J

 街がまた虫眼鏡のようにずれては歪みを露にする。どこまでもいろのない街並みに、僕は思わず目を瞑った。もう何回目だろう。正視に堪えないどこかを見て、流す涙も、とうに枯れてしまったような錯覚を今日も憶える。だが僕の目はまだ潤んでいる。一本の煙草に火をつける。モノクロームの中で赤く燃えて焼ける今日の火は煌びやかで、美しく輝いている。それを見るのが、僕の愉しみだった。

 汽笛と車輪が影法師を曳き殺しながら近づいてきた。

 ああいっそ死のうか。この路上のど真ん中の線路に立って、撥ねられるならいっそ悠々と。

 路上の塵箱。通り過ぎる人間達。錆付く煉瓦。くろずんだ街灯。鐘。林檎達。……体の良い冗談だ。

 僕は煙草の煙を吐いた。すると背後で砂埃が舞って、煙も紛れてはいになってしまった。切なそうな顔をしたばらいろの列車が通り過ぎたからだ。僕は煙草を放り投げた。

 気がつくと街角は奇妙な形に湾曲していく。

 僕が見ている煙草の先は本当に赤かったか。

 空が少しやけた。僕は歩いた。最初から歩いていた。どれだけそうして街を幾つ越えても、どこもどこも感傷に耽って、同じような顔をしていた。そんな景しきに窒息しそうになって、生き長らえる為に目を腫らし続けた。涙脆いと嘯く程に、赤く染まっていく。

 路地裏に紛れ、僕は座り込んで眠ろうとする。はいと土と果物と、何かの生き物の匂いがする。暗闇はよかった。まだしろっぽいはいいろの空気が良かった。煉瓦雑じりのそよ風が、頭の奥をとろけるように痺れさせて、吐息を運んでいく。胸を打たれるようだった。

 目を閉じていると、左手首に誰かの柔らかな掌が触れる夢を見た。嬢ちゃんの手触りに似ていたし、動物のようでもあった。

 遠くで猫が低く唸っている。昔々、路地裏に面した窓から飼い猫を一匹、逆さに放り投げたことがあった。怪我もなかったのは民家の十字窓だったからだ。だがその様子は狼だった。……その時の鳴き声にそっくりに呻いている。所詮幻聴に過ぎないから、間違っていないはずだ。

 掌の幻は少しして失せた。

 眠り直そうとしたのを妨げる物がある。好い薫りと共に額に命中した、案外痛いものだった。一個では止みそうにない予感を糧に目を覚ました。溶けだした夢と現実の境に逢うことは、今日は到底叶わないと知る。まだらなくろい染みが目の前に浮かんでは消えて、苛々していた。街はささやかにだって変わるはずがないと、通り過ぎる人間達だろうが嬢ちゃんだろうが僕だろうが知っている。期待は無意味だ。

 場違いとしか思えない林檎がある。豊かで赤く丸い、自分とは無縁の果物だ。はいかぶりの地面に転がってよく映えている。重力に引っ張られて僕の額に落ちたのだろう。

 ちょっと。そう言う声がする。林檎がまた一つ落ちた。嬢ちゃんのように甘酸っぱいいろをした声だった。ただ、嬢ちゃんは本当に僕のすぐ傍にいた。その嬢ちゃんは僕に額を近づけ、両手と膝を地につけて、僕を見ている。

「わたしの顔が目に見える?」

 僕は何も声に表さない。

 嬢ちゃんは落ちた二つの果物を拾い上げ、首にかけた籠に投げ入れた。十二かそこらの嬢ちゃんだったが、随分と頬を赤くしていた。

「あなた、口が利かないの?」

 僕は笑った。嬢ちゃんは僕を真似たらしい表情をして言った。

「嘘つきね」

 悪かったな。僕はそう口に出して言った。

「だったら、こんな所からは是非とも離れましょう。凍え死んでしまうわ」

 嬢ちゃんは僕の目の前で、これ見よがしに手袋を両の手に嵌めた。僕の両肩を立ち上がらせたいのか強引に掴む。そんなことは出来る訳無いが嬢ちゃんは笑みを崩さない。僕は唐突に嬢ちゃんが可哀想に見えて、立つことにした。すぐさま僕は煤も払わないまま、嬢ちゃんに引っ張り出された。

