第35話  夢

「ここは……」

 

 少女は見覚えのない部屋で目を覚ます。


「私は一体」

 

 なにも思い出せない。自分の名前さえも。ただ長い夢を見ている途中だった。そんな気がする。

 ふと、前髪で隠れた自分の顔を触る。ごつごつとしていて冷たい異様な感触だ。よく見ると自分の手足はひどく蒼白でまるで死体のよう。自分は死んでしまったのだろうか。

 いや、違う。ここは地獄ではない。カーテンから朝日が差し込んでいる。その隙間から青々と茂る芝生が風に揺れているのも見える。地獄には太陽もなければ、生命もない。風も吹かない。

 不思議と少女には、もしかしたら天国なのではないかという発想すら生まれなかった。

 

「ん。あ、目が覚めたの?」

 

 ベッドの横で突っ伏して寝ていた金髪の少女が目を覚ます。

 

「あなたは……」

「私はアリス。クラウゼ伯爵夫人。ここはクラウゼ伯の御屋敷よ」

「あなたは貴族なの? なんで私が貴族の屋敷に。そもそも私は……」

 

 少女は混乱する。自分は貴族とは縁遠い人間だったと感覚でわかる。ベッドのある寝室になじみがないからだ。彼女の生まれた場所はもっと暗くてじめじめとしていてごつごつだった。この金髪碧眼の人形のような輝かしい少女は、自分とは真逆の存在に見えるが、なぜか親近感がわいた。

 

「もしかして記憶がない? 昨日のことも覚えていないの?」

 

 アリスが尋ねる。

 

「覚えてない。思い出せない。なにも」

 

 少女は激しく震える。右目からだけ、涙が流れる。

 

「大丈夫。怖がらないで」

 

 アリスは少女をやさしく抱きしめ、頭をなでる。

 

「あなたは何か知っているの?」

「なにも知らない。私たちはカタコンベで倒れていたあなたを連れてきただけ」

「うっ。カタコンベ……」


 少女に鈍い頭痛が走る。

 

「どうして、知りもしない私を……」

「友達になりたいから。それじゃあだめ?」

「友達……」

 

 記憶のない少女には友がいたかどうかはわからない。ただその言葉に今まで感じたことのないような温かみを感じる。

 

「友達、私はアリスの友達?」

「そう友達」

 

 アリスにとって初めてできた友達らしい友達だ。

 そして少女にとってもまた初めてできた友達だ。

 

「呼びにくいから名前を考えよう」

「名前……」

「イーディス。イーディスはどう?」

 

 アリスはぱっと思い浮かんだ名前を言った。特に意味もいわれもない。ただ何となくその名が浮かんできた。神聖エルトリア帝国ではあまり聞かない名前だ。

 

「イーディス。いい響き」

 

 少女は気に入ったのか、右半分の顔を動かして、不器用に笑った。


 それからというものアリスの帝都での生活は豊かになった。

 半妖半人のイーディスが人目に触れぬよう屋敷の外に出るようなことはないが、二人はいつも一緒に遊んでいる。

 年齢に似合わず、ストイックで大人びていたアリスが、ようやく年相応に遊び、ふざけ笑うようになった。

 

 魔王崇拝集団メフィストのカタコンベ事件の後はこれといって目立った騒動も起きず、帝都は帝国起源祭への準備で活気づいている。

 クルトやフランツは微笑ましい二人の様子に和やかな気分になりながら、書類仕事やルイーゼを迎え入れる準備に取り組み、忙しい日々を過ごしている。

 シャルロッテはというと、さらに強くなるために、リアに加えて最近では、カタコンベ事件で知り合った銀翼騎士団団長のテオバルトと稽古に励んでいる。

 

 しかし、そんな静かな日々は長くは続かず、またしても一枚の手紙によって終わりを迎える。

 ペトラから受け取った書状の封蝋の見てクルトはうなだれる。炎華の紋章だ。

 

