閃火の犬

タイガー長谷川

第1章 序曲

 その村落は木材で組んだ簡素に見える柵で囲われていたが、柵自体には魔法防御が施されており、見た目とは裏腹の強固な防壁となっている。はずだった。

 魔法同士の干渉による青白い火花が各所であがる中、一点に集中した攻撃の成果によって、防御効果が喪失し、弱体された箇所から破壊されていく。

 柵の欠損、魔法防御の喪失は、即座に優先標的とされる。急所を狙った容赦のない魔法攻撃は無防備な家屋に火をつけ、次の瞬間には猛烈な火災を誘発して周囲に広がっていく。一方、恐怖とパニックで統制を失っている村民は、消火作業も二の次に、安全地帯を求めて逃げ惑っていた。

 村のあちこちで怒号と悲鳴が飛び交い、逃げ惑う村民と交差するように迎撃出動した兵士が門や破壊箇所へと奔走する。

 村の中央には唯一となる石造りの洋館があり、こちらは石の壁に囲まれた小城のような趣きであり、位置的にも現状での火災を心配する必要はなかったが、内部では伝令とその対応に追われ、激しく人が動いていた。


「報告いたします。

 敵勢力の先方はゴブリンとオーグの混成軍。総数は3000以上と思われます。

 また、敵の砲撃と魔法は正確に外周防御柵と周辺の家屋に集中しており、とてもではありませんが、消火は追い付きません」


 確かに次々と燃やされているのだから、それが理屈であったし、敵の狙いもパニックの誘発なのだろうから、消火作業に人員を裂くのは愚策と思えた。

 指揮官は内心の焦燥を表情にはださず、努めて柔らかい表情を作った。


「まずは亜人を矢面にってのは、最近の常套手段だな。

 で、迎撃態勢は?

 敵の侵入は防いでるんだな?」


「正門の状況しか判りませんが、現状、3部隊で応戦しております。

 ですが、数が違いすぎます。これ以上は、もう抑えられないかと」


( だろうな。ましてや、ゴブリンだのオーグだのと、・・・そんな野獣が村に入ったなら、いよいよパニックが抑えらんねぇよな )


 指揮官の焦燥は容易に部下に伝染してゆく。ゆえに表情は平静を装っているが、思考は選択肢の取捨にフル回転し、激しく葛藤していた。

 もしも、敵の先方が兵士であったならば、その攻撃目標は兵士を優先し、本来の戦闘状態に移行するだろうが、ゴブリンが侵入したとなれば、ある意味では平等に、手近にいる弱者から容赦なく襲っていくだろう。この場合、村民の女子供というわけだ。結果、パニックは頂点に達し、収拾のつかない事態になるだろう。


( いや、すでに『そうなってる』と見るべきだよな )


「撤退するしかねぇんだろうが、民を捨てて逃げる姫でもねぇしな・・・

 西門の守備隊は健在のはずだ。2部隊を残して、急ぎ、中央へ招集してくれ」


 およそ緊急時とは思えない柔らかい口調を維持していたが、指揮官の口元は今までの演技も虚しく、奇襲を許した悔恨に歪んでいた。


「無駄だ。西ならば、とうに全滅している」


 配下の兵士の声ではない。ソノ中性的な錆びたような声に否定され、指揮官のゼラスは舌打ちを堪えた。声の主、白銀の獣を相手にし、苛立つのもお門違いだということは理解している。

 声の主は白銀の毛並みを持つ犬、もしくは狼のような獣だった。特徴である異様に長い尾を確認するまでもなく、仲間であることは周知の存在だ。加えて、一同にソレが言葉を話すことへの驚愕はなく、むしろ、信頼と敬意を感じさせる視線すら存在している。

 とはいえ、事態の推移は最悪の方向へ向かっている。すでにゼラスに取り繕う余裕はなかった。眉間にシワを寄せ、射るような視線を獣に向けた。


「すでに、侵入されたってことか?」


「奴らは皆殺しだ。そして、兵も全滅した。ということだ」


( さすがは『人ならざるモノ』って、ことかよ )


 西門への襲撃人数は不明だが、圧倒的な数的不利を、この獣が単独でひっくり返したのだろうと、予測はできた。


「いいだろう。だったら、残存兵力を後退させつつ、新たな防壁を構築するんだ。そうだな、『ノドマック酒場』の手前なら適当な広さがある。

 それと、近衛隊を西門へ派遣しろ。

 市街地での騎馬戦は不可能だから、騎兵には火薬を運搬させるんだ」


 即座に思いつく限りの配置を、各伝令と小隊長へ伝えていく。

 彼らの瞳に変わらぬ闘志を認めながら、しかし、多くが死んでいくであろう現実を前に、ゼラスの唇が震えた。


「俺は姫様の指示を仰いでくるが、すぐに代わりの指揮官を送る。

 だから、・・・なるべく長く、持ちこたえてくれ。

 すまんな、アンタは姫の所へ付き合ってくれ。行こうぜ」


「いいだろう」


 ゼラスは命令に対する敬礼に答礼すると、獣を連れて洋館の奥、姫の間へと急いだ。

 苦い表情は先ほどの命令を下したことへの悔恨からだった。もはや部下に対して死ねと命令したようなモノであり、不甲斐ない自身へ、奥歯を砕くような怒りが込みあげてくる。


「腹、怪我してるんだな。大丈夫なのか?」


 およそ表情というモノと無縁な獣だけに、真横で身体を観察するまで、腹部から後脚にかけての裂傷に気付かなかったのだ。


「戦えるのか、という意味ならば、大丈夫ではない」


 ゼラスは薄く笑った。感情の抑揚と無縁な口調はいつものことだ。この獣の応対としては普通の態度といえる。

 決して軽傷ではない刃傷が左の腹部に走っているのだが、戦いに支障があるだけで、死ぬわけでもないという意味だろうと解釈した。


「失礼いたします。火急の事態ゆえ、急ぎ、報告させていただきます」


 ゼラスは観音開きの簡素な木戸を開け放ち、片膝をついて戸口で進言した。

 

「襲撃部隊の規模は3000以上と推測。コレを先遣隊とした総数は不明となります。騎士団は現在も侵入を防いでおりますが、西門守備隊は全滅。正門も長くは持ちません。

 防壁柵、防御陣地も砲撃により壊滅寸前にあり、周辺家屋も含め、被害は甚大です。

 現在、残存兵力を集結しておりますが、数的不利は明白であり、村民の保護まで手がまわりません。敵が、多すぎるのです。

 恐れながら、このまま消耗していけば、もはや、・・・これまでかと」


「では、本当に帝国が約定を・・・破棄したのですね。

 そうですか。皆、死んだのですね」


 端正な姫の面にハラリと前髪が零れ、悲痛に沈んだ声でゼラスに問うた。

 ゼラスの奥歯が『カリッ』と音を立てる。


「正門は奮戦してるようですが、死者は増え続けております」


 ゼラスにとっても、伝えたくない悲報だった。


「村民の避難を優先した作戦は立案できませんか?」


「そもそも避難などできん。包囲に穴がないゆえにな。

 選ぶ刻がきたということだ。民草の数百や数十を救うのか。刻を託すのかをな」


 無感情に聞こえる獣の口調に、ゼラスは睨みつけたい衝動を抑えた。獣が死力を尽くして西門で闘ったのは明白であり、時間的な余裕が皆無なのも事実だからだ。


「敵の主力はゴブリンとのこと。なれば、女子供が集団で逃げた場合、間違いなく最優先で狙われましょう。

 仮に、タイムが指揮する部隊であっても、守り切れないかと」


 姫の左に立つ老剣士が参謀として的確な分析をしつつ、穏やかに獣の指摘を肯定した。

 ゼラスや獣がもたらした絶望的な報告に対し、室内に非難の空気はなかった。むしろ、姫の側近の2人には、予想していたかのような風情すらあった。

 やがて、肩にかかる金髪を優雅に払い、凛と立ち上がった姫は迷いのない視線をゼラスへ向ける。


「かしこまりました。ご苦労でしたね、ゼラス。

 すでに猶予がないのであれば、これより『儀式』をおこないます。

 以降、皆はそれぞれの意思で行動してください。叶うのであれば、生きてください。ソノための努力を、お願いします」


 ゼラスへの視線に労うような光りが込められ、そして、あどけなさの残る声には強い覚悟が込められていた。

 ゼラスは、その決断の意味するところを理解している。自分たちの全滅が避けられないならば、窮余の策、奥の手の発動となる。その奥の手、「儀式」の発動が姫の生命を代償とすることも。


「申し訳ありません。

 皆の反対を押し切り、講和に赴いた結果が、この結末です。

 私が、間違っていました」


 姫の左右には、側近である初老の剣士と女騎士が立っている。絶望的な状況における悲壮な決断を前に、浮かんだ表情は苦笑いと溜息だった。


「姫様が気に病む必要などありません。今日までに幾万もの民を救ってきたのです。その功績を支えた我が身こそが、至上の誉れにございます。

 姫様の慈悲と寛容に対し、裏切りで報いた下賤へは、必ずや我が手で鉄槌をくだしましょう」


 女騎士の言葉は紅蓮の炎のように、熱い意思と共に吐きだされた。


「この期に及んでも、勇ましいかぎりですな。では、私のごとき老骨は、この得難き花道を飾るべく、せいぜい奮戦させてもらいますかな。

 姫様におかれましては、どうか、お気になさらないことです。。我らとて、この講和によって、戦の終わりを期待していた。というのは事実でしてな。

 つまる所、痛し痒しですな。

 まぁ、これが最期となるならば、前線の指揮は私が務めましょう。

 お前たちは、別で時間を稼いでくれると、助かるのだがな」


「かしこまりました。でしたら、ワタシは陽動ね。

 姫様。早速で失礼ですが、お召し物をお借りいたします。姫様の逃走を演じ、敵をひきつけてみますので。

 首尾よくいけば、不敬なる蛮族も襲撃を中止し、ワタシを追跡するでしょう。さすれば、村の民に逃走の機会も生まれるかもしれません」


 悲壮感など微塵も匂わせない側近の態度を前に、姫の碧い瞳に涙が滲んだ。


「西門は皆殺しにした。増援が来る頃合でもあるが、多少は手薄になっているだろう」


 獣は淡々と助言した。相手が姫や側近であっても、上から目線の態度と口調であり、一同にもソレを咎める様子はない。


「で、あるならば、だ。

 姫様ともあろう御方が、護衛も連れずに逃走するのも不自然ですからな。俺も、西門にお供しますよ」


「心強いな。ゼラス、感謝するぞ」


「いえいえ、こうなれば思う存分に・・・」


 女騎士とゼラスの会話は、姫の嗚咽によって中断した。

 儚げに見える細い肩を震わせる姫へ、一同の優しく労わるような視線が集まる。


「姫様。失礼ながら、その涙は無粋ですぞ。

 この者たちが必ず死ぬと決まったわけではありません。どうか、ご自分の騎士を、信じてくださいませんと」


 初老剣士の柔らかい声に、姫の嗚咽は怒涛のような涙となり、やがて随分と無理矢理に作った笑顔で3人と獣を見回した。


「正直言いますと、俺の勘では逃げたほうが生き残れそうでしてね。せいぜい、好き勝手に暴れさせてもらいますよ」


 ゼラスは酒場にでも赴くような口調で陽気に笑って見せた。


「判りました。再び会った時に、また笑みを交わしましょう。希望は、私が繋いでみせます」


 詰まるような姫の言葉は、年齢相応の少女の声で吐露された。

 室内に別れを惜しむように視線が交差するなか、獣は全てを無視するように身体を床に横たえ、四肢を投げだした。

 出血は少ないものの、身体にかかる負担は無視できない傷だった。この後の逃走を確実にするために、今は休息が必要だと判断したのだ。

 それぞれが姫への別れの挨拶をおこない、1人ずつ退室していく。やがて、室内には姫だけが残った。

 火災と騒乱の音は遠く、息遣いまで聴こえる静寂の室内において、それでも獣は姫に対して視線すら向けなかった。


「気づかないでゴメンなさい。酷い怪我ですね。

 待っててください。今、治癒魔法を・・・」


「捨ておけ。『儀式』には全ての魔力を使うことになる。

 それでも、成功は5分よりはマシという程度だ」


「ご安心ください。必ず成功いたします。

 それに、アナタの役割は今後も続くのですよ。命に重さがあるというのなら、私のよりも重いのです」


「それも『感傷』と呼ぶ尺度か?

 所詮は、取捨の選択への、慰みの思考だ」


 不愛想な獣の台詞が、姫の表情を逆に柔らかくした。魔力温存への忠告を気にした素振りもなく、獣のそばで膝をつくと、右手を腹部の裂傷にかざした。

 姫の手のひらが白く発光し、治癒の波動が柔らかく患部を撫でる。


「案ずるな。この程度の傷で死んだりはしない。

 だが、最期にお前たちと共に闘えなかったこと。少し、残念に思う」


 突き放すような口調が当然の獣だったが、ソノ言葉には確かな情の断片が存在した。姫は無意識に笑みを浮かべ、返す言葉を探した。


「次の方へも、よろしくお願いしますね。私も、お別れが残念です」


 獣が友情めいた発言をするという、極めて稀な機会に対し、姫は涙を見せずに伝えられたことを含め、内心で安堵していた。


「北の川を下り、森人の村を目指せ。我も、そこで待っている」


 姫は儀式の成否に関係なく命を落とす運命だ。待っていても意味がないことを、獣は誰よりも理解している。ただし、経験則から人間がこういった約束を好むのを知ってもいた。精神的負担を減らすことも「儀式」の成功率を高める一助となる。それだけが理由での提案だった。

 姫は戸惑ったように視線を揺らした後、獣の不器用な意図を理解した。


「招致いたしました。その村で、またお会いしましょう」


 姫の淋し気な笑みを一瞥すると、獣はいまだ完治には遠い負傷を無視して立ち上がった。

 直後、残像を残すような瞬発力で窓から虚空へと飛びだす。

 長い尾を龍のようにくねらせ、白銀の姿が砲弾のように宙を飛んでいく。やがて炎を上げる防御柵を越え、森に消えていった。


「感謝いたします。その優しさ、忘れません」


 まだ少女のあどけなさを残した声には、心からの感謝と敬愛が込められていた。 

 アノ白銀の聖獣が生きてさえいれば、希望は繋がる。

 動けなくなるほどの怪我をしてまで闘ってくれたこと。優しい噓をついてくれたこと。疾風のように去ってくれたこと。全てに感謝していた。

 姫は知っていた。獣も、本心では共に最期まで・・・

 そこまで考えて、不意に苦笑が浮かんだ。

 そうではないかも知れない。自分のセンチな発想に自嘲して零れた笑みだった。

 やはり人の身では、神の思考を理解などできないのだ。

 ただ1人、室内に残った姫だったが、孤独感はなかった。

 覚悟を決めた表情で薄く息を吐くと、部屋の中央で膝をついた。やがて、胸の前で両手を組んで「儀式」の詠唱を始める。


 程なくして白銀の獣が峠にさしかかった時、赤々と火災に染まる森の一角から、天空を貫く光の柱が確認できた。白色の閃光が真昼のように山々と森を照らしだし、雲を引き裂いて遥かな天空へと伸びていく。

 過去、何度も見てきた幻想的な光景に、儀式の成功を確信した獣だったが、安堵も刹那の感情だった。目下の懸念は、自分を追尾する追っ手の存在だったからだ。

 身体が万全ならば問題にならないが、負傷した現状では戦闘行為自体が致命となりかねない。選択肢が逃げの一手という思考がストレスとジレンマになり、意識が高揚するたびに、自ら鎮めてもいた。

「今は我を追うがいい。だが、自分たちが『何』を追っていたか、後々、臓腑をえぐる悔恨の中で判らせてやろうぞ」

 抑えた感情は、ただのジレンマと呼ぶには大きすぎる怒りだったが、その理由は獣自身も理解していなかった。



 


 現代・日本

 

 庄司弘樹は学校帰りの制服姿のまま、随分と長く、時間にして2時間以上も「コグマベイカリィ」の前でウロウロしていた。

 約束していた遅刻相手からはラインの返信すらないが、苛立ちは小さなものだ。諦めるというよりも、慣れていたからだ。


「って、いつものことだしな」


 スマホをポケットに戻した弘樹は、溜息交じりに呟く。

 視線は意識せずとも錆の浮いた看板に向けてしまう。このパン屋の前にいると、必ず思いだしてしまう光景があった。10年以上も前の出来事であり、幼少期の出会いの記憶だった。


「ナンで『コグマベーカリー』じゃないの?」


 という幼馴染みの声が、脳裏に蘇る。弘樹の意識が、幼少期の自分にシンクロしていき、脳裏に映像がフラッシュバックする。


「はぁっ?」


「このパン屋さんだよ。おかしいよネ?」


 パン屋の裏にあるスーパーの特売日になると、苛烈な競争を制するべく、母は単身で戦場へと赴き、荷物持ちの弘樹をここに待機させておくのが、庄司家の日常風景だった。

 パン屋で売ってる60円サイダーをお駄賃に買ってもらい、店先で待機している弘樹。そんないつもの行事の、ある日のことだった。


「えっ?

