第七章  朱色の夜

 1


 それから三十分ばかりが経って、すずの手料理がダイニングテーブルに並んだ。


「ねえ、お二人とも、よろしければ今日はお泊りになりませんか」


 ほうれん草と椎茸のソテーを口に運びながら、芽衣子が言った。


「外はもう雨ですし、ねえ、いいでしょう?」

「あたしは別に構わないけど」


 猫子はちらりと空次郎を一瞥した。


「お父様には私が言っておきますから。それにどうせ三木松がいないのですから、帰りの足はありませんわ。着替えもこちらで用意いたしますし……相談したいこともございます。ね?」


「たしかに。新山さんもさっきダウンしちゃったし、きーちゃんは大丈夫?」

「はい」


「お、猫子ちゃんも泊まってくの? よっしゃあ」


 中林はぐっと拳を握りしめた。爛々と輝く目が猫子を見据える。さすがの猫子も少しばかり身の危険を感じた様子だった。


 と、そこへ――


「帰ったぜ」


 廊下の方から声が聞こえた。ねっとりと耳に溶けていくような色気のある声。廊下を歩く足音が次第に大きくなる。


「お、朱李のやつが帰ってきたか」


 中林はさっと立ち上がり、廊下に続く扉へと向かう。中林が手をかける前に、その扉は勢いよく開かれた。そして一人の男が濡れた髪をかき上げながら入ってくる。


「ふう、いきなり雨が降ってきたんで早めに切り上げてきたよ。父さん、俺らの分の飯は? つーか肉は?」


「遅いぞ。バーベキューは雨で中止だ。さっさとこっちへ来て食べなさい。全く、誰に似たんだか」


「あなたじゃなくって?」


 知世がそっと空次郎の首元を撫でながら言った。明らかに作ったと判る、それでいて男の理性に直接働きかけるような甘い声だった。


「どこまで走ってきたんだ?」


 中林が訊く。


「峠をひとっ走りして外神げがみの方までな。ちょっと迎えに行ってきた」

「外神ってことは……なるほどお姫様を迎えにか」


「そういうことさ。おいっ」


 朱李が廊下に声を投げると、ワンテンポ遅れて一人の女が入ってきた。

 長い黒髪を低い位置で結っている。前髪は切りそろえており、小ぶりな鼻に大きく開いたアーモンド形の目が目を惹いた。薄手の白いブラウスに丈の長いスカートを合わせているのが気高く見える。


 女はしとやかに歩を進めると、空次郎に一礼した。


「おお、よく来てくれた。全くお前にはもったいないくらいの器量だ」

「なんたって俺が選んだ女だからな」


 朱李はにやりと笑って女の肩に手を置く。


「誰のおかげだと思ってるんだ。まあいい。さあ、二人とも早くこっちに来て食べなさい。腹が減ったろう」


 紅月親子の会話をよそに私はそっと芽衣子に尋ねた。


「あの女の人は……どちら様?」


 彼女は浮かない顔のまま、小声で言った。


「朱李お兄様の婚約者です」


 2


 紅月朱李はどっかと腰を下ろしてテーブルに着くと、次々と料理を口に運んだ。その様は料理を味わうというよりかは、まるで胃を満たすための流れ作業のようにも見えた。

 真っ赤に染めた髪をワックスで派手に遊ばせ、細い首にはシルバーのネックレスがかかっている。顔立ちは涼しげな二枚目で、どこか遊び人のような印象を受けた。


 芽衣子に、あの二人について簡単に説明をしてもらった。


 彼こそ、紅月空次郎の実の息子であり、芽衣子の血の繫がった兄である。年は二十二歳。現在は某有名大学の医学部に籍を置き、ゆくゆくは父がF**市内で経営する病院を継ぐのだろう。


