第六章  雨

 1


 六時を回る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


「朱李のやつ、どこまで飛ばしに行ってんだか」


 中林がぼやきながら、携帯電話を耳に当てた。どうやら帰りの遅い紅月朱李を案じて電話をするようだ。


 何回かの発信音の後、中林が口を開いた。繫がったようである。


「おい今どこにいるんだ」


 そう言いながら、彼は少し離れたところまで歩いていった。そうしてようやく猫子は中林から解放された。


「つ、疲れた」


 ふらふらとこちらにやってきた猫子はどことなくやつれているようにも見えた。


「お疲れ様です。ナンパされるなんて羨ましいなぁ」

「くぅ、覚えてなよ、きーちゃん」


「普段から私のことをモテないモテないっていじるから罰が当たったんですよ」


「あのクソガキ、鋼のハートでも持ってるのかな。こっちがどんだけ露骨に嫌そうにしても全くへこたれずに口説いてきやがる」


「中林さんの人生にはデリカシーという概念が存在していませんから」


 芽衣子がさらっと毒を吐く。


「男は嫌いだけどあの度胸と神経の図太さだけは見習ってもいいかな」


 猫子が缶ビールに手を伸ばそうとしたのでぴしゃっと手を叩く。


「あっ、駄目ですよ猫さん。今日は『芽衣子さんのお友達』って設定なんですから。未成年がお酒を飲んだら。そんな顔したって駄目です。めっ!」


 一雨降りそうな空模様である。


(洗濯物取り込んだっけ)


 さっきすずに確認したところ、三木松は急を要する用事が入ったようで、すでに帰宅したという。使用人の中でも彼だけは住み込みでないようだった。


 ぽつん、と一粒の水滴が私の額を打った。


「冷たっ」


 びくっと体を震わせて、再び空を見上げた。重く垂れこめた暗雲は、一瞬その巨体を光らせたかと思うと、ゴロゴロと唸りを上げ始めた。そして――


「降ってきましたね」


 芽衣子が勢いよく立ち上がって言った。空から降り注ぐ雨粒は次第にその密度を増していく。

 遠くの方でまた雷鳴が轟いた。強烈な雨に追われるようにして、一同は玄関に向かって駆け出した。


「新山君、簡単な片づけだけでいい。屋根の下に寄せておいてくれ」


 空次郎が言った。


「かしこまりました」


 まだ食材は十分残っていたが、雨に濡れてしまってはとうてい食べることはできないだろう。野菜ならまだしも肉はどうしようもない。


 新山が一人残って後始末をするのを尻目に、私は手で頭を覆いながら邸内に駆け込んだ。


「ふう、助かった」


 玄関から廊下にかけて、人でごった返している。その間を縫うようにして、金田すずが白いタオルを配って回っていた。


「万野原さん、どうぞ」

「ありがとうございます」


 タオルで水気を拭き取りながら、一同はどこへ行くでもなく、自然とリビングに集まった。幸い、びしょ濡れになった者はいないようである。

 各々、適当なところに落ち着いていた。私は先ほどと同じソファに身を預けた。

 ややあって、上から下まですっかり濡れた新山が姿を現した。すずからタオルを受け取り、ごしごしと拭く。


「びしょ濡れですねぇ」

「すごい降りようだよ」


「ありがとう、新山君」


 ダイニングテーブルに座っていた空次郎が、労うように言った。


「お飲み物はクーラーボックスごと玄関に運んでおきました。まだ数が残っております。食材の方はどういたしますか?」


「ああも濡れてしまってはもう食えんだろう。それにけっこう降ってきた。明日でいい。明日で」


「しかし、朱李様たちの分のご夕食が」


「残ってるものを食わしておけばよい。冷蔵庫に何かあるだろう。食事の時間だというのに出て行ったあいつが悪いのだ。しかしまあ、そろそろ戻る頃だろう。それより、そのままでは風邪を引くぞ」


 新山が着替えのために二階へ上がっていった。芽衣子は兄の身を案じているのか、心配そうな面持ちだった。


「金田さん」


 空次郎が声を飛ばした。


「はい」


「すまないが、何かこしらえてくれないか。お開きにするにはずいぶんと早い。それと皆に暖かい飲み物を」

「かしこまりました」


 すずは奥のキッチンに引っ込むと、少ししてから銀のワゴンを押しながら戻ってきた。


「紅茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?」

「俺、紅茶ね」


 中林がひょいと手を挙げた。彼はまたしても猫子の隣に腰を据えている。


 私はコーヒーを所望した。

 全員に給仕を終えると、すずは再びキッチンへと消える。新山が戻ってきたのはそのタイミングだった。額に手を当て、どこか具合の悪そうな顔をしている。

 重たそうな足取りで空次郎のところに行くと、新山は苦虫を噛み潰したような顔で言った。


「申し訳ありません、旦那様。少し気分がすぐれないので、今日は休ませていただけますか」

「ん、構わん。すまなかったな、さっきので体が冷えてしまったのだろう」


 空次郎は紅茶を一口啜ってから言った。その体には相変わらず知世が絡みついている。


「ありがとうございます」


 一礼して新山が去った。らせん階段に足をかけ、危なっかしい足取りで上っていく。彼を含め、この紅月邸に住む人々の寝室は全て二階にあるそうだ。

 ふと時計を見ると、午後六時十五分だった

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