 ナニが、なんだって?」


 振り返ると、目鼻立ちの整った女の子が弘樹を見上げていた。

 訴えるような視線で見上げてくる少女にたじろぎ、弘樹は意図せず緊張が背筋を走るのを意識した。


「だってさぁ、『ベイカリイ』って、そんなのヘンだよ」


 それが理沙との出会いだった。

 弘樹が5才。理沙が4才だったが、弘樹はベーカリーの意味すら知らなかった。


「イーんだよ。シャチョーってのは、好きな名前が付けられるんだから」


 当時の弘樹の判定基準では、偉い人イコール全てが「シャチョー」という称号になる。

 走るのが速い奴は女の子にモテるシャチョー。お昼ご飯を食べるのが速い奴は、最初にブランコで遊べるシャチョー。ピアノが弾ける奴は、友達に褒められるシャチョーという具合だ。

 弘樹は1度もシャチョーになったことがない。そして、この女の子はシャチョーかもしれないが、オンナのシャチョーも父さんは嫌いだと言っていたのを思いだしていた。


「マチガってるよネ。それでイイのかなぁ?」


 その女の子の瞳は口調ほどの幼さはなかった。むしろ知性という刃の武装が容易に確認でき、対する弘樹は年下の女の子を前に、見栄を張りたい程度には、男としての意識が作用してもいた。しかも、相手は評判の悪い「オンナシャチョー」なのだ。

 弘樹の鼻息は自然と荒くなっていた。


「シャチョーだと、マチガイにならないんだよ」


 だから、父親の受け売りで断言した。コレが大人の事情だ。と、いう口調で胸を張ったが、その真意を理解しての説明でもなかった。


「でもさ、マチガいはマチガいだよネ」


 うるさいシャチョーだった。そして、よく見るとクリっとした目を持つ可愛い女の子だった。ポニーテールもよく似合っている。

 弘樹は少女のひたむきさに気後れを意識しながら視線を外した。年下に対して「照れる」のは初めての経験でもあった。


「シャチョーってのはツヨいんだよ。だから、ヨワいとマチガいのヒトにされる」


 そして、相手が可愛いからこそ、逆に弘樹は頑なになってもいた。

 弘樹の父はシャチョーと戦った。勇気あるヒーローの行動だった。そして、それからは毎日家にいる。

 いつでも会える父さんになったのだから、弘樹にとっては嬉しいことだった。母さんが怒ってる理由は判らないが、悪いのはシャチョーのはずなのだ。


「じゃぁさっ、シャチョーよりツヨいヒトがいえばイイんだネ」


 歌うような朗らかな声に、弘樹は我知らずカッとなっていた。


「そうだよ。たとえば、オレの父さんみたいにツヨければイイんだ」


 理性などない子供の癇癪だった。


( 父さんがイったんだ。だからマチガッてない。ヨワくなんかないんだ、父さんは )


 弘樹の理不尽な剣幕に対し、理沙は怖がるどころか、笑顔で頷いていた。

 不思議な、何か頼もしい存在を見るような視線を前にして、弘樹は急激に恥ずかしくなってきた。


( でも・・・オレも、父さんも、シャチョーなんかじゃない 。シャチョーになったこともない )


「よかったネ。ツヨいパパだから、マチガいないもんネ」


「ああ、そぉーだよ」


「うん。シャチョーより、ツヨければイイんだよ」


 多分に、特別な意味ではなかったのだろうが、弘樹はコノ指摘に言葉を失った。


「コラッ、ヒロくん。何で女の子を苛めてるの」


 弘樹の羞恥は、唐突な母の声にかき消されていた。特売の野菜を抱えた母は、小走りで二人に近寄ると、理沙には笑顔、弘樹には鬼顔という器用さで接した。


「大丈夫?

 怒鳴られてたでしょ。ごめんなさいね。アンタは黙りなさいっ!」


( まだナニもいってないじゃん )


 弘樹は内心で愚痴ったが、母は意に介していなかった。


「そうだ、ラムネって好きかな?

 ヒロくん。これ渡しなさい」


 弘樹は知っていた。母の差しだしたソレは、特売の日に無料で配ってるお菓子なのだと。


( なんなんだよ。シャチョーはそんなの食べねーよ )


「欲しい、大好きです。ヒロくん、チョーだい」


( なんだって? )


 理沙は今知ったであろう弘樹の名を呼び、本気の笑顔で見つめてきた。


「おぉー、ほらヒロくん。アンタからあげなさい。早くしなさい。ほらっ」


 母はおおらかだが、不誠実を嫌う性格だった。出かける時はハンカチを持っていくこと。男の子は女の子に贈り物をすること。相手の良い所を見習うこと。等々が、母のしつけだった。

 そして帰り道。


「いい、ヒロくん。大切な出会いってのは、突然に来るんだからね」


 母にしても、理沙は美人に育つ確信があったようだ。意味の理解を期待しての助言ではなかったのだろうが、ムクれていた弘樹にとっても、そんな母の話しは煩わしく思えていた。


「ヒロキィィー、ゴメンごめん。ちょー遅れちゃったよ」


 夕暮れの空の下。16才になった角熊理沙は、母子が想像した以上の美少女となって、弘樹へ手を降っていた。

 いつもの杖を格納できる車イスに乗り、その車イスは理沙のクラスメイト、雉谷花蓮が押していた。



 理沙と花蓮は弘樹と同じ学校、神奈川県立桐野原高校に通う生徒であり、1年後輩となる。

 理沙と会うのは週に3から4日程度であり、ソレを多いともいえるが、花蓮と会うのは久しぶりだった。


「なんだかぁ、タイムカプセルだなんて、古風ですよね」


 見るからに快活な印象を与える理沙と違い、花蓮は口調も穏やかな正統派のお嬢様という雰囲気だ。理沙も校内での成績は上位者だが、多彩な知識を有する花蓮は、才女という意味において軍配があがる。そして、おっとりした口調の穏やかな性格でもあり、弘樹に限らず、接しやすくて人気のある後輩でもあった。


「ココは東京と横浜の中間だからさ、都会にも田舎にもなれないんだよ。だから、変な風習が残ってんだぜ。きっと」


「私は好きになりましたよ。相模原。

 でも今日のコト、母に話したら、笑われちゃいました」


 ニコリと屈託ない笑みを浮かべる花蓮へ、理沙が慌てた様子で振り返った。


「って、いうか。なんでお母さんに話しちゃってんのよ?

 今日のコトはトップシークレットだって、そういう約束だったのにぃっ」


「あのぅ、・・・フフフッ。そうですよネ。ゴメンなさいネ。

 でもぉ、家族とは秘密がないものですから。

 軽率でしたが、ご安心くださいな。母ともども、秘密は墓まで持っていきますので。どうか、ご寛容くださいネ」


 車椅子から身を乗りだすようにして振り返る理沙へ、花蓮は笑みを崩さないまま弁明し、謝罪した。


「墓とかってさ、ケッコー大袈裟なコトを、平気で言うよな。カレンってさ」


「カンヨーとかって、ヒロキまで大袈裟とか・・・笑いごとじゃないんだからね」


「大丈夫だろ。あの雉谷家、の約束なんだぜ。信じねーとな。ココはさ」


 弘樹の指摘は、理沙でも納得せざるを得ないことだった。

 雉谷記念病院は循環器の先端医療において非常に高名であり、花蓮はその病院の創始者一族の令嬢なのだ。

 理沙の病気は専門外だったものの、娘の同級生ということで、病院や医師の紹介を含め、色々と便宜をはかってくれてもいた。 


「まぁ、それはぁさ、そうなんだろーけどさ」


「でもよ、ちょっとした爆弾発言だよな?

 カレンがココを気に入るなんてさ」


「そんなの、アタシだって好きよ。育った街だしネ」


 理沙は花蓮へ笑顔を送りながら、ニッコリと笑みを浮かべた。

 その花蓮が神奈川の公立校などに入学した理由は、多分に理沙にあるとは思っているが、弘樹が直接質問したことはなかった。いや、出来なかったのだ。

 仲が良いとはいえ、花蓮は頭脳明晰な才女である。その花蓮と出口の存在しない残酷な結末を話し合うというのは、絶望の上塗りにしかならないと考えている。

 花蓮がどの程度まで理沙の病状を知ってるのか判らないが、弘樹よりも詳しく理解している可能性は極めて高い。医者の一族に生まれ、才女でもあるゆえに、多くを理解し、抱えた精神的負担や苦痛も大きいはずだ。それに、理沙の知らないところで話し合う内容でもないと考えていた。


「とはいえ、ですねぇ。そこまでリサちゃんがこだわるカプセルってぇ、その中身、少し気にはなりますネ」


 花蓮の指摘に弘樹は内心で頷いていた。理沙が騒ぐからこそ、逆に気になってくるという心理である。

 対して、理沙は啞然とした表情から即座に平静を装い、花蓮を振り返った。


「だぁかぁらぁ、ソレはアタシのプライバシーなんだし」


「大丈夫ですよぉ、秘密については墓まで・・・」


「なぁんで、見る前提で話してんのよぉ」


 理沙の頑なな態度に、弘樹は吹きだすのを我慢していた。悲壮な感情とは無縁の柔らかい時間の流れが嬉しかった。


「絶対に見ねぇよ。信用しろって」


「それと、触られるのも嫌なのよ」


「あのぅ、多分ですけど。誤解を招く会話ですよネ」


 花蓮の指摘を理解するのに、2人には多少の時間が必要だった。

 3人が歩いているのは、多少寂れてはいるが、商店街なのだ。夕暮れ時でもあり、少ないとはいえ人の目もあった。


「なんかぁ、エッチに訊こえちゃいますよ」


 花蓮の指摘に、弘樹よりも理沙がうろたえていた。


「待ってよ、違うでしょカレン。これはカプセルの話しなんだからね」


 オタオタと車イスから身を乗りだす理沙の姿は、ショートカットの似合う体育会系美少女という風情だった。周囲からはスポーツのアクシデントか不慮の事故で怪我をした、快活な美少女とでも思われるのだろう。

 そして、それは間違いではなかった。5年前までは。

 当時、小学6年生だった理沙は表向き、親の転勤により引っ越すということになっていた。すでに中学生だった弘樹は通う校舎も違っていて、細かな事情などを知る機会もなく、2学期の終わりと共に別れの朝を迎えていた。


「引っ越すって言っても、東京だろ?

 何かありゃあ、すぐに会えるしさ。大丈夫だよ」


「うん。そうなんだけど」


「スゲーよな。私立の中学なんだろ?

 有名な進学校なんだってな」


 弘樹の認識はその程度であり、理沙の沈んだ態度への深い配慮はなかった。

 自分と違い、文武両道の理沙はエリートの「シャチョー街道」をまっしぐらだなと感慨にふけり、とはいえ、東京までは電車でも2時間の距離だ。ソレを深刻な別れだとも感じていなかった。


「うん。なんか、そうなんだって」


「卒業式が向こうだってのがイタいかもな。

 まぁ、暇だったらよ、正月とかに遊ぼうぜ。渋谷とかも行ったことがないしさ」


「そんなの、アタシだって、よく知らないもん」


「ハハッ。まぁな、そりゃそーだよな」


 そして、それきり理沙と会うこともなく時は流れ、弘樹は中学を卒業している。

 感傷的な想いがしばらく存在したものの、都会で洗練されているだろう理沙の環境を考慮すれば、内心での気後れもあった。加えて、楽しかった記憶を前向きに変換する若さ、逞しさも年相応に身についていた。

 それなりに充実した学校生活の中、弘樹なりの向上心で心身を鍛え、時折思いだす目標として、理沙が存在していた。

 だからこそ、東京の私立中学に通っていたはずの理沙が、弘樹のいる相模原の公立高校を受験したのには驚いたし、車イスに乗った姿にはもっと驚いていた。

 理沙の中学での青春は、闘病生活に置き換わっていたのだ。事情を知ってしまえば当然の成り行きで、理沙の両親は専門医の勧めによって、闘病のために引越しを決断していたのだ。


「だけどよぉ。掘り起こすのって、オレがやるんだろ?」


「頼りにしてんだからネ、先輩」


 内心では「こんな時だけセンパイかよ」とも思ったが、問題はソコではなかった。


「それで触るなとかって、ムリすぎだぞ」


「つまり、アタシの思い出に触るのね?

 アタシは、この現代の、少子化問題の被害者なのにぃぃぃ」


 間違いなく演技での被害者口調であり、理沙はトドメとばかり、泣く素振りまでしていた。


「今、オレが笑ったとしても、怒るんじゃねぇぞ」


 つまり、話しはこうだ。弘樹と理沙が当時通っていた第3小学校では、3年生になるとタイムカプセルを埋める風習があったのだが、当の理沙は卒業前に転校している。

 当時の担任教師、学校職員の判断では相手が小学生とはいえ、人権問題に厳しい世情にならい、理沙のタイムカプセルは放置するべきと決断したのだろう。


「勝手に娘のプライバシーを暴いたわねっ!」


 などと怒るモンスターママの存在は、今では普通の親の思考回路として認知されているのだ。

 本来ならば、引越し先の住所に送るという解決策もあったはずだが、人権という厄介な問題は、本人や家族の承諾ナシという行為自体が糾弾の対象となりかねなかった。放置、現状維持という解決策は、唯一至上の選択肢となったのである。

 そして、生徒の人権問題に配慮し、危険物となるタイムカプセルを放置した学校は、昨年で廃校となっていた。

 少子化とは、学校とはそういうものなのだと、弘樹も理解していた。


「アタシの実名入りの手紙が放置されてて、それが工事で掘り起こされちゃうんだからね。コレは大変なことだわ」


「まぁ、いいじゃねえか。よく考えてみりゃ、逞しい工事のオッチャンとか、ニイさんがたにだな、晴れて・・・」


「この場合、逞しさも天気も関係ないし、そもそもが、良く考えてもないでしょ」


 弘樹は久しぶりに心から笑っていた。

 いつもなら理沙に巣食う病魔を思い、意図せず感情が抑制されていた。そして、ソレを理沙に悟られまいと、無理に明るく話したりもしていた。

 弘樹は心底から理沙を蝕む病魔を憎んでいる。

 病の詳細は何度もネットで調べていた。奇病と云われており、爪先から徐々に筋肉を動かなくするという病気だった。

 病状は最終的には顔の筋肉まで浸食していく。表情も作れず、唇も動かせず、眼球すら自由には動かなくなるのだ。最期は心臓を含め、全ての臓器も活動を停止していき、死に至るという。


「イヤイヤ、だから、マジで想像してみろって」


「その顔で想像とかって、すでにムリなんですっ」


 現状では理沙は20歳まで生きられないという。才に恵まれた理沙だ、本来ならば存在したはずの輝く未来は、大人になる前に閉ざされることになる。

 最期は意思の疎通すらままならない不自由な状態で、残酷に幕が引かれることになるという。それは、とても容認できる現実ではなかった。理沙は弘樹の知り得る限り、最高のシャチョーになれる女性なのだから。


「あぁっ、リサちゃんの学校って、アレがそうですかネ?」


「おぉ、そうそう。オレも卒業してから初めて来た・・・けどな」


 花蓮の指摘を肯定しつつ、懐かしいはずの威容に、弘樹は戸惑いを覚えていた。


「何でかな。・・・なんだか、小さくなった気がする」

 

 理沙の台詞は弘樹の感想を代弁してもいた。

 相模原第3小学校の威容は、高校生になった2人には嘘のように縮小して見えていた。


「つまりは、オレらが成長した。ってコトなんだろ?」


「そぅだよね。アノ頃ってさ、身長とかもゼンゼン低かったしね」


 納得してくると、弘樹の脳裏に縄跳びや鉄棒で遊び回っていた頃の理沙の姿が思いだされる。

 黒ずんだ校舎の外観、サビの浮いたフェンス、塗装のハゲた校門。その校門にはソレとは別に「関係者以外立入禁止」の看板と、黄色と黒のトラ柄のフェンスまで取り付けてあったが、ここには幸福が当然だった子供時代の、確かな青春が存在していたのだ。