 その隣にいるのが朱李の婚約者、谷山たにやま佐夜子さやこである。慎ましく箸を動かしながら、柔らかな微笑を振りまいている。

 席に着く前に、その場にいた一人一人に軽く一礼していたことから、育ちの良さも窺えた。

 この二人を色で表すとしたら赤と白だろう。そんな感想を抱いた私だった。


 互いに足りないものをそれぞれ補っているような二人であるから、まさにお似合いと言ってもいい。彼らの登場で、場の空気はより華やかになったのだが……


「芽衣子ちゃん?」


 私が気になったのは芽衣子の様子だった。居心地が悪そうにぼうっとしているかと思えば、時おり佐夜子の方へ盗み見るような視線を送っている。


「あ、はい。なんでしょう」


 明るい声を取り繕うが、その目に映る不穏な影は隠せない。私がさらに言葉を続けようとすると、彼女は弾かれたように立ち上がった。


「私、先にお風呂に入ってきますね」


 そう言ってそそくさと逃げるようにリビングから出て行く。


「嫉妬してるんだよ、あの子は」


 酒気を孕んだ声で中林が言った。酩酊状態とまではいかないが、かなり酔っているようで顔がゆでだこのようになっていた。その横で、猫子がぐったりとしている。


「昔から芽衣子ちゃんはお兄ちゃん子だったからね。なあ? 朱李」


 振られて朱李は、溜め息をつきながら中林を見返す。


「おめーがことあるごとにちょっかい出すからだろーが。俺は窮屈でたまんなかったぜ『おにいさま、おにいさま』って」


「そうだったけ? 覚えてないなぁ」

「ったく」


 紅月兄妹の中は昔から良好だったらしい。ゆえに芽衣子は兄、朱李を奪う佐夜子の存在を疎ましく感じているのだろうか。その心理は理解できなくもない。


「えーと、百合川さんに万野原さんだっけ、芽衣子がいつも世話になってるらしいっすね」


 自然と話題の矛先はこの場では客人である私たちに向けられた。


「いえ、私たちこそ、芽衣子さんにはいつもお世話になっていて」

「あいつ、学校でちゃんとやっていけてます? 昔っから人見知りで、引っ込み思案なとこあんだよ」


 ぶっきらぼうながらも、朱李は妹のことを案じている様子だった。


(いいお兄ちゃん)







「そういや、あいつ彼氏いるんすか?」







 遠くで猫子が紅茶を噴き出した。

 私も思わず背筋に冷や汗が流れる。


「え? いやぁその」


 ここには紅月家の人間が揃っているのだ。この状況で芽衣子の恋心を中心としたについて語ることができるほど、私の神経は太くはなかった。


「いるわけがなかろう」


 そう言ったのは空次郎だった。


 不機嫌そうに眉根を寄せ、小さく咳払いをしている。


「あの子に彼氏など十年は早いわ」


「いやいや三十路で恋愛解禁はきついっしょ。俺が高校生の頃は――」


「男のお前と一緒にするな。いいか、男は遊んで己の器を磨くもんだが女というのは――」

「親父、そういうのって、今の時代じゃ差別になるんだぜ」


 父と息子の間に険悪な空気が流れ始めたのを察知したのか、猫子が声を投げた。


「あ、大丈夫です。そういう浮いた話は聞いたことないので。ね? きーちゃん」

「は、はい」


「ふぅん」


 朱李は物分かりよく引き下がった。すると今度は、


「でも恋愛相談くらいはするでしょ。さっきなんか相談したいとかどうとか言ってなかった?」


 横から中林が口を挟んだ。


「ああ? 恋愛相談?」


 また蒸し返されてしまった。


(余計なことを……)


 中林を睨みつけるが、彼はそれに気づかない。どころか今自分が言ったことすらも忘れたかのように、全く関係ない話を朱李に振った。朱李の方はそれで興味の矛先が変わったようだが……


「恋愛相談、というのは本当かね?」


 空次郎が静かな、そして圧のこもった口調で尋ねる。


「ええと……」


 どう答えるべきか。本当のことは絶対に言えない。猫子とアイコンタクトを取る。


「たしかに芽衣子さんからはその類の相談を受けました。しかし、それは結局悲しい結末を迎えてしまいました。ね、きーちゃん」

「う、うん」


 嘘はついていない。


「ほう」


 いくらか空次郎の頬が緩んだ。


「その辺りの詳しい事情については、芽衣子さんへの配慮のために言うことはできません。友人ですので」


 言って私はそろりと空次郎を見た。彼はぎらりと目を光らせ、知世の注いだ酒を嬉しそうに煽っている。


「そうかそうか、だったらいいんだ。はっはっは」


 一難去ったようである。

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