第2章 漂着者


 仁科正義は再三にわたって繰り返される問いに辟易し、ついに左耳に装着したイヤホンマイクを外した。


「おいおい?」


 非難の視線を向けてくる安住康平へは肩をすくめ、「後は頼む」とゼスチャーすると、ポケットからマルボロのパッケージを取りだした。


「・・・っているのか?

 訊いるのかライフルワン。もう一度状況を繰り返せ。送れ」


 なおも、指揮を執る白木警部補のヒステリックな追及は続いていた。

 事の発端は仁科の「状況・・・状況は、・・・状況ロスト」という報告に白木が激昂したからなのだが、配置を共にしていた安住にとっては、極めて的確な報告だと思っている。

 その「状況」は白木も監視モニターで見ていたはずであり、お門違いな非難に呆れた仁科を、安住が責める道理もなかった。


( まあ、こういう時にバカ騒ぎするあたり、温室育ちのボンボン。って感じだよな )


 内心で白木への愚痴を漏らしつつ、安住も諦めたような表情でプローン ( 伏射 ) 姿勢から立ち上がった。


「俺にも1本くれ」


 安住の要求に、仁科は無言のままパッケージを渡した。それから着火したジッポライターの炎を差しだす。


 チュキンッ


 ジッポライターの閉じる音。無人の屋上だからなのか、その音色は妙に大きく響いて訊こえる。

 安住は深く煙を吸い込むと、ソレを大きく吐きだした。


「溜息みたいな吸いかただな?」


「それが可笑しいか?」


 仁科の問いに、安住は自嘲的な笑みを浮かべて問い返した。 


「いや、・・・普通だ」

 

 答えた仁科の視線は中空の、夜空を見上げて彷徨っていた。


「むしろ、溜息程度じゃ、収まらないさ」


 仁科は夜空を見上げながら、今度は労わるような口調で補足した。

 そして、唐突に安住と視線を合わせる。


「今、思ったんだがな。お前がいて良かったよ」


 仁科の指摘に、安住は笑顔で応えた。仁科の考えは自分も思っていたことだからだ。


「最初は俺もそう思ったよ。

 もしも俺が1人だったら、キチガイか、頭がおかしいと思われてた」


「そうなんだが、それでも・・・。」


 そして、無言になった仁科の思考は、安住も共有している問題だった。


「2人とも頭がおかしいって事に、・・・なるだろうな」


 安住は床のシンダーコンクリートに鎮座するバレットM82A2アンチマテリアルライフルの脇に立ち、鉄柵にもたれかかった。

 校庭を見下ろすと、トラックラインが引かれたグランドの一角が、綺麗に無くなっているのが伺える。

 元は体育館があった場所で、その部分の地面だけが、半球状に地面ごと消失しているのだ。


「もっとも、ソレは白木だって同じことだけどな」


 安住は「気にするな」という仕草を交えて仁科を励ました。

 この2人こそがコールサイン「ライフルワン」の狙撃1班だった。

 朱里冬華による執念のリクルートで編入された狙撃手の安住と観測手の仁科は、他の狙撃班とは違い、公安所属の刑事である。加えて犬塚班のメンバーでもあった。


「上層部への報告か?」


「そうさ。結局は『事実』を報告するハメになる。

 白木がキチガイって事になれば、今回の作戦要員、その全員がキチガイってことだしな」


「それが、・・・縦社会ってヤツだもんな」


 共犯者が増える見込みを確信したからなのか、仁科の表情にも笑顔が浮ぶ。


「気に入ってたんだが、『犬塚班』も、これで終わりだな」


 言いながら苦笑した安住だったが、その目は笑っていなかった。

 SAT隊員を中心に、多大な殉職者をだしてしまった。当然、厳しい責任追及は行われるだろうが、それでも、冬華さえいれば、難局を打開するウルトラCを発案してただろう。その冬華は・・・


「なあ、主任とか朱里警部って・・・」


「生きてるさ」


 仁科の不安を、安住は即座に否定した。その即答が意外だったのか、嬉しかったのか、仁科の顔には皮肉ではない純粋な笑みが浮かんでいた。

 安住は理屈ではない部分で上司達の生存を確信していた。さすがにショットガンで撃たれた新米は死んだかもしれないが、なぜか犬塚や冬華、SAT隊員や高校生達の生存を、安住は確信していた。そして、その心意気は仁科にも伝わっていた。


「なあ、なんでそう思う?」


 身を乗りだす勢いの仁科から視線を外し、安住は夜空を見上げた。まるで、先刻までの仁科のように。


( そうさ。アノ光は天空へ昇っていった )


 体育館内部の発光現象は急速に拡大していき、最後は街中を包むように広がった。  

 すでに光学照準器はホワイトアウトしており、支援狙撃を断念した安住は直後、一気に収縮した白い光弾が夜空へ駆け上がるのを目撃していた。


「理屈じゃない。でも、絶対に生きてるよ」


( 朱里警部。今度は宇宙でも、征服するつもりですか? )


 これが映画ならば、流れ星のひとつでも演出されそうな場面だったが、安住の感慨を他所に、相模原の空に、星のきらめきは少なかった。




 日時不明、体育館


 弘樹は激しい頭痛によって、その激痛のお陰で意識を覚醒していた。その痛みは視界が歪むような疼痛を伴い、表情や姿勢にも連動し、弘樹を狂わせる。

 波状的な激痛に声もだせず、加えて猛烈な吐き気まで襲ってくる。喉と腹に力を込めて抗っていたが、所詮は虚しい抵抗だった。

 気力を振り絞り、なんとか腹這いから四つん這いに姿勢を変えたが、結局は、床へと盛大に吐くことになった。


( マジキぃモっ・・・て・・・痛すぎだろ )


 思った時には、再び盛大に胃液を吐きだしていた。胃液の酸味と悪臭が、味覚と嗅覚を不快に刺激する。

 嘔吐の不快感と滲む涙によって霞む視界。ただでさえ定まっていない平衡感覚に、突き刺さるような頭痛。

 弘樹は獣のように唸りながら、床を転がった。


( サイアクだ。マジで頭が割れちまう )


 転がりながら、なおも胸中で叫び続ける。しかし、その回転は肩口に当たった障害物によって停止する。

 弘樹は冷たいコートの感触が激痛を幾らか緩和してると感じていた。だから、障害物の存在は大問題だった。

 随分と苦労して視界を巡らせて、片目だけを大きく開いて障害物を確認する。


「・・・!」


 元々声もだせないのだが、弘樹は脳内でも絶句しすることになった。

 暗闇の中、その障害物は人間だと確認した。しかも、全身に銃弾を浴びて血だるまとなった、作業服の外国人だった。


( そうだよ。・・・そうだった )


 最初は少しずつ。やがて怒涛のように記憶が鮮明に蘇る。

 銃撃戦と爆発で大勢が死んだ。轟音と硝煙。炎と催涙ガスで滅茶苦茶になった体育館で、木箱や車の陰に隠れて・・・。


( アノ人・・・犬塚っていうダンディコップと、ベラ・・・ラベンダーの・・・。いや、リサだ。リサとカレンが・・・ )


 記憶の回復と同時に、弘樹は両目を閉じて呼吸を整えた。意識を丹田に集中し、精神を鎮めていく。


( 焦るな。まだだ、ここで焦るなよ )


 やがて、全身に気力が巡る感触を知覚するや、一気に立ち上がった。

 すでに頭痛は和らいできていて、吐き気もほぼ無くなっていた。

 口腔内に残る胃液の悪臭と酸味、その感触が不快だったが、身体に不自由な箇所はなかった。


( マジぃな、真っ暗だよ )


 停電しているのか、体育館にはひとつの明かりもなかった。

 周囲の様子を観察しながら、弘樹は声をだすべきかどうかを迷った。

 弘樹は普段から理沙にバカにされてるせいで、ガサツなイメージを持たれがちだが、実際には思慮深い行動を心掛けるタイプである。

 圧倒的な暴力に蹂躙され、銃撃戦まで経験した現在では、安易な行動が取り返しのつかない結果を招くことも、当然承知している。


( とにかく、明かりが必要だ )


 何か見つからないかと、死体の周囲の床を手探りで探す。さすがに作業服の死体をまさぐるのは嫌だったので、膝を突いて床へと目を凝らす。

 届く範囲の床へ両手を滑らせると、指先に空薬莢が触れ、渇いた音で転がった。


( 違う。もっと何か、使えるヤツはねえのか? )


 その後、指先が血だまりに触れて不快感で呻き、肉片を触って吐きそうになった。

 理沙の安否へ焦燥が募る中、弘樹は何度も自身の鼓舞と慎重を留意する。

 そうして周囲を警戒しながら、床に這いつくばり、照明を得られそうなモノを探した。


( よくよく考えれば、マッチだのライターだの、ましてや懐中電灯とかが、そうそう都合よく・・・ )


 そこまで思考した直後、弘樹は背後から伸びてきた手で口と鼻を塞がれた、背筋を電流のように恐怖が走り抜け、それこそ心臓が飛びだす勢いで驚いた。

 全身をバネ仕掛けのように振りたくり、塞がれた口から絶叫を漏らす。


「冬華よ。判る?

 警察よ。大人しくなさい」


 覚えのあるセクシーボイスに、背中に当たるタクティカルベスト。それから、微かなラベンダーの芳香。

 弘樹は、即座に全身の抵抗を止めて頷いた。


「怖がりすぎよ。見込み違いだったかしら?

 とにかく手を放すから、騒がないで。いいわね?」


 まるでカフェでの雑談のような口調だったが、冬華は力ではなく、関節や体幹を活かして弘樹を拘束していた。逮捕術のひとつなのだが、身動きを完璧に封じた冬華の技量に、弘樹は改めて畏敬の念を持った。


「あの、みんなは?

 リサは、無事ですか?」


 未だに動悸が収まらなかったが、弘樹は押し殺した低い声で、真っ先にその質問をする。


「やっぱり、彼女が心配なのね」


「!・・・茶化さないでください」


 一瞬、「彼女じゃないです」と言いかけ、優先順位に従って、冬華への非難が口をつく。


「私も探してるのよ。最初に見つけたのが、ヒロキなの」


 真剣な口調に戻った冬華の声で、唐突に名前を言われた。その声の響きの心地よさに、弘樹の心臓が動悸とは別の理由で脈打った。


( いやいや、違うだろ! )


「何か、明かりになるモノとか、持ってませんか?」


 弘樹は照れ隠しのような心境で、早口に尋ねた。


「持ってはいるけど、あまり薦められないわね」


 冬華の意見を、弘樹は即座に理解した。暗がりでの光源は、そのまま標的になるのだ。リスクが高すぎるのだろう。


( クソっ。闇稽古、もっとやっとくんだった )


 弘樹が現在通っている道場は古流剣術を旨としている。一般的なフローリングの稽古場だけではなく、複数敵を相手にしたり、屋内や竹林での剣術も指導されるのだが、その中でも苦行とされているのが、闇夜の山中で行われる「闇稽古」である。

 高校生の弘樹が参加できたのは、春休みと夏休みの2回だけだった。


「とはいえ、同じリスクなら、早いうちが良いわね。

 ところで、スマホとかって、持ってないの?」


 冬華の判断に喜びながら、最後の指摘に落雷に撃たれたようなショックを感じる。


「オレはバカだ」


 今の今まで失念していたのだ。

 学生服のポケットからスマートフォン、スターダスト・ポケットを取りだす。


「良いわよ。点けて」


 冬華は銃器を操作したらしい金属音を立てた後、静かに許可をだした。

 意を決した弘樹がスターダスト・ポケットのサイドボタンを押すと・・・


 ピピコーン さあ、やってみよう!


 ・・・電子音と共に、起動メッセージが流れる。

 弘樹がわざわざメニュー画面で設定した仕様なのだが、さすがに自分を呪った。


「バカなの?

 ミーハー過ぎ」

 

 辛辣な評価だったが、弘樹に返す言葉はなかった。

 俯きながら画面を操作し、動画撮影モードに設定する。続いてLEDライトを点灯。そこで、初めて冬華へと視線を移した。


「!!!」


 弘樹は今度こそ死ぬほど驚いた。赤黒く血に染まった冬華の顔面は、元の美貌とのギャップもあって、破壊力抜群のホラーとして心臓を炸裂させる。

 瞬時に冬華によって塞がれた口は、くぐもった悲鳴しか洩らさなかったが、手にしたスターダスト・ポケットは放り投げていた。


「落ち着きなさい。私の血じゃないわ。

 なんなのよ、そもそも失礼でしょ」


 弘樹は思いだしていた。一部の小動物において、凄く驚くことで、死んでしまう場合もある。という逸話を。

 今の弘樹なら、全面的に信じられる話しだった。


「そこだな。・・・撃つなよ」


 館内にその声が反響し、耳に届いた時には、弘樹は冬華によって床に押し倒されていた。

 弘樹の身体の上で、冬華がAK小銃を伏せ撃ちに構える。それによって、弘樹の鼻先に冬華の髪の毛が触れ、ラベンダーと血の匂いが混ざった不快な悪臭が鼻腔を刺激する。冬華の胸も密着していたが、タクティカルベストに収められた予備弾倉や無線機が胸板に刺すような痛みを与える。一見ラッキーかと見えたが、そんな要素は皆無だった。


「俺だよ、犬塚だ。・・・冬華か?」


 その渋いバリトンの声に、弘樹は安堵の溜息をついた。


「ったく」


 しかし、冬華はというと、舌打ちするように呟いた。周囲を警戒しながら立ち上がると、苛立ったようにAK小銃を構え直す。


「不用心にすぎるわ。

 武器は?」


「持ってるさ。残弾は少ないけどな。

 ヒロキもいるんだな。怪我は?」


「いえ、大丈夫です。

 さっきまでは頭が痛くて、吐いたんですけど。今は平気です」


 答えながら弘樹が立ち上がった時には、犬塚は目の前にいた。


「頭痛と吐き気か。・・・俺もそうだった」


 ソコへ注目する犬塚の態度が、弘樹には意外だった。

 考えてみれば、目覚めてすぐに理沙を心配していて、頭痛や吐き気のことは思考の外だった


「私も酷い頭痛だった。

 それと、あの閃光はなんだったの?」


「スタングレネード。ってワケもないか」


「有り得ないわ」


 冬華は即座に犬塚の意見を否定する。


「停電してるみたいだし。むしろ、特性としてはEMPに近いわ」


「それが、『次元爆弾』の正体か?」


「ちょっと!」


 弘樹にしてみれば、なによりも理沙の捜索を急ぎたいという心境だ。ところが、何やら重要そうな会話であり、とはいえ、その意味も判らないので、呆然と訊いてるしかなった。


「訊かれたってかまわねえさ。どうせ、もう使われちまったんだ。

 所詮は、ただの『名称』だ。機密だろうが、もう大した意味は・・・ないよな」


 最後にポンと犬塚に肩を叩かれ、弘樹は曖昧な笑みで応えた。


「それで、・・・犬塚さん」


「なんだ?」


「リサと、カレンを・・・探したいんですけど」


 さっきまでの会話に比べれば、所詮は女子高生2人という問題だ。弘樹は無下にされないかと、やきもきしながら切りだした。


「そうね。まずは、ソレが最優先だわ」


 冬華の迷いのない返答に、弘樹は一気に2人への信頼が増すのを意識した。

 戦闘の手法においては狡猾さを感じたりもしたし、少女やザジィに圧倒されてもいたが、やはり、頼もしく誠実な警察官だった。


「その通りなんだが。・・・そろそろ」


 周囲の気配の変化から、弘樹にも犬塚の指摘が理解できた。


「みんな、気がついて・・・きたみたいね」


 冬華もAK小銃を腰だめに構え、周囲を警戒する。

 目覚めたさいの頭痛や吐き気に苦しむ声が、あちこちから訊こえていた。


「あの2人は、・・・確か、木箱の近くだったな」


「ちょっと!」


 犬塚がペンライトを点灯して、周囲を照らした。

 その行為を、冬華が鋭い口調で非難する。


「安心しろ、アノ激痛なんだぜ。数分は戦闘不能だよ」


 逆を言えば、今のうちでないと使えないという犬塚の考えだった。冬華はリスクの大きさに歯嚙みする思いだったが、目前の犬塚は、すでに同意も許可も求めていなかった。


( いいわ。なら、私が守ってあげる )


 犬塚と冬華の険悪そうな雰囲気は、弘樹にもひしひしと伝わっていた。


「あの、なんか・・・すいません」


「なんで謝るんだ?」


 犬塚は視線も向けずに答えた。


「惚れた女のためだろ。

 ヒロキ。必要なら、世界だって敵にまわせ」


「いや、・・・別に、オレは・・・」


 それ以上、しどろもどろの弘樹には構わず、犬塚は周辺のサーチを続けた。

 犬塚のペンライトは高光度の軍用モデルで、見た目の小ささを覆す光量で体育館の内部を照らしだす。

 冬華も同様のペンライトを持っているが、使用を躊躇い、弘樹にスマホを使用させたのも道理だった。この暗闇で点灯すれば、即座に標的として銃撃されかねない。


「あそこだ。行くぞヒロキ」


 問題の木箱はすぐに見つかった。

 弘樹は足元を照らしながら走る犬塚に続き、破片や空薬莢をよけつつ走った。その後方にAK小銃を構えた冬華が続く。


「大丈夫だ。2人とも生きてる」


 犬塚の報告を訊くまでもなく、弘樹も頭痛に苦しみ、嘔吐を我慢している理沙と花蓮の様子を目視していた。


「リサを見てやれ」


 そう告げた時には、すでに弘樹は理沙の肩を支えていた。

 犬塚は本気で笑いそうになりながら、床に這う花蓮を支えた。


( タイプは違えど、甲乙つけがたいんだがな )


「まぁ、男子は正直者。って事だな

 カレン、犬塚だ。しっかりしろ」


 頭痛に視界が眩み、嘔吐の欲求と闘っている花蓮には訊こえなかったが、犬塚の皮肉は、後半から口ついて、言葉にでていた。


( まったく。遊んでる場合じゃないのよ )


 朗らかな光景を前に、冬華は内心で毒づいていた。周囲へAK小銃をポイントしながら、警戒は怠らない。


「辛いだろうが、しばらくの辛抱だ。その痛みは、じきに治まる。

 それと、辛かったら遠慮なく吐け」


 犬塚は点灯したままのペンライトを足元に置き、花蓮の上半身を起こしながら顔を支えた。

 花蓮は自分が犬塚に抱かれてるのに気づき、羞恥の意識と安心感がない交ぜになった感情で、とにかくお礼だけでも伝えたくなった。


「ぁ・・・ぁあうぁあ・・・」


 しかし、でた声は猫の唸り声のようになり、あまりの恥ずかしさに泣きたくなった。


「無理に話さなくていい。ただ、上体は起こしておいた方がいいから、このまま支えておくぞ。

 後は、今は我慢するしかない。まあ、安心しろ」


 犬塚のバリトンな声は優しく、力強く花蓮の耳に響いた。頭髪を搔きむしっていた左手に犬塚の手が添えられたので、自然に掴んでいた。

 逞しい手が優しく握り返され、花蓮の不安は和らぎ、頭痛も徐々に治まってきている。


「ゴメンなさぁ・・・」


 花蓮の気の緩みからなのか、その吐き気は抑えられなかった。

 犬塚がタイミングよく花蓮の顔を傾け、続いて花蓮は盛大に嘔吐した。


( イヤイヤイヤァぁぁあー )


 堪えようとすればするほど、嘔吐は次の嘔吐を誘発し、花蓮は羞恥のあまり嗚咽した。それでも嘔吐は収まらず、胃液ばかりを何度も吐きださせる。

 過去に経験したことのない恥ずかしさに、花蓮は泣き続けた。素敵な紳士の腕の中で嘔吐するなど、これ以上ない辱しめだった。


「収まったみたいだな。移動するぞ」


( ちょっ・・・その、・・・待って )


 花蓮は抱き上げられながら、床に置かれたペンライトが照らす光景を見た。

 犬塚のダスターコートの裾は、花蓮の吐しゃ物に汚れ、糸を引いていた。


「そのぉ・・・待ってぇっ!」


 精一杯に叫んだが、犬塚はそのまま花蓮を俗に言う「お嫁さん抱っこ」した。

 続く花蓮の声は、羞恥と情けなさ、申し訳ない思いで、掠れた、呟くような、小さな声になっていた。


「ワタクシ、・・・汚い、ですから・・・」


 花蓮は本気で死にたいくらいに恥ずかしかった。見れば、犬塚の袖口も吐しゃ物で汚れていた。何もかもが滅茶苦茶に嫌になってくる。


「すまん。帰るって約束したのにな。随分と手間を喰った」


 花蓮の醜態など微塵も気にしてない口調と、男性的な誠意に溢れた謝罪で、今度は花蓮の頬が桜色に染まる。

 

「いえ、・・・ワタ、クシは、・・・」


「最善を尽くす。だから、カレンも協力してくれ」


「ソレ、は、・・・いかがな・・・ことですの?」


「泣くのだけ、我慢してくれ。それで助かる」


 力強い男の保証だった。今まで会ったこともない、ドラマや映画にすら存在しないヒーローが、目の前にいた。

 花蓮は泣きながら、声だけは漏らすまえと、きつく唇を嚙んだ。

 一方の理沙だが、駆け付けた弘樹の無事を喜んだのも束の間、急かすように背中をさする行為にも、マシンガンのように連発する「大丈夫か。頭痛いだろ。しっかりしろ」の励ましにも、不快感が募っていた。


( バカじゃないの、ウザいのよ! )


 理沙も他の者同様、激痛に声もでないが、意識はしっかりしていた。

 弘樹の手が背中をさすり、ポンポンと叩いたり、軽く肩を揉んだりしてくる。猛烈に不快な感触であり、遂に理沙は顔をそむけて吐いた。


「ナイスだ。いいぞリサ、その調子だ」


「ふざ・・・」


 その言葉は続かなかった。弘樹の声援の中、何度も押し寄せる嘔吐に、理沙のイライラはピークに達する。


「オレも経験済みだ。吐いた方がラクになる。

 リサ、もっと頑張れ」


 歯を食いしばると更に頭痛が増すが、顎に力を入れて、ようやく嘔吐を堪えた。

 そして、なおもエールを贈る弘樹の顔を、暗闇の中で探す。

 床に置かれたペンライトの光芒が、微かに弘樹の喜ぶ表情を浮かび上がらせる。

 そして、文句を言おうと口を開いた瞬間、勢い良く競り上がってきた胃液を嘔吐した。その吐しゃ物は弘樹の学生服の胸元を汚し、同時に、理沙の胸元にも零れた。

 惨状を目の当たりにした弘樹は絶句し、硬直していた。


「アリガ、ト。・・・ホント、に、ラクに、なった」


「おっ・・・、おう」


 意図した行為ではなかったが、弘樹が大人しくなったおかげで、理沙は自身の頭痛が治まりつつあるのも認識できた。


「少し、マシになったか?」


 心底心配してる弘樹の声に、理沙の感情に暖かいモノが流れたが、変わらず小刻みに背中をさする手は、やはり不快だった。


「嬉しいけど・・・その手、ソレをやめて」


「なんでだよ?