「それよりも、なんだけどよ。小さく見えはするが、さすがにアレを乗り越えるってのは、リサには無理なんじゃねぇか?」


「そうでしょうけど。そもそもが、ココって入っても良いんですかね?」


 花蓮の懸念は当然だなと弘樹も思っていた。時刻は6時半。すでに立派な夜なのだ。そして廃校になり、工事予定地になっているとはいえ、不法侵入なのは確かである。

 ならば、行くのは弘樹1人の方が、通報されたとしてもマシだと考える。


「そんじゃ、行ってくるからよ。2人は、ココで待っててくれ」


「なによソレ?」


 恩着せがましくならないように配慮し、なるべく素っ気なく告げた弘樹にとっては、理沙の怒ったような声が心底意外だった。


「『ナニ』って、オレがタイムカプセルを・・・」


「ソレって作戦と違うし。何のためにヒロキを連れてきたと思ってるのよ」


 弘樹に良い予感はなかった。幼馴染みの美少女は、悪い娘の表情をしていたからだ。


「その『作戦』とかって、まだ知らねぇし、オレならアレを乗り越えて・・・」


「ノンノン。ヒロキなら、アタシを秘密の園に眠るタイムカプセルまで、連れて行けるでしょ?」


「なにを、・・・って、なんのコトだよ?」


 内心の動揺を、どう表現すればいいのか、弘樹には単語が見つからなかった。


「持ち上げるのよ、アタシを。それで校門を越えるのよ。何のための筋肉よ」


「そうなんですねぇ」


 理沙の発想にもだが、花蓮の相槌にも、弘樹は眩暈を覚えていた。


「いやいや、何を言ってるのか判らんぞ。そもそもお前・・・」


「アタシは軽いわよっ、なにを上から下まで見てんのよ。ヤラしい」


 弘樹は視線をそらし、絶句した。理沙はマジなのだ。


「あのぅ、リサちゃん?」


「なによ?」


「そのぅ、パンツが」


「あぁ、それならダイジョーブイ。スパッツ履いてるのよん」


「ブイとかじゃねえだろ。だったら、最初からジャージとかで来いってんだ」


 無茶な作戦に慌てはしたが、弘樹にも却下するつもりはなかった。目的は幼少期の理沙が思いを託したカプセルだ。必ず回収するつもりだった。

 母校に来たせいなのか、予期せず感傷的に記憶の扉が開いていた。思えば理沙と遊んでた当時は、いつもこんな感じだったのだ。活発な理沙のおかげで、弘樹はいつも振り回されていた。

 あの当時、弘樹はその楽しい毎日が、無限に続くと思っていたのだ。


『社長よりも、強ければイイんだ』


 高校生となり、再会してからは心強い兄貴を演じる弘樹だったが、本当に強いのは理沙だと確信している。

 理沙は意志の強い、タフな少女で、身体能力においても抜群だった。小学校の運動会でもそうだった。5年生と6年生の合同リレーにおいて、理沙は誰よりも速く走り、弘樹にバトンを渡してくれた。

 地元の警察署が管理する道場へ通ったのは、月謝が無料という理由からと、男らしくありたいという子供ならではの理由からだった。しかし、弘樹を追うように後から理沙も入門してきた。その結果、弘樹は剣道においても、理沙に勝ったことがなかったのだ。

 それでも、目の前に理沙がいたお陰で、弘樹も少しずつ強くなっていった。


( ったく、頭イイくせに。どっか抜けてんだよな、リサはよぉ )


 弘樹が理沙の望みを叶えたくなるのは、悔いを残さないためなどではない。そんな不吉な理由で、協力してるわけではなかった。


「イィーだろう。まかせろよ。今じゃぁ、俺もケッコー強くなってんだぜ」


「そうこなくちゃネ」


 弘樹は見逃さなかった。理沙が小さく溜息をつき、それから柔らかい笑みを浮かべたのを。

 常に死の恐怖にさらされている理沙が、その闘病生活で小さな願いを見つけたのだ。それに手が届くならば、弘樹は喜んで協力する。



「ねぇねぇヒロキ先輩。たとえばなんだけど、優しく隣に並んでさ、それで肩を貸すとかさ、そぉーいうのが、センパイとかじゃないワケ?」


 理沙はいつもの松葉杖ではなく、軽量合金製の杖を一本だけ持ってきていた。おそらくは敷地を移動するさいの利便性を考慮してのことだろう。

 事実、校庭までは土と芝生の上を歩いて校舎を迂回する事になるので、車イスと全員のカバンは校門の陰に置いてきていた。


「ヘイヘイ」


 そして理沙の作戦では杖のない左手は、弘樹の肩をアテにしていたということなのだろう。その弘樹の表情には、先ほどまでの覇気は存在しなかった。正直、疲れていた。


「触らないでよバカッ」


「無理言うなよ。だったら、どこなら触っていいんだよ?」


「踵よ。あと爪先ね」


「なるほど、そうですか。っていうか、なるべくそうしてんだよ」


「ちょっ、また太もも触ったでしょ」


「事故だ。っていうか、動くなって」


「待ってよ。まさか、重いとかって思ってるんじゃないでしょうね?」


「少しだけだ。思ってないのと同じだ」


「蹴るわよ」


「蹴ってるだろ、すでにぃ」


 壮絶な連携によって校門は乗り越えたのだが、弘樹は20回以上は蹴飛ばされている。女子高生の肢体に欲情する余裕などなかった。そんなものは、蹴られまくって霧散していた。

 そして花蓮はというと、コチラは一切の補助を必要としない身のこなしで、優雅に校門を乗り越えていた。体操選手顔負けの身体能力に驚きつつ、クラシックバレエを習っていたという花蓮の経歴を思いだした。


「当然でしょ。カレンがおっとりなのは、トークだけなのよネ」


「いえいえ。私なんて、大したことないですよぉ」


( つまりだ。ギャップ萌えされるタイプってヤツだよな )


 かつての理沙がそうであったが、花蓮の才を理沙が解説するというのも、弘樹にとってはブラックジョークに訊こえていた。


「ねぇヒロキ、あそこよね?」


「ああ、多分・・・そうだと思う」


 弘樹は理沙が指さした桜の木を校舎側から数えつつ、再度確認していた。


「・・・リサの代は俺の1つ下だから、11本目の木ってことだ。アノ木に間違いないな」


 桜の木は全部で17本あり、生徒がカプセルを埋められる敷地は飛び飛びに11本の桜の根本となる。その場所は廃校までの期間、他の卒業生と被ることもなく、今も理沙のカプセルが埋まっているはずだった。


「なんだか楽しみですね。

 ところでぇ、リサちゃんの手紙なんですけど、私とかなら、一緒に読んだりとかしても、大丈夫ですかネ?」


「ダメダメ。

 ごめんね、カレン。それは本っ当にムリ」


「っていうよりも、何か道具がいるだろ?

 ココで待っててくれ。体育館の裏ならあるはずだ。何か探してくるよ」


 この木は、ほぼ体育館の正面に生えていて、その体育館の裏手には設置型の倉庫があったはずだ。中にはライン引きやトンボ等のグラウンド整備の道具が収められているのだが、入りきらない用具は外に立てかけてあるはずだった。少なくとも、弘樹の在校中はそうだった。


「確か、スコップとかもあったはずだ」


「サンキューヒロキ。それと・・・」


「んぁ? なんだよ?」


「ううん。とにかく、ありがとうネ」


「まだ早いんじゃねえの。実はお前のファンとかがさ、お宝発掘だぁーとかってノリでよ、すでに掘り起こしてるとかって展開だって...」


「さっさと行って。それと、急いでくれる」


「ヘイヘイ」


( 今から急いでも、意味とかないんだけどな )




 体育館裏手の倉庫を目の前にして、弘樹は微かな違和感を覚えていた。

 弘樹の記憶のままに、倉庫の外にも整備用具が置かれているのだが、どうにも違和感が払拭できないでいた。

 やがて記憶との相違、感じていた違和感の正体に気が付いた。熊手、竹ホウキ、スコップとまとめられ、整然と、きちんと整理されて道具が並べられているのだ。

 雑然としてた用具の置き場も、廃校が決まって以降、整理整頓したということだろうか。弘樹の思考では、その程度の解答しかだせなかった。校舎周りの乱雑さと比べれば不自然な光景だったが、結局は何も思い至らないでいた。

 気にしても仕方なし。と結論し、倉庫に立てかけられたスコップに手を伸ばした瞬間だった。唐突に違和感の正体を理解する知る。


「人がいる、のか?

 体育館の・・・中に?」


 体育館の内部に気配があった。濃密に何十人もの存在が感じられたのだ。

 弘樹は片膝をつくと、地面から30センチ程度の高さにある通風窓へ、鉄格子の間から手を伸ばした。

 格子に何らかの配線コードが巻き付けてあって邪魔だったが、窓自体は抵抗なくスライドする。数センチの隙間だったが、内部の明かりが零れるように漏れだしてくる。

 弘樹は寝そべるような姿勢になると、息を殺して内部を覗き込んだ。


「工事の人・・・ってより、・・・ウソだろ、マジかよ」


 作業服の大人が大勢いるが、その中の何人かは映画などで見るような・・・軍用の小銃を担いでいる。どう考えても工事の作業員の集まりには見えなかった。

 複数の大人が立ち話しをしているが、訊こえてくる会話も日本語ではなく、内容は理解できないが、労働者のソレとは異質な、殺気すら感じる高揚感を含んでいた。

 人だけではない。コート内には型式の古そうな軽トラックやライトバンが並び、積まれた木箱や大型のコンテナの存在も、工事機材としては異質に見えた。


( 判んねぇーけど・・・ヤバいってのは判るぞ。多分、・・・メチャクチャにヤバすぎだぞ、コレは )


 とにかく危険な状況なのは確信していた。

 弘樹は邪魔な配線コードを払いながら窓を閉めると、一瞬だけ行動を迷った。スマホはポケットにあったが、ここで警察に通報して長々と状況を説明するのも愚行だと思えた。何よりも優先すべきは、まずは理沙と花蓮の避難だと判断する。

 弘樹は角型スコップを掴むと、足音を殺しつつ、可能な限りの速足で理沙の元へと引き返した。

 この時の弘樹が知る由もないことだったが、払った格子の配線コードは収音マイクに繋がるコードだった。

 旧式の有線タイプであり、感度も低いマイクだったが、学校の警備装置としては大袈裟にすぎる設備である。そして勿論のこと、設置した監視者は侵入者の存在を察知することとなっていた。



 スコップを探しに去った弘樹を見送ると、理沙は再び溜息をついた。嬉しい気持ち、でもまだ不安。さらに逞しくなった弘樹への誇らしさ。そして、なによりカプセルはあるのか。ないのか?

 愁眉を寄せる理沙をまじまじと見据え、花蓮はなにかに合点がいったように瞳をパチクリさせた。


「ねえねえ、リサちゃん」


「えっ。ああ、ごめんネ。なに?」


 少し面食らった理沙は、すぐに真顔を作ると、花蓮に向き直った。


「もしかしてぇ、カプセルの手紙なんですけどネ」


「うっ、うん」


 理沙がたじろぐのも無理はない。花蓮は温厚そうなビジュアルからはギャップを感じるような、優れた洞察力の持ち主なのだ。外見に騙されてはいけない。名探偵を前にした犯人のような心境で、背筋に緊張が走るのを意識する。


「ラブレターだったりとか、するんですかぁ?」


 心臓が爆発するとは、この瞬間のことだった。落雷に撃たれ、視界が真っ白になる。奈落へ落ちる恐怖心。ソレらの感覚が、同時に理沙を襲っていた。

 一言で表現するならパニックである。まさしく、超大パニックだった。


「ななななななっ、なななんで、そうなるるのよっ」


 ( ヤバいって、噛んでるじゃん。声詰まってるし、ピヨってるし )


「うぅーん、そうですねぇ。たとえばですけど、将来はダレダレのお嫁さんになるぅとかですかネ?」


「ないないない、ゼッタイ無理ムリッ

 そそそっそんなんじゃぁぁぁないわよ」


( そんなんじゃない。ソレは本当だし、そうだと思う。

 信じて欲しいけど、声が慌ててるし、ヤバいっ。疑われる。アタシの声って、滅茶苦茶ウソっぽい )


「でしたら、もっともっと直球なんですかネ。

 ダーイ好きっ。とか、書いてたり」


「ちちちっ、チガうわよっ。書くわけないでしょ、マジ違うからね」


 理沙本人ですら、自分の声が肯定を裏付けるように慌てている事態に、大きく動揺していた。


「そうなんですか?

 でも、私は思いますよ」


「なな、なにをよ?」


( ダメよ、慌てちゃダメ。落ち着けアタシ )


 そんな直球の理沙に対して、花蓮は変化球が持ち味の投手だった。変幻自在に矛先はすぐに変わるのだ。


「弘樹先輩って、カッコイイですよね」


「どこがよっ」


 理沙は事前に否定の準備しかしておらず、結果、なにを言われても否定するつもりだったため、予想外の意見に対して、意図していたよりも大きな声で否定してしまった。結果、自分の発言に対して、自分が大いに慌てていた。


「ビジュアルとかじゃないんですよ。なんだか、頑張る男の人って感じですよネ。

 熱いっていうか、向上心っていうか、リサちゃんが頼りにするのって、すごく納得です」


「そぉおかしら。あんなの、脳筋なだけなんじゃなぁい?」


 花蓮の和やかな笑みは、逆に理沙を追い込んでいた。


「なによりも、優しいじゃないですかぁ」


 柔らかい、慈愛まで感じさせる花蓮の評価に、理沙は同意しようとして、同時に抗ってもいた。


「ソノ・・・それってさぁ、カレンのほうこそ、なんだかヒロキに気があるみたいぃに言うじゃない」


「フフフッ、ありますよぅ。

 だから羨ましいです。リサちゃんが」


「ハァァアッ!?」


 理沙の感情は再び超大パニックとなった。変化球を予測したバッターが、突然に豪速球を投げられた心境である。


「ナンでよ?

 ウソでしょ、どうして、どこが良いのよ?」


 自分の発言を恥じらうような素振りすら見せる花蓮へ、本心だと確信した理沙の舌は、さながらマシンガンと化していた。


「それは、リサちゃんが良ーく知ってますよネ」


「どうして、なにが、ウソでしょ」


 まるで、それしか言葉を知らないかのような理沙へ、花蓮は邪心のない笑みを浮かべて応えた。ソノ笑みは先ほどまでとは似て非なる種類の笑顔だった。理沙の動揺は急速に収まり、自嘲するように笑みが浮かんだ。

 花蓮の態度が演技か本気かは判らないが、自分が上手く乗せられたのには気づいていた。見たままの柔らかい笑みを浮かべた花蓮は、「ほらネ」という態度で本音を促している。


「カレン、ちょっとズルくなぁい?」


「どうしてですかぁ?

