空飛ぶ心臓
ふと右の手首が痒くなってかぶれでもしたかと腕時計を外してみたら、ぽろりと手首から先が落ちた。痛くはない、血も出ていない。手首があったところはなめらかな曲線を描く半球状になっていて、はじめからそうだったかのように見えなくもない。
右の手首はと言えば地面に落下すると思いきや、猫のようにからだを捻らせて四本足で器用に着地した。親指と人差し指が後ろ足、薬指と小指が前足。中指は頭部。突然檻から解放された獣のように、きょろきょろと周囲を見渡している。
あまりのことに声が出ない。
私の右手が。
呆然と注視していると、やがて背後を振り返った右手と目が合った。右手に目はないが、なんとなくわかった、視線が合ったのだと。
戻ってきてくれたりするのだろうかと間の抜けたことを考えていたら、右手はその真逆のことをしでかした。すなわち、逃げた。
一拍遅れて、私はそれを追い始めた。
フローリングの床を右手が駆け抜ける。私はそれを追い掛ける。
私の右手なのに私と似ても似つかない恐るべし速さだ。直線速度はさほどでもないが、トップスピードを維持したまま右へ左へ縦横無尽。テーブルの下、椅子の脚の間をスラローム走行で抜けていく。
リビングから台所、玄関へ。
行き止まりだとほっとしたのも束の間、右手は大きくジャンプし、ドアノブを掴んだ。ああ、そうだ、私の右手は私の右手だったんだ!
わずかな間に当たり前の事実を忘れていたが、私の右手は私の右手だから当然ドアノブ捻って開けることができるのだ。
ガチャリと音を立ててドアが開く。鍵を掛けることを忘れていたせいで捻っただけでドアが開いてしまった。こんなことならちゃんと施錠を確認する癖を付けておくべきだったと後悔しても、もう遅い。右手は外に飛び出した。
右手を追って裸足で外に出ると、空飛ぶ心臓にしたたかに頬を打たれた。
向かいの家の屋根を足が跳んでいる。地面を這う大腸が側溝に落ちた。たっぷり酸素を吸った肺がふわふわと空に浮いている。男性器が女性器が襲われている。コンクリート壁に張り付いた唇が歌っている。
自分の体の一部を追い掛ける人もいるが、凶暴な肋骨の反撃を受けて大怪我を負っている人がいる。情どこからかけない悲鳴が聞こえる。上手くいっている人は見当たらない。私も右手を見失ってしまった。
まだ左手が残ってる分、私はマシだと思うべきなのだろうか。
混乱しすぎて気が抜けたせいか、なんだか頭が痒くなってきてしまった。反射的に頭を掻いて、いや、これはまずいと思うも、止める手立てはなく、そして今。
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