 路地裏で不幸を呼んでいたのは、一匹きりのくろい猫だった。それを背に、僕は煙草を取り出した。嬢ちゃんは両手を自分の腰にあててどこかの空を睨む。煙草は身体を冷ますのだと聞いたことがある。それならいっそのこと雪になってみたい気がした。ただ溶けていくだけの命に。

「寒いでしょう」

 嬢ちゃんが尋ねた。 

「俺はこれがあるから死にゃしねえよ」

 僕は煙草を掲げてそう言った。嬢ちゃんは憐れむように僕に振り返って笑った。

「出すものが間違っているわ。……何にしてもいい大人が浮世離れするものね。そんな小さな火で暖をとれるなんて、本気ならなんて可哀想なの」

「別に、それで構わねえんだ」

 嬢ちゃんは不釣り合いな余裕で微笑んだ。

「そうなのね。だったら、わたしと一緒なのね」

 嬢ちゃんは僕に右の手を伸ばした。僕は退く。掴んだのは、僕が右の手に持っていた煙草の先端だった。

「火事になるわ」

「火傷するぜ」

 首を振って掌を僕に翳す。口元を歪めた顔が僅かにあお褪めていた。見せつけた手の平の皮膚の中心には、焦げた様な埃の跡が残っていた。その中から煙草の燃え残りがぱらぱらとこぼれ落ちた。

「これっきりということよ。このあたりの風がどのくらい乾いているか、知っている?」

「渇いているだろう」

「ふうん。……あなたの名前は?」

「自分が名乗りな。J」

「つまらないわ。冗談ね。……ジョーカー、かしら。トランプの中で一人仲間外れ。そんなところよね」

「どうかな」

「それなら、私はD。オズの魔法使いに会いに行きたいの」

 ドロシィ、か。本当につまらない。それなら笑えばいい。それだけで全てが済む。無意味でいい。良いも悪いもなしに、言葉など滅んでしまえばいい。

 赤い光の珠が粉々に割れて、空から道行く人間達を突き刺す。火事を空は愛すのか。焼き尽くされることを空は望むのか。

「愚かな空。もうすぐ夜が襲うでしょう。灯が消えるから、頭を冷やしているのね。それを忘れるから、朝焼けの日は代わりに雨が降るんだわ」

 街灯がましろく地平線の先から灯っていくのを見た。眩しくて煌いていて、そのせいで何も見えやしない。まだ泣けそうだ。嬢ちゃんのひとり言の傍には誰一人として居ない。僕の手の先はかじかみ始めた。誰も僕に手袋を貸してはくれず、僕が貸してやりもしない。言い難いほど素敵なひとりきりであれ。

 勝手に言ってろ。

 空に崖が出来たなら、いつでも落ちて行こうとするだろう。海に穴が空いたなら、どこでも溺れて死のうとするだろう。だが、そんな考察はやり切って、とっくの昔から、ひとり言になる場所しか残されていなかった。

「J、同行してもいいかしら」

「嬢ちゃん……じゃねえや、おい、そんな顔しやがって」

 嬢ちゃんで何が不満なんだい。むしろ誉めすぎてやしないかい。

 嬢ちゃんと呼んだ途端、嬢ちゃんは酷く口元を歪めて変な風に笑った。僕は胸の中で唾を吐いた。

「……D。言っておくが俺は何にも知らねえよ」

「いいの。知らないと思ってあなたを起こしたんだから」

 

 嬢ちゃんは僕について歩いた。僕は街をただ歩いた。街灯がしろく続く。まるで迷路だ。そのうち、ありもしない雪が、街灯の隙間に見えてくる。雪と街灯とはそう違わないものだからだ。

「知ってる? 今日の季節を」

 嬢ちゃんは問うた。僕は気にしたこともなかった。

「わたしも知らないの」

 だがしろの中に、ぽつぽつと赤がある。煙草の火。列車。太陽。嬢ちゃんの履いている靴。嬢ちゃんの頬。籠の中の櫟。……林檎達。

 感傷ご愁傷さまだ。

 太陽が泣きたそうに輝いている。沈むのが惜しいと言っている。太陽が泣こうが笑おうが、街は相変わらず一つの誤差も生み出さないまま、僕を直視する。このまま泣き続けて、いつしか血の涙に変わるのを待つように、日没へ向かえばいい。