 大丈夫だって」


( 殴る。後で、絶対に )


「また、吐きそう、・・・なのよ」


 元々足が不自由だし、頭痛と吐き気で満足に抗えない状況だ。理沙は精一杯の優しい声で懇願してみた。


「その方がいいんだよ。吐けよ」


 しかし、弘樹は変わらず陽気に笑ってばかりだ。


「そう、殴られたいのね?」


「なんでだよ?

 ああ、コレか。気にすんな。ただの学生服だしな」


 弘樹は吐しゃ物に汚れた上着を脱ぎ、その上着を片手で丸めると、同じく吐しゃ物で汚れた理沙の胸元を拭った。


「だから・・・胸を、触ってるし」


「判ってる。もうちょい拭いとくぞ」


( ソレを、しなくていいって、言ってるのよ! )


 弘樹にしてみれば、涙ぐんだ理沙の瞳は、感動によるものだと思い込んでいる。


( 人間だもんな。ゲロくらい、仕方ないよな )


「よし、まだ辛いかもしれないけど、理沙も移動しようぜ」


 弘樹は嬉々とし、犬塚が花蓮を運んだセダン車の側面を指差す。

 軽量合金の杖を拾い、ついでに犬塚が置いていったペンライトも拾う。


「ちょっと、ねぇヒロキ」


「ん、なんだよ?」


 理沙はもう普通に話せるようで、弘樹は安心した表情で理沙を見つめた。

 その理沙も、ペンライトの光芒でハッキリと浮かび上がった弘樹の顔を見つめている。


「顔が・・・キレイ」


 その発言に、思わず笑ってしまう。


「そうか?

 まぁ、オレもこう見えて・・・」


「違う。そうじゃない。・・・怪我が」


 理沙の指摘で、弘樹もハッとなった。意識せず左手で自分の顔を撫でる。


「腫れてないし、・・・痛くもない。なんでだ?」


 弘樹は今更になって気づいた異変に、激しく動揺した。

 結果としては良い現象なのではあるが、だから「オッケイ」という感情には着地できなかった。

 理由を思案する中で、激しく記憶のページを脳内でめくる。そして、先ほどまでの犬塚と冬華の会話に辿り着く。


( 確か、『ジゲンバクダン』とか・・・『時限爆弾』って?

 閃光が、EMなんとか、とか・・・ )


「爆発のせいかも・・・しれない」


「ソレって、意味不明でしょ。なによ、バクハツって?」


 そもそも変形するほど殴られていたのに、自分で気づかないような鈍感さに、理沙は呆れていた。


「そうなんだけど、さっきの爆発ってさ、何か、・・・その、特別らしいんだよ」


「・・・あの、アタシが持っちゃった、アレのこと?」


 理沙も思い返していた。目を閉じても白い光に視力が焼かれ、全身の感覚が失われた瞬間を。


「もしかして、治ってないか?」


 一瞬、弘樹が何を言っているのか判らなかった。そして、理沙はハッとして自分の足を見つめる。


「自分で立てたりとか、できないか?」


 期待の込められた弘樹の声に、理沙も一瞬、感動してしまった。

 そして、すぐに自分の足が爪先から太股の半分まで、全く感覚がないのを悟る。何も、何ひとつとして、治ってなどいなかった。


「どうだ?」


 なおも期待をよせる弘樹へ、理沙は逆に申し訳ない思いが込み上げる。


「ゴメン。アタシは、治って、ないみたい」


「!・・・そうか。悪いこと言った。オレ、テキトーすぎだよな」


( オレは大バカだ。リサに・・・なんてことを・・・ )


 弘樹は心底自分の浅はかさを呪った。変わらず作り笑いを浮かべる理沙を、肩を貸して立ち上がらせる。それから、無言で杖を渡した。


「もしかして、落ち込んでんじゃないでしょうね?」


「仕方ねえだろ。それよか、マジでごめん。

 やっぱオレ、バカだわ」


「知ってるよ。何万年も前から」


 理沙の気遣うような冗談だったが、弘樹の胸の痛みは消えなかった。バカを理由に逃げてしまった自分も許せない。どこか釈然としないままに、目的地のセダン車へは、すぐに到着してしまった。それも当然であり、ここまでは、せいぜい5メートルほどの距離なのだ。


「リサも、体調は大丈夫か?」


 ここまでの経緯を知らない犬塚は、どこか沈んだ表情の理沙を本気で心配している様子だった。


「まだ頭痛があるんですけど、平気です。カレンも、大丈夫なの?」


「そのぉ、・・・大丈夫じゃ、ないですぅ」


 理沙は花蓮が涙ぐんでいるのも、弱気な発言も、勝手に頭痛のせいだと解釈していた。理沙を支える弘樹にしても、同様の解釈をしている。


「よかった。やっぱりカレンって、見た目以上に逞しいよね」


「確かにな。それに秀才だし、完璧だな」


 理沙と弘樹は、その評価で花蓮がなぜ、さらに表情を歪めて涙をこらえているのかは、判らないでいた。


「正直、絶対に安全とは言えないが、ここに座っててくれ。じきに救助の増援も来るはずだ。

 可能な限り、早急に非難させる。良いな」


 犬塚は、3人が頷くのを確認してから、弘樹の肩を掴んだ。


「いざとなったら、リサを抱えて、カレンと一緒に脱出しろ。

 その時は、全力で援護する。ヒロキは、絶対に立ち止まるなよ」


 犬塚の射るような言葉に、弘樹は改めて深刻な状況が継続しているのを認識する。


「お前は勇敢だ」


 犬塚の評価に、弘樹は首を傾げたくなった。


「見ていたぜ。校庭での大立ち回り。

 勝ち負けの問題じゃない。お前が守ったんだ」


 弘樹にしてみれば、犬塚のような凄い強さの大人に、望外な評価をされるのは、嬉しい反面、恥ずかしくもあった。


「でも、結局は・・・」


「信じろ。お前は強い」


 犬塚は「そこまでだ」とでも言うような風情で断定すると、弘樹に背を向けた。

 暗闇にダスターコートをなびかせて消えていく姿は、やはり決闘へ向かうガンマンを彷彿させる。

 弘樹と理沙、そして特に花蓮が、犬塚の無事を祈り、その背中を見送った。




「主任、ご無事で何よりです」


冬華の元へ戻った犬塚を、知っている声が出迎えてくれた。


「黒崎か?」


 暗がりの中、マスクとヘルメット姿だったが、声だけで犬塚は言い当てた。黒崎は今回投入したSATの副長で、階級は警部補だった。


「はい。他に、須田もそばにいます」


「他の隊員は?」


「いるはずなんだけど、まだみたいね」


 冬華の説明で、戦闘不能状態なのを察した。

 個人差はあるのだろうが、女子高生と自分を比べてみても、頭痛からの回復には数分から10分程度は必要と思われた。加えて、意識の覚醒するタイミングもバラバラなのだろう。


「マル学は大丈夫なの?」


「取りあえず、隠れてるよ。体調は回復したようだが、状況が判らない以上、安易に動かしたくないしな」


 本音では、マル学こと、弘樹ら高校生においては、最優先で非難させたいところだ。一方、犬塚の脳内では赤信号が消えなかった。勘が危険を伝えてくるのだ。やむなく隠れさせたのだが、冬華の関心はソコではないように訊こえる。


「で、・・・何があった?」


「無線が、通じないのよ」


「こんな時に故障か?」


 犬塚は舌打ちしながら、自分のインカムを取りだした。

 イヤホンマイクを装着して操作する間も、冬華の期待していない態度を不審に感じる。

 やがて・・・

 

「俺のもダメだ。SATのはどうだ?」


「同じよ。ここにいる全員の無線が、本部に通じないわ」


 黒崎ではなく冬華の返答だったが、犬塚はますます混乱した。


「MI6から提供された『チャイルズ・レポート』を覚えてる?」


 冬華の指摘に、犬塚は記憶の引き出しを片っ端から開けてみたが、最後は助けを求めるように黒崎を見つめた。


「公安の内部文書よ。黒崎さんが知るはずないでしょ」


「クイズはうんざりだ。さっさと説明しろ」


 犬塚のパワハラ発言に、冬華は眉すら動かさなかった。


「一時だけど、メルヴィ博士の共同研究者だった、チャールズ・シー教授の報告書よ。

 学会での発表直前に関係が悪化して、研究は頓挫。3年後、暴露的な意味合いで英国政府に提出された・・・」


「思いだしたぜ。

 確か、メルヴィって物理学者が、スメイルへ亡命した時の告発文書だよな」


「思いだしてくれて嬉しいわ。老化が進んだのかと思った」


 パワハラ発言への仕返しなのは判っていた。冬華の嫌味は無視して、犬塚も指摘する。


「だが、アレはSF過ぎる内容で、エイプリルフールのジョークだって話しだろ?」


「レポートの作成日は3月6日。議会への提出が同月10日。

 政府が意図的に4月1日を演出したのよ」


( さすがというか、そんな事まで暗記してんのかよ )


「そうかもしれないが、アレは、何かその、・・・マンガみたいな内容だったはずだぞ」


「でも、チャイルズ教授は高名な研究者として、スタンフォードに実在してるわ。メルヴィと共同研究者だったのも事実よ」


 2人の会話が理解できるはずもなかったが、不覚にも、黒崎はソノ会話に訊きいっていた。お陰で、物音に気づくのが一瞬遅れる。

 即座にMP5サブマシンガンを構え直し、直後、ソノ警告が告げられる。


「動くな。大人しく降伏しろ」


 鋭い警告の声。黒崎以外の警察官も、一斉に声の主の位置に見当をつけて、銃口を向けた。

 しかし、その警告が日本語だったことに安堵し、すぐにトリガーに掛けた力を抜いた。


「SATだな。俺は犬塚だ。

 コッチだ。注意して合流しろ」


 犬塚は暗闇の中、無駄ではあるが、ハンドサインを送りながら、手早く命令を発した。


「そうか。そこにいるのは、シローなんだな」


 犬塚は今になって、最初の誰何の文言がおかしいことに気づいた。通常、SATとはいえ警察官が「降伏」などという用語を使う訳がないのだ。

 作戦の最高指揮官へ向けた無礼な発言といい、明らかな違和感がある。


( 誰だ?

 まさか、屠龍組か? )


 仮に、声の主が屠龍組幹部の藤だったとしても、この「シロー」呼ばわりは不自然だった。

 困惑したまま解答がだせないでいた犬塚達を、フラッシュライトの光芒が浮かび上がらせる。その光源はひとつではな。3箇所あった。つまり、半円に包囲されているのだ。

 突然の照射に対し、全員が銃器を光源へ向けてポイントしたが、3箇所からの光芒を背にした人物は、日本へ派遣されたスメイル解放戦線のリーダー。ザジッツ・ハメル・ジージスだった。

 腰に構えたサブマシンガンの銃口は、必殺の意思を込めて犬塚にポイントされている。


「うまいじゃないか。

 シュメイレ語が堪能だとは、知らなかったぞ」


 堂々たる立ち姿を前に、犬塚は啞然とし、絶句していた。

 人数的不利を恐れたのではない。不自然に流暢な日本語に驚いたのだ。


「では、遠慮なく祖国の言葉で言う。

 シロー、部下に命じろ。ただちに武装解除だ」


「何を・・・言ってやがる?」


 犬塚は内心の動揺と戦いながら、何とか、その質問だけを投げかけた。

 驚愕の超常現象なのだが、ザジィは勝手に犬塚がスメイル語を修得してると思っている様子だった。日本語を話してるザジィがだ。


「訊こえてるはずだ。ただちに・・・」


「違うわ。訊いて、そうじゃない」


 ザジィの的外れな復唱に、たまらず冬華が声をかける。


「ふざけてるのかメスブタ。今度こそ、本気で殺すぞ」


 光芒の中、ザジィの横へ進みでた少女の恫喝だった。その手には、先ほどと同じくショットガンが握られており、銃口は冬華をポイントしている。

 冬華も知識としてはスメイル共和国の風習を学んでいる。一部の部族では、リーダー同士の話し合いに第三者、特に女性が割り込む事を強く禁止しているのだ。

 この場合の「強く禁止」とは、罰則に死刑も含まれるということだろう。少女の激昂した態度が、ソレを裏付けている。


「よすんだカル」


 俗に「鶴の一声」とあるが、この時のザジィこそが、まさにソノ具現であった。

 カルと呼ばれた少女の表情は変わらず、しかし、硬直したような身体が殺意に抗っているのは、容易に伺えた。


「了解」


 口調は震えていたが、素直に承諾するカルを見て、犬塚はザジィの求心力の強さを再認識する。


( 黒人の血が、入ってるのか? )


 他のスメイル人よりも浅黒い肌をしたカルを、犬塚は初めて詳しく観察した。黒いバンダナを巻いた髪は耳が隠れる高さでバッサリ切られていて、それが常なのか、年頃の少女のように、着飾る雰囲気はなかった。ブルーネットの髪は癖が強く、すらりとした身体にムチのようなしなやかさを感じる。

 しかも、カルがザジィへ対し、上官以上の感情を持っている事は明らかだった。


「シロー君」


「判ってる」


( 何を判ってるっていうのよ )


 自分の存在が思った以上に藪蛇だと悟った冬華は、低く抑えた声で犬塚を急かした。その意図は犬塚も承知している。彼らの流儀では、「リーダー同士」の会談を邪魔しないことになっているのだ。


「ザジィ。先に、訊きたい事がある」


 告げながら、犬塚は迷わず拳銃を足元に置いた。続いて、両手を耳の高さまでホールドアップし、細工がないことを証明するべく、掌を見せる。


「ダメだ。騙し討ちで狙撃するような隊長とは、取引きできない」


「アレは手違いだ。謝罪する。

 だが、俺はすでに、命を差しだしてる」


 ゆっくりと歩を進め、近づきながら、犬塚は慎重に言葉を選んだ。

 それと同時に、周囲の気配の変化にも気づいている。敵味方とも、続々と生き残りが戦線復帰してきているのだ。

 当初の解放戦線メンバーは5人と推測していたが、今ではその倍か、それ以上だろう。当然、SATの隊員も何名かは復帰しているはずだ。


「判っているだろうが、お前だけへの警告ではない」


「訊いてくれ、俺は日本語で話してる」


「なんだと?」


 ハンドサインで発砲禁止を通達しながら、ザジィの表情は困惑に歪んだ。


「俺はスメイル語を知らない。今も日本語を話してる」


 ザジィの瞳に侮蔑の感情が露わになる。

 意味の判らない内容であり、時間稼ぎとしか思えなかった。すでに指先の変化だけで、ハンドサインは発砲許可へと変更できる。


「コイツはダメだ。殺そう」


 カルの進言に、ザジィも決断しかけた時だった。


「今、『コイツはダメだ。殺そう』とカルが言ったはずだ」


 ザジィの指先は一瞬だけピクリと反応した。犬塚の指摘で、すんでのところで攻撃命令を保留したのだ。


「地域特有のスラング( 方言 )も入ってたんじゃないか?

 おそらく、辞書にも載ってない言葉だ。だが、俺は判るんだ」


「ソレがどうした。気安く名を呼ぶな。

 お前の頭はクソ溜めだ」


 激昂した様子のカルへ、犬塚はイタズラっぽい笑みを浮かべた。


「口が悪いぞ。『お前の頭はクソ溜め』・・・なんて、女子が言うなよ」


 たまらず言い返そうとするカルへ、さらに犬塚が続ける。


「ましてや、リーダー同士の話し合いなんだ。女は口を挟むな」


( こんな台詞、政治家だったら辞任ものだな )


 対して、・・・カルは奥歯を砕くような形相で犬塚を睨みつけたが、手にしたショットガンが発砲されることはなかった。


「判るかザジィ。『クソ溜め』だって訊こえてるんだ。俺には、君らが日本語を話してるとしか思えない」


 犬塚はザジィの瞳に烈火の炎で怒りが宿るのを確認している。焦燥が募るが、あくまでもザジィの人柄と知性に縋った。


「デタラメな台本だが、見事な演技だ。だが、隊長の立場を利用し、よくも、ふざけた欺瞞に踏み切ったな」


「信じられなくて当然だが、殺す前に教えてくれ」


 犬塚が思いつく最終手段だった。最期の願いを無下にしないだろうという、人類共通の、最低限の慈悲に賭けたのだ。


( ダメよシロー君 )


 冬華は説得の失敗を確信する。

 気配で判る。敵の人数は10人以上に増えている。SATも3名復帰し、合計5名がサブマシンガンを肩付けしているが、どう援護しようと、誰に銃口を向けておこうと、ザジィの目前に立つ犬塚が真っ先に殺されるだろう。

 犬塚はザジィの人格や冷静さから、説得が可能と判断しているようだが、冬華は逆だと断定する。


( まさか・・・! )


 冬華は唐突に悟る。犬塚は与太話でザジィをペテンにかけようとしているのだ。

 おそらくは「チャイルズ・レポート」あたりを引き合いにだして、混乱させるつもりなのだろう。

 冬華の顔面が、みるみる蒼白と化す。


( 本当にバカなの?

 バレるに決まってるでしょ )


 確かに違う言語で会話できてる状況は不可思議だが、ザジィの戦力に影響がある問題でもない。だから適当に話を盛って、危機的状況を演出する。

 所詮は、すぐにバレる噓だった。


( 白木君は何をやってるの?

 ライフルワンは、どうして沈黙してるのよ )


 それこそが不可解な状況だった。

 ザジィ達は遠方からの狙撃を警戒し、死角に布陣してるものの、安住の技量と光学照準機器を装備した50口径ならば、壁や屋根を貫通しての狙撃でさえ可能なのだ。

 現に、ヨーロッパのテロ対策チームでは、12.7ミリのアンチマテリアルライフルは、ジャンボ機のウィンドウを貫通し、ハイジャック犯を狙撃する事まで想定して配備されている。


( なんで・・・なんで場当たり的な行動しかできないのよ。なんで・・・こんなに、好きなのに・・・ )


 ここでザジィが乗らなければ、銃撃戦が再開され、犬塚は真っ先に射殺されるだろう。その恐怖に、構えたAK小銃が小刻みに揺れる。

 冬華の思案を他所に、視線の先に立つ犬塚は、その最期のカードを披露した。


「アノ爆弾はなんだったんだ?

