第八章 芽衣子の葛藤
1
どこかで切ったのだろう。左のすねに一センチほどの切り傷があった。
血は止まっているけれど、水に直に当てると痛みそうだ。傷を手で強く押さえながら芽衣子は足から湯に浸かった。
「ふう」
顔だけ湯船から出し、全身をぐっと伸ばした。
(お兄様)
白い天井を見上げながら兄とその婚約者の顔を思い浮かべた。
芽衣子は知っているのだ。この二人の婚姻の裏に隠された、大人の汚さを。触れることすらためらう、牛の糞よりも醜いその恋路を。
(けがれている)
佐夜子は市内の書店に勤めている。三か月ほど前のことである。その書店に朱李が偶然訪れ、レジで対応した佐夜子に一目ぼれをしたというのだ。そこまではいい。問題はその先だった。
朱李はどうにかして佐夜子の連絡先を聞き出そうと何度もその書店に通い詰めたのだが、結果はさっぱりだった。脈がないと判ればそこで諦め、手を引くのが普通だろう。
しかし、運命は朱李に味方した。
佐夜子の父が空次郎の経営している病院に勤めているということを彼は偶然知ったのだった。そこからどのようなやり取りが彼らの間で交わされたのかは芽衣子の知るところではない。
が、結果として兄は想い人を手中に収めることに成功した。
芽衣子がそのことを知ったのは一か月ほど前のことだった。酒に酔った空次郎と朱李がこそこそと話しているのを耳にしたのだ。
「ありがとうよ、父さん。おかげで助かった」
「子供のためならお安い御用さ。金で買えない物なんて、この世にはないのだよ」
具体的な言葉を聞いたわけではないが、芽衣子にはそれだけでおおよその察しがついた。「金で買えない物はない」というのは子供の頃から耳にしている父の口癖だった。自分だってその恩恵を受けて育ってきたのだ。しかし――
(なんて、なんてけがれた恋)
自分が抱いているこの恋心と比べるとなんてけがわらしいのだろうか。
なぜ?
(お兄様はそんな恋で満足しているの?)
やるせない思いで湯船から上がり、縦長の鏡の前に立った。赤く火照った自分の体が映っている。
(私だったらそんなことはしない)
やがて、その体に佐夜子の幻影が重なる。夜の闇のように美しい彼女。常に周囲に気を配り、兄を立てる奥ゆかしさを持っている。
「……」
人柄も素晴らしい。もし自分が彼女と比べられるようなことがあれば、すぐさま逃げ出してしまいたいくらい。そんな彼女でも、紅月の力には勝てなかった。
あの気高い瞳の奥に、彼女はどんな感情を隠しているのだろう。
彼女は本当に朱李を愛しているのだろうか。
これであの二人は本当に幸せになれるのだろうか。
湯気でくもった鏡を撫でて、顔を近づける。
「私の場合はどうすればいいの」
鏡の中の自分は答えてくれない。自分は今、一本道にいるのだ。ゴールの見えない、一本道に。
叶わぬ想いを抱えたまま、ひたすらこの道を歩き続けるべきか。それとも、このどこまでも初々しい初恋を捨て、この道を引き返すべきか。
それとも……
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