルコニーに続く扉を半分だけ開けた。さすがにこの時間になると外気も冷たくなっていて、肌寒い風が舞い込んできた。

 単調な雨音が静かな夜に響く。

 扉を閉めてぐるりとラウンジを一望した後、中林はこちらに向き直って、


「ねえ、ねこちゃんは?」

「もう寝てます」

「ふーん、部屋はどこ?」


「遊び相手なら知世さんが探してましたよ。彼女の部屋は開いているみたいです」

「そんなことしたら紅月のおじさんにぶっ殺されちゃうよ」


 冗談めかした口調だったが、あながち間違ってもいなさそうだ。


「朱李さんのところにでも行けばいいじゃないですか?」

「いんや、あいつはあいつで水を差されるとめちゃくちゃ機嫌が悪くなるから。ほら、フィアンセとの熱い夜をさ」


「はぁ」


 どうして男というのはこうもそっちの方向に話を向けたがるのだろう。私は重い溜め息をつく。


(下半身に脳みそがあるのかも)


 きっとそうに違いない。


 いつの間にか、中林に対してだけは遠慮をする必要はない、と私の中で了解ができていた。

 中林がとぼとぼ退散したのが。午後十一時二十五分。

 彼と入れ替わるようにラウンジに上がってきたすずに礼を言い、私は自室へ向かった。午後十一時三十分のことである。


 後に私はこう証言をする。私がラウンジに上がってから辞するまでの約一時間半の間、紅月朱李と谷山佐夜子のいる部屋へは誰も出入りすることはなかった、と。


 2


 ――暗い部屋。

 照明を落として十分ほど経った。だんだんと目が慣れ、部屋の輪郭だけがぼやけて見えるようになる。濃淡だけで表現された世界。

 知世は暗闇が好きだった。ベッドの縁に腰掛けながら周囲に蔓延する闇を堪能する。

 ほんの数年ばかり夜の世界で生きてきただけで、すっかり暗い空間で落ち着くようになってしまった。真っ暗な世界ならば、誰の目も気にならないからだ。


「ふふっ」


 色に味があるとしたら、この黒とも藍色とも似つかない闇の色はきっとこの世のどんなものより甘いのだろう。そしてどんなものよりも苦く、すっぱく、しぶいのだ。

 ベッドに横になり、天井を見上げる。こうやってひたすらに闇を見つめていると、今自分は目を閉じているのか、それとも開けているのか判らなくなる。そんな曖昧な視界にやがてある人物たちの顔が浮かび上がってきた。


 紅月朱李。

 紅月芽衣子。


 そう遠くない未来、知世の義理の子となる兄妹だ。

 彼らの目には常に軽蔑の色がありありと窺えた。継母を疎ましく思うのは仕方のないことではある。特に芽衣子の方はそれが顕著だった。


「……」


 大方、金目当てで潜り込んできた薄汚い雌だ、とでも思っているのだろう。間違いではない。

 今のところは互いに無干渉を貫いているが、空次郎との婚約が軌道に乗れば、反対の意思を表明することは目に見えている。


「なんとかしなくっちゃあね」


 知世は呟いた。

 そう、なんとかしなくてはいけない。


 富と地位をこの手に収め、成り上がるためにも、あの二人……いや、朱李は問題ではない。彼はある意味で自己中心的な人間だ。自分に害が及ばなければそれでいい、というのが知世の見立てた彼の人間性だった。

 だが、芽衣子の方はというと、あからさまな敵意を隠そうともしない。


 すでに芽衣子に取り入るのは不可能だろう。かといって彼女の件に関して空次郎を味方につけることも難しい。彼は娘を溺愛しているのだ。

 さすがに芽衣子の一声で空次郎との関係が破局を辿るとは考えにくいが……


(毒でも盛ってあげようかしら、なんて)


 芽衣子が不幸な事故で命を落としてくれれば万々歳だが、そんな都合のいいことは起きるはずもない。何かしらの策を講じなくてはいけないのだ。


 己の野望――この紅月家の財産を手中に収めるために。


「まずは『子供』ね」


 下腹部に手をさすりながら知世は呟いた。


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