 どんな性能を持ってると、認識してるんだ?」


 特に唾を飲み込んだりもせず、淡々と犬塚は質問した。


「詳しく知っている訳ではない。新型の爆弾で、半径30メートルを完全に破壊する『限定範囲特化型』の爆弾と理解してる。

 人も物も、建造物においては材質や防壁も無関係に、戦車の装甲板すら無視し、特定の範囲を分子レベルで破壊する。らしい」


 ザジィはハンドサインに掲げた左手を降ろしていたが、その態度は「これで満足か?」とでも言いたげだった。つまり、処刑を始めるという意味だ。


「なぜ信じた?

 そんな爆弾は、先進国だって開発してないはずだ」


「性能を示す、証拠があったからだ」


 答えるザジィの瞳には、すでに死者を見つめる憐みの色さえ浮かんでいる。それでも、犬塚は諦めない。

 それが、気まぐれでも遊び心でもよかった。この会話の先に着地点がある。そう確信している。


「どんな証拠があったんだ?」


「共和国陸軍の西方中央本部。ジガ基地の消滅だ」


 その話しは犬塚も知っていた。今回の作戦にあたり、政治状況や内戦の様相も学習していたからだ。しかし、だからこそ大きな疑問が浮かぶ。ザジィの解答には、明らかな報道内容とのズレがあるのだ。


「その陸軍基地の壊滅は、ヨーロッパを中心とした報道機関からのニュースで知ってはいる。だが、その報道によれば、自動車爆弾による特攻と、火砲攻撃によって壊滅したって内容だったはずだ。

 空撮映像だが、基地の惨状も紹介されてたぜ。確かに壊滅してはいたが、『限定範囲特化型』とかって印象もない。普通に瓦礫の荒野。戦争の傷跡って風景だ」


「どこぞの狂信者共と違い、我々は部下の無意味な特攻を許可しない。

 それと、その『映像』とやらは、本当にジガ基地だったのか?」


 ザジィの、特に後半の指摘は、犬塚も二の句が継げない内容だった。

 この手の情報操作は、各先進国のお家芸みたいなものだ。

 どの政府であろうが、まずは国益が優先される。その過程においては、相手国の政府が重要視され、内部で弾圧されてる民族の問題は軽視されがちだ。場合にもよるが、報道の規制や捏造は、頻繫に行われているのも事実だった。


「だが、今回の爆弾の性能は違う」


「そうだ。・・・シローの言うとおり、ニセモノだったらしい」

 

「いや。爆弾は本物だった」


 犬塚は勝負にでた。自分すら信じていないし、冬華も可能性として考慮した内容に過ぎないが、賭けざるを得ない状況なのだ。

 ただし、一流の詐欺師は「大噓」はつかないものだ。真実の中に「呪文」を込めて、相手の心理を操る。言語の違いが通訳されてる現象は、真実なのに通じなかった。逆に怒っている。確かに誤算だ。それでも、電波障害さえ継続していれば、まだ時間を稼ぐことは可能なはずなのだ。

 犬塚は、今度こそ最上級の奇跡を願っていた。


「何を言っている?

 まだ茶番を続けるのか?」


「そうじゃない。

 誰でもいい。無線を使ってみてくれ。携帯電話で、祖国へ電話するだけでもいい」


「それが、何になる?」


「証拠だ。証拠になる。

 何も異変がなければ、その後で俺を殺せ」


 犬塚は挑むような視線でザジィを睨み、命令するような口調で要求した。

 何も異変などないかもしれないし、全てが無視され、いきなり撃たれるかもしれない。その懸念を振り払い、自分の「詐欺力」にベットする。


「やはりコイツはダメだ。撃たせてくれ」


「カル。俺達は山賊ではない。規律ある戦士が、投降した士官を無下に殺すな」


「でも、コイツは噓つきだ。虚偽の情報で・・・」


「撃ってくれ」


 ザジィとカルは、唐突に了承した犬塚を啞然と見つめた。


「カル。お前が撃つんだ

 ただし、その前に電話をかけろ。祖国じゃなくてもいい。日本の時報やピザ屋でも構わない」


 啞然としたカルの表情は、意外にもチャーミングだった。

 犬塚は浮かびかけた笑みを殺し、恫喝するようにカルを睨む。


「携帯電話なんて、・・・持っていない」


 犬塚の剣幕に気圧された表情で、カルはザジィを見上げた。そのザジィは、犬塚の鋭い眼光から視線を外さない。


「通常は酒やタバコ。あるいは祈る時間を要求するものだ。

 お前の要求は、誰かがどこかへ、電話することだな?」


「だめよ!」


 ザジィの最終確認へ、同意するべく口を開きかけていた犬塚は、その冬華の叫びで苦笑を浮かべた。それから、即座に厳しい表情に戻る。


「このメスブタ」


「朱里警部。待機命令だ」


 犬塚はショットガンを構えるカルを、両手を広げて制止する。同時に大きく叫び返し、冬華へも命じる。それから、ゆっくりと、ザジィへ向けた冬華の射線を塞ぐ位置へと、見当をつけて移動していく。

 息を吞む緊張感の中、ザジィを庇う行為なのが認知されていく。


「カル、コッチだ。銃口はここを狙え」


 ザジィから視線をカルへ移し、犬塚は自分の胸を指差した。

 怒りと困惑が混ざった表情で、カルが犬塚を睨み返す。


「SATにも厳命する。全ての事態に対し、発砲を禁ずる。いいな!」


「拒否します」


 背後の冬華が、涙ぐむ表情が想像できる声だった。たが、犬塚が再び苦笑を浮かべることはない。


「ならば、・・・朱里警部を作戦要員から除名する。以降の指揮、判断はSATへ委ねる」


「・・・お願い。・・・お願いだから」


 その冬華の懇願にも、犬塚は耳を貸さなかった。視線はすでに、ザジィへ向けられている。

 その様子を無言で見ていたザジィは、犬塚からは視線を外さずに、口を開く。


「ズマル」


 呼ばれたニット帽の作業服は、AK小銃を肩付けしたままザジィの隣に並んだ。

 そのズマルの左手はフラッシュライトごと銃把を握って保持されており、銃口と照明は犬塚の胴体中央をポイントしている。

 年齢は30前後と思われた。丸めの輪郭の顔に一重の精悍な目が特徴的で、そのたたずまいから、隊長クラスの幹部なのが伺える。

 ザジィは手近な木箱に手を突っ込むと、梱包材として使われてたらしい古新聞を鷲掴みにし、ズマルの胸に押し付けた。


「どこでもいい。記載されてる電話番号に、かけてみろ」


( 後は・・・祈るのみだ )


 犬塚はそっと両目を閉じた。

 ザジィの起爆した「次元爆弾」がEMP特性の効果を発生させたのだとしても、現状では30分近くが経過している。通信障害が維持されてるかは疑問だ。

 不可思議な状況 ( 全てが噓ではないのだが ) を演出しながら、引き伸ばした時間で指揮車に残る白木の采配を待っているのだが、一向に反撃の気配もない。

 その部分だけを取っても異常な状況だが、犬塚の懸念はどこまで時間を稼げるかに向けられている。


「・・・ですね。念のため、本国への無線を開きますか?」


「ダメだ。傍受されていたら位置がバレる。それに、そもそも応答しないはずだ。

 他の携帯は試したのか?」


「3つ集めたんですが。・・・どれも、電波表示自体がありません」


 目を閉じているお陰で、普段よりも聴覚が増していた。会話内容から、まずは賭けに勝ったことを悟った。やがて・・・


「シロー。状況を説明しろ」


 ザジィの詰問へ、犬塚は両目を開き、多少芝居がかった表情を作った。

 苦い表情に、やりすぎない程度の笑みを混ぜながら、口を開いた。


「俺が知っているのは、イギリスの諜報機関から入手した情報だ。ソレによると、ザジィが使った爆弾の性能は、お前らの認識してるソレとは、違うモノだ」


 大袈裟な口調だったが、ここまで噓は言っていない。

 犬塚は続けた。


「正直、俺も眉唾だったんだが、状況が裏付けちまってる。

 その情報ってのは、爆弾の製造者と共同研究してた、スタンフォードの教授によって得られたものでね。コノ状況に、良く似てる」


「続けろ」


「まずは怪我人の搬送と、高校生の退避をさせろ。それが条件だ」


「取引きはしない。さっさと話せ。

 俺達は誰一人として降伏しない。判断を誤れば、簡単に、死体の山ができるぞ」


「判るはずだ。とんでもない状況になってる。

 部下を無駄に死なせる方が、よほど愚策じゃぁないのか?

 それと、お前らの思想に子供は関係ないはずだ。コレが崇高な戦士の闘いだというのなら、高校生だけでも、非難させるべきだ。

 それとも、崇高な目的のためには、子供でも殺すのか?

 お前らの、政府みたいに?」


 その説得に小さな「噓」と「呪文」を仕込んでいた。

 犬塚はザジィを冷酷な殺人者だとは思っていない。反政府運動の幹部ではあるが、理性的な人格者だと分析している。


「・・・いいだろう」


「ダメだザジィ!」


 ザジィの同意の直後、カルの非難の声。続いて、ザジィの奥歯が「カリッ」と音を立てる。


「カル、いい加減にしろ!

 長の話し合いに、何度口を挟んでる」


 その𠮟責はズマルの怒声だった。


「お前は、ザジィの顔を、汚してる」


「もういい。ズマル、そこまでだ」


 立ち上がったザジィが、厳しい口調のズマルを抑止する。


「カルの処分は検討する。

 シロー。高校生を非難させろ」


 ズマルを納得させ、犬塚に告げるザジィ。

 対して、犬塚は内心の安堵を表情には浮かべず、首だけで頷いていた。


「その後で、詳しく話してもらう。怪我人の搬送は、・・・以後、考慮してやろう」


「了解した」


 犬塚はザジィに背を向け、怒りに震える冬華へ視線を合わせた。

 その説明無用の般若の形相を確認し、天を仰ぎたい心境になっていた。




 警察と作業服の集団が対話する様子は、10メートル以上離れた位置にいる高校生には伺えなかった。だから、その会話や様子を詳しく知る術もない。

 最初こそ互いの無事を喜びあっていたものの、会話が弘樹の怪我の不可思議な回復や、爆弾の炸裂へおよぶと、弘樹は非難の的になってきていた。


「ねえ、ヒロキ。『時限爆弾』っていうけど。ソレって、タイマーみたいので、カウントダウンするヤツでしょ?」


 理沙は、自身が知るドラマや映画のイメージのまま、疑問を口にした。 

 床には犬塚が置いていったペンライトの光芒があり、ソレを囲んでの座談だ。


「やっぱ頭イイな。そうだと思うぞ」


 弘樹の能天気な返答に、理沙は溜息を我慢した。


「アレって、ボタンしかなかったし、・・・何か、違くない?」


「見えなかっただけだろ?」


「手で持ってたんだよ。ただの、・・・銀色のボールだった」


「ワタクシにも、そう見えましたよ」


 花蓮も理沙に同調し、弘樹を見つめた。

 話題よりも、あり得ない怪我の回復に驚いてるのだ。


「まあ、他にも、EPとか、スターネードとかって言ってたし・・・」


「ソレって何よ?」


「何か、美味しそうな名前ですねぇ」


 自身の発言に、状況も忘れて、花蓮が笑う。

 この2人を見てると、こんな会話がいつも羨ましく感じていた。理沙を親友だと思っているし、弘樹のことも、先輩だという以上の好意を持っている。

 意図せぬ笑顔だったが、その後で少し恥ずかしくもなった。


「そんなことまで知らねーよ。でも、特別な何かだって・・・そういう・・・」


 何かを挽回したいという感情だけで、記憶からワードを引っ張りだしていたが、その弁明は、𠮟責するような怒声が響いたことで、中断する。


「また、戦う・・・の、ですかね?」


 花蓮の不安は、自身よりも警察官へ、特に、犬塚へ向けてのものだったが、弘樹は、その犬塚が言った「いざとなったら逃げろ」との指示への思案が浮かんでいた。


「一応、立っておこうぜ。

 リサ、肩かすぞ」


「大丈夫だよ。・・・やっぱ、腕、掴んでおいて」


 言われるまま、弘樹はリサを手伝い、立ち上がらせた。

 右手のペンライトは床へ向け、以降は誰もが沈黙したまま、ライトの光芒を向け合う集団の、その様子を伺っていた。

 しばらくして、サブマシンガンに装着されたフラッシュライトの光芒を揺らしながら、アサルトスーツを着た隊員が2人、弘樹達に駆け寄ってくる。


「ヒロキ君だね。それと、リサちゃんとカレンちゃん」


 無骨な装備と太い声に似合わない呼びかけに、3人は戸惑いながら頷いた。


「家に帰ろう。慌てないでいいから、まずは外へでるぞ」


「あの・・・犬塚、さんは?」


 質問へ「バッ」と風を切って顔を向ける隊員に怯みながら、花蓮が尋ねた。


「心配してるんだな。主任なら大丈夫だよ。

 君はリサちゃんを支えてくれるか?」


 花蓮はドギマギしながら頷き、弘樹はしっかりと頷いた。


「いいな。しっかりと、後ろから着いてきてくれ」


 ポンと肩を叩かれた弘樹は、隊員に追従しながら、理沙の腰をしっかりと抱き寄せ、慎重に歩を進めた。


( やっぱ、こういう人って、凄いんだな )


 そんな場合ではないのだが、弘樹はSAT隊員の無駄のない足さばきに感心していた。

 剣術においては「運足」と呼ばれ、弘樹の通っていた道場においては、入門者は段位に関係なく、最初の2ヶ月間は竹刀を握らせない。運足ばかりを、みっちりと指導されるのだ。

 思えば、警察の道場に通っていた弘樹に対馬梅 ( つばめ ) 道場を紹介してくれたのも、警察官の指導教官だった。

 技を探求するほどに実感するのは、この「運足」と「構え」さえ完璧であれば、奥義ともなり得るということだった。


「少しだけ、待っててくれ」


 突入時に破壊した出入口の前で、隊員の1人が指示する。

 弘樹は小声で返答し、理沙を見つめた。


「もう少しだ」


 弘樹は囁くように伝え、しっかりと理沙が頷くのを確認する。花蓮へも視線を向けたが、何故か後ろばかりを見ていた。

 警察の動向が気になってるだけだと解釈して、隊員の背中へと視線を戻した。

 次の瞬間、合図もなしに隊員の1人が警戒しながら外へ踏みだした。もう1人の隊員がバックアップポジションを取りながら、数舜遅れて外へでていった。

 そして・・・


「なんか・・・遅くない?」


 囁く理沙の意見はもっともだった。すでに1分以上が過ぎている。


「まあ、もう少し待とうぜ」


 弘樹は勇気づけるように囁き返し、花蓮へも「大丈夫さ」と笑顔を向ける。

 そして、さらに1分以上が過ぎる。

 ようやく戻ってきた隊員に安堵した弘樹だったが、その隊員の様子は、どうにもおかしかった。


「なあヒロキ君。・・・何か、・・・落ちついてくれ、いいな」


 荒い呼吸で滑舌の悪い口調。落ち着くべきは隊員の方だと思いながら、弘樹は訝しんだ。


「何か、・・・危ないこととか、ですか?」


「違う!」


 突然の大声に、3人の高校生は硬直した。


「いや、・・・すまない。ただ、・・・何を、どう説明して、いいのか・・・」


「どうしたんですか?」


「判らない。こんなの、・・・何も」


 意味も判らず、弘樹は花蓮に理沙を預け、外へでた。


「あの、・・・!」


 弘樹は外に立ち尽くすもう1人の隊員の背中に呼びかけながら、そして絶句した。


「・・・いや、・・・マジかよ」


 星明りの下、眼前に広がるのは、暗黒に包まれた圧倒的な森林だった。その威容は、もはやジャングルと呼んでもいいだろう。

 混乱が混乱を呼び、思考の整理が追い付かなかった。

 校庭も校舎も存在しない。相模原の街並みも消え、あるはずのない大自然が広がっていた。

 これが、仮に間違って裏から外へでたのだとしても、塀や街並みが消えてるのはあり得ない風景なのだ。いや、一部ではあったが、敷地は残っていた。きれいな曲線を描いて、グランドの境界線ができている。

 その様子から推測すると、体育館を中心にして、円形に相模原が残っているようだった。


「カレン・・・、なあカレン、来てくれ」


 この状況が花蓮に判ると期待してるわけではなかった。とにかく1人で考えたくなかっただけだ。全員が同じ光景が見えてるのかを、確認したかった。

 しばらくして振り返ると、戸口に花蓮と花蓮に支えられた理沙が立っていた。

 弘樹はおぼつかない足取りで、2人に近寄った。


「お前らも、見えてんのか?

 なんかさ、・・・世界の果てに、来たみたいだ」


「そのぅ、世界・・・とぉ、いうよりも・・・」


 弘樹は花蓮の呟きに、期待を込めた視線を向けた。何らかの解答を得てるらしい様子へ、縋るように眼差しを向けた。


「・・・そのぉ、・・・宇宙の、果て・・・かな?」


 鼻で笑った。女子の方が冷静なものだと、悪質な冗談へ、渇いた笑いが込み上げたのだ。しかし、その後、ゆっくりと夜空の左方向を指差す理沙の表情に、笑みが消えていく。

 理沙の恐ろしいモノでも見ているような瞳に、弘樹も恐怖を感じていた。

 ゆっくりと理沙の指先をトレースし、視線を移動していく。


「月・・・」


 そんなはずが無かった。その月はあまりに巨大で、蒼く輝いていた。その巨大惑星の隣には、衛星らしき小惑星が、緑色に輝いていた。

 ジャングルの暗黒のカーテンの上には満天の星空が広がり、見たこともない巨大な月が、惑星が輝いている。痛いほど鮮やかな星の煌めきは、感動ではなく、恐怖を刻み付けた。


「ウソだろ・・・ホントに、宇宙、かよ。・・・」


 呟くような弘樹の声は、すでに恐怖心よりも
















「関係のないことだ。今は俺たちが有利。交渉は成立しない」


 口を開きかけた理沙を、弘樹は唇に指を当てるゼスチャーで制止する。これまでのカルの態度に、女性の発言がご法度なのを感じていたからだ。


「多分、『女は口をだすな』って文化なんだよ。ヤバいから話すなよ」


「じゃあ、ヒロキが説得してよ。ザジィさん、ホントは優しんだよ」


( イヤイヤ、優しそーには見えないぞ )


「とにかくよぉ、今はケーサツにまかせようぜ。大丈夫だよ。犬塚さん、落ち着いてるし」


 むくれ気味の理沙をなだめながら、弘樹もザジィを注視していた。

 銃を向け合う光景など、ドラマや映画でしか縁がなかった。ソノせいか、状況に現実感が薄かったが、発散されてる緊迫感は道場での稽古や試合中のソレとは比較にならなかった。


( 強さ。っていうか「殺気」ってヤツなのか? )


 行われているのは会話だったが、弘樹には交えた刃が見えるような気がしていた。


「まずは、その女の武装を解除しろ。全員を拘束する。話しはそれからだ」


 犬塚にとっても、ザジィの理屈を覆す理論はなかった。パワーバランスが拮抗してるからこそ、交渉には価値がある。だから有利な者は交渉などしない。有利なのだから、命じればいいのだ。わざわざリスクを分担する交渉などは、愚行の極みとなるだろう。


「ソレじゃぁ話しにならんだろ。ソレは尋問っていうんだよ。日本ではな」


「捕虜に発言を許可するのは、大変な寛容だ。スメイルではな」


 冬華は肩付けしたM4小銃のグリップを強く握った。スメイルの風習を考慮すれば、これ以上不用意に発言するべきではない。例えザジィが寛容的だとしても、指揮官を舐めてると判断した配下にまで寛容さは期待できないだろう。今は犬塚に任せるしかなかった。


 チャチャッ ジャキッ


 次の瞬間、立て続けに金属音が響くと車両の陰から、コンテナの裏から、SAT隊員のMP5サブマシンガンが突きだされた。光学照準器のグリーンレーザーがザジィやカル、配下の兵士にポイントされている。

 その総数は5名。


「これなら、『対等』が成立するんじゃないか?」


 犬塚の声に皮肉はない。むしろ懇願する響きすらあった。

 厳しい表情を崩さないザジィは、やがて溜息交じりに笑みを零した。それこそ、友人の説得に根負けしたかのような笑顔を見せる。続いて手を振って配下に合図すると、カルと他の兵士が銃口をおろした。


「対等の、リーダー同士の話し合い。ということでいいんだな?」


「もちろんだ」


 犬塚も状況中止をハンドサインし、SAT隊員に銃をおろさせた。

 M4小銃をおろした冬華も、内心では大きく溜息をついていた。多分に、犬塚の交渉術には大きな理屈はなかったはずだ。

 自身をおとりに、SAT隊員の回復に要する時間稼ぎ。それと、ザジィの求心力と理性的行動に賭けた博打的な交渉だったはずだ。示し合わせたようなSATの包囲は、単に運が良かっただけなのだ。

 そして即座に、警察よりも先に銃口を収めさせたザジィは、大変な器量の持ち主だと、認めざるを得なかった。それも犬塚を信頼しての行為だろうが、部下の安全を考慮すれば、安易に選択できる行為ではなかったはずだ。

 凄いのは、信頼を与えた犬塚か、信じて行動したザジィか。


( ったく。見るだけで疲れるって、こういうコトだよな )


 我知らず、見守っていた弘樹までも大きな溜息を吐いていた。隣の理沙を見ると、やはり安堵した表情だったが、ソノ奥にあるカルの表情は鬼気迫る迫力があり、あきらかに不満を殺した様子だった。




 そこからの取り決めは極めてスムーズだった。

 まずはお互いの負傷、死傷者の捜索と治療を最優先とすることが決まった。

 武器の携帯は互いの装備のみとし、集積、備蓄されてる装備の問題は、相互不干渉を維持することで合意された。

 他には、環境の激変を考慮し、状況が確定までは森林地帯への探索を控えることも決められた。そして、最後に、これはスメイル側を混乱させた提案だったが、女性も積極的に発言する。ということも、犬塚は提案した。


「日本では能力に対する評価に、性別の差はない。ザジィさんにも通じる理念なのでは?

