第三章  紅月家

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 七月一六日の午後二時。


 海岸沿いの国道を走る一台のクラウン、その後部座席に私はいた。

 紅月邸に向かう途上である。芽衣子が黒塗りの車を引っ提げて私と猫子を迎えに来たのがおよそ三十分前。最初は、筋者が闇の依頼を押し付けに来たのでは、と肝を冷やした。


 窓を流れる景色をぼんやりと眺めながら、眠気を払うように目を擦った。

(眠い)


 今日は朝から雲の多い空模様だった。防波堤の向こうに海が臨めるが、曇天の下で見るそれはどこか寂しげな風情だった。何人かの釣り人の後ろ姿がぽつぽつと見えるだけである。

 車内は適度に空調が効いており、なぜかセリーヌ・ディオンの「My Heart Will Go On」が流れていた。永遠の愛を歌う悲しげな旋律が私のまぶたを重くする。


「ふわぁ」と猫子が欠伸をする。


 昨日はとある依頼主への調査報告書をまとめるため、二人して徹夜で仕事に取りかかっていた。

 猫子が何度目かのあくびを噛み殺したところで助手席に座る芽衣子が顔を覗かせた。


「先生、お疲れでしょうか。まだ家までけっこうかかりますから、お休みになられては?」

「まだだいじょうぶ。心配無用だよ」


 そうは言うが、猫子のまぶたはもう間もなく上と下がくっつきそうになっている。


三木松みきまつ、もっと飛ばしてちょうだい」

「かしこまりました」

 三木松太蔵たいぞうの硬質の声が車内に響いた。

 彼は長年紅月家に勤める使用人である。がっちりとした体格をした初老の男で、渋いグレーの髪をオールバックに固めていた。堀の深い顔立ちに鷲のような鋭い目。左手薬指には指輪がはめられていた。


 十分ほど走ると道は市街に入っていった。


 F**市は製紙業が盛んな街である。中央市街には巨大な煙突のある工場が点在し、今日も煙をモクモク吐いている。


「窓をお閉めします」


 製紙工場に付き物の硫黄とも腐臭ともいえぬ独特な臭いを防ぐため窓が閉められた。やがて三人を乗せた車は北へと進路を取る。

 中心市街を抜けると一転、緑の多い牧歌的な景色に変わった。この辺りはあまり縁のない土地だった。

 市の北部は避暑地としても有名で多くの別荘が建っている。そのため一部の市民からは「第二の軽井沢(かるいざわ)」とも呼ばれてた。しかしまだシーズンではないようで、どの別荘にも人の気配はなかった。


 一行が紅月邸に到着したのは午後二時半を少し過ぎた頃だった。


「先生方、着きましたわ」


 紅月邸は別荘地の外れに建つ大きな洋館である。紅月の名にふさわしい赤い家だ。

 屋根は勾配の急なスレート葺き、壁は深い紅色に塗られている。玄関の真上、正面二階は南向きの日当たりのよさそうなバルコニーとなっていた。庭の隅には巨大な菩提樹が佇み、その手前には白いベンチとテーブルが置かれていた。

 その広大な敷地を囲う背の高い煉瓦塀には物々しい防犯カメラが取り付けられている。


「お嬢様、私は整備がありますので」

「判りました。ありがとう」


 三木松を車庫に残し、芽衣子と姫子は連れ立って紅月邸の前庭を歩いた。曇りとはいえ、七月も半ばだ。湿度が高く、肌にじっとりとした汗が浮かんだ。


「暑い」


 私は手でぱたぱたと扇ぎながら空を見上げた。汗っかきな体質なので、早く屋内に入りたい。


「冷たいものでも飲みましょう。すぐに用意させます」


 芽衣子はおだやかに微笑んで言った。

 今日の彼女は長い髪をポニーテールに結び、薄い生地のワンピースといった涼しげな装いだ。化粧は薄めで艶のある唇が桃色を帯びている。


「……」


 芽衣子の方から話題にしないので、彼女の恋がどのような結末を迎えたのか、私はまだ知らなかった。いや、無理に知る必要もないだろう。自分から話題に挙げて地雷を踏むような真似だけはしないように、と私はこの時、固く誓った。

 玄関にはなだらかなスロープが併設されていた。後になって聞いたところによると、これは数年前に鬼籍に入った芽衣子の祖母に対する配慮だったという。


「先生、どうぞ」


 芽衣子に促され、私たちは紅月邸へと足を踏み入れた。


「お邪魔します」


 通されたのは東に面したリビングだった。

 二十畳以上はあろうかという広い部屋である。右手奥には壁一面を埋める巨大なテレビが設置されており、その手前には豪奢なソファセットが設えられていた。

 正面の壁には大きな出窓があり、さわやかな水色のカーテンがかかっている。部屋の左側には縦長のダイニングテーブルが据えられており、その上には煌びやかなシャンデリアが吊るされていた。


(これが金持ちか……)


 まるで住む世界が違う。


「どうぞ、ご自由におくつろぎください」


 芽衣子に勧められ、ソファに腰を下ろした。猫子は私の横に座り、肩にもたれかかってきた。まだ眠いようだ。


「こうして見てると、お二人は姉妹みたいですね」


 芽衣子は正面に座った。彼女の背後の壁には明かり取りの窓がはめられている。ソファセットの真上の天井には空調機が埋め込まれており、そこから送られる冷風が私の火照った体を冷やした。


「本当に、手のかかる妹で困ってますよ」

「猫さん、そんなだらけきった体勢で言っても説得力ないですから」


 三人がそうしてソファに落ち着くと、まもなくして若い家政婦が銀の盆に二人分のコップを乗せてやってきた。


「お待たせいたしました」

「ありがとう、すずさん」


 彼女は紅月家に住み込みで働いている使用人の一人、金田かねだすず。ぱっちりとした目と柔らかな茶髪が特徴で、フリルの目立つメイド服に身を包んでいた。肉感のある体型をしており、特に胸は、風船でも詰めてるのではないか、と妬ましく思うほどだった。


「あ、ありがとうございます」


 コップにはハチミツ色の液体が並々と注がれていた。飲んでみるとやけに甘いレモネードだった。


「そういえばすずさん、新山にいやまさんは?」


 芽衣子が訊いた。


「買い出しに出かけております。もうそろそろ戻る頃合いかと……何かお急ぎの御用でも? 私でよろしければお伺いいたしますが」

「いえ、だいじょうぶです」


 芽衣子はストローを回しながら言った。そのそぶりはどこか残念そうでもある。私たちはただ黙ってその様子を見守っていた。


「……」


「お客様かね?」


 背後からよく通るハリのある声が投げかけられた。振り向いてみると、らせん階段の中ほどに一人の男が立ってるのが目に入った。その姿を認めた瞬間、広いリビングには異様な緊張が走った。


「あ、お父様」


 彼こそ、この紅月家の主であり世界に名を轟かせる名外科医、紅月空次郎その人である。脳神経外科を専門とし、アメリカのD**大学で教授を勤めた経験もあるという。

 石像のような白い肌には深い皺がいくつも刻まれ、長く伸びた髪には白いものが混じっている。たっぷりとした顎髭を撫でさすりながら空次郎は階段を降りた。


「金田さん、私にも貰えるかな」

「はい、ただいま」


 すずがぱたぱたとキッチンに戻るのを尻目に空次郎は一歩一歩踏みしめるような足取りで二人の方に歩み寄った。

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