「数日後につく。準備して待て、か……」

 

 クルトは思わずため息をつく。いつかは来ると、身がまえていても、いざ来るとなると気が重くなる。彼女の到来は嵐の到来を意味するのだから。

 

 ルイーゼがついに帝国起源祭に出席すべく帝都に来る。

 帝国起源祭の開催まで、あと二週間に迫っていた。

 

 この日、いつものようにイーディスとアリスは部屋で一緒に本を読んでいた。

 イーディスはここには運ばれてきたときから体調がすぐれず、ベッドから外に出ることはあまりない。部屋で一人になりがちなイーディスと一緒に遊ぶためアリスは暇さえあれば、何か持ってきてイーディスのいる部屋に入り浸っていた。

 

「もう、こんな時間。ごめん。イーディス、こんな時間まで付き合わせちゃって」

「いいの」

「じゃあ、今日はもう寝るね、また明日」

「うん……」

 

 アリスは部屋を手早く片付けるとイーディスを寝かしつけ部屋の明かりを消す。

 

「おやすみ」

「おやすみなさい」


 アリスはイーディスとの別れを惜しみつつ自分の部屋に戻る。

 最初は友達というものがよく理解できなかったイーディスもアリスとの別れると落ち着かなくなり始めていることに気づいた。

 

「これが悲しい。知らない。知っていたけど忘れていた」


 イーディスは天井を見つめながら考える。

 自分が何もであったのかを考えていると感情というものよく思い出す。

 そのたびに胸が熱くなったり冷たくなったりする。

 

 思い出さなければならない氷のように閉ざされた記憶も溶かされつつある。

 いずれすべてがわかる日が来るだろう。イーディスは再び目を閉じ、意識を手放した。

 そしてそんな日は突然やってきた。

  

 眠らない都市、ヴァッサルガルト。繁華街は夜中でも月が見えないほどに明かりがともり、煌々と照らされているが、カイザーブルクに近い、貴族街は静かで落ち着いている。

 貴族街でも大きな屋敷の屋根の上。小さな影が、月明かりを避け、影に身をひそめる。

 幻影魔法で身を隠した少女は月明かりでさえも見つけ出すことは不可能だ。

 半妖半人の少女はじっと耳をそばだて、屋敷の内部の様子を探る。

 一瞬、何かを気配を感じると肩が冷たい銃弾で貫かれる。


「くっ……」


 少女は、短剣を引き抜き、周囲を警戒する。

 痛みが少女の冷静さをかき乱すようなことはない。少女は痛みを感じないからだ。ただ幻影魔法が破られた。その事実に混乱する。

 敵はどこだ? 銃弾の音はしなかった。これでは敵の位置の特定は難しい。

 何らかの魔法的な細工がなされた銃と弾丸なのだろう。撃ち抜かれた左肩が凍りついて、使い物にならなくなってしまった。


「あらあら、盗み聞きなんてダメよ。私の妹は、一生懸命なの。遊びたいなら私が付き合ってあげるわ」

 

 敵は冷たい微笑を浮かべて堂々と現れた。青色の髪に暗い瑠璃色の瞳。月がよく映える美女。


「どうやって私の幻影魔法を」


 少女は思わず疑問を口にしてしまう。


「うーん。そうね。においかしら。あなたからはしないの。汗のにおいも、血のにおいも。人間なら誰しも、緊張の中で発してしまうにおい。でもあなたは違う。死の匂いがしたわ。見つけやすくて助かったけれど」

「完璧にすべてを消していたはず」

 

 少女は死霊魔法で作られた優秀な密偵だ。そこら辺の人間とは根本から違う。

 幻影魔法で目をくらまし、においも心臓の拍動も呼吸の音もそもそも少女には存在しない。


「確かにあなたからは心臓の音も呼吸の音も聞こえなかった。不思議よね。どんなに訓練を積んでも完全には消しきれないはず。それこそ死んだりでもしない限りはね」

 