 現に、優秀な部下をお持ちだ」


 発言を我慢するように犬塚を睨んでいたカルが、思わぬ評価に対して驚きを隠すように表情を歪めた。ソノ視線は自然とザジィに向けられる。

 犬塚にしてみれば、冬華の有能さを活かすための提案であったが、ザジィに逡巡はなく、むしろ快諾するように頷いた。


「シロゥさん」


「んっ、どうした?」


 大枠での取り決めが終わった直後だった。肩の力を抜いた瞬間、花蓮に声をかけられた犬塚の返事は、どこか絞まりに欠けていた。

 対して、花蓮の表情には親しい教師へ向けるような柔らかい笑みが浮かんでいる。


「あのですね、お手伝いぃ、したいですぅ。応急処置ぃくらいならぁ、できると思いますんでぇ」


「そうなのか?」


 高校生の、中でも控えめな雰囲気の花蓮の積極性に、犬塚は驚きを隠せなかった。


「カレンの実家は、都内の病院を経営してるんですよ。それで、カレンも医者志望なんです」

 

 思わぬ積極性に弘樹も驚いていたが、続く理沙の援護射撃の内容に、初めての花蓮の家柄を知った。同時に、弘樹は今日までのことを色々と納得してしまった。


「あの。俺も、何か手伝わせてください」


「私も、こんなですけど...」


 犬塚の苦笑は、弘樹と理沙の立候補によって、さらに広がった。


( まるでボーイスカウトだな )


 愚痴は心中で零しつつ冬華を見ると、コンバットブーツの爪先で俊介を蹴飛ばし、意識を覚醒させているところだった。

 犬塚がそうだったように、頭痛に表情を歪めているが、実際には胸部に受けたショットガンの銃撃によるダメージのほうが深刻なはずだった。防弾ベストで防いだとはいえ、肋骨を何本か骨折してるはずだ。


「なら、カレンとリサは、あそこにいるうちの新米を見てやってくれ。多分骨折だ。カーテンか何かを細工して、包帯変わりにするんだ。それで...」


「圧迫固定ぇ、しますね」


「ああ、頼む。ヤツも相手が美人だと素直にいうことを訊くしな」


「そうなんですか?」


「理沙はそんなことも知らないのか?

 大抵の男はな、美人が好きなんだよ」


 反論しかける理沙の肩を叩き、犬塚は「お前は俺とだ」と弘樹を誘った。そのまま冬華に近寄ろうとしたところで、SAT隊員の1人が声をかけてきた。


「主任、よろしいでしょうか?」


「ああ、もちろんだ」


 SAT隊員、村木はグレネードランチャーの砲撃で破壊された壁に犬塚を案内する。後ろに従っていた弘樹は、その光景、その姿に、思わず口元を抑えた。

 床に転がっているSAT隊員は、右半身がボロボロに破壊されており、生きているのが不思議な状態だった。

 凄惨な光景だったが、弘樹は自身に大きな恐怖心がないことにも驚いていた。

 普通ならパニックで卒倒しかねない光景や匂いを前に、不思議なくらい動揺が少ないのだ。感覚が麻痺しているのかもしれないが、奇妙な感覚の変質は、小さな不安となって、思考のしこりとなった。


「スマンなぁシロー。しくじっ、た、...みぃたいだ」


 膝をつき、左手を握った犬塚は、ゆっくりと首を左右に振った。


「悪かったなオヤっさん。木崎班にも多くの犠牲をだした。俺の独断のツケだ。すまない。」


「バァカいうな」


 犬塚と親しい様子の、50近いだろう中年の隊長らしき男。( おそらく木崎という名前だろう )は、掠れて喉に詰まったような声で、随分な無理をして笑みを浮かべていた。


「君がぁ、人質だったぁ、兄ちゃんか?」


「はい、そうです」


 少ないとはいえ、惨状にショックを受けていた弘樹の返答は、上ずったような声になっていた。


「よかったぁなぁ。

 シローよぉ。お前は正しいぜぇ。目ぇ...目の前の一人を助け、られねぇいで、何のため、の...警察だ。俺はなぁぁぁ、お前が、飛び込んだ時ゃよぉ、ガッツポーズだぜ。...悔いるんじゃね、ぇ。生きてる。その子が生きてぇるんだぁ。

 お前はよぉ、そぉれで」


 ガクガクと震えだした木崎の肩を抑えようとした犬塚の手は、左手で払われた。続いてソノ手が犬塚の襟首を掴む。

 そして、ミシッと音が訊こえそうな勢いで、木崎が犬塚を引き寄せる。


「信じた道を、突き進め」


 そこだけは明瞭な声で伝え、しばらくして、犬塚が木崎の絶命を確認した。

 深い静かな沈黙が落ちた。


( 死んだ。こんなに、簡単に・・・ )


 弘樹は、無骨な木崎の顔に安らかな表情を見て、自然にこみ上げてくる感情と戦った。犬塚だけではなく、こういった他の警察官の犠牲があって、自分や理沙、花蓮は生きている。無意識に合わせた手が、意図せずに震えた。


「自分らで運びます」


 肩を震わせて嗚咽する村木の進言に犬塚は頷き、「よろしく頼む」と告げると、その場を後にした。

 コートや上着を脱いだ犬塚にならい、弘樹も制服のジャケットを脱いで、2人で周囲の遺体を屋外に運びだした。

 遺体には作業服もいれば、アサルトスーツもいる。銃弾に抉られてる程度ならマシなほうで、欠損の激しい遺体は、腕や頭部が失われていた。

 恐怖心が少ないとはいえ、人生で初めての濃厚な血の匂いと死体の感触である。弘樹は吐き気と戦いながら、無言で遺体を運んでいた。礼を尽くすべき自分が、吐くなんて失礼だ。呪文のように繰り返し念じながら、作業を続けた。

 スメイル人と警官の殉職者の遺体は60名を超え、負傷はしているが、生きていたという者はSAT隊員に1名、スメイル人が2名だけだった。

 弘樹の外傷がそうだったように、銃撃や砲弾の破片を受けたはずの怪我は、かなりの軽傷になっていて、その現象のお陰で生きているのだった。

 体育館という限定された空間での戦闘は、互いに大きな被害を与え、生き残った人数は4分の1にすぎなかった。

 犬塚の胸中に、戦闘の凄惨さと犠牲の大きさが、改めて突き刺さってくる。


「すまんな。本来なら、弘樹は俺達が保護するべき被害者だ。

 判って欲しいんだが、安全の保障はできない状況だ。だから、俺達から離れるな。少なくとも、危険度は下げられる」


「いえ。お陰で俺たち、生きてますから。それと...みんな、埋めてあげるんですか?」


 弘樹の質問に対し、犬塚は肩をすくめた。


「文化の違いってのがある。埋葬にはザジィと協議が必要だな。心情的な部分は度外視しても、疫病の原因にもなるしな。

 なんらかの処理は必要なんだが、どちらにせよ、夜になっちまった。全ては、明日の話しだな」


「明日。...明日になれば、色々と解決しますかね?」


 犬塚は弘樹の不安を、その核心を理解している。それは、自分自身の不安でもあるからだ。不安というよりも、今後の騒乱を予期しているというほうが正しいかもしれなかった。

 事実、犬塚は長期戦を確信している。明日、救助隊が来るとか、状況が判明するとは思っていないのだ。


( 目が覚めたらジャングルの中 。しかも反政府軍と暴力団、ついでに高校生だ。

 嫌でも騒ぎになるよな)


 動乱の予感が弘樹にも、他の者にもあるのは容易に想像できる。今は歯車も噛み合っているように見えるが、今後の細かな調整、協議において、対立は避けられないだろう。

 高校生を除いて、全員が暴力、武力を生業にしている集団だ。この場合の対立とは、当然のように武力衝突も視野に入ってくる。冬華は有能なディベート力の持ち主だが、調停役としては立ち位置が警察である以上、反政府組織との折り合いは難しいだろう。とはいえ、その冬華に頼らざるを得ないのも現状だった。


( やはり、衝突は必至か。政治は、苦手なんだがな... )


 この場合の政治とは、ザジィ一派との意見調整であり、その内容は犬塚と冬華の間でさえ食い違う可能性が高かった。

 一致する利害も多いだろうが、根本は警察と反政府組織。水と油なのだ。互いに譲れない部分も多い。考えるほどに、さらに頭痛が増す思いだった。


「正直いって、俺も混乱してるんでな。今は努力するとしか約束できない。すまないな」


 むしろ混乱しないほうが、おかしかった。現状、冬華と俊介が携帯電話と無線の両方を試し、通話、通信が不可能なのを確認している。

 世迷言のような物理学講習が思いだされたが、荒唐無稽な仮説に着地するには、犬塚もリアリストにすぎた。

 解答保留の逃げ口上だが、我慢してもらうしかなかった。特に今だけは。


「いえ、ありがとうございます」


「礼なんぞ、まだ早いぞ」


「そんなことありません。俺も、リサやカレンも、生きてます」


 不意に、つい先ほどの木崎の言葉が蘇った。犬塚は無理やりな苦笑で応えたが、内心の衝撃は小さくない。

 生きている。その弘樹の言葉はシンプルであるだけに真理でもあった。


「なぁ弘樹、理沙はイイ娘だな」


「なっ、いやっ、何なんですか、いきなりですか?」


( 青春ってヤツか? 判りやすいもんだ )


「だがな、イイ娘は文明の中じゃないと生きていけない。それが現実だ。

 お前は理沙を守れ。お前にしかできないことだからな。俺も、俺ができることをやるさ」


 現状、目先の事でさえ問題は山積みだ。まずは水や食糧の問題であり、負傷者の救護に必要な医療品も必要だった。何より、コノ地域の把握は放置されたままだった。

 視界を巡らすと、武器を集積した木箱の前で、カルとスメイルの兵士達が缶詰めを配りだしていた。隠密作戦が前提だったゆえ、この人数でも保存食の備蓄は数日分は賄えるとのことだった。だが、ソレもすぐに火種となる問題だった。


「大丈夫です。リサは、俺が守ります」


 弘樹の言葉に、犬塚は苦笑で応えた。他の誤魔化し方を知らなかったからだった。残った警察官を束ねる立場としては、ダイレクトな感動を高校生相手に悟られたくなかった。なによりも実直に過ぎた、直球にすぎた情熱は眩しかったのだ。


「ザジィさぁん、よろしぃですかぁ?」


 誰かがザジィに話しかけると、特に相手が女だと、必ずカルの敵意の視線が刺さるのだが、気づいてないのか、気にしてないのか、花蓮は平気で話しかけていた。


「どうした?」


 ザジィは、特に理沙や花蓮といった女子高生には穏やかに対応していた。カルも含めて、ザジィを知る者なら、若手に対する寛容さは周知のことだったが、やはり不快感が拭えないのだった。


「食事にするならぁですね。あの人たちもぉ、だしてあげたりとかぁ、しませんかぁ?」


 気を失っていた弘樹と違い、一部始終を見ていた花蓮と理沙は、スチールコンテナに、フジを始めとするヤクザ達が監禁されているのを知っている。

 花蓮の指摘に、理沙もハッとした表情でザジィを見つめ、続いて犬塚へと視線を移した。


「奴らは処刑する予定だった。が、一応、シローの意見も訊きたい」


「屠龍組か。一番脆弱なヤツが、無傷で生きてるってのは笑えるな。

 別に殺すのはかまわないが、最期なら、飯ぐらい食わせてやらないか?

 一応、事情も訊いておきたい。

 それに、訊けばザジィにも情状酌量の余地を...」


「あるわけがない...」


 すでに定番になりつつあるカルの展開だった。女である自分の発言をカルはザジィに詫びたが、犬塚とは女性の発言をフリーにする約束がある。部下へも厳しい視線を向けることがあるが、謝罪に対するザジィの態度は、基本的に寛容だ。


「ヤクザは俺達の罪人だ。俺達の法によって裁く。その認識は変わらないぞ」


「ああ、それで構わない」


 冬華の「ちょっと」という非難を制して、犬塚が合意した。

 弘樹の屠龍組への内心の恐怖と憎悪を悟っしてか、犬塚の同意を求める視線は弘樹にも向けられた。

 おそらく、弘樹への過剰な暴力の張本人であり、容認できる相手ではなかったが、頷いてはみせた。それは、義理での頷きに過ぎなかったのだが、今の犬塚にとっては大きな問題ではなかった。


「なんじゃいお前ぇら、殺すぞっ」


 解放したコンテナから威勢よく飛びだしたのは、弘樹も声を覚えている「フジ」だった。その他の4人も続いて横柄な態度で外へでてきた。

 口々に怒声を張り上げていたが、それも数秒のことだった。

 直後、抵抗も何もない。ザジィの配下が流れるような連携で殴打、拘束し、銃口を突きつけていた。

 ソノ流れるような拘束術に、弘樹は背筋が凍る思いだった。昨夜は理沙を守りたい一心だったが、弘樹は自分が如何に無駄な抵抗をしたのかを思い知る。

 犬塚や冬華がそうであり、このザジィや配下がそうである。強さの桁が違いすぎるのだ。


「奴らはアンタらへ武器を供給。『例の爆弾』も密輸、運搬してきたはずだ。なんだって、処刑になっちまうんだ」


 犬塚は配られた牛缶を頬張りながら、和やかな雰囲気でザジィへ尋ねた。ヤクザが銃を突きつけられてる事は、関係ないといった態度だ。


「コイツらは約束を破った」


「詳しく訊いてもいいかい?」


 まるで「朝飯は何にする?」というような口調だった。ヤクザ達は自分の命の軽い扱いに驚き、恐怖し、憤った。


「手配された車はどれもポンコツで、期限の証明、車検というのだったか?

 それもなかった。日本の警察はソノ車検がないだけでも、逮捕の対象にするのだろ?」


 逮捕は大袈裟だなとも思ったが、車内を調べられたら銃火器が露見するのだ。ザジィの危惧は、反政府軍の立場からすれば正当な処罰の対象だろう。犬塚は理解を伝える意味で頷いた。


( 笑えるな。俺がテロリストの側に立って、同意するとはな )


「調達された武器は統一性のないバラバラの種類。加えてオモチャのような無線機。C4や地雷、光学反応センサーが欠品。アジトにはハイスクールの侵入者。

 あげくに、その、まだ若い少年少女を殺すと騒いだ。我らの敵は日本人ではないのにだ」


 軍が同一装備で武装するのは、幾つかの理由がある。点検整備の利便性の向上や、弾薬の共有化などは、現地での補給を見込めないゲリラにとっては重要かつ切実な問題でもある。銃器の故障なども、予備パーツとして他の故障した銃器の修理へと流用できるなど、利便性が広がる。ザジィの非難が道理だった。


「最後に、渡した金額に釣り合わないと文句を言ったら、覚醒剤をだしてきて、損失補填だと吹いてきた。

 我々の活動資金は、貧しい民の血肉の支援で賄われてる。ハンバーガーとコーラで育った、ヤクザのブラックマネーとは、重さが違うのだ。

 血は血、肉は肉で返す。金には金を返すべきだ。なのに恩着せがましく、『堕落の象徴』を金代わりに押しつけてきた。

 偉そうな悪党だ。ヤクザは、別に偉くはない。殺すと決めた」


 壮絶な理屈だったが、大局的には正論の部分も多かった。

 弘樹にはよくは判らない部分もあったが、ある程度は理屈として納得できるものもある。ただし、その内容は超がつく感情論にすぎない。まるでゲームの子供裁判所の判決だった。

 とはいえ不思議なもので、ザジィの話しには奇妙な説得力と、魅力があった。ザジィが正しいようにも思えてくるのだ。

 犬塚はペットボトルの水を煽り、頷きながら、笑みを深めていた。


「シャブの価値が判らないんかよ?

 おぅダンナ、教えてやってくれよ」


 拘束時に殴打されて、痣だらけの顔になった角刈り男、藤が横槍を入れてきた。

 屠龍組の5人は例外なくチェーンで繋がれ、食事も与えられないまま、コンテナにロープで拘束されていた。

 冷静に考えれば、その藤の言動も可笑しな理屈だった。対価としての覚醒剤の相場価格を、刑事である犬塚に証明しろと言ってるのだ。


「ザジィ、いくら払ったんだ?」


「円で3億だ」


 職務上冷静さを求められるSAT隊員からも、驚く声があがっていた。


「ここにある装備は、高く見積もっても3千万ってところね」


 冬華の概算に、一瞬カルが反応したが、協議で女性の発言は認められている。ただ、条件反射のように、つい、反応してしまうのだろう。


「車両やアジトの確保、爆弾の密輸を含めても、1億いかねえだろうな。で、シャブは?」


「デル、見せてやれ」


 呼ばれた20才前後の兵士は、ジェラルミンケースを持ってくると、開放して内部を犬塚に見せた。

 中にはタバコの箱程度の包みが、3つ収まっていた。それを見た犬塚の表情に、さらに深い苦笑が浮かんだ。


「まぁ、死刑が妥当じゃないかな」


「ウソこきゃぁがれ、バカたれぇが」


 犬塚の評価に、藤が騒ぎ、即座に銃口が突きつけられる。

 ザジィが何かを言う前に、苛立った表情で犬塚が立ち上がった。


「勘違いするなよクソヤクザ。今日日、ヤクザの人権なんざ、裁判所でも認めてねぇんだ。未成年への暴行、監禁。不法侵入に武器密輸、覚醒剤取締法違反。テロ活動のほう助。

 お前らは悪党のホームラン王だ。どういい逃れようと、破防法が適用されるレベルだ。どのみち極刑なんだよ。地球ではな」


「どーいう、意味、だ?」


 犬塚の表情が返事だった。こっちが訊きたいくらいだと。

 そして、犬塚の語った内容は、覚醒剤の価値がどうこうではなく、刑法の適用レベルだったが、誰一人、揶揄する者はいなかった。ザジィの側も、犬塚の側も、あまりに多くの仲間を失っていた。薬物の相場など、議論のレベルが低すぎたといってもいいくらいだった。


「犬塚さん。...いいですか?」


 理沙の声に、弘樹もドキリとする。また凄いことを言うのではないかと、ツバを飲み込んだ。

 爆発の瞬間、あの閃光炸裂の手前で、理沙が避難を拒否した時のことを、嫌でも思いだしてしまう。


「ああ、言ってくれ」


「その、...今の状況は判らなくても、ここまでの話しも、なんなのかも、知りたいと、...そう、思います」


「そうだろうな」


 唐突だったが真っ当な提案であり、それは弘樹も知りたいことだった。

 ただし、犬塚にとっては複雑な事情があった。理沙に同意する返事をしておいて沈黙すること、30秒が過ぎる。


「ザジィさん」


「対等だと合意している。ザジィでいい」


「判った。では、改めてザジィに提案がある」


「想像できるさ」


「だろうな。

 これから、高校生達に状況説明するが、これは日本側の、警察サイドの見解になる。スメイルの解放戦線にとっては、差異もあるだろう」


「判る話しだ」


「情報の共有と、事態解決までの協力を頼みたい」


「他の事、例えばヤクザの処遇や、武器弾薬の所有権なんかは除外して、というこで、いいのならな」


 木箱とその周囲に積まれた武器へは視線を向けず、犬塚は内心の舌打ちを隠し、同意した。

 現状、武器の保有数は、そのまま戦力となる。負傷者を除き、生き残ったのが警察官8名、スメイル解放戦線が8名と同数である以上、武力の強弱がそのままパワーバランスとなる。