 嬢ちゃんが何かを見ている。その世界に僕の舌打ちは入らない。僕の世界に嬢ちゃんの瞼の下は映らない。

 そのまま無言で、無表情だった。時折、籠の中の物を齧っては、嬢ちゃんはその度に、頬の熱を確かめるように両の手で顔を覆った。黒い路上に重なる影に幾つかの人間達の巣のしろい澱みが混じり、街灯に羽虫が大人しく群がって、うつくしくひかって死ぬ。燐寸を燃やし、行灯代わりに石榴の枝を焼きつけて待っている。そうして嬢ちゃんは僕の手を引いた。

「Dは捨てられたのかい」

 そう言うと嬢ちゃんは幾度か瞬き、夜空に顔を上げ祈った。星の跡が映る前髪がはさりと揺れ動き、組んだ手の中で焦げ落ちる石榴の枝から、火の粉が僕の靴に一片。

「あなたの頭の中ではね」

 僕の方に少し向けた顔は笑っているように見えた。僕は嬢ちゃんから枝を取り上げ、消えかかる赤いろを払った。その後で尚更深くなる夜にそれを掲げた。

「魔法使いなんて、いないほうがいいのよ」

 嬢ちゃんは、手を組んだままそう呟いた。

 オズの魔法つかいは居ない。ピエロはとうに炎に巻かれ、あるのは狂いきったジョーカー。見放されたまま、十字架に括られ生きながらえる。変えられない事実は、嬢ちゃんが祈る限り、祈るふりをする限り、神様はあるということだ。

 僕は適当に寝歩いた。夜になれば、赤みも歪みもくすんで消える。それでも朝を欲しがる僕は息を止める。

 坂道の階段の隅に座って、懐から煙草を抜き取った。横に座った嬢ちゃんは、籠の中から最後一つの林檎を持ち上げて、じっと見つめていた。

 僕は二本の手の中から、しゃぼん玉のような水晶を宙に浮かべて見せた。その一つには、櫟の実を閉じ込めてやった。くろい街並が映り込んだ玉は嬢ちゃんの鼻先で浮かび、弾けて、涙に濡れた様な赤い櫟を落とした。水晶は地に落ち、泡となって溶け合い、夜の風に呑まれた。全てがなくなると同時に、煙草の火が消えた。

「Jが、オズの魔法つかいなら……」

 嬢ちゃんは冷めたまなざしでそう言った。その後、寝入る様に眠った。


 涙の雫のしろい輪郭が、くっきりと沈黙に抜け出す。気付いたときには手遅れだった。街並が曲がりくねった。世界は歪み、さらなるモノクロームになった。彩りを失い続け、姿形も判らない。冷たい石段に燻って何かが落ちていく。部屋一面に敷き詰められた鏡のように、立体感をなくした街灯が僕を取り囲む。涙が止め処無く溢れて、手で口を覆った。

 満月だ。太陽の偽物の癖に、泣きたそうに輝く。眩暈を覚えるくらい、今更そんなに嬉しいんだ。性懲りもなく直視し続ける、歪んだ街並が消えない。

 ああ。泣きたいんじゃねえ。笑いたいんでもねえ。俺も連れて行ってくれ。嘘をついてくれ。笑ってくれ。


 その時はただ朝だった。

 夜明けは、必ずしも訪れはしない。いとも簡単に飛び越えて、朝がただ立ちはだかっていくことがある。それなりに幸運な話だ。夜明けは、数多の感情を洗い流していく。そしてわざわざ歪みをむき出しに見せつける。それを味わうのは堪ったものじゃない。