 別に、噓は申しておりません。今のが、私の本心ですよ」


「どうだかね。ソレが本気っぽく訊こえるからタチが悪いのよ」


「フフフッ。

 ソノほうが、リサちゃんが話しやすいのでは、と、思いまして」


 その真贋は、理沙には判別できない。けれども、伝わってくる感情には確かに情熱が含まれていた。


「違うのよ、カレン。ヒロキは私のことを...」


 花蓮の言動に散々揺さぶられたが、逆に筋肉がほぐれたようにも思っていた。理沙は静かな、そして落ち着いた口調で呟くように内心を吐露し・・・その時。


「コラァッ、勝手に入っちゃ駄目だろう」


「きゃっ」


「あらあらぁ」


 唐突な注意は大人の太い声であり、今度こそ理沙は慌てたし、恐怖していた。

 叱責の主は作業服姿で、工事の作業員らしかった。

 花蓮の表情はノンキなもので「バレちゃいましたネ」といった感じだが、巻き込んでしまった理沙にしてみれば、後悔目白押しの心境だった。


( イヤイヤ、そうじゃないでしょ。

 ここは、カレンという美少女と一緒に謝ってからの、事情を可愛く説明。情に訴えて無事にカプセル回収。っていう作戦に変更でしょ )


「ゴメンなさい。実はアタシ達、ココの卒業生でしてぇ・・・」


「リサァ、カレェンっ」


 訊き慣れた声があがり、スッコプらしき長物を手にした姿が駆けてくるのが見えて、理沙は膝をつきたい思いになった。


( マジなのヒロキ。チョータイミング悪いんだけど )


 訊き慣れた声の主、弘樹は、まるでヒーロー登場のタイミングとばかり、聖剣ならぬスコップを、しかも盗品を手にして駆けつけた。


「ごめんなさい。本当にすみません。でも、ちょっとだけ話しを訊いてもらえないでしょうか?」


 理沙はソノ程度ではあきらめていなかった。ガサツな弘樹の登場はマイナス要因ではあるが、美少女2人が真摯に謝罪すれば、強く非難もされないのでは、と、期待していた。

 その男が作業着姿であることから用務員、もしくは工事関係者だと推測できる。

 小学校が廃校となっている事実を考慮すれば、後者である可能性が高いが、どちらにせよ、卒業生を邪険に扱いはしないだろう。花蓮のような美少女ならば、大抵の大人が配慮してくれるのは、過去の経験則からもあきらかだった。


「在学中のコトなんですけど、この桜の下に、・・・」


( って、カレンは卒業生じゃないし、正確にはアタシも違うけどぉ、ソコはソレ、よろしくネ、カレン )


 作業服の男へ説明しつつ、花蓮へはアイコンタクトを飛ばしながら、理沙は悲しい感じの少女、という風情で釈明を続ける。 

 しかし、理沙は知らないのだ。弘樹の目撃した危機的状況のことを。


「帰るぞ、2人とも」


 駆けつけた弘樹は理沙を庇うような位置に立ち、作業服の男を睨みつけた。

 理沙にしてみれば、弘樹の態度は何かを勘違いしてるし、謝罪と説明を遮られたのにも苛立ちを覚えていた。


「待ってよヒロキ。今ね・・・」


「ごめんなさい。俺たち、すぐに帰りますから、許してください」


 弘樹は有無を言わせぬ態度で謝罪して、理沙の言葉を遮った。

 理沙はなおも慌てたが、弘樹は意に介さないといった態度だ。


「コラぃ、カッテに入っちゃラ、駄メだろう」


「はい、すみませんでした。・・・よしっ帰ろう」


(ちっともヨシじゃないでしょ)


 一方的な決定に慌てた理沙は、弘樹の異常な態度への真意が理解できず、作業服の男が発する言葉の違和感にも気づかないでいた。


「お酒を嗜んでいらっしゃる。っていうよりも、異国の方、なのかしらぁ?」


 理沙の位置だからこそ訊こえる花蓮の声に、その疑問がさす内容に、初めて理沙は作業服の男の、作業帽のツバに隠された顔を凝視するにいたった。

 確かにヘンな日本語ではあったのだ。外国人のようなイントネーションのズレに気が付いた。


「帰るぞ」


 理沙の隣に立った弘樹は、その左手を取ると、自分の肩に捕まるように誘導する。


「待ってよヒロキ」


「後にしてくれ。とにかく帰るぞ、今は」


「でもぉ・・・」


「チャンスなら、明日でも来週でもあるからさ」


 弘樹の声はココにきてようやく気遣う響きとなっていたが、なおも逡巡する理沙は、花蓮へと視線を飛ばした。


「リサちゃん」


 花蓮の落ち着いた、なだめるような柔らかい声。その表情は語っていた。『大丈夫だよ、帰ろう』と伝わってくる。

 渋々という態度は変わらず、しかし、理沙は弘樹に従うことにした。

 弘樹は校舎前にある正門ではなく、校庭に面した裏門へ向かっていた。歩調は速く、理沙の杖は扱いが追いつけない。


「ちょ、ちょっとちょっと。早いわよ、何なのよ」


「ごめん。でも急ぐんだ」


 言うなり、弘樹は理沙の左腕を自分の首に巻かせて、右手で理沙の腰を抱き寄せる。


「ちょっ」


 自分の真横、息のかかる距離に弘樹の横顔がある。腰は強く抱かれ、半分持ち上げるようにして移動を続ける。


( 待ってよ。少しだけ待ってよ )


 普段なら絶対にあり得ない弘樹の強引さに、理沙の頬は朱に染まった。

 弘樹が歩む度に筋肉の躍動と、呼吸の収縮が伝わってくる。幼馴染の、男の汗の匂いも生々しく、しかし、その匂いは嫌いじゃなかった。


「って、違う」


「いいんだ。もうちょっとだけ我慢してくれ」


( 違う、そうじゃない。何なのよ、なにも判ってない )


 理沙は救いを求めるように花蓮へ視線を移したが、ニッコリとした表情は相変わらず「大丈夫、大丈夫」という笑顔だった。


「ちょっ、やっぱ違う。待ってよ」


「頼むよリサ。後で好きなだけ蹴っていいからさ」


 弘樹の真剣な声に、逃がれるように視線を回した理沙。ふと、弘樹がスコップを握ったままなのを確認する。


「でもさ、ソレはダメでしょ。本当に泥棒になっちゃうじゃん」


「あっ、ああ。そうだな」 


( そうよっ)


 理沙にとっては待望のまともな会話だったが、返事をした弘樹は無造作にスコップを投げ捨て、花壇の脇にある茂みに放った。

 カラァーンっと音を立てるスコップを、理沙は呆然と目で追った。


「なんなのよ、どうしちゃったの?」


 理沙は弘樹の頬と自分の頬が密着するのもかまわず、背後に立つはずの作業服の男へ視線を向けた。普通なら、これこそ怒られる行為だ。


「ききゃっ」


 詰まったような花蓮の悲鳴は、弘樹の緊張を示す筋肉の収縮と同時だった。理沙はというと、驚きのあまり息を吞んでいた。

 花壇の陰から、桜の木の裏から、茂みの中から、次々と作業服の男達が飛びだしたのだ。

 直前まで全く気配がなかっただけに、理沙は勿論、弘樹までも驚愕していた。ソノ彼らの手には黒い・・・


( 鉄砲、・・・とかなの?)


 ・・・が握られていた。

 その人数は5人から8人に増え、次の瞬間には弘樹も人数のカウントを諦めていた。おそらくは、20人前後に囲まれた状況だと判断する。




とあるビルの4階。自動販売機の置かれた喫煙所。


「どう俊介君、疲れてないかしら?」


 真木俊介は肩を叩かれるよりも先に、声によって相手が判っていた。と、いうよりも、主は判って当然のセクシーボイスである。

 朱里冬華。年齢は28才、身長は170以上。Gカップと噂される圧倒的バストの上空にはキリッと絞まった端正な美貌。ただし、言葉ほどの感情はないようにも思える怜悧な表情。なのだが、ソレがこの先輩なりの気遣いだとは理解していた。


「いよいよ本番よ。ここまできたら、休憩も仕事と理解しなさい。今夜は万全の態勢で行くわよ」


「大丈夫っすよ。それと先輩、多岐にわたるご指導ですが、ありがとうございました」


「成長してくれたのは嬉しいけれど、ソノ刃は誰に向けるのかしらね?」


 俊介の礼は言葉通りの意味であったが、含めた意味の全てではないことを、冬華は当然のように理解している。


「自分はタダ、警察官でありたいって思うだけっすよ」


 警視庁刑事部捜査一課の刑事である真木俊介を、公安の捜査本部に招いたのは朱里冬華だった。

 俊介は無理やりに笑顔を作り、応えてみせた。冬華は辣腕であり、数多の功績を持つエリート捜査員なのだ。どうせ下手な演技はバレているのだ。だから何だ、根性だという意識で笑ってみせた。


「自覚なさい。もう『タダの警察官』なんかじゃないのよ」


「過信は禁物かと、思ったもんですから・・・その、すんません」


 同じ警察機構に属しているとはいえ、公安の捜査方針、進行はやはり異質なものだった。

 資料整理と精査、物証の検証と調査、報告書の作成と捜査会議への出席等までは通常の業務と共通だったが、今回の捜査対象が外国人だったこともあり、外務省や外事警察とのすり合わせ等も必要だった。

 対象は観光や労働を目的とした外国人ではない。ゆえに、海外の情報機関から提供された資料の精査が必要であり、対象国周辺の政治、軍事における事情の把握も不可欠だった。他にも民族問題や地域の宗教への知識習得が課せられ、物理学の講習まで義務付けられた。1年以上もの間、無休での捜査活動が続いているのだ。

 俊介にしてみれば、正直いって自分が生きてるのが不思議だし、「俺って凄ぇ」ぐらいの自負もある。だが、同様に捜査をこなしているはずの冬華こそ、その氷のような美貌に変化は感じられず、バイタリティーに溢れていた。これこそが「魔女」だの「スパコン」だのと異名を持つエリート捜査員の冬華だと脱帽していた。

 俊介は冬華を素直に尊敬しているのだ。


「根性一本の脳筋発言と比べれば、ホッとする態度だとは思うわ。

 それと史郎君、いえ、犬塚警視はね、出動前に屋上でコーヒーを飲むの。2時間でも3時間でも景色を眺めてるのよ。

 どうかしら、イイ情報でしょ?」


 瞬間、俊介は冬華がなにを言ったのか判らなかった。そして直後にフル回転した思考で理解する。捜査チームの指揮官、捜査主任である犬塚と直接話せる機会だと、教えてくれたのだ。


「禍根は失敗を呼ぶわ。清算して、任務に徹しなさい」


 何を意図しての助言かは理解している。俊介の胸中に熱い風が吹き抜けていった。

 俊介の極めて異例な異動を実現したのは、冬華のリクルート活動によるものだった。このような人事を実現できる冬華の魔力こそが「魔女」の異名に相応しいのだが、問題はソノ経緯だった。

 俊介は公安1課所属の警視、犬塚史郎の犯罪を立件するべく、独自に捜査を進めていた刑事だったのだ。

 俊介にとっては敵の渦中となる公安1課、通称「犬塚班」への加入要請は、あきらかな抱き込み、もしくは口封じとも思われた。


「すでに、貴方に味方はいないわ。公安に弓を引いた結果は、自分が1番理解してるでしょ?」


「俺を抱き込もうってのは、公安も危機感を感じたってことじゃないのか?」


「いいえ、勿体ないと思ったのよ」


「・・・?」


「消えるには惜しい逸材よ。それに、・・・獅子身中ともなれば、背中から刺す機会だって、あるかもしれないでしょ?」


 内部から捜査をすれば、犬塚警視を噛めるかもしれないぞ。と、冬華は提案しているのだ。

 背筋を冷たいモノが走る冷徹な誘いだったが、公安への敵対行為は、確かに俊介を孤立させていた。鬱積した日々は着地点の見えない霧に覆われた谷となっていた。

 縦社会、保守構造の権化である警察機構は、いずれ俊介に引導を渡すことになるだろう。その内容は左遷か降格人事という線が濃厚で、いずれにせよ、私的な捜査の続行は不可能となる。

 警察という巨大組織において、意にそぐわない猟犬などは、調教されていないノラ犬と変わらないという判断だ。

 つまり、内部に害が及ばないように、檻に入れて飼い殺すということになる。


「まずは、闘える刑事になりなさい。今の貴方はスピーカーにすらなれていない。

 このままでは、誰にも貴方の声は届かないわ」


 その冬華の指摘がトドメとなった。脅しに屈するというよりも、藁に縋ったというべきかもしれない。

 とはいえ、犬塚班に配属されても、主任の犬塚と直接話す機会には恵まれなかった。多忙という事もあるが、そもそもが平の捜査員が口を訊ける相手ではなかったのだ。

 やがて捜査に忙殺され、兎にも角にも職務を優先させて今日に至っている。

 冬華は敢闘賞のご褒美といった風情で機会をくれたが、額面通りに受け取るべきではないのも判っていた。なぜならば、冬華は犬塚班の中核であり、ブレーンなのだ。ゆえに、俊介の味方であるはずがないのだ。


「いいんですか?

 俺は警視を、犬塚主任のことを噛みたいんですよ?」


「どうせ今の貴方ではパクれないわ。まずは、彼を知ることね」


 冬華が「パクる」などという隠語を使ったのも、刑事としての俊介の力量を揶揄してのことなのだろう。

 暗に俊介の行動を「刑事ごっこ」だと告げているのだ。


「判ってっるっすよ。

 でも、いや。それでも、ありがとうございます」


 俊介は警察官の慣例としての敬礼ではなく、男として、弟子としての感謝を告げると、冬華に背を向け、小走りに階段を目指した。


「フフッ。時々だけど、その若さが羨ましくなるわね」


 それは彼女を知る同僚が訊いたなら、目を丸くする呟きだった。




 このビルは捜査本部として使われているが、公式には警察の施設ではない。主に外事警察と公安1課が、隠密作戦のために確保している施設だった。

 組織における括りでは公安の1課と2課、外事警察の各課は公安という機関を構成していることになるが、実際には縦にも横にも連携はなく、情報の共有もしていないのが実情だ。

 また、高度な情報収集能力を有するがゆえに、警察機構における最高の出世部門としても知られている。

 外部の ( 公安にとっては、所属部署以外は外部という発想になる) 捜査員が、この秘匿施設に招かれるのは極めて異例なことである。

 本来ならば、本庁捜査1課の刑事とはいえ、俊介のような青二才が公安の捜査員と接することや、公安主導の作戦に参加したりなど、あり得ないことだった。


( けどよ、相手も人間だ。俺と変わらない人間だ )


 塗装が剥げ落ち、錆止め塗料の色が剥き出しになった鉄扉を開くと、空調機のクーリングタワーや室外機が並んだ一角に、目的の人物を見つけた。


( 俺と・・・同じ・・・ )


 一見すると黒に見える濃茶のダスターコート。

 その男は、そこが気に入っているのか、ハト小屋に背中を預け、湯気の立ち上る紙コップを傾けていた。

 リラックスしてるように見えるが、視線は俊介が鉄扉を開ける前から向けられており、その正体が俊介だと確認したからか、捜査主任の犬塚史郎は興味を失ったように視線を外した。

 その男、犬塚の立ち姿を見ていると、俊介は母親が好きだったハリウッドスターが演じる西部劇のガンマンを思いだしてしまう。


「失礼いたします。犬塚警視、お伺いしたいことがあります」


 考えてみれば、秘匿施設で大声をだして公安警察官の氏名、役職を叫ぶなど、言語道断の行為だった。とはいえ、挑むような眼光の俊介には、そんな都合への配慮は感じられなかった。

 犬塚へと大股で歩みながら、2メートル手前で足を止める。


「なぜだ?」


 犬塚の男性的なバリトンの効いた声に、怒りの色はなかった。


「自分は大変に疑問に思っております。なぜ犬塚警部は...」


「違うだろ」


「はぁ?」


 犬塚の問いを直球で受け止めた俊介は、逡巡をめぐらせながら、結局最後は言葉に詰まった。


「お前さんは『愚痴』が目的で来たのか?

 そうじゃない。『戦争』しに来たんだろ?」


 渋い声と同時に、コーヒーの豊潤な香りが俊介の鼻腔をくすぐった。


「何を、っていうか、ですが...」


 戸惑う俊介の返答は、犬塚の紙コップを持った手が振られたことで、停止した。 言葉ではない「黙れ」という声が訊こえた気がした。実際、そういう意味なのだろう。


「つまり、ムカついたって事だな?」


「そんな表現には収まりません」


「要約すると。って意味だ」


 話しが滅茶苦茶だった。犬塚の言はあまりにも強引にすぎた。


「極論すぎます。それに、省略が過ぎます」


「だったら、チョー要約したんなら、どうだ?

 それなら。ムカついたって事に、なるんじゃないか?」


 俊介は推測した。そして、結論に達する。故意に挑発してるのだと。ワザとチャカしてるのだと。


「ムカついたという感情の範囲に入るかと思います。ですが、...」


( いいさ、だったら乗ってやる。ただし... )


「それで愚痴りに来たってんなら、お前さんはクズだ。

 せめて、ゴミとして戦えよ」


「!」


 俊介の眼前で、ポイと紙コップを捨てた手が拳を握った時には、視界を埋める最大ズームとなっていた。


( 違うっ。正拳、パンチだ )


 思考ではない。意識とは違う本能の反射とでも表現すべき反応で、首を反らして回避する。

 身体を旋回させる犬塚。ひるがえるコートの裾をすり抜けて、赤茶のブーツ・・・

 呆然とする思考とは無関係に、俊介の身体は再度反応した。


「クっ!」


 その回し蹴りを回避するのはタイミング的にも不可能だった。

 危機に対する防衛本能により、交差した両腕でブロックしたものの、背骨まで突き抜けるようなインパクトを受け、思わず苦悶の声が漏れた。


「初手が奇襲なのは、クズっぷり満点に礼を欠いた罰だ。いいぞ、手番を譲ってやる」


「なっ、・・・一体なんなんすかっ!