 微妙な立ち位置だが、ヤクザと高校生も、犬塚達警察官と同じ日本人であることを考慮すれば、特にヤクザ5人などは、その処遇を警察には譲るわけにはいかないのだろう。

 殺して日本人の総数を減らしたほうが、バランスの均衡を保つには都合がいいのだ。

 この場での武器議論を棚上げした配慮は、むしろ善意に近いとも思える。犬塚も譲歩するべきだった。


「トーカ、解説を頼めるか」


「私でいいわね、ザジィ」


 敢えてザジィへ了承をとる行為も、そのカルへの挑発も、確信犯だとしか思えなかった。奥歯を砕くようなカルの表情を無視し、冬華は柔らかい笑みをザジィへと向ける。


「俺も適任だと思うが、あまり部下を苛めないで欲しいな」


 流石にザジィが指摘したが、冬華はそれが同意なのか、ポニーテイルにしていたゴムを外し、フワリと髪を振った。やがて、知性的な容姿に見合う、よく通る声で解説を始めた。




 スメイル共和国。発音的にはシュメイレの方が近いその国は、ギリシャ湾を望む世界で2番目に小さな国土を有する国である。

 一般的には、73の部族からなる連合国家から歴史がはじまり、13の部族を統治した王家が、スメイルと名付けた地域での独立運動をおこしたのが起源とされている。

 各地の統合については、融和と合意の地域もあれば、戦争と侵略の地域もあり、国としての境界線は曖昧なまま、戦争だけは継続されるというのが、その国の歴史だった。

 地域的に石油も天然資源もない土地であり、長く先進国の注目を集めなかったが、近年になってレアメタル、特にプラチナ鉱脈の発見以降から、周辺国を含めた事態は一変していく。

 最初に支援に乗りだしたのはフランスで、直後にはイギリスとも国交を結んでいる。巨大な後ろ盾を得た王家は、最新の兵器で正規軍を再編制し、周辺各地を武力によって統治。

 その頃にはヨーロッパ周辺国とも条約、国交を結び、最も新しい国連加盟国ともなった。

 そして、イギリスからの強い要請もあり、新たな条約が日本とも交わされることとなり、東京、目黒での大使館設立へと進展する。

 日本国警察、特に公安においては、同盟関係にある各国の警察機構や情報機関とのパイプが存在している。スメイル共和国国内のテロ組織の標的として、日本に設立される大使館への襲撃が濃厚だとする情報は、複数の情報機関からもたらされていた。

 2005年にフランスへ亡命したロシアの物理学者、ソワ・シュミノフ・チェルネンコ博士の行方不明事件までもが関連づけられたその内容は、新設されるスメイル大使館への、駐日大使の誘拐、もしくは暗殺を含んだテロ計画が指摘され、新型爆弾を使用した破壊活動をも含まれている。といった情報だった。


「当初は、目黒での核使用も疑われたけれど、最新のチェルネンコ博士の研究テーマは、爆発力を応用した『空間の新設』という分野だったらしいわ」


 何とか思考を追いつかせていた弘樹は、ギブアップのサインで理沙を見ると、互いに目が合ってしまった。理沙にも理解不能は同様だったらしい。


「それはぁ、ビックバンみたいなぁ、ことですかぁ?」


「花蓮さんは聡明ね。まさしく、その理論から研究が始まってるわ」


 弘樹と理沙は、思わず拍手しそうになった。やはり花蓮の思考回路は、常人のソレとは質が違うらしい。

 他の、ザジィやカル、スメイルの兵士達も、母国の歴史を日本の警察官に解説されてる訳だが、ソレゆえなのか興味深そうに耳を傾けていた。「空間の新設」とかいう話しまでは。であったが。

 見てみると、根本的に「ビックバン」を知らない者が多いらしく、カルを含め、多くが顔を見合わせている。その意味では弘樹も理沙も、大差はなかった。


「脱線したくないのだけど、概略を簡単に説明するわ」


「チョー要約で頼む」


「判ってるわよ」


 犬塚の横槍に、冬華は露骨に表情をしかめてみせた。それを見た理沙は、思わず笑みを零した。


「なんだよ、何かあったか?」


「ううん。なんかさ、私達みたいだなって、そう思ちゃった」


 隣の弘樹の疑問に、理沙の笑顔は自然に広がった。


「じゃあ、始めるわよ。...その前にザジィ、爆風で火災を鎮火するっていう理屈は、理解してるかしら?」


「ああ、真空状態になるため、燃焼もおこらない。という奴だな」


「流石ね。アナタのほうが専門でしょうけど、爆風のもたらす効果についても理解してると、判断していいわね」


「モンロー効果のことか?

 学者のようには、理解してないと思うがな」


「充分よ」


 冬華に答えるザジィへ、カルは心からの尊敬の視線を向ける。自分の指揮官が、この日本人にバカにされない知性を有しているのが誇らしかったのだ。


「巨大な、という表現にするけど、そういった爆発によって、宇宙が生まれたというのが、『ビックバン』と呼ばれる現象よ。

 ある空間から全方向へ向けて、無理やりに大気を押しだすのが、爆風の効果なの。そして、その空間は真空状態になる。まるで、宇宙のように」


 全員の理解を待つかのような間をおいて、冬華が続ける。

 屠龍組の面々は、最初から理解を放棄してるような態度だったが、それは冬華にとっても問題ではなかったようだ。説明が再開する。


「その爆風を極めて強力にすれば、例えば核兵器のような威力を利用して。それも極めて限定的な空間に凝縮すれば、空間破壊、次元断層という現象が起こるというのが、チェルネンコ博士の研究らしいわ」


「空間転移とかぁですかぁ?」


 花蓮の発言に一同がざわめく。弘樹も言葉や意味は判るものの、内心の動揺は激しいものがあった。ついつい花蓮の横顔を凝視してしまう。


「もしくは、SF映画なんかである『ワープ』とか『ブラックホール』に近い発想ね。

 ザジィが使用した爆弾は、チェルネンコ博士の研究成果だと推測してるわ。警察では、そのスメイル語に該当する日本語がないから、『次元爆弾』という名称がつけられてるけど」


「体育館ごとぉ、他の星に来ちゃったんですねぇ」


 そんな口調で発言していい内容とは思えなかった。弘樹は周囲のパニックを観察し、動揺が自分だけでないのを知ると、さらに不安になってきた。

 初めて訊く話しなのは、同僚であるはずのSAT隊員も同じらしく、ザジィも含めたスメイルの面々はもちろん、屠龍組のヤクザ達も自由に動かせる足をバタつかせながら騒いでいた。


「静かにしろ。特にヤクザ。お前たちは許可なく話すな。...カル、2人ほど殺せ」


 ダンッ


 カィーンと音色をあげ、カルの引き抜いた自動拳銃の弾が、屠龍組を縛り付けてるコンテナを貫通した。

 藤を筆頭に、時間が停止したように硬直する屠龍組の面々。


「すみません。外しました」


「訓練に励めよ」


「了解」


 茶番なのだろうが、笑う者は1人もいなかった。犬塚や冬華。SAT隊員は、手を伸ばしたホルスターから、その手を置いたまま緊張していた。


「続けてくれ」


 ザジィは元の穏やかな口調で冬華を促した。


「ねぇザジィ、可能性をあげれば、タイムスリップだって否定できない。ココは太古の地球で、恐竜が闊歩してる可能性だってあるわ。

 だから、不用意な発砲は謹んでもらいたいんだけど」


「不足した情報は、部下を危険にさらす。臆病ヤクザと引き換えにはできない」


「私だってヤクザの命ごとき、路上の石ころだと思ってるわ。でも、アナタが危惧する、部下の危険を誘発しかねないのよ。それを判って欲しいんだけど」


「了解だ。可能な限り、控えよう」


 そのやり取りが着地点を得たことを認識し、ようやく弘樹は緊張を緩めることができた。もう一度理沙を見ると、大丈夫というアイコンタクトを送ってくる。それから冬華へと視線を戻した。

 銃声と罵声。爆発と暴言。こんなことは、今日何度目になるだろうか。どう考えても心臓に悪い1日だった。

 しかもタイムスリップとは?

 学校の放課後の教室ではない。ほとんどがバリバリの大人で、その戦闘能力を別にすれば、「次元爆弾」から始まり、恐竜だのタイムトラベルだのを、真面目に訊く行為自体が滑稽ともいえる。昨日までの弘樹ならば。


( それがマジなら、リサは病院にも行けないじゃないか )


 弘樹の懸念はまさにそこだった。他にも問題は山積なのだが、優先順位は揺るがない。

 理沙はどうなってしまうのか?

 思考の全てがそこに着地する。


「ところでザジィ、アナタはソノ爆弾に対して、どういう認識だったの?」


「高性能の新型爆弾で、威力は極めて限定的。大使館サイズなら、他へ被害をださずに消滅させるという話しだった」


「確かにウソじゃなかったな。マジで限定的に全員が吹っ飛ばされた。体育館ごとな」


 犬塚の意図した冷やかしに、ザジィの憤った視線。冬華は発しかけた言葉を飲み込んだ。


「謝罪しろとでも言うつもりか?」


「いや、どこの組織も風通しってのは、悪いもんだな。判るぜ、ザジィの怒りってヤツが」


 犬塚のどこか投げやりな口調に、ザジィの表情が曇る。


「日本の警察は優れた統制の下、優秀な機関だと訊いてるがな」


「腐り具合なら、ソコのヤクザどもだって知ってるさ」


「お前も腐ってるのか?」


「腐るのが嫌だから、ゴミの真似事をしてる。俺達全員だ」


「そろそろいいかしら?」


 冬華にとっても、理解を深めるための必要な衝突なのは理解していた。とはいえ、犬塚の発言内容は危険だった。やんわりと、懸念を抱かれないように気を配りつつ、論議を自分に戻した。


「ザジィに訊きたいのだけれど、今回の作戦にチェルネンコ博士や、または、ロシア人らしき人物は関係してるのかしら?」


「叔父に、いや、大佐に爆弾を託された。そんな科学者は知らない。タイからの密輸ルートで、そこのヤクザが装備と武器を含め、日本に持ち込んだ」


 密輸の経緯については、冬華の情報と一致していた。現状ではザジィの説明に矛盾はなかった。


「スメイルの鉱脈において、稀少な、というよりも、未発見だったり、知られていない鉱石だったりが発見されたとか、そんな噂とかはないかしら?」


「訊いたことがない。日本もだが、ヨーロッパが注目していたのはプラチナだ。電子産業には欠かせないレアメタルのはずだ。最近の調査で鉄鋼の鉱脈も発見され、いくつかの農村が政府軍に接収されたがね。

 そういった圧政こそが俺達が闘う理由だが、ソレが知りたいわけではないのだろ?」


「そうね。チェルネンコ博士の研究を加速させた何かがスメイルにある。行方不明とされてるけど、だからこそ、チェルネンコ博士は望んでスメイルに滞在していたはずなの。何らかの画期的な新物質を発見したのでは、と分析する情報機関もあるのよ」


「根拠は?」


「ダノバ山脈の麓。ジガ陸軍基地の消滅」


 冬華の言葉に、ザジィの配下達が動揺した表情を浮かべる。


「当初はロシア軍、もしくは中国軍による爆撃かミサイル攻撃が疑われてたはずだけど、結局調査は有耶無耶になった。そのことがフランス介入の口実になってたはずよ。

 でも、これがチェルネンコ博士の実験だった可能性が指摘されてるの。もちろん根拠もあるわ。ここに資料はないけどね」


「では、そのロシア人は王家に...」


 キシャンッ


 唐突な金属音に、警察官やスメイル解放戦線の兵士は、停滞なく所持した銃火器を構えた。

 ソノ金属音は、サブマシンガンMP5の初弾装填音だった。弘樹達高校生とSAT隊員の視線、スメイル解放戦線の銃口が一斉に村木へと向けられた。


「しゅ、主任、アンノウンタリホー」


 アンノウンとは未確認、もしくは新規発見の敵性対象であり、タリホーは視認を意味する。

 スメイル解放戦線のメンバーの視線は、村木の構えるMP5の先、グレネードランチャーの砲撃で破壊された壁の一角へと移り、即座に銃口のポイントも村木の視線の先、アンノウンへと変更された。


( なんだよ、アレは!? )


 弘樹の困惑は他の者も同様だが、苛烈な戦場において、肉体のみならず、精神的にも強靭に鍛えられたスメイル解放戦線の兵士だけは、機敏に横隊に広がりつつ、指揮官、ザジィの命令に備えていた。

 彼らに恐怖や困惑がなかったわけではないが、紛争地帯で育った兵士だけに、危機対処への条件反射は遺伝子レベルで培われていた。その意味では、SAT隊員よりも洗練された兵士だといえる。


( 小人? というよりも... )


 犬塚の思考回路はハイスピードで演算するが、有効な解答などあるわけがなかった。自動拳銃を抜きだしたものの、視線は冬華へと向いてしまう。

 冬華も思考がまとまらないのか、微かに首を横に振り、アンノウンへとマシンピストルをポイントしていた。


「全員落ち着いて。現地人かもしれないわ。

 ザジィ、無用な発砲は控えさせて」


 弘樹や一同の視線の先で、ソノ小人は、カーテンを被せてあった遺体の一つを引きずりだしているところだった。


( そんなコト言われても・・・コレって、人なのかよ )


 弘樹の疑問は全員が共有していた。


「エイリアンってことか?」


「どっちかって言うと、地底人って感じだけどな」


 ザジィの質問に答えてみたが、もちろん犬塚が知るわけはなかった。

 濃いグリーン。俗にいうブリティッシュグリーンの体表面は粘液状の光沢を放っており、その頭髪は産毛のようなモノしかなかった。衣服と呼べるのは腰に巻いた布だけだったが、ソノ衣服の装着が知性の存在を物語ってもいた。


「現地人だというのか、コレが?」


「ザジィ、領土侵犯は俺達だぞ」


「だとしても、英雄を汚す相手とは条約は結べない」


 小人は作業服の遺体を、元スメイル解放戦線の兵士の亡骸を引きずりだしている最中だった。

 ソノ身長は低く、1メートルを超えた程度だった。やがて、周囲で人が動く気配に気づいたのか、村木やスメイル解放戦線を見回すと...


 キャァァァァァ


 ソレは悲鳴などではなかった。それが威嚇目的の吠え声なのだろうことは明白だった。弘樹や理沙、花蓮は、目を閉じて耳を押さえ、キンキンと響くような声に耐えた。


「なんなのよ、チョーうるさいよぉ」


「知らねぇよ。現地人なんだからよぉ」


 理沙の質問も、弘樹の解答も意味をなさない滅茶苦茶な内容だった。

 誰もが困惑する中で、ザジィだけは鋼鉄の精神で自身を固め、憤怒の形相で小人を凝視する。闘い、志半ばで散っていった戦士は聖人となり、英雄と称えられる存在である。爪をたてて引きずりだし、辱める道理はない。そんな存在があれば、ソレは粛清対象だった。


「やれっ」


 ザジィの号令。

 スメイル解放戦線の7つの銃口が一斉に火を吹き、轟音が体育館を震わせる。

 弘樹の肩が抱かれ、続いてラベンダーの香りが鼻腔を刺激した。


「俊介を起してきて。それで、彼のそばを離れないで」


 冬華から耳元で怒鳴るように指示をされ、弘樹は理沙の肩を抱きながら花蓮も同時に誘導した。


( まただ。また銃撃戦だ。マジかよぉ! )


 弘樹の思考回路に、すでに逡巡はなかった。目指す目的地は真木俊介が寝ているボックス車。その距離は10メーターほどだ。

 俊介も皆と同様、頭痛を感じながら意識を覚醒したが、ショットガンの打撃と、今日に至るまでの疲労からか、この瞬間まで昏睡するように意識を失っていた。

 流石にこの銃撃音で目覚めはしたが、状況など判るはずもなかった。ボックス車から転がるように降りた俊介の手には自動拳銃が握られていたが、何を相手に、どう戦闘が始まっているのかは皆目判らない。


( 誰だ、どこだ、何なんだ? )


 視界をめぐらした先で、俊介と視線を合わせた冬華がいた。高校生3人を守るようにとハンドサインを送られたので、その任務だけを理解した。

 すでに緑の小人はグチャグチャの肉塊と化していて、スメイル解放戦線の面々は弾倉交換を始めていた。


「さっきの約束はどうなったのよ。何も情報が得られてないのよ」


「控えたさ、可能な限りはな。それに、殺せることが判った」


 冬華にしてみれば、現地人とのファーストコンタクトが戦闘で始まったデメリットへの懸念があったが、ザジィにしてみれば、英雄である戦死者への冒涜をする小人など、万死に値するダニと考えている。


「やってくれたわね。コノ生物が村や町という集合体の一員だった場合、数百や数千の個体と戦うことになるのよ」


「死者を汚すような文化ならば、元より友好は望めない」


 ザジィの態度には一切の揺らぎがなかった。冬華は文化、というより意識の違いを痛感していた。

 何だかんだと日本は平和な国だ。それが異国ともなれば、ある地域によっては、他者を殺すことが生存に繋がるという生活が、当然の常識として存在している場合もある。考える時間も、相手への道徳心もない。殺さないと生きてゆけない。それから未来を考えるという理屈でしか、生き残れない世界だって存在する。

 それが常識であるならば、一見して理性的に見えるザジィでさえも、当然の理屈として戦闘優先が判断される。結果、特別な平和主義者でもない冬華をも、宇宙人のように見る視線へと繋がっている。


「ガマト、2人連れて周囲を偵察。カルとデルは裏口を固めろ。残りは破口を見張れ」


 命令に従い、それぞれが役割を遂行するべく動いた。戦闘直後の高揚で殺気立つ兵士の間をすり抜けて、冬華はザジィの前に立つと、ソノ襟首を掴んだ。

 ザジィの技量ならば、躱したり振りほどくのは容易いはずだが、敢えて掴ませているようだった。ソノ行為を挑発と受け取った冬華は自分からザジィに顔を近づけた。その冬華の側頭部へ、カルのショットガンが突きつけられる。


「そこまでだ、巨乳。ソノ汚い手を放せ」


 カルが即座に撃たないのは、ザジィの顔面に火薬や肉片が飛ぶのを嫌ったというだけの理由だった。対して、冬華にショットガンを恐れる様子はなかった。もちろん、故意に襟を掴ませてるザジィの行為に対して、対話への望みがあることも計算していた。


「私はザジィと話してるのよ」


「ザジィはお前と話さない。その必要もない」


 カルのように心酔している配下の暴走は、冬華の計算できる要素ではなかった。彼らの「常識」の行動ならば衝動的に発砲、結果、冬華を殺したとしても、軽い注意程度で終わるのだろう。

 だから、全ては賭けだった。


「銃を捨てやがれ、女ランボー。俺が相手になってやる」


 その俊介の宣言に、冬華は内心の溜息を殺していた。


( 勘弁してほしいわね。少しは空気を読みなさいよ )


 堂々と宣言した俊介へは、口ではなく、状況停止のハンドサインを送った。ただし、向けた視線に厳しさを込めるのは忘れない。それきり困惑する俊介からは視線を外し、ザジィへと向き直った。その間、カルの向けた銃口は微動だにしなかったが、冬華も意に介さない態度を貫いた。


「危険すぎる。アレは既存の生物だとは思えない。おそらく未知の知的生命体よ」


「だから、対処を急いだ」


「私は、誰にも死んでほしくない」


 冬華はザジィの襟を放し、訴える口調で続けた。今はザジィの同志への感情を信じるしかない。


「自分の部下にも、民間人にも。ザジィの部下にもよ」


「武器使用はオールフリー。動くモノは容赦なく撃て」


 それがザジィにおける細心の注意なのだろうが、冬華はなおも食い下がった。


「待ってよ、こっちは相手の総数すら把握してないのよ。敵の有利なフィールドで戦力を失えば、二度と挽回できなくなる。英雄の犠牲までもが無駄になるわ」


 冬華は敢えて「敵」と表現し、英雄という称号を使った。


「なあザジィ。この場合は籠城が有利だ。朝まで粘れば、有視界戦闘で互角以上に闘えるだろう。

 それに、ヤツは松明すら持ってなかったんだ。夜目が効くと判断するべきだ。対して、コッチのノクトビジョンは数に限りがある。

 部下の命を、博打に使うべきじゃない。」


 結局、犬塚の説得が決め手となった。ザジィが合理的な指揮官であることも幸いだったが、部下の手前、女の進言に従えないという事情も大きいようだった。

 冬華もつくづく男社会の壁を実感していた。日本の警察でさえ敢然とした男社会なのだ。それが軍隊ともなれば、さらに縛りは強く、女に言いくるめられる指揮官など、尊厳も失墜するのだろう。