 朝霧に霞み汽笛が聞こえ来る。

「J」

 嬢ちゃんは俯いて目も合わせないだるけさで僕に聞く。

「わたしの髪は、何の色?」

 チョコレート。

「わたしの目は?」

 海。

「あの林檎は?」

 赤い。

 そういうことだ。はいは茶。くろは青。はいは黄。くろは緑。はいは紫。くろは黒。しろは白。赤は赤。

 冗談だ。世界はモノクロームで、ただ一つ、赤がぽつりと舞い散る。

 嬢ちゃんが急に顔を上げて、僕を睨みつける。それが何故か悲しげに思えた。嬢ちゃんは堪りかねた風情で、押し殺しながら叫んだ。

「……間違っているの。あなたの目は何色だと言うつもりなの。わたしの靴も、あなたの頬も、全部、赤いでしょう?」

 

 僕は笑った。あんまりなくらいに乾いていて、僕さえ驚いた。嬢ちゃんはひょっとしたら泣いている。

 冗談の度が過ぎたかもしれねえなあ。もらい泣きは要らねえのに。さて、今くらいは同情してやるか。

「悪いな、泣かせちまって」

「泣いているのは、あなたの方よ」

 涙に滲んで、街が笑っているのが目に映る。言葉が沈んでいくのを覗き見ていた。相変わらずの無表情で泣いている無情。ふざけていたのは、ずっと前からだった。

 服の中から何か取り出す音がする。座り込んでいる僕の顔を、嬢ちゃんが覗きこんでいた。大きくて少し優しい二つの目。手のひらを差し出している。その上にあるものを僕は取って、鼻の上に載せてみた。

「眼鏡よ」

 嬢ちゃんは言った。

「これで見えるかしら」

「……いや、特に」

 モノクロームと赤。

「あのね。わたしは赤毛。わたしはヘーゼルの瞳。あなたは黒髪。あなたの瞳は赤いの」

「そうかい、分かったよ」

「……それとね、青林檎なのよ」

 

 終いだ。

 街並は昔から変わらずいろなどなく、遠き日に見えていたものを何年もかけて忘れた。ただただ滲んで渦巻いていた赤も、今は赤だと証明できなくなった。見えていたものはあかだった。ぼやけ、歪んだ、無情な街並に目は伏した。

 いつ見たか確かでない夢。しろくろ。病棟に幽閉され、空気を吸おうとした屋上で、しろい服を着た看護婦が振り向けば、彼女の華奢な手に持った煙草の煙を吸わされて、僕は咳をした。どう見ても可愛くはないごっついその姉ちゃんは僕の居る辺りを、死んだ魚を見るような目で見ていた。病院は火事に遭った。逃げ出す序でに抜け出した。流行病に罹ってうすぐろい隈の出来た奴等が逸っていた。空気がやけに熱を帯びた、少し焦げた、その時の光景を思い出の一つにしている。


「わたしは、捨てられた子供なんかじゃないわ」

「……」

「わたしが捨てただけよ」

「家出ってか。そうらしいな、D」

「だから、わたしはわたしの家に帰るの。それ、あげるわ」

 嬢ちゃんは僕の顔を指さし、それから籠をきゅっと抱きしめて背を向けた。僕は言った。

「オズの魔法つかいに会わなくていいのかよ」

「そうね。ねぇ、あなたは会いたくない? そんな望みがあるのかしら?」

「さあ?」

「……バイバイ、J」

 僕は微かに笑っている。嬢ちゃんは振り向かなかった。他所の国に行く汽車のように、空しく、居なくなった。

 僕は眼鏡を外して、ただ鈍くなった腕を振り下ろした。最後の煙草が虚空に舞う。

 変わらねえなあ。

 気さえ触れそうになる無感情に、ノスタルジアに浸かってしまえ。

 嫌がっている。

 街を見た。正視できない歪んだ街並には朝のしらしらとした靄がかかり、まやかしのあかを遠くまで奪い去る。きっとすぐに、この世界は死んでいく。ざわざわと喧嘩するような音いろが響いてくるまで。

 また街並が一つ滅ぶ。何もかも冗談だ。逸らしても、逸らしても、泣けてくるんだろう。見つめても、見つめても、笑えてくるんだろう。ジョーカー?

 途絶えることのない涙にまどろむ。僕は立ち上がり、眼鏡を掛ける。もう一度。林檎の薫りが、どうしようもなく綺麗で、よく熟れた色だった。そしてまた一歩ずつ、街を踏みつけ始める。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る