 滅茶苦茶です!」


 俊介の抗議に対して、犬塚は薄く笑みを浮かべて応えた。


「階級が気になるってんなら、心配は無用だ。

 喜べよ。ムカつく上司を殴れるチャンスだ」


「こんなの、俺の本意じゃありません」


「ウソつけ。

 っていうか、本当にそうなのか?」


 戸惑うような表情は、犬塚が初めて見せた明確な感情だった。高ぶっていた俊介の思考回路に、再び困惑が広がる。

 対する犬塚は構えを解かずに口元を歪める。


「よく思いだせ。なぜお前はポリになった?

 感じてるだろう。この組織だって腐ってる。犯罪者よりも腐ってやがる。

 賄賂、情報バイヤー、暴力団との癒着、押収品の横流し、証拠隠滅、汚職議員の保護。ムカつく幹部なんざ、山といやがる。

 知らないとは言わせないぞ。お題目の正義なんざ、とっくに死んでるんだ。だから、すでにお題目すら存在しない」


「それを、・・・主任は自身のお立場で、公言するんですか?」

 

 啞然と問う俊介へ、犬塚は不敵な笑みを返事にする。


「誰が否定できる?

 お前も否定しないだろう。

 そして、だ。お前にとっては、俺もご同類ってわけだ。

 お前が戦うべき悪に、コノ俺も選ばれたってワケだ。だったら、殴ってみたくなるだろ?

 もちろん殴れるなら、だけどな」


「お断りします。主任を相手に喧嘩なんて、そいういう事じゃありません。俺がしたいのは、・・・俺は、警察官なんすよ」


 犬塚の発言は暴挙ともいえる失言のオンパレードだったが、警察官としての職歴が長くなるほどに実感していく腐敗の核心でもあった。ソレをここまで断言してしまう犬塚に圧倒されつつ、どこかで感動してしまう自分を意識してもいた。

 だが、犯罪は制裁すればいいというモノではない。立件して逮捕、起訴するのが警察官であるはずだった。


「判るぜ。お前のソレも、クズ特有の体裁ってヤツだ」


( 違う、チガう、チガウ )


「本音が怖いなら官僚に好かれるぜ。

 怖くないヤツは出世もできない。たまぁーに汚職警官の上司と戦う真似事はできるだろうが、結局は雑巾みたいに使われるだけのクズになる」


「それを主任が、それをあんたが言うのかぁっ!」


 俊介の怒声は、もはや上司に対する態度ではなかった。相対する犬塚は笑みを深め、侮蔑するように唾を吐き捨てた。

 湧き上がる怒りは意識の葛藤と同時進行で膨れ上がり、警察機構の矛盾が連続するジレンマを生みだしていく。やがて脳内でそれらが激しくぶつかり合い、炸裂寸前なのを意識する。


( 駄目だ。我慢我慢、根性だ。ここで挑発に乗ったら、負けるのはコッチなんだ )


「俺は一流のゴミなんでな。お前みたいな特産品のクズが、正義を気取って愚痴るってのが、最強に笑えるんだよ。

 元係長。お前の上司、奥寺警部のことで血を昇らせたんだろ?

 確かに、奴は警察機構における正義を執行したんだろうよ。だがな、世間一般では、ソレを悪党って呼ぶんだよ」


 犬塚の皮肉な笑み。謳うような口調が、俊介の憤りを煽った。


「それは違う!

 その証拠には、捏造された可能性があります」


「当然だ。ソレは、俺が作ったんだよ」


( コイツ、吐きやがった ) 


 俊介の脳内で、何かが音を立てて弾け、炸裂した。

 目の前に明確な悪を認識した瞬間、足は無意識に戦闘領域へと踏み込んでいた。


「シィッ」


 直後、吐息を切って突きだした俊介の正拳はフェイクだった。躱さずにブロックからの踏み込みを誘っての一撃である。

 犬塚は俊介の狙いどおりに肩口で正拳を受け止めると、クルリと身体を回し、再度の回し蹴りを放った。


( 犬塚ぁぁぁっ! )


 脳内で雄たけびを上げつつ、俊介は一気に自分の間合いに飛び込んだ。

 蹴り技を封じて正拳の届く距離を維持しながら、連続して拳と肘を突きだしていく。

 犬塚は俊介の打撃を流れるように捌きつつ、バックステップした不自然な姿勢から恐ろしい速度の蹴りを放つ。が、対する俊介も空手3段の武道家である。犬塚の使う流派までは判らないが、蹴り技を中心に反撃を組み立てることは予想していた。


( って、マジかよ )


 右手で左手首を掴んで左腕のブロックを強化したものの、馬に蹴り飛ばされたようなインパクトに、後脚の重心が揺らいだ。

 理想としては蹴り足を掴むか、いなして間合いを詰めての膝蹴りを返したかったが、ヒラヒラとなびくコートの裾に幻惑され、どうしても犬塚の予備動作を見逃してしまう。


( 落ち着け、まずは1本。そこから流れを変えるんだ )

 

 そして、実際の格闘において、達人を相手に大技などが決まらないのは通説である。ゆえに、シンプルで最速の技で繋ぎつつ、工夫する必要があるのだ。

 俊介は右手の手刀( チョップ )を繰りだしながら、直後、期待したインパクトはなく、空を切る現実に苛立った。


( コノぉ、ちょこまかとぉっ )


 犬塚の身のこなしに舌を巻きつつ、すくい上げるような回し蹴りを絶妙なタイミングでブロックする。

 吐息を切り、シンダーコンクリートを砕く勢いで踏み込むと・・・


( ふざけっ・・・ )


 落雷のような衝撃に、俊介の意識が飛びかける。再度放たれた犬塚の2の太刀。回し蹴りが、俊介の胸板を貫いた効果だった。


( ・・・ウソだろ、あり得ない。2段蹴り...なのか? )


 俊介の思考とは関係なく、鍛錬を積んだ身体は今度も反射的に、無意識に反撃へと身体を躍動させる。

 ソレはジャンプと呼ぶにはあまりに小さな跳躍であり、むしろフットワークに近いモノだったが、俊介の身体が自発的に飛んだことにより、犬塚の蹴りが内包する最大効果のインパクトを、ほんの僅かだけ逃がすことができた。

 加えて、受けたインパクトはバック転するような跳躍を補助する役目も担ってくれる。


( ・・・俺にだって・・・ )


 武道とは、戦争を含めた戦闘技術の極意である。道具や武器を発展させた西洋とは違い、東洋では肉体を鍛え上げることで武器としてきた。

 だからこそ、その技術はボクシングやプロレスとは根本的に違う認識で成り立っている。

 元来、武道には時間的な制約はなく、空間的な縛りも判定による勝敗も存在しないのだ。

 敵が武器を使用する状況はもちろんのこと、雷雨や雪原という気象環境においても戦闘は発生する。暗夜であろうが、揺れる船上であろうが戦闘は行われるし、根本的に1対1という概念すらも存在しないのだ。


( ・・・蹴り、を・・・ )


 意識を一瞬で覚醒させた俊介は、犬塚の2段蹴りのインパクトを利用しつつ、身体をのけ反らせながら、振り上げた手でハト小屋の縁を掴んだ。

 支点を得た腕を軸にして身体を回すと、エアウォークのように両足を入れ替えつつ、生みだした反動によって、渾身の蹴りを放つ。


( ・・・できるんだよぉっ! )


 無意識に跳躍したとはいえ、減衰できたダメージなど数パーセントにすぎない。打撃による痛覚が脳に伝わる手前。激痛が全身を貫き、身体が痙攣するまでの、そのプロセスを「気」によって遅らせた。加えて環境の利用、ハト小屋という構造物を活用することで、本来不可能なはずの反撃を可能にしていた。

 自身の蹴りが犬塚を捉えた確かな手応えに喝采する余裕もなく、俊介の身体は屋上のシンダーコンクリートへと墜落した。

 肺が潰れ、呼吸が止まる中、涙で滲んだ視界に犬塚を探す。

 跳躍して減衰したとはいえ、犬塚の蹴りをカウンターで急所に喰らっているのだ。その上、受け身を考慮せずに捨て身で蹴りを返したのだから、俊介の払った代償は巨額である。まともに意識があるだけでも称賛に価した。


( ダイジョーブ、根性だ。まだまだ、・・・立てる )


 膝立ちまでは無意識で、そこからはただの根性で立ち上がった。すでに立ち上がっている犬塚を、過剰に待たせるわかにはいかない。そんな、自分でも理屈が判らない理由で根性を振り絞っていた。


 カハァッ


 一気に酸素を取り込んだ胸が、焼けるように熱かった。


「凄いな。あのタイミングで、胴回しかよ」


 首をさする犬塚の称賛は、演技ではなさそうだった。その笑みは苦痛によって歪んでいる。

 俊介の回転胴回し蹴りは、インパクトに見合うダメージを与えていたのだ。


「ケ、・・・警視こそ。あんな2段、・・・あり得ないです」


 俊介の汗と涙で滲む視界に、犬塚の屈託のない笑顔が飛び込んだ。


「続けるか?」


「もちろんです」


 こんな時、時間は平等ではない。それは5分だったのか、1時間だったのか。それは格闘であったが、ダンスのようにも見えた。

 俊介にとっての空手とは、強さの手段であり、将来の正義、つまり警察で活躍するためのツールにすぎなかった。

 道場での鍛錬は、成果を実感できる聖域だったし、仲間とも呼べる友人もできた。それなりに充足していたのだ。

 しかし、犬塚との仕合いは全てが違っていた。犬塚のような極論、または要約で表現するならば、愉しかったのだ。


「邪魔して悪いんだけど、そろそろイイかしら?」


 鈴を鳴らしたような声には、言葉通りの響きはなかったが、謝罪のような雰囲気は口調に滲んでいた。あくまでも、「ような」ではあるが。

 圧倒的なバストを突きだすように腕を組み、堂々とした仁王立ちで上司と部下に告げる冬華の表情には、呆れたような、そして困惑するような笑みが浮かんでいた。


「って、なんだよ。トーカかよ」


「あっ、ソノ・・・先、輩」


 冬華は上品なルージュが引かれた唇を尖らせ、凛とした視線を犬塚へ送る。


「冬華で悪かったわね」


「一度でいいから、本気で言って欲しいもんだ」


「そんなことしたら、困るでしょ?」


 我に返った俊介は、何か、自分が凄い悪いことをした気分に襲われていた。厳密にはその不安は正しい。

 絶対的な縦社会である警察組織において、例え犬塚が了承しているとはいえ、上位者への暴行、私闘などは絶対に許されない行為である。刑法における「決闘罪」を適用しての処分となれば、良くて懲戒免職だろう。上司への暴行が事件として立件されたなら逮捕、起訴、有罪との流れは避けられないのだ。

 そして、俊介は当初の目的を失念しているが、そもそも犬塚自身が暴露した証拠の捏造、違法捜査の立証には証拠が存在しないため、現段階では捜査自体がおこなわれないだろう。


「あの。っつ、先輩、・・・自分は」


 口の中が切れていて、俊介の滑舌は思うに任せなかった。


「真木。アナタはドジね」


「は、いえ、はいっ?」


 知らない者が訊いたなら、優しいと勘違いしてしまうような冬華の指摘に困惑しつつ、俊介は不安を表情に乗せる。


「不満そうだけど、仕方ないでしょ?

 屋上で昼寝してたのよネ?

 その帰り、寝ぼけて階段から落ちるなんてね。まるで部活をサボったヤンキーみたいだわ。ココは学校じゃないし、私は先生でもないのよ。

 上司としては、とても情けないわ」


「あのぅ・・・それは?」


「まさか、違うの?

 私の指摘が間違ってるのかしら?」


 冬華の氷を思わせる感情のない瞳に、俊介の背筋は文字通り凍りついた。


「いぃえ。その、・・・違いません。

 ですから、そのぅ、すいませんでした」


 頭を下げつつ、さり気なく犬塚を見やると、こちらはコンクリートの床に胡坐で座り込み、火を点けたタバコの煙を大きく宙空に吐きだしていた。まさしく自分は無関係だという態度である。


「私は作戦には万全の態勢で、って指示したはずよ。アレは相談やアドバイスじゃないの。上司としての命令なのよ。

 ソレを、・・・勝手に怪我なんかしてんじゃないわよ」


 優しく諭す口調が最後に罵倒へと一変し、ナイフとなって俊介のハートを抉る。


「すいません。大変失礼しましたっ!」


 従順な俊介の態度に満足した笑みを浮かべると、冬華は視線を犬塚へと移した。


「警視。犬塚主任?」


「んあっ?」


「お見苦しい所をお見せしまして、誠に申し訳ありませんでした」


 冬華の謝罪。その下げた頭に慌てた俊介は、直立の姿勢を犬塚へと向き直し、自身も頭を下げた。しかも90度よりも深く、ストレッチのように。


「おいおい、マジで必要か、それ?」


 くわえタバコのまま、笑いを我慢するような犬塚を無視し、冬華は俊介を睨みつけた。


「汗臭いわね。

 シャワーを浴びて。それから、傷を冷やして休みなさい。

 今後は、2度とベッド以外での仮眠は許可しません。イイわね?」


「はっ、了解です」


「判ったなら、さっさと行きなさい。

 今回だけは、主任の厚意と私の温情で、処分は見送ってあげる」


 その口調は当初の優しいものに戻っていたが、俊介に安堵の感情はなかった。どうやら庇ってくれたようだが、怒ってはいるのだ。元々の目的を考えれば可笑しな展開だったが、ここで冬華の計らいを無駄にはできなかった。


「了解です。犬塚警視、失礼いたします」


「あぁ、ご苦労だったな。それと、階段には気をつけろよ」


 イタズラっぽい笑みには嫌味もなく、親しみすら込められていた。。その瞬間から、俊介は自身の内にある犬塚への憤りが溶けていくのを意識した。




 軋みを上げて閉じる鉄扉の向こうに、走り去る俊介の靴音を確認すると、冬華は犬塚の口からタバコを取り上げた。吸い込んだ煙をルージュを引いた唇から細く吐きだす。


「どんだけ無茶なのよ。正直、呆れたわ」


 苦笑を浮かべたままの犬塚は、冬華の指に挟まれた元自分のタバコに手を伸ばしたが、たかる虫のように払われた。

 次に冬華の唇から吐きだされた煙は、上品さとは程遠いガサツな量だった。


「おサルさんみたいな技で戯れること30分。流石に、作戦に支障がでそうだから止めはしたけれど。

 アナタは自分の立場ってものが、本当に判ってるの?」


「そんなにやってたのか?