 ソノ意味において、冬華は自分の浅はかさを反省した。そして、自分が女である現実に、唾でも吐きたい気分にもなった。

 ザジィは即座に偵察活動の中止を命令した。そして作業は変更され、本来は校舎との連絡通路だった東面入口や裏口をチェーンで封鎖した。さらに破壊口の周囲に車両の残骸や折り畳み式のテーブル、パイプ椅子などでバリケードが構築されていった。

 作業が進められる最中、犬塚と冬華、ザジィとカルの4人で、緑の小人の遺体が調べられる。


「一応、血は赤いけど、出血量は少ないわ」


 冬華の見解を受け、ザジィも膝を突いてズタボロになった肉塊を間近で観察している。


「内臓もあるが、筋肉も含めて、全体的に白色の筋肉組織だ。まるで、カエルだな」


 カルはカエルと訊いて顔をしかめたが、遺体やその惨状への恐怖心はないようだった。むしろ、犬塚のほうが口元をハンカチで押さえ、聞き役に徹していた。


「主任、動きがあります」


 破壊口の外で周囲を監視していた村木が、犬塚に報告する。


「ザジィ」


「了解だ。中へ戻ろう」


 犬塚達は、バリケードの内側に滑り込み、村木の報告に耳を傾けた。


「不自然な気配を感じました。念のためですが」


 不明瞭な根拠だが、非難する者はいなかった。それは、訓練を積んだ特殊部隊員の見解なのだ。


「何か視認したか?」


「いえ、ノクトビジョンにも反応はありません。ただし、リス1匹いないという意味で、ですけどね」


 犬塚の問いに、村木は周囲に伝わる最低限の声量で答えていた。 

 ノクトビジョンとは赤外線暗視装置のことで、生物の発する体温を解析、投影する暗視鏡である。通常ならばヘッドマウントタイプを使用するのだが、装着していた隊員は全員死亡しており、その装備も爆風で破損、使用不能となっていた。

 生き残った村木ともう1人だけが、スコープタイプのノクトビジョンをMP5に装備しており、ソレを活用した偵察結果だった。

 そして、その報告は、小動物ですら1匹もいないという内容であり。異様な事態であるのは、スメイル人の兵士にも理解できていた。

 ザジィは迷わず戦闘警戒のハンドサインを送り、チャチャチャっと連続して安全装置を解除する音が続いた。

 犬塚と冬華も、ザジィから貸与という形で渡されていた自動小銃の安全装置を解除した。

 屠龍組へのザジィの非難は適正で、集積された小銃の種類は確かにバラバラだった。だから冬華がM4、犬塚がACRという具合に、弾倉が共通で使える5.56mm口径の小銃が渡されていた。

 最も多かったAK47自動小銃と、7.62×39mm弾は、スメイル解放戦線が優先的に使用すると取り決めてあった。

 すでに全員が初弾を装填済みであり、発砲の準備は即座に整った。


「真木。アナタは、高校生を守りなさい」


「了解です」


( 来る。間違いない )


 唐突だったが、冬華は確信していた。不気味な視線と気配を感じるのだ。

 ソレは知性の欠片もない欲求の眼差しであり、攻撃性を欺瞞しないストレートな衝動でもあった。ソレは獣であるが、何故か人に近い感覚でもあった。


 シャァァァぁぁぁっ


 次の瞬間、唸り声とともに矢のように跳躍した小人が、破壊口の外に着地する。小人はそのまま跳躍姿勢に入り、突入の意思を隠そうともしなかった。


「撃てっ」


 ザジィが躊躇なく号令し、停滞なく銃撃が開始される。

 小人は待ち構えていた一斉射撃によって、瞬時に肉塊へと変貌した。交渉は無用。即座に殺すという判断に従い、躊躇する者は1人もいなかった。


「まだだ、再突入に備えろ」


 ザジィの指示が終わらぬうちに3匹が、次は5匹がという具合に、破壊口に緑の小人が殺到した。

 こちらの武器の威力は見ただろうに、小人に臆する気配はなかった。

 

「スゲー数ですよ。俊介さん、マジでダイジョーブなんですか?」


「大丈夫だ。根性さえありゃぁ、こんなのへっちゃらだっ!」


( なんだか、ヒロキが2人になった気がする )


 理沙の内心での感想は、花蓮も同感だった。壮絶な銃撃を前に本来なら感じているはずの恐怖心は薄かったが、ソコへの疑問には思考が及ばなかった。


( けどよぉ、根性だけじゃぁキリがねぇぞ )


 バリケード中央付近で弘樹達高校生を背にし、自動拳銃を撃ちまくっていた俊介だが、弾倉交換のタイミングで弘樹達とともに後退を選んだ。拳銃では装弾数と火力が小銃には及ばない。だからスメイル解放戦線の兵士、ガマトに場所を譲ったのだった。

 その俊介が遮蔽していたワゴン車のボンネットに据えられたのは、ブローニングM2ヘビーマシンガンだった。

 12.7mmの巨弾を毎分700発以上の速度で連射。有効射程は2キロ、最大射程は6キロ以上を誇り、弾速は音速の3倍というオーバーパワーである。その高火力を、8メートル前方に殺到する緑の小人の群れへと撃ちだした。

 その威力は絶大であり、直撃しなくとも、擦過した衝撃波だけで腕をもぎ取り、頭部を吹き飛ばしていく。

 最後は稼働する車両がバリケード付近に移動し、ヘッドライトで外まで照らしての掃討射撃となった。流石に逃げ散る小人の群れだったが、ザジィは追撃しようとする部下を制止した。

 そうして肉塊の山となった破壊口を前に、5分に満たない戦闘は終了した。


「40~50匹は殺したか、逃げたのは2~3割。20匹もいないだろう」


「もう今夜の襲撃はなさそうだな。交代で見張りを立てて休まないか?」


 ザジィの見積もりに対して、犬塚の見立ても大差はなかった。提案された休息に、ザジィも頷いた。


「3交代だ。最初は解放戦線が見張ろう」


「なら、うちの新米も貸し出すよ。SATは2直目に見張りに立つ」


 抜け目なく自分の配下を混ぜてくる犬塚の提案に、ザジィはむしろ好感を持っていた。明確に敵対こそしてはいないが、警察とテロリストという関係上、味方だと信じ切るわけにもいかない。こういった相互監視の緊張状態こそが、時として平穏を保つ要因にもなる。


「ならば、その2直目にはガマトをだそう。3直目はどうする?」


「俺とトーカ、それとザジィとカルってのはどうだい?」


 ザジィは笑った。いいアイデアだと思ったのだ。

 その配置事態に大きな混乱はなかったが、戦闘中も拘束されっぱなしで、食事も与えられていない屠龍組の面々は、激しく騒いでいた。

 飯ぐらい食わせろ、豚箱だってその程度の温情はある。

 トイレに行かせろ、できなければここでだす。

 拘束を解け。眠れないし、人権蹂躙だ。等々といった具合だった。


「外に放りだすべきでは?

 オトリやエサにできます」


 ザジィへのカルの提案に、藤がさらに激高した。


「女ぁっ、てめぇいい加減にしやがれ。犯られてぇってんならよぉ、素手で勝負しやがれ」


「本気で言ってるなら相手してあげるよ。ワタシも嫌いじゃないしね。切り取って集めてるぐらいだ」


 カルの暗い視線を受けて、藤がさらに目を剥きだした。ある意味、それは怯んだようにも見える。


「ガマト、3人連れて、こいつらの用足しを見張れ。カルも相手にするな」


 この時のザジィの指示は、溜息を交じりだった。ヤクザという生き物の逞しい主張に呆れてもいた。


「それと飯だ。何か食わせろ」


「勘違いするなよ」


 さらなる藤のふてぶてしい態度に、今度はザジィの目つきが変わった。


「食事が必要なのは民とそれを守護する戦士だ。寄生虫の犯罪者に、血肉や金の重さが判らんゲスに、食わせる食料は一粒もない。

 だして寝ろ。できなければ、カルのアイデアを採用する。以上だ」


 職業犯罪者が恐喝で使う「殺すぞ」は、所詮は交渉術のひとつにすぎない。対して、障害排除として日常的に「殺すぞ」をやってきたスメイル解放戦線の兵士、その指揮官にとっては、殺人は日常の業務のひとつにすぎなかった。

 あまりにも簡単な決定に、藤は再び自分の生命の軽さを突きつけられていた。


「今は気にするな。警部や先輩が上手くやってくれるよ」


 一部始終を見ていた弘樹に、俊介が声をかける。

 弘樹にしてみれば、理不尽な暴力の苦痛と恐怖への憤りもある。溜飲が下がらなくもない光景だったが、徹底した白と黒の判断で行動するスメイル人は、やはり外国人であることのギャップを感じざるを得なかった。


「俊介さんこそ、身体、平気なんですか?」


「俺のは痛いだけだ。根性で平気なんだよ」


 その明るく力強い雰囲気は、犬塚やザジィとは異質な、頼れる兄貴的な親近感と安心感を与えてくれる。弘樹は即座に好感を持っていた。


「俊介君。アナタもスコップを持って、穴掘りを手伝いなさい。トイレ変わりよ」


 と、冬華の声がかかる。


「理沙さんと花蓮さん。私とカルが護衛するから、トイレを済ませましょう。男は、その後よ」


 冬華の指示を訊きながら、弘樹は、この長い1日が、ようやく終わろうとしていることを実感した。

 屠龍組の面々を絡めた騒動は別として、頼もしい大人に囲まれている安心感だけは、不幸中の幸いだとも思えた。

 とにかく疲れている。明日だ。明日頑張ろう。

 作業を終えた弘樹は、気絶するように眠りについた。




 朝を迎えると同時に、昨夜の凄惨な戦闘はさらに浮き彫りにされた。

 陽光の下。警察官とスメイル人に加え、緑の小人の亡骸の存在が、視覚で無残さを、嗅覚で悪臭を主張していた。

 ほぼ総出で穴掘りが開始され、屠龍組の5人も、その作業に投入された。相変わらずヤクザ特有の不平はあったが、流石に食事が与えられ、打ち合わせでも意見を許されたことで、彼らの言う人権は最低限で守られてもいた。

 悪臭と闘いながらではあったが、共同作業とは不思議なもので、お互いへの奇妙な連帯感のようなモノも生まれていた。

 埋葬と並行し、全ての遺体から使用可能な装備も回収された。一方で、緑の小人とソノ残骸は、廃棄物として一か所にまとめて埋められる。

 埋葬のさい、ザジィの祈りと犬塚の別れの言葉があり、全員がスコップで土をかけ、卒塔婆が立てられる。

 葬儀と呼ぶには簡素にすぎた内容で、見かねた理沙と花蓮は花を摘んできたいと申しでたが、ガマトが驚くほど丁重に断りを告げてきた。

 ガマトの説明では、埋葬できただけでも僥倖なのだという。その解説とガマトの薄く悲哀を含んだ表情に、弘樹は戦場の厳しさを改めて実感していた。

 ソレとは別の理由で、冬華からも、危険が残る森への探索は禁止されていた。

 昨夜の小人による襲撃が例であるように、周辺に潜んだ危険は他の捕食獣や毒性植物などの可能性を含め、払拭できない不安として精神にも鬱積している。そのストレスは呼吸を圧迫するような息苦しさすら感じさせた。


「安全ってぇ、凄いんですねぇ」


 花蓮の呟きは世の真理の一端だった。自然の摂理を前に、母国日本の平穏さが痛いほど突きつけられるのだ。


「私もソウ思うな。日本って凄いんだね」


「ですよねぇ。テッポウもあんなに撃たないですしねぇ」


 理沙の発言に対する花蓮の答えは、まさに弘樹の考えることでもあった。今や銃撃戦は日常的で、山のように人間が死んでいる。それは慣れてはいけない状況だと思っていた。


「なんかさぁ、あんまり恐怖感がないんだけど、俺っておかしいのかな?」


 むしろ自分の異常さを疑っていた弘樹だったが、2人の様子も妙に落ち着いて見えたので、思い切って尋ねてみた。


「ソレって、私もなのよね。昨日の夜とかも、怖いのは怖かったけど、あまり怖くなかったし。

 弘樹もソウだったってことは、慣れちゃったのかな?」


「私もですぅ。小学校の時はぁ、凄い怖かったんですけどねぇ」


( やっぱソウなのか。でも、どうして怖さが減ったんだ? )


 弘樹は自身が考えて判る問題だとは思ってなかったが、花蓮が医療に関わる家柄なのを思いだしていた。


「なぁカレン、体験が凄すぎると麻痺するみたいな、そういうのって、映画とかであるじゃん?

 ああいうのって、こういう状況なのかな?」


「精神科の分野はよく知らないんですよねぇ。でも、それにしたってぇ、順応が早すぎませんかぁ?」


「そう言われてもなぁ。正直、こんなのと比べる体験がないからな」


 弘樹の感想に、理沙も自分の体験を思い起こす。考えてみれば、自分は数年の余命を宣告されているし、その当時は部屋に引きこもって夜な夜な泣き暮れていた。

 もっと言えば、単純な怖さだったらホラー映画のほうが、恐怖で死ぬような驚きを体験してもいる。ソレに比べれば、銃弾や砲撃で破壊された遺体は、本来ならトラウマになるくらいショッキングな光景になるはずだった。だが、現実の理沙には残虐な遺体を目にした精神的苦痛は、ほとんど存在しないのだ。


( もしも麻痺しちゃったんだとしたら、私って、かなり残酷だよね )


 自己嫌悪の感情が沸いても、やはり恐怖を感じないという不安は、自分自身でもしっくりとこない違和感を抱かせていた。

 結局、弘樹達の疑問は解けないまま、遺体からの回収品も含め、武器や弾薬の点検が始まった。

 破損して使用不能となった銃器も予備パーツとして使用できるため、ジャンク品と使用可能を分けてコンテナに格納することになった。チェーンを回して施錠すると、鍵はザジィの管理ということで落ちついた。

 犬塚と冬華の自動小銃はそのまま預けられていたが、俊介はSATの殉職者から回収したMP5サブマシンガンを選んでいた。ザジィからはサブマシンガンと自動拳銃の共通弾薬である9mmパラベラム弾が2000発、警察チームへと提供されていた。


「今後の戦闘を考慮すれば、決して多い量ではない。使いだせば、弾薬はすぐに尽きるからな」


 というザジィの解説は、犬塚も納得しているようだった。山と積まれている銃器も所詮は発射機であり、殺傷力の要は銃弾となる。その弾薬が尽きれば、銃器もガラクタ同然という道理だ。ソレは明快な理屈であり、高校生の弘樹にも理解できる説明だった。

 それらの仕分け作業が完了したのが昼過ぎだと思われたが、そもそもこの地域なのか、この星なのかが、24時間の1日なのかも疑問だと、冬華は指摘していた。

 そもそも太陽はあるが、未だに月は誰も見ていないのだ。

 決定的だったのは花蓮と冬華の指摘であり、樹木や草花が、ひとつも判別できない未知の植物という事実だった。

 どれも、どこにでもある植物に見えるが、葉の形や花の形状を観察すると、知っている植物がないのだという。


「結論とするには早計だけど、他の天体に来たか、異世界ってことになるわ」


「進化する以前の、太古の植物だという可能性はないのか?

 タイムスリップという説は、なぜ除外できる?」


「昨日のヤツ。緑のアレよ。私達が殺した」


 犬塚やザジィの前で、他の者にも訊こえる声で、冬華は持論を披露した。


「アレは群れで襲ってきた。つまり、個体としてではなく、それなりに数のすそ野がある生物だわ。たとえば猿みたいに、群れで生活してるはずよ。

 でも、不規則に曲がった腰の歪な骨格。発達した犬歯。加えて2足歩行。あんなの、化石で発掘された例を、私は知らないわ。

 植物だって否定の理由になる。恐竜時代なら、もっと巨大な植物なはずだし、そもそも環境として、酸素濃度も違うはず。だから、ココは地球じゃないわ」


 確かに強引な部分もあったが、否定する材料はもっと少なかった。


「ここが宇宙、っていうか、つまり他の星だった場合。地球に帰る方法は絶望的だったりとか、ですか?」


 俊介の質問はもっともだったが、同時に愚問でもあった。


「タイムスリップだったとしても、帰る方法は確立できないでしょうね」


 冬華は「見つからない」ではなく、「確立できない」という表現を使った。ソレは理論上方法があったとしても、自分達の持つ知識と技術では無理だという意味が込められている。

 弘樹は揺さぶられる感情のままに、理沙を見つめた。


「なによ、気持ち悪い」


「いや。だってさ・・・」


「しょーがないじゃない。宇宙なんだから。さ」


 弘樹は理沙の不貞腐れたような表情の裏に、奈落へと沈んでいく絶望があるのを見抜いていた。20才まで生きられない理沙が、医療の援護を失った場合、余命はさらに短くなるはずだった。

 気丈に振る舞う理沙の様子に、弘樹の絶望感もつのっていく。

 やがて、周囲を偵察にでていた兵士から、200メーターほど先に川が流れているとの情報が飛び込んできた。冬華は改めて犬塚とザジィを交え、自分のアイデアを提案した。


「水自体に問題がなければ、有効に利用するべきだと思うんだけど」


「部下が持ち帰った水だが、特に問題はなさそうだ。一応は煮沸するが、鳥も飲んでいたらしいしな。むしろ、綺麗な水だ」


 ザジィの判別は原始的な見分けだったが、現状では毒性を検知する装備はなく、水質の判断は他の動物の動向で見極めるしかなかった。


「鳥が、いるの?」


「いたそうだ。もしかしたら、食えるかもしれないな」


 食糧事情も急務の一つだったが、コレでこの世界が地球に近い生態系の可能性も浮上してきていた。


「そうね。確かに、いいニュースね。

 だったら、どうかしら?

 全員が交代で、水汲みを兼ねて、川に行くの」


 それが冬華の提案だった。


「ココが未知の世界なら、この世界にあるウイルスや病原菌に、私達は免疫を持ってない可能性がある。

 身体の衛生を保つためにも、水で身体を清め、傷口を洗っておくべきよ。それに、できれば衣服も洗濯するべきね。

 あと、できればお風呂もほしいわ。」


 発言する冬華自身、昨夜はヘビーマシンガンで粉砕されたSAT隊員の血肉を浴びている。女性の嗜みを別にしても、不衛生極まりなかった。


「理屈だな。早速行動しよう」


「石鹸はないが、車にカーシャンプーがある。洗濯には使えそうだぜ。それと。集積されたドラム缶を使えば、風呂も作れそうだしな」


ザジィに反対意見はなく、犬塚も即決していた。絶望的な考察が続いていたが、その状況下において、水源の発見は明るいニュースだった。

 かくして、6~8名のグループが編成され、順番に川へと向かい、行水と洗濯が行われた。そして、手空きの者でドラム缶の風呂の作成、薪集めという流れで作業が再開される。

 女性4人と弘樹。護衛役の俊介の6名を最終組として、遂に弘樹ら女性グループが川に向かう順番が来た。





 それは確かに小川であったが、川幅は2メートルもなかった。日本でもよく見るような河原があり、比較的流れも緩く、水深も膝より下だった。


「いいか弘樹、根性だ。見たいだろうが、根性で我慢するんだ」


 この俊介の台詞は3回目だった。

 背にした小川には下着姿か全裸の冬華と理沙、花蓮がいるはずで、2人との間にはショットガンを構えたカルがいるはずだった。

 着替えとして、本来は工事作業員に変装するために用意されていた作業服と、解放戦線の保有する予備の野戦服が提供されており。それとは別に女性用の下着をカルが提供してくれていた。ただし、サイズ的に冬華には合わなかったのだが。


「滑るんでぇ、気を付けてね、リサちゃん」


「スゴっ、めっちゃ冷たいじゃん」


「背中を見せて、私が洗ってあげる」


 などという普通の会話から始まり。


「やっぱ、滅茶苦茶おーきいんですねぇ」


「そーお、花蓮ちゃんの形、キレイだと思うわ」


「ワタシぃ、小さいから...」


「なに言ってんの。理沙さんはこれからでしょ」


 という会話のあたりで、俊介はヒートアップしてきていた。


「やっぱ、見たいですか?」


 弘樹にも欲求がないわけではなかったが、俊介の露骨な態度のほうが面白かった。前を向き、視線を動かさずに質問する。


「見たいに決まってんだろ。アノ先輩だぞ。そこら辺のモデルや女優なんか目じゃねえ。死んでも見たいだろ?」


 どの先輩だよと、思わなくもないが、思春期の弘樹にとっても、圧倒的なバストの冬華へは、男性自身がが刺激されるのを意識せざるを得なかった。しかし、それ以上に昨夜の緑の小人の残党の存在が、警戒心を煽ってもいる。

 冬華の説明では、体色からも夜行性である可能性が高く、先行した3組が行水を行ってもおり、現地の偵察、監視も済んでいるとのことだ。よって、ある程度の安全は確保されてる。との見解になっていた。