 女はライフル銃を構える。


「それが逆に不自然よ。次があれば、そこを注意すべきね」


 女は銃口に魔法陣を展開すると銃弾を放つ。魔法陣を通り抜けた銃弾は、魔法を纏い、一直線に少女へと宙を滑る。

 発射音も煙も光も消された弾丸は、夜の闇に紛れて、いつ発射されたかはわからない。

 少女は女が、トリガーを引いたかすかな音を頼りに、銃弾の位置を予測。人間離れした反射神経で、銃弾をはじき返す。

 

「残念、惜しかったわ」

 

 銃弾をはじき返したのもつかの間、少女の体に二発の銃弾が命中する。女はあの短時間に三発の銃弾を発射していた。

 

「まさか……」

 

 弾丸は確かに少女の体を貫通したが、血は一滴も流れない。

 しかし、少女の体は撃ち抜かれた傷口から、少しずつ凍りついていく。相手は相当の手練れ。体が動かなくなってしまえば勝負にならない。少女はすぐさま幻影魔法で身を隠すと、その場から逃走した。

 

「逃げ足が速いのね。深追いはよしましょう。かわいいかわいいリアちゃんが、あの金目に襲われたっていうから来てみたけど。あれはマギアマキナじゃないわ。一応、報告ね」

 

 美女は銃を背負うと再び闇夜に消えた。

 


 

「申し訳ありません。お嬢様」

 

 数日後、皇妃ラミリアのもとにボロボロになった少女が帰ってきた。

 

「ずいぶんとのんびりとしたお帰りですね」

 

 ラミリアは少女の方を見向きもせず、膝枕している皇帝ヘルマンの頭をなでる。

 

「フレイヘルムの犬にやられましたか」

「はっ」

 

 ラミリアは立ち上がると満身創痍でひれ伏す少女を蹴りつける。

 少女は嗚咽を上げることも顔を歪ませることもなく、蹴られた方向に吹き飛ぶ。少女は痛みを感じない。

 ラミリアは一息吐くと再び口を開く。


「まあ、いいでしょう。役立たずには役立たずにふさわしい使い方がありますから」

 

 力の抜けた少女を無造作に拾い上げると地下深くへと降りて行った。


「……」 

 

 真夜中イーディスは目を覚ます。

 すべて思い出した。

 自分が何者でここで何をするべきなのかも。


 しかし、彼女の心臓はピクリとも動かず、呼吸もせず、その体は汗一つかくことはない。

 なぜならばもう半分死んでいるのだから。

 

 名前など最初からなかった。いや、生きているころならばあるいはあったのかもしれない。しかし死んでからは名前などというものは捨てた。


 イーディスはぐにゃりとベットから飛び起きると、わずかばかりに残った力を使い、その身を闇夜に溶け込ませる。

 そして隣の部屋ですやすやと眠る。アリスの枕元まで音も気配も消して忍び寄る。

 

「私はお嬢様の犬。感情はなく。ただ与えられたことを実行する」

 

 イーディスは魔法で骨の短剣を作り出すとアリスの首に刃を向けてじっと握りしめる。

 無感情にただ忠実にイーディスは任務をこなしてきた。

 

「……私はもうなにも」

 

 イーディスは命令など与えられていなかった。

 あの場で廃棄される予定だった。自分は任務に失敗し、利用価値を認められず主人に捨てられたのだ。

 だが、それでもよかった。もとは死ぬ運命。捨てられた子犬のように、路地裏で倒れていたその少女は、あの美しい人に助けられ、魔法で新たな命を吹き込まれた。

 このまやかしの命はもう自分のものではない。主人のものだ。それを主人がどうしようとかまわない。

 

「……さようなら。アリス。私の友達。ありがとう」


 イーディスは骨の短剣をそっと枕元に置くと再び闇に消えた。

 愛すべき主人にもう一度会うために。

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