第四章  平穏な時間

 1


「娘がいつもお世話になっているそうで」


 すずの運んできたレモネードに口をつけながら、空次郎はなめるような目をこちらに向けた。

 まず猫子の方をちらりと見、鼻で小さく笑うと今度は私の方へ。男が女を品定めする時のように、彼の視線はねっとりと私の肢体に絡みついていた。


「桔梗ちゃんに猫子ちゃんだね。いやぁ、やっぱり若い子といると気分が若返るねぇ」


 彼は私たちのことを芽衣子の学友だと思っているようだが、娘の友人をエロい目で見るとはなかなかぶっ飛んだ親父である。


「いえ、こちらこそ」

「この子はあんまり友達を家に連れてこないのでねぇ、本当にうれしい限りだ」

「もう、お父様っ」


 空次郎は金遣いの荒さもさることながら女癖の悪さでも有名だった。

「金で買えない物はない」を持論とし、マンションに女を囲っているだとか、とある機会に見初めた人妻を孕ませただとか、そんな噂が絶えないのである。その上、女がらみの問題はたいてい金に物を言わせて解決するのでいっそうたちが悪い。


「ご家族の集まりにお邪魔して申し訳ありません」


 猫子がしおらしく言うと、空次郎は不敵に微笑んだ。


「いやいや、この年になると人間というものが恋しくてね。少しでも多くの人に集まって貰いたいのだよ。ここは市街から離れているからこっちから声をかけないと誰も来ちゃくれない。むしろこちらから感謝の言葉を言わなければならない」


「はあ」


 空次郎の視線は依然として私の体から離れない。


(このスケベジジイ)


 嫌悪感を持って空次郎を見返そうとしても視線がいっこうに合わないので、諦めた。そんな彼でも愛娘は何ものにも代えがたい存在のようである。芽衣子が「お父様」と横から声をかけると、一瞬のうちに首がぐいんと曲がった。


「お父様、そういえば三木松が捜していましたわ」

「うん? どうした」

「さあ。車のことなんじゃないかしら」


 芽衣子は小さな肩をすくめた。


「全く、間の悪い。それじゃ桔梗ちゃん、また後ほど」

「ははは」


 そうして空次郎が中座すると、私はどっと息を吐いた。


「モテモテだねぇ」と猫子。

「万野原さん、すいません。父は女癖が悪くって」

「いえいえ」

「いいんだよ。むしろきーちゃんは男日照りだか――」


 猫子の小さな口を両手で塞ぐ。


「あの、先生。先日はどうもお世話になりました。改めて、お礼を申し上げます」

 芽衣子はぺこりと頭を下げ、艶やかな黒髪がはらりと垂れる。

「もうふっ切れた?」

「いえ、実はまだ……」


 膝の上に置いた手を弄びながら芽衣子は落ち着きなく答えた。


「でしょうね」


 色恋の問題はそう簡単に割り切れるものではないのだ。


「困ったことがあったら何でも相談なさい。法に触れること以外なら、協力するから。だってあたしたち『友達』だものね」


 言って猫子はにっこりと微笑んだ。


「……先生」

「失恋なんて、人生で山ほど経験するものさ。きーちゃんなんか、むしろ失恋しかしたことないんだ」


「猫さん!」


 芽衣子の顔がぱあっと明るくなった。その後、私は取り止めのない雑談に花を咲かせた。


   *


 時計の針が午後三時を回ったところで、芽衣子がおずおずと立ち上がった。


「すいません。ちょっとお花を摘みに」

「行ってらっしゃい」


 そう言って芽衣子を見送ると、私は改めてこの広いリビングを観察した。


(広い家)


 子供の頃は、大きくなったらお金持ちになって大きなお家に住んでみたいな、と憧れたものだった。しかし、いざ豪邸に足を踏み入れてみると、どうにも落ち着かない。車が乗る人を選ぶように、家も住む人を選ぶようである。

 目の前の一〇〇インチはあろうかという巨大なテレビも、私の生活には不要だろう。レモネードを飲み干すと、体が冷えているのに気がついた。少し冷房が効きすぎているようだ。


「ちゃん付けで呼ばれたのなんてなん何年ぶりだろう」


 リラックスムードの猫子はそんなことを呟いている。

 だんだんと尿意も催してきた。


「猫さん、私もトイレに行ってきますね」

「いってらー」


(あれ? トイレってどこにあるんだろ)


 リビングを出てからそのことに気づいた。芽衣子に場所を聞いてから行くべきか。いや、彼女が出て行ってからまだ三分と経っていない。


(芽衣子さんは入り口から出て行ったから一階にあるはず)


 私のダムは決壊寸前だった。誰かに会ったら出会い頭に聞けばよい。

 とりあえず来た道を引き返すことにした。

 道中、フローリング張りの廊下にはいくつも扉が並んでいたがどれもトイレではなさそうだった。

 結局玄関まで戻ってきてしまった。――と、そこには一人の男がいた。


 新山緋呂ひろである。彼もすずと同様に住み込みで働いている使用人の一人で、端正な顔立ちの好青年だった。髪は短く刈っており、肌は健康的に焼けている。買い出しから戻ってきたばかりのようで、手には重たそうなビニール袋がぶらさがっていた。


 もう膀胱は破裂寸前だ。息の詰まるような思いで私は新山に声をかけた。


「あ、あのぅ」


 新山は私を見るなり一瞬「誰だ? この美少女は」とでも言いたげな表情を見せたが、芽衣子の客人が来るということを聞き及んでいたようで、さっと表情を取り繕った。


「どうされました?」


 柔らかな声色である。


「あ、あの、新山さん、お、お、お手洗いはどちらにあるんでしょうか?」


 迫りくる猛威に耐えながら尋ねた。声が裏返ってしまったが、そんなことを気にする余裕はない。そんな私の様子を目にしても新山は少しも動揺することなく、落ち着いた物腰で応対した。


「ああ、それでしたら――」


 新山の丁寧な案内によって、私はようやく解放されたのだった。

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