 すまんな。ついつい、ってヤツだ」


 犬塚は本気で驚嘆している様子で笑い、冬華の溜息など気にもしていなかった。


「お前が来ると思ってたんだよ。そういう予定だったろ?」


「自分で面接したいって、言ってたでしょ?」


 冬華に謝罪の素振りはない。犬塚がくわえた新しいタバコを取り上げると、今度はソレを唇に刺した。古いのは、すでにパンプスで踏み消している。

 犬塚は舌打ちしてからもう一本出すと、冬華のタバコに火を点けてから、自分のタバコにも火を点けた。


「俺は恨まれてる。ヤツのは、とても面接の態度とは思えなかったぞ」


「でも、愉しかったでしょ?」


「よく言うぜ、お前がけしかけたんだろ?」


 内容こそ抗議だったが、犬塚の柔らかい笑みは冬華の指摘を裏付けていた。


「真木俊介は、このビルの存在を知っている。一部とはいえ、公安の手法も、捜査員の顔もね。

 だから必然的に、今後は史郎君の部下として公安に配属される。それとも、消すつもりだったかしら?」


「おいおい、『消す』とかって、ちょっと怖えぇぞ」


「いらないなら仕方ないでしょ。史郎君のためよ」


「俺の、というよりも、トーカのチーム要員としてスカウトしたんだろ?」


 おそらくは冷酷な判断を含めて話している冬華に対して、犬塚の表情は「まだ茶番を続けるのか?」と、問うている。


「そうよ。腐ったリンゴが嫌なら、木からもげばいい。史郎君を支える、最高のチームを作るわ」


 どれほど優秀であろうと、朱里冬華は女である。世間へのプロパガンダは公明正大であろうとも、やはり警察組織の実態は男社会なのだ。

 その男社会で冬華が頭角を現すには、優秀である事とは別に戦略も必要だった。

 優秀な警察官は性別に関係なく評価されるべきだが、女性警察官の多くが同僚と結婚する対象として見られるのも、警察組織の通例でもあるからだ。

 その主たる要因は職務に対する価値観やその理解が互いに容易であるためであり、激務に忙殺される部署ほどに、時間を共有している同僚同士の結婚が多くなる傾向があるのだが、それゆえに、出世という意味においては美人であることが妨げになったりもする。

 美人であるがゆえに、様々な部署からの引き抜きの声がかかり、あるいは、希望の部署があっても異動が叶わないという現象が起こるのだ。

 野心溢れる冬華にとっては、キャバ嬢の引き抜きのような人事はストレス以外の何物でもなかった。ゆえに、出世欲を満たすには冬華は自身の美貌を逆に利用するしかなかった。皮肉なことに、冬華の有効打は美貌と知略によるロビー活動によって量産されてきた。それは、最高でもナンバー2までにしかなれないということを意味してもいた。


「まだまだ坊やだけど、磨いて光る原石よ。

 他の捜査員もそう。これで地盤が固まれば・・・なんだけど、ネ」


 それが現実であるならば、せめて自分の大切な男をナンバー1にする。いつからか、冬華の行動理念はそう定まっていた。

 警察学校に張り巡らした情報網から、本庁捜査1課へ編入された若き捜査員、真木俊介に目を付けた冬華は、自分の部下として育てるべく公安に異動させた。

 悪しき警察官の粛清も兼ねて、策謀と裏工作を進め、捏造した事件で俊介の元上司を起訴した首謀者こそ、朱里冬華だったのだ。

 全ては犬塚の下で最高の人員を揃えるためだった。


「合格点だが、不安もあるぞ。なにせ、あの新米は野生の獣だ。抜き身の刀身ってヤツは、どこにでも傷をつけるからな」


「室内犬が好みとは知らなかったわ。

 安心していいわよ。私が真木俊介の鞘になれる所も見れたでしょ」


 少し誇らしげな冬華に対し、犬塚は更なる不安材料の指摘を飲み込んだ。

 現状、真木俊介は朱里冬華へ工作の匂いを感じてはいても、自身の窮状を救い、理解し、かつ見込まれてスカウトされたと信じてるはずだ。

 その朱里冬華の推薦によって自分は公安の、犬塚の捜査チームに異動したと思っているはずなのだ。しかし、それは本当であっても不思議ではない嘘なのである。

 全ては朱里冬華という演出家によって作られた演劇であり、もしも、俊介が奥寺警部の違法捜査を含む真実を知ったならば、その情熱の強さゆえに、抜き身の刀身は鍛えられ、切っ先は冬華や犬塚へと向けられるだろう。

 しかも、その真木俊介は冬華が選んだダイヤの原石でもある。おそらくは優秀になっていく。事と次第によっては全てを、犬塚と冬華、他の仲間たちとの計画をも暴けるかもしれないほどに、危険で優秀な捜査員に育っていく可能性まであるのだ。

 同様の懸念を冬華が持っていないはずはないが、犬塚のしこりを払拭する材料にはならなかった。犬塚の知る限り、過去5年間の冬華の知略は完璧だった。ただし、冬華がどれだけ優秀であったとしても、この先もミスをしないという保証にはならないのだから。


「お陰で、俺は階段で転ぶようなドジを採用するのか。しかも、少しやり方がズルい気がするぞ」


 内心に不安はあるものの、やはり犬塚の声には内容ほどの憤りはなかった。むしろ、冬華を気遣う響きすらあった。


「ゴメンね。正直、焦りもあるの。

 随分と時間がかかったし、お陰でオバサンになっちゃったし」


「よせよ、お前は変わっちゃいない。変わったのは、俺のほうだ」


 冬華が自身の弱さや自虐を吐露するのは、極めて異例のことである。特別な相手。犬塚のみが許され、目にする淑女の姿だった。


「史郎君」


「まぁ、それもこれも、今を乗り切ってこそだけどな」


 犬塚は議論を打ち切るように、タバコを携帯灰皿に捨てた。先ほど冬華が踏み消したタバコも拾うと、冬華に携帯灰皿を渡す。


「予測される被害は、突入要員の4%。2人か3人は死ぬって計算よ。

 私の力不足ね。ゼロにできなかったこと、ごめんなさい」


「それすら流動的な確率だ。良いほうにも、悪いほうにも傾くだろうさ。

 全員を生還させたいが、さすがに厳しいかもな」


 犬塚は肩をすくめてみせた。


「これが戦争なら大勝利になるわ。けれど、警察官の殉職としては多すぎる」


 成否に関係なく、殉職者の存在は犬塚の足元を脅かすだろう。死者の存在は栄誉を簡単に打ち消し、責任追及の非難が犬塚へ集中することになる。


「お前が反対してきた理由は承知してるさ。だが、俺はそういうことだけでは計れない」


「私が感情のないマシンだとでも思ってるの?」


 少し淋し気な冬華の視線に、犬塚は首を振って宙空を見上げた。


「作戦に不満がある訳じゃない。むしろ、良くやってくれている。お陰で成功率も生還率も申し分ない。

 だがな、勝利ってのは、その喜びを味わうことも含まれるべきだ。誰にだって帰る家があるんだ。あの世で2階級特進を喜ぶヤツが、いるとは思えない」


「そんなアナタだから、私は賭けたのよ。

 いいわ、直前まで作戦内容を吟味してみる。史郎君のために組織した編成よ。私だって、誰も死なせたくない」


「頼りにしてるぜ」


 タバコを携帯灰皿へ捨てた冬華も、遠くに見える都庁庁舎へと視線を移した。日本の技術を示すその威容も、今は儚い城に見えていた。


( 所詮は名ばかりの政府。公僕が捧げた愛に、報いる存在じゃないものね )


「で、現状の配置はどうなっているんだ?」


 質問する犬塚の眼光に、先ほどまでの温厚な笑みは存在しない。獲物を仕留めるために、容赦なくトリガーを絞るハンターの瞳を宿した犬塚を前に、冬華は狂喜する心中を諌めながら呼吸を整える。

 これこそが、犬塚の最大の魅力だった。


「監視班を4班に増強。狙撃隊を含め、配置は完了してます。

 SATは予定位置にて即応待機。それと、16号を含む幹線道路、各交通網への機動隊の配置も予定通り進行。夕刻1800時をもって、即時、検問を設置する予定です」


 報告する冬華自身、大規模な布陣を改めて実感していた。門倉副総監を筆頭とした首脳部監査の下での編成だったが、完全に犬塚班主導の作戦だった。

 成功の栄誉は犬塚に与えられるが、逆に失敗の責任も一身に背負わされる。


「仁乃樹会の動きは?」


「ありません。ですが、傘下の屠龍組に不審な動きがあります。現在も『エス』からの情報を待ってる状況です」


 まるで脚本を覚えた役者のように、凛とした声で逡巡なく冬華が報告する。

 因みに「エス」とは、捜査対象組織の内部の協力者を指す。いわゆるスパイを指した隠語だった。


「すでに本隊に合流してる可能性が高いってわけだ。本命の戦闘部隊に動きはないのか?」


「安心して。衛星監視も含めて、相模原第3小学校の動向は手の中よ。合流すれば、必ず察知できる」


「判った。俺たち最終便も予定通り...」


 犬塚は、腕時計を確認する


「...2時間後に出動する」


「了解」


 冬華は思う。この男の子供が欲しいと。でも、今は駄目だ。

 妊娠なんかしたら、働けなくなってしまう。犬塚には冬華の頭脳が必要で、相手は夢を叶えた犬塚でなければならない。それは遠い未来ではない。この事態が犬塚の追い風になるはずだと願った。




 相模原第3小学校 校庭 


 危機を予測していた弘樹にとっても、ここまでの暴挙は予想外だった。3人を包囲した作業服の集団は内包した殺意を隠すこともなく、手にした銃器を容赦なくポイントしてくる。


「待って待って、なんなのよ、誰なのよ」


 理沙が腕の中で騒いだが、その解答を弘樹が知るわけがなかった。花蓮も事態の異様さに恐怖、困惑した様子で、口元を押さえた姿勢で硬直している。


「待ってください。オレたち、帰りますから」


( 気まぐれでいい、そこら辺にいるガキが3人程度って思ってくれ。マジで、このまま帰してくれ )


 相手は単純に多数で取り囲んでる訳ではない。剣道の有段者である弘樹には、一見無造作に見える包囲にも、見事にカバーしあった連携が伺える。


( お互いの位置を考慮して囲ってるってか・・・。

 ヤバすぎだろぅ。しかもアレって、AKってヤツだよな? )


 弘樹は正面の作業着が構える自動小銃に見覚えがあった。ガンマニアのクラスメイト、橋住裕也の解説を思い返していた。

 昼休みの学食における、いつもの雑談の1コマだった。それは、昨夜放送された人気の刑事ドラマにおいて、犯人グループが使っていた銃の話しだった。


( なんだっけ、・・・確か「反逆の象徴」とか、そんな説明だったよな。

 ようは、悪党の銃だって説明だったはずだ)


「そうよ、帰ります。ゴメンなさいでした。

 ねぇ、訊いてます?」


 弘樹は舌打ちしたくなった。今の理沙は能天気すぎる。一縷の望みに過ぎなかった『彼らは自衛隊説』もAK小銃の存在が否定している。

 作業着の集団は理沙の謝罪など無視し、包囲の輪は一気に狭まった。


「ちょっ、ぃいやっ」


 振り向き、花蓮が拘束される光景を見たときには、弘樹も肩を掴まれ、同時に足を払われるなり、地面にねじ伏せられていた。

 真横に理沙の短い悲鳴があがり、弘樹の腕の中から理沙の感触も消える。


「待ってくれ、リサは足が・・・」


 言い終わるより先に、耳の下あたりに指が押し当てられる。次の瞬間には突き刺さるような激痛が走り、弘樹の視界は白く染まった。

 これまでに経験したことがない激痛であり、意識も飛びかけていた。弘樹は唸り声を上げて意識を保つが、指の圧迫が緩むこともなかった。

 身体をよじり、唸りをあげようとも、その抵抗は作業服が遂行する拘束作業において、障害にもならなかった。

 

「ぅぅうおぉぉぉっ」


 弘樹の焦燥は、後ろ手にされた手首に硬質な感触を意識した瞬間、頂点に達していた。両手を塞がれたなら、理沙の救助は不可能になる。一方で、両手が自由なら闘える人数かといえば、そのことは思考の外だった。

 弘樹の名を叫ぶ理沙の悲鳴が不自然に途切れた瞬間、全身のバネが意識に呼応して爆発した。膝で大地を蹴った反動を利用し、一気に上体を起こそうと試みたが、岩石を落とされたような勢いで妨害され、地面に叩きつけられた。

 目の中に土が入り込むのも構わず、首を振りたくって暴れたが、作業服の男は慣れた様子で関節を決めると、弘樹の抵抗を封じた。結果、両手を後ろ手に拘束され、口中へは何かの布の塊が押し込まれる。

 口腔内を布の塊に圧迫され、怒声も封じられ、呼吸も阻害される。弘樹の呼吸は恐怖心との相乗効果で激しく乱れ、即座に酸欠状態になった。


( っざけんなっ! リサは、カレンは? )

 荒々しく鼻呼吸を繰り返しながら、限られた視界に理沙と花蓮の姿を探す。

 視界の隅、弘樹の真横、1メートルも離れていない芝生の地面に理沙の姿はあった。

 猿轡を噛まされ、両手を後ろに、結束バンド ( 100円ショップで売られているような品 ) で拘束されるところだった。

 うつ伏せにされた首の後ろに作業着男の膝が乗せられ、整った理沙の顔の半分が芝生に埋まっている。動きを封じられた理沙が少しでも抗おうものなら、容赦なく体重をかけられ、首を圧迫しているのが判る。


「!」


 喉まで押し込まれた布塊のせいで怒声こそでないが、目を剥きだした弘樹は渾身の力で足腰を振り、釣り上げられたコイのように暴れた。

 その弘樹へ、今度は脇の下から背中よりのポイントに容赦のない打撃が加えられる。その筋肉を脱力させる急所への効果は絶大で、弘樹は意識が飛ぶような激痛と同時に、意識に反して全身が弛緩していくのを自覚する。

 耳慣れない外国語の叱咤が飛び交い、その一瞬、意識を消失しかけていた弘樹を押さえつける力が弱まった。


( ブチころす! )


 瞬間的な機会に思考が弾け、意識は瞬時に覚醒した。

 弾ける火花のように覚醒した弘樹はドリルのように仰向け旋回するなり、両足を振り上げて風車のように回転させた。

 弘樹を押さえつけるべく伸ばされた手を首を傾げて躱すなり、反動を利用して一気に立ち上がる。


( ナメんなっ! )


 眼前の作業服が即座に銃床の打撃を放つが、それも上半身を捻って躱し、そのままの流れで回し蹴りを放つ。

 流れるような攻撃だったが、銃身でブロックされる感触を受けて失策を悟る。ただし、それは問題ではなかった。


( リサっ、無事だな・・・カレンも・・・ )


 間を置かずに側頭部へハンマーで殴られたような衝撃を受けたが、弘樹は気合を込めた息吹を鼻で切って気絶を防いだ。

 両手を背後に拘束された状態であり、頭部への打撃で平衡感覚を消失していたが、膝は折らなかった。いや、折る訳にはいかなかった。


( リサぁぁぁっ )


 声にならない気合に乗り、自分と理沙の間に立つ作業服の男へ、飛び込むように膝蹴りを放った。が、硬い金属、・・・銃身によって防がれる。

 ブロックされるのは判っていた。相手がその程度の技量を持っているのは予測済みだった。


( これなら、どうだっ! )


 弘樹は跳躍の勢いのまま、作業着男の顔面へ渾身の頭突きを浴びせる。ノーモーションであり、最速のゼロ距離打撃となった頭突きには確かなインパクトがあった。

 もんどりうって転倒する姿を尻目に、別の作業服が繰りだすハイキックを前転する要領で躱す。

 弘樹は剣道の有段者ではあるが、格闘武術の心得があるわけではない。ただし、武道の修練は伊達ではない。相手の所作からの攻撃予測、回避行動は意識せずとも条件反射のように身体を反応させる。

 弘樹の前転からの踵蹴りは、空手でいう『あびせ蹴り』に近い要領のハイキックとなって作業服の側頭部を捕らえた。

 踵に伝わる『コォーン』という抜けるような感触は、確かなダメージを与えた証拠である。


( やったぜ、2人やった。リサァっ! )


 しかし、弘樹の認識は間違っていた。元より屈強な彼らは、ダメージを受けてはいても、戦闘不能とは程遠い状態だった。そして、なによりも人数が多いのだ。

 両手を拘束されているがゆえに、無様な着地の勢いを最後は顔面で芝生に突っ込むことで殺した弘樹は、全身をバネにして即座に立ち上がった。

 目の前には3人目の作業服男。4人目、5人目。そして、最初に頭突きをヒットさせた男が乱闘に加わった。

 弘樹は何発かの拳と蹴りを躱したが、ほとんどの打撃を受けていた。

 薄れていく意識の中で、霞んでいく視界に理沙を探す。

 背中や太股への打撃を無視し、見つけた理沙に被さるように倒れた。

 芝生の感触を顔面に受けながら、胸元に呼吸で収縮する理沙の肉体を感じる。弘樹の意識は遠のきながら、背中や足に加えられる無茶苦茶な打撃で覚醒する。

 飛び交う会話は外国語で、弘樹には理解できなかったが、どうでもよかった。理沙がいる。自分の傍に。それだけを意識していた。

 その理沙も、弘樹と同様に口腔内に布を押し込まれて猿轡されているため、唸るような声しかだせないでいた。でも、だからこそ生きているのだと弘樹は実感する。

 とはいえ、状況が好転したわけではなく、むしろ暴れたせいで怒りを買っているのだが、度重なる殴打の痛みと、制限された呼吸のせいで、すでに正常な思考回路は存在しなかった。理沙の肉体を感じることで、意識を保っているだけだった。

 朦朧とする意識の中で、弘樹の聴覚が突然に研ぎ澄まされる。


( 日本、語・・・だ )


「・・・ってんだ。ったく、面倒なガキだ」


 苛立つようなダミ声を認識した直後、激烈なインパクトが側頭部に炸裂して意識が吹き飛んだ。続けざまに知覚できる激痛に襲われ、今度は痛覚によって意識が覚醒する。


「...すじゃねえか。どうなんだ、小僧?」


 声が訊こえるだけで、弘樹の思考は作用しなかった。ドスの効いた低い声だが、訊こえるだけで、内容など理解できなかった。

 傍らに転がる理沙は、ただただ弘樹が心配であり、出せない声で容赦への懇願を続ける。


「オラァッ、なんとか言ってみやがれ」


 髪の毛を掴まれ、無理矢理に顔を上げさせられると、脳まで揺れるような張り手を見舞われる。


「あのぅ、アニキィ?」


「なんじゃい」


 別の日本語が遠慮がちにかけられ、男が振り向いたのだろう。弘樹の掴まれた頭部が再び揺れた。


「そのぅ...」


「ああ、そうだったのぅ。話せるわけがなかったな」


 弘樹の猿轡が解かれ、口腔内から乱暴に布が抜かれる。

 酸欠状態から唐突に解放された肺は、気道から洪水のように大気を貪った。充分な空気を得るだけで、意識が覚醒してくる。


「言えぇや、ガキ」


「...ぅを...せぇ...」


 咳き込みながら、なおも大量の酸素を求める肺と意識は釣り合わず、弘樹の滑舌は要領を得ないでいる。


「おぉ、なんじゃい?」


 耳を寄せてくる男へ、弘樹は改めて息を吸い込み、再び話そうと試みた。


「リサぁぅを、...かぁえせ、え」


「ガキが・・・知ったことかよ」


 乱雑な口調の男は掴んでいた髪を突き放すと、再度、弘樹の側頭部をサッカーボールのように蹴りあげた。


「おう、そのソルジャーは、なにを怒ってやがる?」


「それがぁ、教わった通りに日本語を使ったけど、バレたじゃないか。みたいなコトを・・・」


「それこそ知ったことかよ」


「ソぉれは、ホンキでイッてるか。フジさん」


 2人の会話に、間延びした感じの日本語が加わった。多少、アクセントに違和感があるものの、充分に日本語として通用する話し方である。


「ザジィかよ。こりゃぁすまねえな。

 まぁ、夜の校舎にガキが侵入するなんざ、珍しいことでもねえ。

 お前さんが心配しなくても、こいつらは始末しておくしよ」


 フジと呼ばれた男は居酒屋を案内するような口調で、冷酷な提案をしていた。


「シマツはコロすか。でいいか?

