第二章 芽衣子の誘い
1
再び芽衣子から連絡があったのはそれから半月ほど経った七月九日のことだった。
依頼がないと、猫子はたいていソファーで寝ているか、窓の外をぼうっと眺めており、そのだらけきった様は本物の猫のようである。
伸びきったぶかぶかのTシャツに薄いショーパン姿の彼女は、ソファーの上で丸まって寝息を立てている。食べかけと思しきどら焼きがテーブルの上に放置されていたので起こさないようにこっそり食べてやった。
コーヒーでも飲もうかとキッチンに立った私の足を、電話の呼び出し音が引き留めた。
「はい、お電話ありがとうございます。百合川探偵事務所です」
営業用に声のトーンを上げる。
「もしもし、あの、紅月です」
「あ、紅月さん」
電話の相手は芽衣子だった。
「ご無沙汰しております。すみません、突然お電話してしまって。あの、百合川先生は」
「今お昼寝中なんですよ。すぐ起こしますね。猫さーん」
猫子の首元をささっとくすぐると、彼女は弾かれるように飛び起きた。
「ひゃっ」
「起きてください」
「うにゃ……あれ、あたしのどら焼きは?」
「自分でさっき食べたんでしょ、電話ですよ」
「そうだっけ、ん、相手は誰?」
「紅月さんです」
「あれぇ、あの子の依頼は終わったはず」
寝ぼけ眼をこすりながら、猫子は受話器を受け取った。その横に陣取り、私は耳をそばだてる。
「あ、百合川先生。紅月です。先日はお世話になりました。その、私、改めてお礼がしたくって」
声の調子から察するに失恋の傷は癒えているようだった。そのことに私はひとまず安堵した。
「お礼っていうのは?」
「はい。来週の十六日に家族が集まってささやかなパーティーが開かれるんです。私、先生には改めてお礼をしたいんです。ですから、ぜひ先生にもパーティーにいらして欲しいんです」
「でもそれってご家族が集まるんでしょう? あたしが行っても浮いちゃうんじゃない?」
「その点は問題ありません」
芽衣子は自信ありげに声を張った。
「先生は私の友人として招待しますから。先生なら、私の学友だと紹介しても全く問題ないはずです」
「そう……」
たしかに、と私は心の中で頷く。
「それで、十六日だっけ」
「はい」
「ええと、ちょっと待ってくれる」
猫子は壁に掛かったホワイトボードに視線を向ける。月のスケジュールが簡単に記されているもので、十六日からちょうど三日間は休暇だった。
「だいじょうぶよ」
「本当ですかっ?」
弾んだ声が返ってきた。
「では、当日お迎えに上がりますね。あ、そうそう万野原さんにもぜひいらしてくださいとお伝えください。うふふ、楽しみ」
受話器を置くと、猫子は首を回して、
「だってさ。行く?」
「もちろん」
私が案じているのは無論、芽衣子のことだった。調査の報告をした時点で彼女との契約は満了しているため、その後の顛末を知る機会はなかったし、こちらから首を突っ込む義理もない。それでもここ数週間は心にしこりが残ったような感覚が続いていた。
あれからどうなったのだろうか、と。
芽衣子は強い少女ではない。風が吹けば飛ばされてしまうような危うい雰囲気をまとっている。
今までは紅月家の力が彼女を守ってきたのだろう。
紅月空次郎はとある政界の大物――名は伏せるが――の命をその手腕で救ったことがあり、その筋にも太いパイプを持っていると聞く。ゆえに、並大抵の問題は眉一つ動かすだけで解決できるのだ。
しかし、今回に限ってはその力は全く役に立たない。紅月家の力が及ばない問題に直面した芽衣子は、それを自力で乗り越えなくてはならないのだ。
そんなふうに気にかかっていたところへさっきの電話だ。
声を聞いただけでははっきりとしたことは言えないが、少なくとも現在の芽衣子の様子は悪いものではないらしい。それでもその声色にどことなく陰りが混じったように聞こえたのは気のせいだろうか。
「私、心配だったんです。紅月さん、元気そうでよかった」
「……きーちゃんってさ、人の恋愛話大好きだよね」
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