第九章  静かな夜は静かに更ける

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 午後九時を回ったところで朱李が佐夜子を連れて二階の自室に引き揚げた。空次郎はソファに場所を移し、テレビを観ながら知世に酌をさせている。

 つい先ほどまでプロ野球のオールスターゲームが生中継されていた。結果は五対五の引き分けだった。

 中林はぐったりとした様子でテーブルに伏せている。飲み過ぎたようだ。


「ちょっとだいじょうぶ?」


 猫子が肩を揺すっていたが、思わしい反応はない。やがて唸るようないびきが聞こえてきた。


「いつもこうなんですよ」


 もこもこのルームウェアに身を包んだ芽衣子が笑いながら言った。その横ではすずがせわしなく食卓の後片付けをしている。


 と、その時、


「きゃああっ」と甲高い悲鳴が聞こえたかと思うと、どたどたと朱李が早足で降りてきた。


「虫、虫。殺虫剤ある?」


 どうやら朱李の部屋にゴキブリが出たようだ。先ほどの悲鳴はそれに驚いた佐夜子が上げたものらしい。

 こんな豪邸に住むとは贅沢なゴキブリだな、と私は思った。すずから殺虫スプレーを受け取ると、朱里は再び駆け足で階段を上がって行った。


「さて、そろそろ寝るとするか」


 その騒動の後、空次郎がよろよろと立ち上がり、知世に支えられながら二階へ上がった。彼もまたずいぶんと飲んだようで、その風貌は赤鬼のようだった。

 テレビの前のソファが空いたので私たちはそちらに移った。適当な番組を見ながら、まったりとした時間を過ごす。


 それから連れ立って二階へ上がったのが午後十時前のこと。


 階段を昇った先にはラウンジのようなスペースがあった。床には毛足の長い赤い絨毯が敷かれ、奥の壁の暖炉の前にはガラス張りのテーブルがあり、それを囲うようにして椅子が配置されていた。

 右手の壁には洋酒で埋まったサイドボードがあった。その隣には一枚の扉があり、そこが朱李の部屋だという。真っ赤に塗られたその扉に「shuri」というネームプレートが取り付けられている。

 左手にも扉があり、これはバルコニーに通じていた。星を眺めながら夜風に当たりたいな、と思ったが、残念ながら雨の止む気配はない。


「先生、万野原さん、私はもう休みますが、どうされますか?」


 芽衣子はぐしぐしと目を擦りながら訊いた。


「そうねぇ、まだ起きてるよ。ここにいていい?」

「じゃあ私も」


「判りました。でしたら、先にお部屋だけ案内しましょう」


 そうして芽衣子の案内で今晩泊まる部屋を確認し、瞼の重そうな彼女と別れる。


「それではおやすみなさい」

「おやすみなさい」


 芽衣子と別れたのが午後十時五分。


「あたしもやっぱ寝る。アホの相手で疲れたよ」


 普段は夜型の猫子にしては珍しく、早めの就寝となった。

 一人残された私はラウンジへと向かう。その道中――


「あら?」


 一人の女が廊下に出てきた。

 五十嵐知世である。


 少しはだけた桃色のネグリジェに身を包んだ彼女は、こちらの姿を認めると妖しい笑みを浮かべた。


「芽衣子ちゃんのお友達ね。あの子はもう寝た?」


 その声に空次郎の前で聞いたような甘い響きはなかった。どこかくたびれたような、それでいて余計な力が抜けた自然な声。


「はい」

「今うちの人を寝かしつけてきたの」


 開いた扉の隙間から、空次郎がいびきが聞こえた。

 どこへ行くのか、と訝っていたら私と同じ方向だった。肩を並べてラウンジまで歩く。彼女はすたすたとサイドボードの前まで行くと、遠慮なしに物色を始めた。


「あ、あの、勝手に開けちゃあ」


「いいのよ。別に」


 そう言ってそこから何本かの酒瓶と二つのグラス、ナッツの入った袋などを手に取ると、それを携えて暖炉の傍の椅子に陣取った。


「あなたも飲む?」

「い、いえ、未成年ですので」


「ふーん、お堅いわねぇ」


 知世はガラステーブルに並べたグラスにウイスキーを注いだ。そしてなめるように一口飲むと、足を組んで深く椅子にもたれた。


「座んなって。ほら」


 知世に促され、私も彼女と一つ分の椅子を空けて座った。


(何、この人)


 私は動揺していた。

 先ほど目にした甘い姿は愛人としての演技で、相手の目がない場では自分を隠す必要がない、ということだろう。それは理解できる。オンオフの切り替えは誰にでも必要なのだ。

 問題は、知世が私に向けるねちっこい視線だった。


「万野原さん、下のお名前は何ていうの?」

「桔梗、です」


「まあ、可愛らしいお名前」


 小馬鹿にするようでもなく、知世はパンっと胸の前で手を合わせた。そしておもむろに立ち上がると空いていた隣の椅子に移動し、


「ねえ、桔梗ちゃんって呼んでいい?」

「えっ? ええ、まあ」


 見たところ二十代後半くらいだろうか。

 ちろりと舌で上唇をなめると、知世はグラスを口に運んだ。そしてか細い左手を伸ばし、私の膝をすぅっと撫でた。


(何かやばい)