 オンナのコドモ、コロす、チガう」


「なんだよ、ソルジャーの矜持とかってワケかい?」


 どうやら、このフジという男はザジィなる外国人へは気を遣っている様子だったが、身動きできない状態で見上げる理沙にとっては状況の好転とは思えなかった。

 理不尽な暴力に蹂躙された弘樹の惨状が真横にある。怒りと恐怖の天秤が揺れ続けていた。


「ワカらない。キョージ、なに?」


「いいさ、いいんだ。判ったよザジィ。

 ところで、ブツは揃ったぜ。体育館へ運べばいいんだろ?

 おいマツっ」


「へいっ」


「車を体育館に入れとけ。ぶつけんじゃねぇぞ」


「へいっ」


 フジに指示された男が駆け足で去る気配を感じながら、理沙は可能な限り周囲の様子を観察した。その状況は見るほどに絶望的だった。

 ヤクザ風 ( 多分本物だろう ) と外国人らしき作業服姿は、視界の中だけでも20人以上いる。花蓮の姿は確認できないが、唸るような声が花蓮のものだとは判った。そして、隣に転がる弘樹の惨状だ。たまらずに涙が溢れる。

 頭部の怪我から出血し、毛髪を伝わって額を血に染めた弘樹は、死んでも不思議じゃないように見えた。


「お前らはガキどもを運べ」


 フジの指示に対し、複数のドスを含んだ返事が重なった。


「まぁ、俺は女を運ぶかね」


「だったら、俺も女だ。こっちにするぜ」


「ズルくないっすか?」


「仕事なんだ、文句言ってんじゃねえ」


「コイツ血まみれっすよ。スーツ汚れんじゃないっすか」


 などと会話は弾み、弘樹の人気はイマイチだった。


( なんでなの、どうしてヒロキが・・・ )


 理沙は弘樹の惨状から目を逸らし、子供じみた会話に花を咲かせる日本人のグループを睨んだ。

 グループの1人、ベッタリと髪をポマードで撫でつけた男が理沙に腕を伸ばすと、乱暴な動作で無遠慮に乳房を掴んだ。


( 痛っ! )


 食い込む指の感触。理沙は恐怖に硬直したまま、強く瞼を固く閉じた。

 男は不必要に身体を撫でまわしながら理沙を抱き起すと、今度は太股を撫でまわし、続いてスカートの中へと指先を滑り込ませてくる。


「随分と念入りじゃねえか?

 タイツっていうか、スパッツってヤツかな?」


 男の囁くような声が耳朶を打ち、理沙の全身が不快感に粟立った。


( 泣いてる場合じゃない、ヒロキは闘ったのよ。このドスケベがぁっ! )


 理沙は首を振って弘樹がしたように頭突きを狙ったが、緩慢な動作は簡単に躱された。

 身体能力の問題ではなく、両足に力が伝わらない理沙には、軸や支点となる体感が存在しないのだ。結果、首振りだけの頭突きにしかならないし、命中したとしても、ダメージにもならない動作だった。


「スゲーじゃねぇか

 イキのいい奴は好きだぜ」


( 誰が、お前なんかにっ! )


 理沙は自由になる首と両足をばたつかせたが、元より感覚もなく不自由な足は思うようには動かない。

 逆に男に頭突きを返され、視界が火花を散らしたように喪失する中、爪を立てて鷲掴みにされる乳房の感触で、更に不快感が募った。

 強引な瞬きを繰り返して視界が復活した瞬間、理沙の横顔を突風が吹き抜けた。


( なに? )


 肉を殴打する不快な打撃音と共に、男の顔がのけ反った。

 男に抱かれたまま芝生に転がった理沙は、後頭部を打つ前に強靭なバネを内包した腕に抱き留められる。

 直後、英語ともフランス語とも違う、訊いたことのない言葉で罵声が飛ぶ。理沙を抱き留めた外国人の発する声だった。


( えっ?

 女の人・・・だよね )


 声色を訊くまでもなく、頬に当たる胸の感触が、女性を主張していた。

 理沙と同い年か少し年上だろうか、黒人ほどではない浅い褐色の肌を持つ少女は、理沙を抱くように支えると、射るような鋭い眼差しを芝生に転がるポマード男へ向けていた。続いて、更なる罵声を浴びせる。


「痛ってぇぞ、このクロメスがぁっ!」


 一瞬で火が点いたように表情を歪めた男だったが、立ち上がる前にザジィと呼ばれていた男に銃口を突きつけられ、困惑した表情を浮かべる。

 同時に花蓮や弘樹を抱えたヤクザ達も動きをとめ、緊張した表情を浮かべた。


「よせ。コロす、する。ココで」


「待った待ったぁっ。

 なぁザジィ、待ってくれ。ただ遊んだだけじゃねぇか。マジになんなよ」


 コミカルにさえ訊こえてしまうザジィの日本語に対して、フジの慌てる態度に喜劇の要素は皆無だった。


「オンナ、ムリヤリ。ダメ。

 ムリヤリは、コロす。ココで」


「わぁーったよ。ったく、気取りやがって。

 シゲ、お前も遊んでんじゃねぇ。ちゃんと運びやがれ」


「ヘイ。すんません」


 うすら笑いで謝罪するポマード男へ、今度は理沙を抱えた少女の怒声が飛んだ。

 理沙に言葉の意味は判らないが、何かしらの抗議だとは感じていた。


「クソが。マツがいねえと言葉も判らねぇ」


 少女は吐き捨てるフジを無視して理沙の猿轡を外していく。

 続いて喉まで圧迫していた布が抜かれると、理沙も弘樹と同様に、酸素を求める肺によって、喉を鳴らして荒い呼吸を繰り返した。その後で少女がナイフを取りだしたのには驚いたが、その刃は理沙を拘束する結束バンドを切断するのに使われた。


「あの、・・・ありがとう。助けてくれて」


 少女の鋭い視線は理沙に対しても変わらず、一瞬言葉に詰まりはしたが、理沙は頭を下げて礼を告げた。理沙の言葉が礼の意図だと伝わっているかは判らない。ただし、その少女の腕は不自由な理沙の足を気遣うように、腰から抱き上げるように巻かれていた。

 外見からは華奢に見える少女だったが、腰から伝わる感触によって、その腕が実際には筋肉の塊なのが伝わってくる。


「コレ、オンナのダイジか?」


「ありがとう、ございます。私の、杖です」


 ザジィは理沙の軽量合金製の杖を渡すと、戸惑うような礼に対し、柔らかい笑みを浮かべる。


「イタい。ヘーキ、ダイジョブ?」


「もう、大丈夫です。平気です」


 状況が状況だ。恐怖心が和らぐことはないが、ザジィの気遣う態度に邪な雰囲気も感じられなかった。髭と肩まで届くパーマヘアーが精悍な顔立ちを一層凛々しい雰囲気に見せるが、その瞳には少女が見せたような険しさはなかった。むしろ優しい光りを感じ、お陰で、素直に返事ができた。


「ゴメンなさぁい。カエる、ダメ。でも、イタい、ムリヤリ、ナシです」


 何となくザジィの説明を理解する。要は暴力は使わないが、人質にはなってもらうという意味だろう。

 その言動が優しいとか恐いとかは問題外だったが、頷けない理沙の思考は無視された。

 拘束を解かれた花蓮が理沙に寄り添い、弘樹は2人の作業服の男に担がれて、体育館へと連行される。




 相模原第3小学校裏手、陽だまり公園前路上


 本来は16名乗りのマイクロバスであるが、外観を有名配送業者の仕様に偽装し、内部は移動指揮車の能力を待たせた車両において、統合指揮を任されている朱里冬華は驚愕の報告を受けとった。

 想定外の侵入者となった学生3名を、それぞれ『マル学1』から『マル学3』の呼称に振り分け、合流した「屠龍組」の構成員5名を『ト1』から『ト4』、内通者の構成員だけ『トエス』の呼称とした振り分けが終わったタイミングでもあった。


「はあぁっ? 

 もとい。『監視3』に報告を復唱させて」


 前代未聞の冬華の奇声に、モニター監視をしているオペレーターが一斉に振り向いたが、即座に普段の冷徹な口調に戻ったので、慌てて担当モニターへと向き直る。


「了解。『監視ゼロ』から『監視3』、報告を再送せよ。送れ」


「『監視3』了解。

 アルファは『監視ゼロ』へ移動。コチラは不在です。指示を請う。送れ」


( ウソでしょ・・・、だって・・・ )


 冬華は脳天に隕石を食らったように思考が真白に焼けていた。身体が奈落へと落ちる感覚を味わいながら、気力だけで平静を装っていた。

 監視班3班からの報告にあった「アルファ」とは、主任である犬塚史郎警視の隠語であり、「監視ゼロ」とはココ、移動指揮車を示していた。

 作戦の重要な局面に差し掛かっているこのタイミングで、犬塚が配置を離れる理由はひとつし考えられなかった。もちろん、冬華が采配を振るっている指揮車に用事があるはずがないし、当然のように、この事態を危惧していた冬華は作戦内容を変更し、犬塚が暴走しないように配慮もしてきたのだ。


「気持ちは判ってる。でも、絶対に暴走はしないで。

 作戦の成否よりも、アノ子達の安全を優先して、プランを再構築するわ」


「了解した。

 トーカ、信じてるぜ」


「狙撃班の配置変更に時間が必要だから、突入要員は即応待機を維持させておいて。

 配置が完了したら、今度は無線で報せるわ。だから、くれぐれもヤケは起こさないでね」


「判ってるよ。

 ソッチこそ、少しは信用しろよ」


「してるわ。ずっと昔からね」


 私的な内容も含んだその会話は、5分前にかけた携帯でのやりとりだった。


( なにが『信用しろ』なのよ。弾丸デカがぁっ! )


「白木君、各班の無線をフルオープン。指揮系統を統一するのよ。

 それと、私のインカムを用意して」


 噴火するような怒りは表情にはださない。だせる訳がない。冷静を装いつつ、冬華の思考は明確に定まらない状態のままで、補佐として詰めている白木警部補へ指示をだした。


「チャンネルは『KT7096ℤ』に変更を通達。いえっ、狙撃『ライフルワン』のみ現行チャンネルを維持。

 あと、真木巡査部長を至急『監視ゼロ』に招集」


 時には「スーパーコンピューター」などと揶揄される冬華の思考回路だが、まさに仇名に見合うフル回転で状況分析と作戦構築を開始していた。


「了解です。

 各班、各部へ通達。以降『KT7096ℤ』にチャンネル固定。ただし、『ライフルワン』は現行を維持。以降『監視ゼロ』の直接指揮下にて進行とする」


 白木の指示により、オペレーターが一斉に命令内容を各班へと通達していく。

 停滞なく命令が履行されるのを確認しながら、冬華はイヤホンマイクを調整しながら大型のタクティカルケースを抜きだし、地図が広げられたテーブルの上に乗せる。


( 不確定要素が多すぎる・・・違う。シンプルな掃討を緻密にすれば・・・ )


 配置した要員の全ての個性、特性が再入力されて、火花を上げて作戦構築へと織り込まれていく。錯綜する思考とは別に身体は動き、冬華はタクティカルケースのダイヤル錠を解除すると、収納していたアサルトスーツを広げ、躊躇なくブレザーの上着を脱いだ。

 

「待って下さい。まさか、ここで着替えるんですか?」


 目を丸くして驚く白木へ意味ありげに視線を送ると、冬華は普段通りの冷徹な表情に戻った。


「緊急事態だから、見てても怒らないわよ。

 それと、盗聴もしくは妨害装置の危険あり。って理由を付けて、本部とは無線封鎖しなさい。当然だけど、映像送信もストップよ」


( そうよ。最低限、その程度の保険は必要だわ )


 矢継ぎ早にブラウスのボタンを外して下着が露わになる姿に、モニターの反射を利用して覗き見するオペレーターが息を吞み込んだ。普段から想像はしていたが、冬華のバストは圧倒的な質量でブラを押し返すように膨らんでいた。


「ですが、そんな機材、ジャミングシステムの存在なんて、は・・・その、確認できてない。のですが?」


 白木は、すっかり下着姿となった冬華から視線を外し、なおも困惑した口調で異議を唱えた。


( お利口さんはキライじゃないけど、そのマニュアル思考が史郎君を殺すのよ )


「その通りよ。私はあくまで『奇襲対応策の存在』を危惧してるのだから。

 事後に録画映像を提出すれば問題ないはずよ。問題があったとしても、責任は私にある。違うかしら?」


( 変動する事態には対処できる。でも、結局は史郎君の存在がイレギュラーになるわね。

 だから、振らなくちゃいけない。この私が、サイコロを振るなんて・・・。

 やってくれるわね。警視殿 )


 浮かんだ笑みも一瞬のことで、目の前にいる白木でさえ、その表情の変化には気付かなかった。冬華は背中のホックも外し、Gカップサイズのブラをケースの脇に置いた。

 白木は誘惑に負けることなく顔を背けていたが、反論も忘れて両目を固く閉じている。


「それと、私は現場に潜入するから全ての指示はだせない。だから、突入のタイミングと『ライフルワン』を除く狙撃班への指揮を白木君に委ねるわね」


 冬華は脱いだスピードと変わらぬペースでスポーツブラ、タンクトップ、アサルトスーツ、タクティカルベストを装着していく。


「了解です。基本ベースは、先ほどの『プランF』でよろしいですね?」


「あくまで『基本』よ。型にとらわれないで」


「朱里警部。もう、お止めしませんが・・・」


「自信を持ちなさい。

 状況判断、考察力において、貴方は私よりも優秀よ」


 冬華は掛け値なしの本音で白木を評価していた。だからこそ、自身でスカウトした逸材なのだ。白木の加入によって、冬華の負担は随分と軽減されている。


( ただし、不測の事態への対応力は、私に劣るけどネ )


 ブーツの紐をきっちりと結んでから、車内にあるガンラックを開放する。予測した事態を考慮すれば、ハリネズミのように武装したくもなるが、生憎と収納されているのは拳銃のみだった。


( いいわ。生きてさえいれば、どうにかできる。

 殺させない。それが必要だというなら、死人の山を作ってだって )


 冬華はサプレッサーが装着された軍用モデルを選ぶと、ベストのマグポウチに収まるだけの予備弾倉を押し込んだ。




 口論の理由は理沙には全く判らなかった。ただ、フジと呼ばれるヤクザとマツと呼ばれる子分の通訳によって、ザジィや他の作業服が殺気立った様子で非難の声を上げているのは理解できていた。


「大丈夫、だと思う。私たちに怒ってるわけじゃないみたいだから」


 理沙は花蓮の震える肩を抱きしめながら、囁くように話した。可能な限りの平静を装っていたが、理沙の足も震えが止まらなかった。

 大型の木箱 ( 高さが1,5メートルの棺桶サイズといった大きさ ) に背中を預けながら、フローリングコートに寝かされた弘樹を見る。

 胸の隆起で呼吸を確認するたびに、安堵と不安が募った。


「それよりも、弘樹先輩。早く病院に・・・。

 ・・・あんなに頭を殴られて・・・死んじゃったら・・・」


 嗚咽を含んだ花蓮の声に、理沙も涙が溢れた。


「うん。・・・でも、大丈夫。

 ヒロキ・・・強いん、だから」


 それ以上は言葉が続かなかった。こらえるほどに涙が零れ、唇が震える。

 格闘に慣れた立ち回りを見せる作業服の集団に対して、弘樹は果敢に闘った。

 理沙を庇い、顔面が変形するするまで殴られても、弘樹は自分の命乞いなどしなかった。


( 私が、こんな所に、・・・連れて来たから )


「だって・・・平気なわけ・・・

 ゴメンなさい、理沙ちゃん。私、恐いの。凄く・・・恐くて・・・」


 内心の後悔と花蓮の言葉が、理沙を激しく追い打った。

 この時の理沙は自身の足の不自由さを、過去最高に恨んでいた。

 この足が自在に動きさえすれば、幾らでも逃走の機会はあったのではないか?