 犬塚から無理矢理渡されたナンブリボルバーの感触を腰のベルトに意識しつつ、手にした60センチほどの長さの鉄パイプを握りなおした。

 不慣れな拳銃よりも、弘樹はコッチのほうが自信があった。誤射する危険を考えれば、肉弾戦のほうが確実に理沙と花蓮を守れる。

 緑の小人に関しては、昨夜、その動きを見ている。俊敏だとは思うが、弘樹の斬撃なら捉えられる自信もあった。


「まぁ、言われてみれば...ですけど」


「訊こえてるぞ。振り向いたら撃つ」


「だぁかぁらぁ、我慢してんじゃねーか」


 弘樹の返答を遮るカルの低い声に、俊介が慌てて弁明する。

 弘樹はカルが17才、自分と同い年であることも驚きだった。

 今は上着を脱いだタンクトップ姿なので、アスリートのような見事な上半身が見て取れる。肩や胸元にある傷を除けば、いや、それがあったとしても、引き締まった見事なプロポーションといえた。


「今は水からあがって、洗濯している所だが...」


「じゃぁ振り向い...」


「...振り向いたら撃つ。2人ともだ」


 俊介の意見は瞬殺された。その一方的な連帯責任の宣言に、弘樹は絶対に振り向かないでほしいと願った。

 

「断っておくが、ワタシのを見ても、お前達の命はない。地の果てまで追い詰めて、必ず殺す」


 その技量を持つ者が言うと、すでに脅しの域を超えていた。考えてみれば、カルが笑みを見せたのは、ザジィに対してくらいだった。ラテン系の顔立ちに、肩まで届かない、カールしたショートの髪型はよく似合っていたし、切れ長の目も鋭さを除けば、綺麗な瞳だった。しかし、今のカルからは本気な殺意を感じていたし、弘樹は俊介の子供じみた暴走が気が気ではなかった。

 多分、笑えばカルは怒るだろう。口調は乱暴だが、羞恥心があるという女らしさと、ある種の不器用さに少女らしさを感じて、弘樹は込み上げる笑いを我慢していた。


「待たせたわね。私が見張るから、カルも済ませてきて。

 安心していいわ。覗きは日本でも犯罪よ。そんなことする刑事がいたら、ここで撃っちゃうから」


「了解した。任せるぞ」


 カルが冬華に交代しただけで、俊介と弘樹の待遇は変わらなかった。

 冬華は野戦服、理沙と花蓮は、少しサイズの大きい作業服に着替えていた。

 プールの授業が終わった後のように、まだ湿った髪をタオルで撫でる理沙を見ると、弘樹の胸中に懐かしい記憶が去来する。

 小学生の頃は剣道の道場以外でも、プールに行ったり、その帰り道で一緒にアイスを食べたりしていた。

 洗った制服を抱えて、下手なコスプレみたいな作業服姿の理沙を見ると、ついつい置かれた現状を忘れそうになる。


「ちょー冷たいけど、気持ちよかったよ。滑るから、弘樹もきーつけてね」


「ああ。それより、他に怪我とかないのか?」


「大丈夫だよ。でも、こんなことなら、いつもの松葉杖、持ってくればよかった」


 弘樹も思いだす。車椅子もカバンや他の手荷物も、校門の脇に放置してきてるのだから、理沙の移動は片方だけの杖と、誰かの補助が不可欠になっている。理沙はそういった手間を気にしているのだろう。


「杖なら、俺にも作れると思うぜ。後で材料とか集めようぜ」


「そうですよぉ、わたしもぉ手伝いますぅ」


 花蓮の屈託ない笑顔はいつも周囲を和ませる。殺伐としたなりがちな男達の中にあって、花蓮の存在は癒しの糧になっていた。


「サンクスだなカレン、助かるぜ」


「マジ大丈夫なわけ、ヒロキって、かなりブッキーだよね」


「大丈夫に決まってんだろ、そんなモン、木と木で...」


 普段から冷徹さが強調されがちな冬華だが、青春丸だしの光景を前に、意図せず笑みが零れた。若さによる健やかな強さに、ふと自分が失ってきた代償を重ねていたのだ。

 やがてカルの洗濯が終わり、俊介と弘樹が兄弟のように川でじゃれている姿を見ても、冬華は世界の隔たりを意識していた。


( ここには警視庁はない。だから夢も野心も彼方へ。ってことね )


 すでに犬塚や仲間との野望は瓦解している。精神的支柱だった木崎も殉職し、今朝埋葬を済ませたばかりだった。

 今後は異界の地でのサバイバル生活となる。ただの生存だけを目的とした生活を想像すると、この若者たちのようには笑えなかった。自分には、そういう強さがないことを自覚してしまうのだ。


「マジでブッキーじゃん。貸してよ、こうやって洗わないと」


「これからチェンジする予定だったんだよ」


 野戦服に着替えた俊介と弘樹の洗濯を見て、理沙が口をはさんでいる所だった。

 次の瞬間、冬華の視線は、上流から歩行してくる獣を捕らえていた。


「注意して。俊介君」


 その時にはカルもショットガンを構えていたが、32口径弾クラスの鉛玉9発を撃ちだす9粒弾では、理沙や弘樹も巻き込む恐れがあった。

 冬華も射線上に花蓮を捕らえており、止むなくM4小銃を肩付けしながら距離を詰めていく。その横に横隊をつくるようにカルが並び、同様に弘樹達へと距離を詰める。




「なに、きゃっ...ワンちゃん?」


( いやいや、違うと思うぞ )


 冬華の声よりも先に反応していた俊介だったが、理沙と弘樹の前に着地した獣の姿は愛くるしさとは無縁の野生のオーラをまとっていた。全長は3メートルを超え、白銀の毛並みは陽光を反射するように輝いている。その堂々たる姿に圧倒されて、俊介も対応が遅れていた。

 大きさとしては大型犬クラスよりも大きく、全長の比率から考えても尻尾は巨大だった。普段見慣れた犬とはあきらかに違った印象であり、見る者を例外なく威圧する猛々しさがあった。


「弘樹、理沙を抱えて距離を取りなさい」


 すぐ背後で銃を構える冬華とカル。その冬華の警告に、弘樹はツバを飲み込んでから、理沙に腕を伸ばした。圧力というか、圧倒的な力の格を弘樹は感じていた。ソレは動物園で見るトラやライオンの比ではなかった。


「ちょっと待って、怪我してるみたい」


( だからなんだ、ヤバいだろ、コレは )


 捨てられた子猫に対するような理沙の台詞に、弘樹の視界は絶望で白く染まった。正直言って滅茶苦茶に焦っていた。理沙や弘樹の目の前、手を伸ばせば届く距離にその獣はいるのだ。下手な刺激が攻撃に繋がる可能性は大いにあった。

 腰の、ベルトに挟んだナンブリボルバーの感触を意識しながら、弘樹はソノ犬の挙動に注目した。


「ソノ姿。お前達、漂着者だな」


( 話した! )


 これ以上はない最大級の驚愕が全員を襲った。


「凄いスゴイ、ヒロキ、じゃべったよ」


 判ってるし、状況が凄すぎて、弘樹は思考が追い付かなかった。それは花蓮や俊介も同様で、背後に立つ冬華やカルも例外ではなかった。


「お名前は? どこから来たの?」


「ちょっと待て、なに質問してんだよ?」


「イーじゃない。話せるんだから」


 弘樹は天を仰ぎたくなった。理沙の返答はどう考えてもピントが外れている。


「怖くねぇのか、リサ?」


「大丈夫だよ。怪我してるし。それに、強い子だネ」


「いやいや、全然共感できねーぞ」


 できれば理沙を抱えて走りだしたかったが、不用意に獣を刺激したくもなかった。内心のジレンマが弘樹の判断を阻害していた。


「少し、休む。...お前達は逃げるのだ。今すぐに」


 獣は弘樹らの懸念など意に介さない態度でそう告げると、理沙と弘樹の間を通り、水から上がった。そして、河原にペタンと身体を横たえる。


「アナタは、この地域の住民ですか?」


「またソレか?

 そもそも人ですらないだろう。コレは」


 冬華の質問に、カルが正気を疑うような視線を向けてくる。それから、ショットガンのポイントを獣の頭部から胴体に移す。範囲射撃となるショットガンの威力は頭部よりも広範囲に及ぶ胴体の方が効果が見込めるからだった。

 対して、その冬華にしても、全てが半信半疑のままの質問だった。

 獣が話せるからといって友好的だとは限らないが、負傷している上、避難を勧めてきてもいる。敵対する意思がないと判断する根拠だった。

 そして、ここから逃げるにしても、なんらかの情報がほしかった。


「答えようのない問いだな。我はココにいる。それだけだ」


 獣の返答は判るような、判らない内容だった。


「ソノ武器。ライフルというヤツだな。...だが、お前達のレベルでは、勝負にならん。すぐに逃げろ。

 我が、足止めくらいは、してやろう」


「何が、アナタは何と戦ってるのですか?」


「追っ手だ」


( こっちはソレが何なのかを訊いてるのよ )


 口調には知性を感じる獣だったが、その要領の悪さに冬華は苛立った。


「大丈夫だよ、みんな強いから。ねぇカレン、何か手当てとかできない?」


 理沙の対応は心臓破裂ものだが、ソノ犬が吐いた内容に、窮地が迫ってるのは理解できる。逃げるか、保護するかの選択で冬華は思考をフル回転させる。

 コノ獣は突然の情報源だ。安易に放置する決断が躊躇われた。

 自動拳銃を抜きだした俊介と視線を合わせ、冬華は決断する。


「花蓮さん、何か処置ができる?

 無理なら、せめて傷口を縛ってあげて。弘樹君も手伝いなさい」


「おい、まさか...」


 非難する態度のカルへ、冬華はやるしかないと、決意の視線をおくった。


「俊介君、周囲警戒」


「了解です」


 俊介はMP5サブマシンガンの安全装置を解除すると、そのままセレクターをフルオートに変更した。


「カル、アナタは指揮系統が違う。撤退しなさい。それで、応援を手配してちょうだい」


「それなら、私は独自に判断させてもらう。援護するから一緒に撤収するぞ」


 ザジィからは、高校生3人を巻き込んだ事態への悔恨を訊かされてもいた。

 だからこそ必ず守るように厳命されている。自分だけ撤退して、その間に高校生の1人でも命を落としたなら、ザジィの悔恨はさらに深まり、それはカルの責任ともなる。カルは即断していた。

 昨夜の戦闘により、この地域の生物にも銃が有効なのは証明されている。そして、カルは戦闘を生業とする兵士なのだった。


「まずは傷口を洗いますねぇ。ワンちゃんさぁん。痛いと思うけどぉ、噛まないでくれますかぁ?」


 口調がおっとりなだけで、花蓮も驚いてるし、この獣は滅茶苦茶に怖かった。ただ、刃傷と思われる怪我は獣の活力を確実に奪っていた。理沙の勧めがなくとも、無視はできなかったのだ。


「大丈夫だよ。我慢できるよね」


「平気だ。それと、やるなら急げ。あまり、時はないぞ」


 どこか女性的な声にも思えたが、語り口調は男性的だった。感謝とは遠い態度だったが、なぜか横柄にも訊こえず、花蓮は自然に頷いていた。


「とにかくぅ、拭きますねぇ」


 理沙の頷きを受け、花蓮は胴体側面の腹部寄り、ちょうど体毛が薄くなる境目付近の裂傷を、たっぷりと水を含ませたタオルで拭った。続けて何度もそれを繰り返す。

 それから、手のひらに収まるような裁縫セットをポケットから取りだした。中には数本の待ち針と、白と黒の2種類の糸。ハサミと縫い針が2本だけ入っている。


「圧迫止血は無理がありますぅ。裁縫セットがあるんですけどぉ、傷を縫うので、痛いですよぉ。大丈夫ですかぁ?」


「痛みはどうでもよい。急ぎでやってくれ」


「何分かかるの?」


 獣の声と冬華の声が重なり、花蓮はオタオタと視線を泳がせた。


「あのぉ、ですから、そのぉ...」


 雑然としたやり取りの中、理沙は獣が呟くように漏らした言葉を訊いていた。


「...では、やはり...すの...か」


「えっ、なに。なにを言ったの?」


 理沙の問いに対し、獣は溜息のように息をついてから、冬華へと視線を移した。


「見たところ、お前達のレベルでは無理だ。今から逃げたとしても、無駄かもしれない。奴らは、もう、近い」


 不規則な呼吸を確認し、冬華はこの獣が、その口調よりも遥かに疲弊しているのだと悟った。理解不能なことを除外し、現状だけを構築し、素早く状況を考察していく。


「追っ手を、アナタの敵の情報をください。それと花蓮、すぐに縫合を始めてちょうだい」


 理屈ではない。この犬みたいな獣を負傷させた存在がいて、今も追跡してきているということなのだ。そして、「ライフル」を知る獣が、冬華達では勝てないと判断している。

 迫る危機を考えれば、上空へと発砲し、銃声で体育館へと異変を伝える手段もあるが、そんな追っ手が存在しない。あるいは、この獣を追尾できていない場合、不用意に位置を教えることにもなりかねない。


「うわわぁ」


 たじろぐ花蓮の声に、冬華は獣の腹部を見た。筋肉を弛緩させたとたんに、傷口から多量の血が飛沫を飛ばして流れている。緊張させた筋肉の壁で、出血を最低限に抑えていたようだった。花蓮に縫合させるために、筋肉を弛緩させたということだろう。

 理沙も傷口を抑えるのを手伝い、弘樹は自分のタオルを川で絞り、花蓮に渡していた。


「花蓮、しっかりして。お願いだから」


「はいぃぃ、がんばりますぅ」


 強い叱咤は、逆に焦りを生む要因にもなる。冬華は努めて柔らかい声を意識し、花蓮を促した。幸いにも花蓮は基本的には豪胆であり、口調ほどの動揺はないようだった。機敏に針に糸を通しながら、弘樹の洗ったタオルを使いつつ、テキパキと準備を進めている。


「犬さん、話せますか?」


 冬華は気絶を疑ったが、杞憂だった。目を開いた獣の視線は変わらぬ鋭さを有していた。


「当然だ。...奴らは人間に近い形で、深緑の身体、鋭い牙を持っている」


「その小人なら、昨日やっつけて...」


「小さくはない。お前らと同じ大きさだ」


 弘樹の安堵の説明は、獣の掠れた声で否定された。


「おそらく、ソレはゴブリンだ。我の刺客はホブゴブリン。ソレの上位種になる」


( 種類が違うってこと? 昨夜のが子供や幼態というわけではないのね )


「続けて」


 冬華の思考回路は最適解を求めてフル回転している。それは、非常識との融和と表現してもいい作業だった。自身の混乱と不信を除外し、この荒唐無稽な情報を整理する作業は、これまでの人生で最難関な構築となった。


「ゴブリンって、あの、ゲームとかの?」


 弘樹の呟きも取り入れながら、獣の解説の理解に努める。


「武装は斬系統だが、投擲武器としても使ってくる。それと、火属性の魔法を使うようだ。敏捷に動き、知恵もまわる。戦うならば、目で捕らえることは諦めよ」


( 今、マホウって言ったの? )


 荒唐無稽だという以前に魔法が存在したとして、その脅威度が不明だった。知らないモノは測れない。冬華は混乱を打ち消して再度獣を見つめた。


「銃は、ライフルで殺せるの?」


「可能だ。当たれば、致命となろう」


 それは悪いニュースではなかった。


「言葉は、会話は通じるの?」


「理解するが、交渉は無駄なこと。我の必殺だけが望みだ」


「私たちが逃げても、追ってくる?」


「間違いなく、追うだろう」


 そして、コレは悪いニュースだった。


「魔法ってのを説明してもらえるか?」


 冬華の質問を遮るように、カルが割り込んだ。

 獣へ、狂暴そうな姿へ対する態度としては、かなり普通の尋問だったが、人間へ対するような口調に、我知らず違和感を覚える。やはり、会話とは人間と行うものなのだと感じていた。


「凝縮され、さらに高温にした炎を投擲する。高位ならば防御にも使うが、ヤツらのは低位魔法。攻撃に特化した術式のみだ。しかし、低位とはいえ、人の身体で受ければ炭と化そう。完全に避ける必要がある」


「水を被っていても無意味か?」


「気休め程度だな」


 この世界では当然の知識ゆえに、獣は切って捨てるような態度なのだろう。例えば、ライターを使えば簡単に火を点けられるというような理屈に対し、「どうして火が点いた?」と質問されたなら、現代人の反応も大差ないはずだ。


「作戦がある」


 カルの即断に、冬華は慌てた。


「待ってよ」


「待てないな。ギリギリまで情報収集するつもりだろうが、説得は愚策だ」


「でも、妥協点さえ見つかれば...」


「笑えるな。なら、お前はゴキブリを殺す前に、部屋からの退去を条件に、エサを与えたりするのか?」


「...」


「ワタシらは虫けらだ。強者は交渉に価値を感じない。遊ぶ気持ちがなければ、最短最速で殺してくる」


 国が、文化が違うとは、こういうことだ。そしてこの場合、カルの思考こそが正論となる。


「時間が惜しい。まずはマキと巨乳とワタシは『気休め』をする。それから配置につくぞ」


「キョっ、せめてトーカになさい」


「あのぅ、俺らと犬さんは、どうすれば?」


 急ピッチで進行する流れに、弘樹は自分達の行動についても確認を求めた。


「お前らはエサだ、そこにいろ。どうせソノ獣は動けない」


「マジで!」


 カルの無駄を省いた最短最速の解答は、弘樹を絶句させた。


「心配するな。戦闘単位で行動する敵ならば、武装してる者から襲うはずだ。お前達は後回しにされる。多分な」


( やっぱり、多分なのかよ )


 せっかく身体を拭い、着替えた格好だったが、慌ただしく水を被り始めた3人を、弘樹は呆然として見つめていた。


「ねぇヒロキ。きっと、大丈夫だよ」


「はははっ。だからよぉ、その『きっと』とか『多分』ってヤツ。マジで不安すぎるぞ」

 理沙の根拠のない慰めに、この場合の「きっと」とは何%なのだろうと考えてしまった。血に染まったタオルを花蓮から受け取り、ソレを川で洗いながら、置いたま

まになっていた鉄パイプを足元に置きなおした。





 花蓮は他の者とは違う戦いを始めていた。縫い針を河原の石に押しつけて、なるべく均一の曲線で、釣り針のようにカーブさせる。それが終わると、傷口を丹念に拭い、切断された血管を探した。


「その方法が、お前らの回復術だったな。

 人間、不思議に思うだろうが、血を気にする必要はない。傷口が開かぬよう、接着してくれればよい」


 花蓮に慌てた様子はないものの、話す獣への恐怖心が消えたわけではない。しかも、その声は彼女のカテゴリーにおいて、悪役タイプの声だった。本当に助けてしまっていいのかとも思うくらいだ。


「本当ならぁ、局部への消毒とぉ、麻酔も必要なぁんですぅ。すっごく痛いですよぉ」


「捨ておけ。急かす気もないが、急いだほうがいい。お前の仲間が、生きているうちにな」


 傷口は、単純に縫い繋げば良いというものではない。まず考慮しなければならないのは、背中側と腹部側で、皮膚への張力が違うということだ。

 縫合箇所が元々の結合部とズレると、患部は歪となり、完治はより遅れるのだ。そして、道具も問題だった。鉗子やピンセットといった器具もなく、ポケット裁縫セットのみで代用しなければならない。さらに言えば、練習こそしてきたが、実戦は初めてだった。


( 後はぁ、ノリと勢いデスぅ)


 知性的で沈着冷静に見える風貌に、内心のおっとり口調がリズムを刻んだ。

 ダンボールや発泡スチロールで練習した時の感覚、そのテンポを現状にのせる。


「先輩、理沙ちゃん。傷口を押さえてください」


 間延びしていない口調は、花蓮本人も意識していないものだったが、理沙と弘樹は若干以上の驚きを隠しつつ、花蓮が指示したポイントで傷口を押さえた。


「それでは、始めます」


 花蓮の脳内では、大好きだったTVアニメ「オペレーション早紀」の主題歌が流れる。

 大学病院の派閥と利権に翻弄されながら、目の前の患者を救う事を諦めない。それが超能力ドクター早紀。その手術前の決め台詞そのままに、スタッフ ( 弘樹と理沙 ) にオペ開始を宣言した。