 再び身の危険を感じた。さりげなく知世の左手を払うと、その場に流れる異様な空気を変えようと口を開いた。


「そ、そういえば空次郎さんは?」


 知世は薄く笑いながら、


「ぐっすり寝ているわ。あの人お酒に強くないのにあんなに飲んじゃってだいじょうぶかしら。きっと久々に大勢の人が集まったのがうれしかったのね。まあ、あたしはそのおかげで自由に夜を過ごせるからいいけど……大変なのよね。毎晩毎晩」


「空次郎さんとはやっぱり?」

「そ、愛人よ」


 知世はさらりと言った。

 愛人という立場上、本来ならば相手の家に表立って出入りするなどありえない話である。なのに、この知世という女はまるでここが住み慣れた自宅であるかのように堂々とくつろいでいる。


「ふう」


 ウイスキーを注ぎ足しながら、知世はぎらぎらと光る目を向けた。その視線には一切の遠慮がない。


「ねえ、桔梗ちゃん、女の子同士ってどう思う?」


 唐突に知世は言った。


「えっ?」


 私の予感は的中していた。背筋を汗が伝う。


「あの、その、五十嵐さん――」

「知世って呼んで。もう一人の小っちゃい娘より、あなたの方が好みだわ」


「知世さんは、まさか……」

「そう、レズよ」


 *


 私にそのような趣味嗜好はない。じっと自分を見据える知世をどうやりすごしたものか。かつてない緊張感が私を支配していた。


「正確に言えば、レズよりのバイってところね。男も一応イけるから」

「でも空次郎さんとの関係は?」


「お金のために決まっているでしょう」


 誰が聞いているかも判らないのに、知世はきっぱりと言った。


「あの人はお金を、あたしは従順な愛と体を。それぞれ交換してるのよ」

「ごめんなさい、私、彼氏がいるので例え女性相手でもそういうのは」


 嘘である。


「あら、残念。JKと遊べると思ったのに」


 言いながらも、知世は気を落とすふうでもなくグラスの底に残ったウイスキーを煽った。


「ふう、芽衣子ちゃんとはどんな関係なのかしら?」

「ただの友達です」


 ぽっと赤くなった頬が色っぽい。知世は新しいボトルを開けながら、


「学校ではあの子どんな感じなの? いっつもあんなに堅苦しい潔癖なのかしら」

「潔癖?」


「自分のに対して、徹底して壁を作るじゃない? あの子。もう少し割り切って接しないとこの先辛いと思うわ」


 愛人である自分との関係を言っているのだろうか。


「私の見る限りでは普通だと思いますけど」

「それはあなたが拒絶の壁の内側にいるからよ。大人になれば嫌なものに触れながら生きていかなくっちゃいけないのに、その耐性がまるでないのよねぇ」


 知世はナッツを口に放り投げ、


「あたしね、貧乏な育ちなの」


 酒が入ったせいか、それとも誰かに聞いてほしかったのか、知世は突然饒舌に語り始めた。


「と言っても、その日食うものにも困るってほどじゃないの……三つ上の姉がいてね、服や玩具はいつもおさがりばっかだったって程度よ」


「……」


「でも子供にとっては違うのね。友達と一緒に遊ぶ時とか、けっこう惨めな思いをしたもんだわ。みんなの服は可愛いのに、あたしはよれよれにくたびれたお古。まあ、ママにしたら余計な出費は少しでも抑えたかったんでしょうね。『パパは安月給だから』ってのがママの口癖だったわ」


「ああ、それは判ります。うちもそんなに厳しいわけじゃなかったけど、余計なものは買ってくれませんでした」


 加えて、私の母は「片づけないなら捨てちゃうからね」を有言実行する気の強さを持ち合わせていたため、その度に幼い私は涙を流したものだった。


「へぇ、お嬢様でもそんな苦労をするのね。いいおうちで育ったわね」


(しまった)


 今の私は芽衣子のお嬢様学校の友人という設定なのだ。リアルな庶民エピソードは封印しなくては。


「そんな家で育ったからかしら、高校を出てすぐにお金を手っ取り早く稼ぐ仕事を始めたの」


「それって……」


「風俗よ」知世はグラスに口をつけて「軽蔑した?」


「いや、そんなことはないです」


 職業に貴賎はない。だが、堂々と人前で話すことでもない。しかも自分から。

 私は彼女のある意味、割り切った性格を垣間見たような気がした。彼女には「今」と「これから」しか見えていないのだ。


「……そこで空次郎さんと出会ったんですか?」


 私はおそるおそる訊く。


「そうよ。笑っちゃうでしょ? その時まだ二番目の奥さんがいたのよ。そこで見初められて、何人も囲っている女の一人として、迎え入れられたわけ。愛人の中にもヒエラルキーってものがあってね。あたしはあの人に気に入ってもらうために、徹底して自分を捨てたわ……」


「それって、つまりはお金のためってことでしょう?」


「ズバッと言うのね。そうよ。あたしはお金が欲しかった。お金があれば何でも手に入るもの。綺麗な服においしい料理、不自由のない生活。『金で買えない物はない』。ふふ、その通りよ」


「愛は買えないです」


「買えるわよ。現にあの人は私の愛を買ったもの。こんなのは愛じゃないって言いたそうな顔ね。要は主観の問題なのよ。あの人が私に愛されていると心から信じているのならば、それは偽りのない愛なのよ」


 「……」


 沈黙をかき消すようにどこからか犬の遠吠えが聞こえた。

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