ぼやけた人影

 ふとした思い付きで眼鏡を外した状態で外に出てみた。

 私の視力はコンマ以下。裸眼だと視界に映る物の輪郭は失われる。けどだいたいの形と位置は分かる。家の中で過ごす分には大きな問題はない――では家の外では?

 裸眼でもコンビニに行くくらいのことはできるのではないだろうか。かれこれ長い間、裸眼で外出したことがない。頭の中でシミュレーションしてみたが、商品の値札が見づらいことを除いて問題なさそう。よし、やってみよう、というわけだ。

 想定通り、風景がぼやけて見える。当たり前だ。外に出た途端突然視力が上がったり下がったりしたら堪ったものじゃない。いや、上がる分には何も困らないか。

 空はいつも通り青く、雲はぼやけて見える。車や建物もぼやけて見えるが、距離感は分かる。信号の色もちゃんと見える。色盲ではないんだから見えて当たり前なんだけど、なんだか新鮮な気持ちだ。

 これなら裸眼でコンビニに出掛けるくらい、なんてことなさそうだ。

 軽い足取りで歩いていると、ぼやけた人影とすれ違った。

 ――思わず振り返った。

 距離が離れてしまって、再び人影は輪郭を失った――いや。

 人影はずっとぼやけて見えていた。真横を通り過ぎる瞬間、至近距離でも。

 いくら私の目が悪いと言っても、真横に立っている人間くらい、なんとなく見える。けど、あの人はずっとぼやけて見えていた。

 私は懐から眼鏡を取り出し、掛ける手間も惜しんで双眼鏡を覗くように眼鏡越しに人影を見ようとした――見えなかった。眼鏡を横にズラして裸眼で見る――ぼやけた人影が見えた。眼鏡越しに見る――見えない。

 なんだ、これ。

 なんだ、あれは。

 人型の煙のようなものが遠離るのを私はじっと見ていた。

 気のせいだ、きっと見間違えたんだ。

 正面に視界を戻すと――大勢のぼやけた人影が見えた。

 この時間帯にこんな大勢が歩いている光景、見たことがない。車道を歩いているものも見える。ベランダに突っ立っているものも見える。屋根の上にも見える。どれもこれも輪郭を捉えることのできないぼやけた人影達。

 普通の人影も見える。ぼやけてはいるが、なんとなく帽子を被った老人だな、と分かる。かれは周囲を全く気にしていない。かれは眼鏡を掛けているのだろうか。

 帰ろう。

 家に帰ろう。

 私は踵を返して来た道を戻った。

 けれども家の前に辿り着いた時、再び凍り付いてしまった。私の家が影に覆われている。あのぼやけた人影が大勢張り付いているような有り様だ。

 眼鏡を掛けると、いつも通りの我が家。

 眼鏡を外すと、巨大な影。

 呆然としていると、なにか声が聞こえてきた。何を言っているのかよく分からないが、声が。匂いも。肌にまとわりつく湿気とは違うが、なにかじんわりした空気感のような感触も這い寄ってくる。なにか、分からないものが、なんとなく、分かる。

 私は眼鏡を掛けようとしたが、けれども今。

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