 花蓮は傷口の中央付近、腹部側から針を通し、一度傷口からピンセット代わりのハサミで針先を掴み、糸を引いてから、再度、傷口から背中側の皮膚へと針を通した。

 通常ならば端部から一針で中縫いするのだが、専用の器具もない環境で、かつ、手早い処置を考慮し、手順を変更したのだ。

 中縫いに通した針先をハサミで掴むと、そこからは見事な速さで器械結びにする。これで一針完了。

 花蓮の見立てでは10針以上が必要だった。脳内に流れる主題歌は、イントロが終わった所であった。


「マジかよ、本当に人間みたいだ」


 花蓮が2針目に取り掛かったタイミングだった。弘樹は自分達から3メートルの位置に、音もなく着地したソレに、即座に気がついていた。

 理沙も花蓮も気づいてるはずだが、もしもの場合の対処は弘樹が買ってでている。弘樹は膝立ちの姿勢のまま、鉄パイプを握り直した。


( コレが・・・ホブゴブリンってヤツかよ )


 膝下まで届いたフード付きマントは漆黒で、その顔は陰になって見えないが、作務衣のような衣服から出た腕は深緑で、薄く長めの白い体毛が、そよ風になびいている。

 腰から下は巻きスカートのように布を巻いているが、素足の指先は爬虫類のように、鋭利な爪が突きでている。

 獣が説明した通り、ソレの身長は170前後。ソレが3体横並びになり、獣を囲んだ高校生を見下ろしている。

 やがて中央のソレ、ホブゴブリンがマントから抜きだした手には、石か骨で作られたような光沢のナイフ、短剣が握られていた。


( おいおいおいおいおいっ、作戦が、作戦だろっ、カル、どうした! )


 ダンッ


 その銃声のタイミングは、確かに弘樹の思った機会よりも遅れたが、射手の技量は高かった。

 屋外での小銃の単発射撃は乾いた銃声を轟かせるが、その威力は劇的だ。中央のホブゴブリンの頭部をフードごと貫き、弾道の進行方向へと、殴られたように倒れこんだ。


( 殺った。ホントに殺した )


 理沙と花蓮の短い悲鳴が交差する中、中央のホブゴブリンが河原に倒れきる前に、左右のホブゴブリンは掻き消えるように跳躍していた。

 その挙動の凄さに、弘樹は息を飲んだ。

 早いなんてものではなかった。消えたとしか思えない速度なのだ。

 狙撃した冬華は、その成果を確認することもなく、さらに背後の岩陰に飛び込んだ。前転しながら、肩と膝を擦りむいたのを自覚しつつ、以降のカルの指示を思いだす。


( 撃ったら後退。やはり、警察と軍では違うわね )


 警察官である冬華には、この初手から必殺の狙撃という手段には拒絶感があったし、発想自体がなかった。それを兵士との違いだといえば、それも理屈なのだが、生死を分ける戦場というステージの苛烈さを、逮捕を目的とする事件現場に置き換えることはできない。目的が必殺と逮捕では、そもそもの行動原理が違うのだ。

 カルには動機を調べる必要もないし、調書もいらなければ、検事に提出する証拠も必要ない。敵に実力を発揮させない環境で、最短最速で殺す。それが全てなのだ。

 数分前、カルは早口で冬華と俊介に説明した。

 通常ならばポイントマンと呼ばれる斥候が現れ、本隊は遅れて姿を表す。先走らず、本隊の到着を待つよう厳命された。そうでなかった場合 ( 今回はそうなった ) は、その中の上位者を狙え。という指示だった。

 敬意を払われている者や、攻撃しようとする者を制止したり、他の者へ指示をだしてる者などを狙えということだ。今回の場合、冬華がやや待ちきれなかった部分もあったが、最優先の目的、敵の数を減らすという意味では成功している。

 そして、カルの説明は続く。

 敵の攻撃手段が強力であっても、遮蔽物をかわして直接冬華を狙うはずであり、必然的に左右どちらか、もしくは両翼から攻撃地点を確保しようとする。つまり、回り込んで近づいてくるはずだ。

 そこからの冬華の役割は、敵に身体を晒すことなく遮蔽物に隠れながら、オトリになることだった。

 冬華は森を縫い、次の大岩を目指してダッシュする。そして、不意に頭上に気配を感知して、意識するより先に横っ飛びにダイブした。


( ウソでしょ、早すぎるっ! )


「クっ」


 痛覚を意識した時には、顔や身体を小枝や土の地面に擦過しつつ、転倒していた。しかし、その俊敏な対応での安堵は無かった。

 左の肩口から肘までが、野戦服ごと切り裂かれ、ぬるりとした血の感触を自覚していた。ホブゴブリンの異常な俊敏さと攻撃性に驚愕する。

 冬華は常軌を逸した窮地に硬直した。50メートル以上の距離を2~3秒で詰め、樹上から跳躍して襲ってくる相手なのだ。とても、右手のM4小銃をポイントする時間があるとは思えなかった。

 眼前の黒マント。ホブゴブリンへの反撃は徒労に終わる。冬華だけならば。


 ドンッ


 地面から火花とともに腐葉土が吹きだし、ホブゴブリンの背中を巨人が蹴飛ばしたようなインパクトが襲った。

 冬華が予定地点までたどり着けなかったゆえに、また、冬華が射線に入っていたために、カルのショットガンは最適な散布帯への射撃ができなかったが、9粒のうち、5粒の散弾が腰の直上部分の背中へ着弾していた。

 自動小銃が貫通力の一点攻撃なのに対して、ショットガンは面の制圧力を持っている。その与えるインパクトは、フルメタルジャケットの小銃弾の比ではなかった。


「ハグァっ」


 人のソレとは異質な声帯が、悲鳴とも苦悶ともつかない声を発しながら、ホブゴブリンは顔面から地面へと倒れた。

 俊介の手で腐葉土に埋められ、擬態していたカルは、転がりながら腐葉土を抜けだすと、素早くポンプを操作して次弾を装填する。

 命中弾を受けたホブゴブリンは、転倒の勢いを殺さずに回転してから膝立ちの姿勢に移行し、跳躍へと...


 ドンッ


 カルの2撃目は銃身を蹴り上げられ、宙へと発砲される。

 兵士としての思考回路が驚愕を排除し、眼前に瞬間移動のように現れたもう1体のホブゴブリンへと、反射的に膝蹴りを放った。

 再度の驚愕の排除。カルは空を切った膝蹴りの勢いを活かし、そのまま後ろ回し蹴りを放った。敵の反射神経を目の当たりにし、躱されるのは予想していた。


「はあぁっ」


 カルは後ろ回し蹴りを踏込みとして、気合で吐息を切ると、続いて回転回し蹴りを放つ。上半身を捻ったままの姿勢で同時にショットガンのポンプを操作する。3弾目を装填しつつ、視界はホブゴブリンを捉えたままだ。


( 魔法ってヤツか? )


 のけ反りながらバック宙するホブゴブリンの両手が、赤い閃光に包まれているのを確認し、カルは即座に射撃を断念した。

 その思考回路は理屈ではない。危険を探知するレーダーは、一般的には「虫の知らせ」や「背筋を走る悪寒」などとして知られる。

 カルは経験則から、それらの危険を過小評価はしない。むしろ、身体は反射的に動く。意識よりも先に。

 カルはバレエダンサーのように駒のごとく旋回しながら、横っ飛びに回避行動をとる。ホブゴブリンが差しだす指先の延長線、死の直線から逃れるべく。


( ふざけっ )


 カルは全てを理解して回避行動をしているわけではない。炎の魔法というキーワードから、発光するホブゴブリンの両手に反応した結果に過ぎなかった。

 バレーボル大の高熱の火球が脇の下を通り、その余熱は上着の脇腹部分を灰と変え、ボロリと消失させる。その下の皮膚は赤黒く色を変え、火傷となっていた。

 ホブゴブリンは空中で左手からカルへと火球を放ち、右手からは岩陰へ飛び込む冬華を狙って火球を放っていた。その火球は冬華が遮蔽する岩を直撃し、盛大に火の粉を上げている。


( もう1匹は・・・後退したってこと? )


 ショットガンの散弾を喰らったホブゴブリンは後退し、姿を消していた。そのホブゴブリンが、標的を獣や高校生達に変更したのなら、すでに作戦自体が瓦解している。しかし、冬華に対抗する妙案はない。このホブゴブリンという怪物は、とんでもない身体能力だ。この1体が相手でも勝算は薄かった。


「クソ野郎がぁっ」


 ダララララララララッ


 不意に上がった真木俊介の怒声。樹上から飛び降りながら、それは半ばサブマシンガンの連射音に掻き消されていたが、充分に届く声量だった。

 冬華の内心を覆った絶望を薙ぎ払うように、森林に俊介の怒号が轟く。





 2発目の銃声が轟き、これは弘樹の知るところではないが、花蓮の脳内主題歌が1番のサビに差し掛かる。

 手にした鉄パイプを改めて握りなおした弘樹は、油断なく周囲へ視線を配る。

 花蓮の中縫い器械結びは3針目を終えたところで、理沙は励ますように獣へ話しかけつつ、花蓮の助手を続けていた。

 すぐ目の前に、即死したホブゴブリンという怪物が大の字で倒れている。その頭部はフードで隠されているが、原型からは程遠く破壊されてるのは、歪んだ凹凸から推測できた。


( 落ち着け。呼吸を鎮めて、集中しろ )


 その弘樹の背を見て、理沙は意図を理解する。弘樹と一緒に通っていた道場。警察署が管理するソコでは、弘樹は警察官の有段者と対峙した時でも、勝利を模索して精神を集中させていた。


「ホント、変わらないんだから」


「理沙ちゃん。ここも拭いてくださいぃ」


「オッケー、ちょっと待ってネ」


 縫合に集中している花蓮は、理沙の呟きなど訊こえない様子で、矢継ぎ早に指示をだしてくる。理沙には頼もしい姿であり、友人の真摯な奮闘が嬉しかった。理沙はコノ獣を助けたかった。ソノ想いに花蓮は応えてくれたのだ。

 しかし、障害の壁はいまだに高かった。ホブゴブリンと弘樹の実力差は、警察官と子供の頃の弘樹よりも離れているだろう。そして、小学生の弘樹が大人の有段者に勝ったことは、1度しかなかった。

 理沙は、心中で冬華達3人の勝利を祈った。


 トンッ


 その着地の音は、ソレの質量を考えれば極めて小さく、理沙は自分の祈りが通じなかった絶望を、弘樹の背中へ...


( 違う。ヒロキは、ヒロキが諦めてないのに...私はバカだ )


 ホブゴブリンと対峙した弘樹に、幸運を期待する思考は存在しなかった。この場合の幸運とは、冬華やカル、俊介の活躍によりホブゴブリンは全滅。めでたしめでたしだ。

 そんな展開はないと、鼻から決めている。理沙を背にして対峙する局面を想定し、イメージを続けていた。問題は1人なのか、2人なのかだった。

 結果は1人だった。しかし、ソレを幸運とは思わない。相手は連携プレーの制約を解かれ、自分の本領を発揮できる状態にあると推測する。


( 落ち着けよ。コイツ相手でも、通じるはずだ。オレの剣は )


 それがホブゴブリンの間合いなのか、今度も距離3メートルに着地して、弘樹の正面に対峙する。右手には骨から削りだしたような光沢の短剣が握られている。

 両目を半眼にした弘樹の構えは右正眼。攻守のバランスに優れた万能の構えだ。

 花蓮の縫合を手伝いながら、弘樹は記憶の引き出しから、ある逸話を思いだしていた。それは、ある侍への仇討ちを果たした百姓の物語だ。

 剣術など全く知らない百姓は、畑の前を通りがかっただけの剣士に、仇討ちのための剣術の指南を嘆願する。

 事情を理解した剣士は、ただ一つ、構えだけを教えた。

 宿敵と対峙したおりには、その構えをとり、両目を閉じて立っているようにと、それだけを指示する。

 その結果は...切りかかってきた仇は、構える百姓へと突っ込み、自ら刃に飛び込んだ。仇の首は刃に貫かれ、絶命したという逸話だ。

 この逸話は、多分に誇張された物語だが、構えの重要性を認識させるには十二分な迫力がある。完璧に習得したならば、奥義は構えで事足りるという意味だ。

 その構えこそが、最もスタンダードな中段の構え、正眼である。


( ただの少年では、なかったという訳か... )


 縫合の痛みに、霞むような視界で弘樹を注視していた獣は、そのスキのない弘樹の構えに素直に驚嘆した。しかし、それでも埋まらない実力差は敢然とあり、獣の脳裏は悲劇の予感に覆われる。


「惜しいな」


 思わず漏れた自身の声に、獣は弘樹への感情を自覚した。その呟きは花蓮や理沙にとっては呻き声としてしか認識されていなかったが、獣の内心は新鮮な驚きに満たされたいた。


( 待ちでは、勝機を逃す )


 弘樹が思考した瞬間、今では訊き慣れたフルオートの射撃音が、離れた森から響き渡った。直後、それが合図だったかのように、弘樹は 裂ぱくの気合とともに、大きく踏込んで、渾身の突きを放った。

 技の中では最も予備動作を必要としない最短最速の剣技であったが、ホブゴブリンの短剣は難なく鉄パイプを跳ね上げ、切先の軌道を変えた。

 躱されるのが想定内だった弘樹は、その勢いのままホブゴブリンへ突進し、胸元へと肩からタックルする。続いて、握った柄で顔面を強打した。


( まずは1手だ )


 ダメージを与えたとはいえ、初手の奇襲にすぎない。弘樹は突進前からホブゴブリンの左手が、赤く発光してることに気づいていた。相手に飛び道具がある以上、距離を置くのは愚策だ。至近距離での肉弾戦にのみ、活路があることを確信する。

 よろけたホブゴブリンは、必中を期待せずに火球を放っていた。威嚇で相手の動作を逡巡させる狙いだったが、当の弘樹に迷いはない。ある訳がなかった。その背後には、理沙がいるのだ。


 バッシュゥゥゥゥ


 川面に着弾した火球は、その高温を物語るように盛大な飛沫をあげ、飛沫は熱湯となって、周囲に飛散する。


 ガガガッ キンッ


 連続して繰りだした斬撃は、どれも弾かれ、躱され、受けられる。

 弘樹の得物は鉄パイプであって、刃はついてない。殴打するか、突くだけの棒切れにすぎない。対してホブゴブリンは短剣を持っている。そして、息のかかる距離での攻防において、その短さは不利とはならない。触れれば切り裂き、確実に負傷を与える刃の存在は、実力差に更なるアドバンテージを加えるのだ。

 しかし結果は...

 弘樹は一方的に攻め、ホブゴブリンに反撃させない。なぜなのか?

 それは、弘樹の構えからの突進に理由があった。

 ホブゴブリンに、なまじ以上の知性があったがゆえに、スキのない弘樹の構えを前に、様子見の後手に回った結果が、この一方的な攻防に繋がっている。

 弘樹の右正眼は、その効果を発揮していたのだ。

 

 ガガガッ ガガッ


 渾身を控え、小刻みに手数を重視した斬撃を繰り返しながら、弘樹は再びホブゴブリンの左手が赤く発光するのを確認する。

 両手を武装しているホブゴブリンの有利は、それが射撃攻撃であることからもあきらかだったが、弘樹の思考は違った。

 同一武器を所持した二刀とは違い、異なる連動を技としてつなぐには、大きなスキが生まれると読んでいた。相手の修練の度合いは判らない。だから、コレは賭けにすぎなかった。

 待っていた瞬間。渾身の一刀は、大地を砕く勢いの踏み込みで、空を引き裂く一刀を生みだした。


 ゴキュッ


「ヒギョァァァ」


 骨を砕く不快な感触と、耳を覆いたくなる高音の悲鳴。

 ホブゴブリンの左手首を砕いた渾身の小手打ちは、しかし、渾身であるがゆえに、その後のスキが生まれる。

 試合会場であれば、「一本。勝負あり」で終わるが、ココはそうではない。さらに不運だったのは、弘樹から1メートルの河原に着弾した火球が炸裂し、火花が両目の瞬きを誘発していたことだ。

 生理的な条件反射とはいえ達人を相手に、ソレは手番を譲るスキとなる。それが、時間にして1秒の10分の1もないスキだったとしても。


「はうっ」


 弘樹の呼吸が止まり、膝蹴りをくらったのを意識した時には、短剣が喉元へと必殺の軌道を描いていた。

 それに対して、下段から返す鉄パイプの一刀は、あまりにも愚鈍な反撃だった。


( 殺られる! )


「てぁぁっ」


 自らの失策を吐き捨てる弘樹の思考に、場違いともいえる少女の気合が重なった。

 直後、弘樹の頬を掠める銀色の軌跡。


「ヘグァ」


 喉を直撃したインパクトは、決して痛烈ではなかったが、ホブゴブリンを動揺させるには充分な威力があった。


( リサ? )


 弘樹の果敢な攻撃がホブゴブリンを集中させていたからこそ、歩行が不自由な理沙の接近は、奇襲となりえた。

 杖の補助を失った身体は、ただ重力に引かれるだけの人形となるものの、転倒方向だけは選べる。とはいえ、固まった足場からの踏み込みもない一撃は、腕と上半身の筋力、そして、倒れこむ僅かな勢いをのせただけのモノにすぎない。

 軽量合金の杖による「突き」が奇襲となりえたのは、様々な幸運が重なったからだった。


「ギャンッ」


 このホブゴブリンは、確かに格闘の修練を積んだ個体なのだろう。態勢を崩しながらも、サッカーのボレーシュートのように蹴り技をだし、理沙は、弘樹でさえ訊いたことがない苦悶の悲鳴をあげて吹き飛んだ。


「リサァァァァッ」


 弘樹はその叫びを気合に変え、躱された下段からの一刀の軌道を、大上段からの拝み打ちに繋げる。憤怒にまかせた一刀は、ボレーシュートから着地したホブゴブリンの短剣に受けられるが、体重をのせた一刀の衝撃は凄まじく、さらに姿勢を低くさせる。


( 殺ってやる! )


 膝蹴りを顔面に叩き込んだ弘樹は、後方へトンボを切って距離を置こうとするホブゴブリンを追撃し、踏み込みからの突きを放つ。


( チョコマカしやがって )


 躱されるのは承知していた。初手の突きでは、相手の体勢を崩すタックルへとつなげたが、同じ技を繰りだすほど愚かではない。

 短剣に跳ね上げられた鉄パイプを斜め上段へと直して、脇をすり抜けざまに胴打ちする。確かな手応えと同時に、弘樹の視界はひるがえったマントの内側、ホブゴブリンの作務衣のような上着の背中に、繊維をズダズダにした負傷があるのを確認していた。

 それがカルの功績だとは知るよしもなかったが、当初の予想よりも勝負が成立している要因なのを理解する。

 残像を残すような俊敏さで跳躍する姿を初見した弘樹は、絶望的な蹂躙をしのぐ立ち回りのみを考えていた。しかし、カルが与えたダメージによって、マシな勝負が維持できているのだった。


( 殺れる。一気にダウンまで持っていってやる! )


 ガッ ガガッ


 理沙の無事を確認する余裕はない。だから弘樹は焦っていた。ホブゴブリンの負傷を知った勢いもある。弘樹にとっては好機を確信する要素だったが、実際には状況が好転したわけではない。

 ホブゴブリンの左手を封じたという以上の成果がないにも関わらず、弘樹の技は大降りになり、見切られやすい斬撃となっていた。


 キンッ


 弘樹の斬撃を受け止めた短剣の刃が、あきらかに刃こぼれする感触に、喝采の感情。だったが、それは一瞬だった。

 ホブゴブリンの右手、短剣を握った手が赤く発光するのを認識し、斜めから振り降ろした斬撃だったが、大振りな一刀は短剣の刃の一部を代償にしただけで、苦もなく受けられていた。

 そして、危惧した不安は予想とは違う形で具現化した。

 その魔法は火球を放つのではなく、短剣の刃を炎に変え、揺らめき延びる刀身となり、中太刀サイズの紅蓮の刃となっていた。


( マジかよ。そんなこともできんのか )


 チリチリと音を立てて高熱が弘樹の顔面を舐める最中、鍔迫り合いした鉄パイプは、短剣との接点からオレンジに焼け、その高熱もすぐに握った弘樹の手のひらへと伝わる


( 熱っ)


 たまらず鉄パイプを振り上げた弘樹に、炎の斬撃が横なぎに襲い掛かる。

 追撃を予期していた弘樹は、鉄パイプで斬撃を受け...られなかった。

 視覚的には刀身であっても、ソレは炎にすぎない。抵抗なく鉄パイプをすり抜けた炎は、謝罪するように首を垂れた弘樹の後頭部を掠め、髪の毛が焼ける異臭を残した。

 内心の驚愕を殺しつつ、再度となる右正眼の構えをとった弘樹はホブゴブリンとの間合いが、相手の好みである3メートルであることを、舌打ちしたい気持ちで確認した。

 すでに、この戦闘は技量の格差を問う次元にはなかった。それは、人間とホブゴブリンの差。種族としての能力差と魔法の威力を突きつける蹂躙へと変貌していた。

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