数秒後に潰される運命の虫

 ふと、夜空を見上げると月が目玉だった。

 一旦視線を横に逸らして、もう一度見る。いわゆる二度見を行う。

 夜空は街の光を反射して、漆黒とはいかずほのかに明るい。雲はないが、星の数は少ない。そして本来月があるべきところに眼球が浮かんでいる。血管が浮き出た白目と月のような金色の虹彩、なにかを凝視するように縮小した瞳孔。

 たとえば気球のような人工物が飛んでいるのかとも思ったが、あれは途方もなく大きなものだ、という妙な確信を抱く存在感があった。地球より大きな巨人がぽっかり開いた穴からこっちを覗いているような――こっちを――

 こっちを?

 私は巨大な眼球と目が合っていることに気が付いた。

 吐き気を催して、体をくの字にして、胃の中のものを全て戻してしまった。

 おそるおそるもう一度空を見上げると、やはり私を見ている。

 私は恐ろしくなって、鞄を放り捨てて駆け出した。

 街の中を狂ったように走り抜ける。サラリーマンやこれから飲みに行く大学生、塾帰りの高校生とすれ違う。カラオケやゲームセンター、居酒屋、雑貨店の前を通り過ぎる。赤信号も無視して。なのにクラクションを鳴らされることもない。

 だれも空を見ていない。気付いていないのか、それとも見えていないのか。私だけ見えているのか、私は狂っているのか。そんなに慌ててどうしたんだ、空に浮かんでいるのはいつも通りの月だとだれか言ってくれ。

 私は狂っていて、あんなものあるわけないのだとだれか言ってくれ!

 私は背後を振り返らない。

 背後から、焼け付くような巨大な視線を感じ続けながら走り続ける。

 足を止めたら終わりだ、追い付かれたら終わりだ。

 巨大な目玉が私を追い掛けている。

 喉が焼け、肺が喘ぎ、心臓が悲鳴を上げる。限界を超えて動かし続けた手足が鉛を注入されたかのように重くなる。叫びたいのに、声が出ない。数秒後に潰される運命の虫は、こんな気持ちなのだろうか。

 足がもつれた。頭上から影が降ってきて、そして今。

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