 道場で弘樹と一緒に剣道の修練も積んできた。弘樹と連携すれば、花蓮を庇いながら3人で逃げることだって・・・


「アタシこそゴメン。・・・こんな事に、巻き込んじゃって」


 理沙は顔をクシャクシャに歪めて、肩を震わせながら謝罪した。


「違うよ。・・・そんな、理沙ちゃんは、悪くなんか・・・」


 こみ上げる嗚咽に、花蓮の言葉も続かない。

 理沙は奥歯を食いしばった。


( 泣いてちゃだめだ。アタシが、花蓮だけでも・・・ )

 

「ヒロキは、・・・絶対に、死んだりしないから。・・・アタシ達も、絶対に、・・・助かるから」


 理沙は自分にできることを模索しながら、花蓮を勇気づけた。


( 泣いたら何もできない。あきらめたら花蓮を助けられない。ヒロキが死んじゃう ) 


「絶対帰れるよ。・・・だから、カレンもあきらめないで」


「その通りだ。皆で、家に帰るぞ」


 男性的な渋いバリトンの声に、理沙はドキリと心臓が脈打った。

 涙で滲んだ視界で見上げると、クラシカルなコートを羽織った彫りの深い顔立ちの男が、2人を見降ろしている。

 男の発散する雰囲気は明らかに体育館を占拠する集団とは違っていた。


「待たせたな、俺は犬塚ってんだ。警察官だ。

 君らも、名前を教えてくれるかい?」


「理沙・・・です。この娘は、花蓮です」


「了解だ。花蓮も、よろしくな」


 犬塚と名乗った男は理沙の前で膝を付き、理沙と花蓮の肩をガッチリ掴んで挨拶する。

 理沙は男の場違いに堂々とした態度に圧倒されつつ、無精ひげの似合うダンディな顔を見つめ続けた。


「そこの彼は、なんていうんだ?」


 呆然としていた理沙は、その質問で我に返った。


「ヒロキ、弘樹です。

 ・・・頭を一杯ぶたれて、大変なんです。早くヒロキを、血が沢山・・・このままだと・・・」


「判った。

 リサ、大丈夫だ。誰も死なせない。いいな?

 皆で家に帰る。安心しろ」


 犬塚の頼もしい声に、理沙は涙が止まらなくなった。絶望的な状況にあって、何物をも恐れない自信に溢れた犬塚の発言に、理沙は緊張の糸が切れて、激しくむせび泣いた。


「・・・!」


 唐突な外国語の誰何の声に、犬塚は電撃的に反応した。

 それは片膝を付いた状態からの回し蹴りだったが、理沙や花蓮には何が起きたのかも判らなかった。

 一陣の突風が吹き抜けたと思った次の瞬間には、作業服の男がコマのように回転しながら倒れていた。


「さてと、これから帰るんだが、君らの協力も必要だ。頑張ってもらえるか?」


 犬塚は停滞なく男の所持していたAK小銃と弾倉を回収しながら、週末の予定を話し合うような口調で尋ねる。


「あの・・・はい。できることなら」


「いい返事だ」


 犬塚はニコリと笑みを浮かべてから、寝かされている弘樹を脇の下から抱えて、理沙と花蓮が座る木箱の前まで引きずってくる。


「先輩・・・」


 花蓮は手が血で汚れるのも構わず、弘樹の額をそっと撫でた。医師の家系で育った花蓮である。強打した頭部を刺激する愚は承知していたが、触れずにはいられなかった。


「気を失ってる。多分、脳震盪だろう。

 ちゃんと生きてるよ」


「でも、このままだと・・・」


「そうだな。だから、急ごう。

 そのためには、もう泣かないでくれ。それと、何があっても騒いじゃ駄目だ。

 それを守ってくれれば、全員で帰れる。できるか?」


 優しく響く男性的な声に、理沙はまたしても込み上げてくる涙を、懸命に我慢した。


「いいぞ。できるみたいだな。その調子だ」


 花蓮も体育館の天井を見上げて、頬を伝う涙を手のひらで拭った。

 嬉しかった。大人の存在がこれほど頼もしく感じたことはなかった。


「もう・・・大丈夫です」


 花蓮の凛とした返事に、犬塚が頷いた瞬間。


 ドンッ


 室内で反響した銃声が落雷のように響き、理沙と花蓮が背中を預ける木箱の縁が、木片を飛ばして弾ける。

 犬塚は悲鳴をあげる理沙と花蓮の頭を抱え、自身も木箱を遮蔽物にしてAK小銃の安全装置を解除し、単発モードに設定する。

 周囲から外国語とヤクザの怒声があがり、「ガチャガチャ」と鳴るAK小銃の初弾装填音が続く。


「ったく。真面目に働きやがって」


 不敵に笑いながら愚痴を零した犬塚だが、頷く動作がなければ、飛来した銃弾が頭部を貫いていただろう。理沙は改めて恐怖心の片鱗すら見せない犬塚を見つめてしまった。


「いい子だ。そのままじっとしてろよ」


 犬塚は不敵な笑みを崩さず、花蓮の頭を撫でながら囁いた。花蓮も理沙も怯えてはいるが、信頼を含んだ視線を返してくるのに満足した様子である。


( 強いな。きっと、イイ女になるぜ )


「藤っ!

 屠龍組の藤参次。いるんだろっ?」


 木箱に背中を預けたまま叫ぶ犬塚の問いかけに、コンテナや車両が並んだ周囲から、明らかに動揺する気配が伝わってくる。


「てめえ、どこの誰だっ!」


「犬塚だ。俺は犬塚史郎だ」


「知るかよ。どこの誰だってんだ?」


 ややあっての藤の誰何に犬塚が名乗ったが、この流れは当然だった。


「警視庁公安、犬塚史郎だ」


 離れた距離だが、唾を飲み込み、動揺した気配が広がった。


「なっ、だからなんだってんだ?

 ふざけんじゃねえ、なんでオレを知ってやがる?」


「お前こそ舐めるなよ。

 ソタイ相手には宜しくやってるんだろうが、ハムがどういう組織だか、知らないはずがないだろう」


 ソタイとは組織暴力団対策課を示す隠語であり、ハムとは公安の「公」の字から作った隠語である。当然、暴力団も周知の用語だった。


「・・・」


 犬塚の恫喝に、再び藤の息を吞む気配。

 広域指定暴力団の通例に漏れず、巨大組織である仁乃樹会も、ソタイへは賄賂の見返りとして便宜を図ってもらっているはずで、身代わりとなる出頭組員 ( 自首させる替え玉犯 )は屠龍組などの3次団体から輩出される。

 自首ということで刑期も短く審理されることが多いが、何よりも本気で暴力団壊滅に乗りださないという安心感を得られるゆえに、癒着が絶えないのだ。

 ただし、相手が公安となれば、同じ警察だと考える職業犯罪者は存在しない。


「独りで乗り込んできて、何が公安だぁ。笑わせんじゃねぇ!」


「考えてみろ。お前のしでかした悪さを、ソタイが捜査すると思うか?

 国は総力をあげる。仁乃樹会ごと吹き飛ぶぞ」


「歌ってんじゃねえ。だったらテメェをバラして・・・」


「無駄だ。ココは包囲されている」


 ダメ押しの宣言を受け、息を殺すような静寂が続く。犬塚は恐怖に震える藤の葛藤を測り、頃合だと判断した。


「しっかり弘樹を抱いておけ。それで、頭を下げて目を閉じていろ」


 素直に犬塚の指示を全うする理沙と花蓮を確認すると、犬塚は再び藤へと怒鳴った。


「俺は作戦の責任者だ。取引きしてやる」


「ど・・・。クソが、・・・条件はなんだっ?」


「お前じゃ話しにならん。

 通訳の子分がいるだろ?」


「それがなんだってんだ?」


「出るぞ、撃つなよ」


 犬塚の立ち上がる気配に、理沙は思わず顔を上げた。膝に乗せた弘樹の顔を抱きながら、縋るように犬塚を見上げる。


「心配するな。大丈夫だ」


 理沙はまたしても涙を我慢し、そして不覚にも泣いてしまった。隣りの花蓮も、弘樹の手を握りながら犬塚を見つめる。


「ヒロキを守るんだろ?

 もう少しだけ、頑張ってくれ」


 そして、犬塚は2人の返事も待たずに木箱から身を晒した。


「ザジッツ・ハメル・ジージスと話しをさせろ。通訳の子分もよこせ」


 言うだけ言うと、犬塚は手にしたAK小銃を木箱の上に置いた。

 簡単ではない申しでだと思っていたが、犬塚の指名した相手は、背後に2人の護衛と通訳の松嶋という子分を伴って、犬塚まで5メートルの距離に進みでた。


( モノホンの迫力ってヤツか? )


 写真でしか知らなかった武装勢力のリーダーは、堂々たる面持ちで犬塚と対峙した。


「警視庁公安、犬塚史郎警視です。

 スメイル共和国解放戦線の、ザジッツ・ハメル・ジージスさん。ですね?」


 挨拶の口火を切った犬塚は、射抜くような視線を松嶋へ送り、促した。

 対して、おどおどと慌てた素振りの松嶋は、矢継ぎ早にスメイル語で犬塚の素性を説明する。


「ソッチの、アンタの身分は理解した。

 その、それと、この人の呼び名については・・・」


「ザジィ。ワタシをザジィ。ヨぶ。ダイジョーブ、ですか?」


「名前以外を、その、外国人に・・・」


 犬塚はザジッツ・ハメル・ジージスと松嶋の言に、僅かに口元を綻ばせた。


「了解した。ザジィと呼ばせてもらう。

 俺もシローでかまわない」


 スメイル共和国の基礎的な文化は犬塚も資料で学んでいた。家族や肉親以外からフルネームで呼ばれるのは侮辱と汚れを意味する。古くは決闘前に互いのフルネームを呼び合う風習があったらしく、そのあたりの事情がからんだ俗習らしいが、学んだ知識のお陰で、ザジィの要望は理解できた。


「まずはザジィ。俺はアナタの国の窮状を、与えられた資料の範囲だが、理解している」


 犬塚は一呼吸置き、松嶋の通訳の終わりを待つ。


「恥ずかしながら、今回、初めて知った。貴国における民族の迫害。圧政による惨状が、見るに堪えないものだと。

 私が立場を忘れることが許されるなら、暴君に対し、狼煙を上げたアナタがたへ、称賛を贈りたいほどだ」


 ザジィは犬塚に負けない鋭い眼光を宿すと、隣で通訳を続ける松嶋の肩をそっと叩いた。

 身振りと口頭で下がるように指示したらしく、松嶋は周囲を見回しながら、ライトバンの陰に戻っていった。


「ワタシはハナすはスコし。キくはダイジョブ。

 シロー。ダイジョーブ、ですか?」


「大丈夫です。大変お上手ですよ」


 犬塚は油断なく周囲にも気を配っていた。資料の通り、どうやらザジィは高潔なカリスマリーダーであるが、それだけに忠義に熱い部下が暴発しやすかったりもするのだ。依然として、警戒を強めておくべき状況だった。

 

「ワタシ、タチは、ニホンジン、コロす。ナシ」


( ・・・日本人は殺さない、か )


「コロす、シュメイレ、ゼンブ」


 犬塚はため息を堪えた。


「ニホンジン、ケーサツ。ダイジョーブ。コロす。ナシ」


 予測されたテロ計画の全容は正しかったのだ。

 ザジィら武装グループの標的は都内にあるスメイル共和国大使館なのだ。

 確かに大使館は国際法によって国境、領土と見なされる。大使館への攻撃は日本への攻撃ではないし、日本人も殺さないという趣旨の発言だ。

 しかし、それはザジィの国だからこそ、筋の通る理屈である。国交を結ぶ日本政府が容認できる理屈ではない。


「残念ですが、ザジィの使命の崇高さは、日本政府には理解できないでしょう。貴国政府のみならず、日本政府までも敵にする行為です。

 ですが、お願いがあります」


 改めて息を吸い込む犬塚を不審に思ったらしく、護衛の2人が小銃を肩付けして身構える。

 ザジィは身振りで護衛の銃口を下げさせると、犬塚を見つめる。


「コロす、シュメイレ。ニホンジン、コロす。ナシ」


 対する犬塚はザジィにも判る日本語を吟味しながら、なるべく簡単な表現での文言を組み立てるのに思考を裂いていた。ここまで来たら、話し合いに応じたザジィの誠意を信じるしかない。一方的に銃撃などしないと、無理矢理に決めつけているのだ。


「世界にザジィの考えを理解させるためには、決して非道を行うべきではない。特に、子供にはスメイルの政策も、日本の理屈も関係はない。

 この子達を犠牲にすれば、世界はスメイル政府の蛮行と同様の評価をザジィに下す。今後、迫害がエスカレートする危険だってある。

 解放するべきだ。ザジィの部隊が真の自由と平等を訴えるなら、その英断ができるはずだ」


 自分でも一方的で、都合のいい要求だとは判っていた。だが、犬塚が願うのは奇跡だ。

 祖国で正規軍を相手に戦い続けるスメイル解放戦線の戦士は精鋭ぞろいだ。命を顧みず戦う彼らを相手に警察が戦えば、尋常ではない死者を生みだす。

 ましてや、情報にあった新型特殊爆弾が使われたなら、双方全滅だってあり得るのだ。

 死傷者ゼロという犬塚の要望こそが、奇跡に他ならなかった。


「君らを、全員逮捕する。俺にできる唯一の保護だ。

 正当な裁判で意見を主張できる。その声は世界に届く。

 俺は信じる。生きてさえいれば、戦う方法はあるはずだ。ここで、部下を死なせないでくれ。俺の部下も、ザジィの部下もだ。

 俺達に、君らを撃たせないでくれ」


 殺した人数で言えば、ザジィら解放戦線よりも、虐殺を繰り返す政府軍のほうが遥かに多いだろう。非戦闘員である女子供や老人を厭わず民族浄化を進める政府に対して、肉親を殺された者が銃を手にした。それを誰が非難できるのか?

 理不尽な政策による民族の危機に抗った彼らが、国際的には犯罪者として認知されている現状こそが悲劇なのだ。

 その意味において、奇跡はザジィにこそ必要だった。


「シロー」


 ザジィが犬塚を見つめる。

 心臓の鼓動までも感じる長い沈黙。


「デていく。すぐ、イマです。

 コドモ、デていく」


 子供を連れて、でていけという提案だった。

 犬塚の心拍数が更にあがった。


「ザジィは、どうするんだ?」


「シュメイレ、コロす」


 犬塚は奥歯を砕く勢いで歯を食いしばった。


「ジャマする。コロす。ケーサツ」


( どうしてそうなる?

 全員死ぬんだぞ。誰も大使館には、たどり着けないんだぞ )


「デる。コドモ、イマ

 シロー、アリガトー」


 ザジィの「ありがとう」が水面に落ちた雫のように、犬塚の胸に静かな波紋を広げる。


「了解した。残念だ」


 無条件の人質の解放というリスクは、ザジィの最大以上の譲歩なのだろう。人質を盾に使い、手段を選ぶことなく非情に徹したならば、あるいは包囲の突破は可能だったかもしれない。

 だからこそ、この後のザジィは死力を尽くし、死ぬまで闘うだろう。例え、相手が日本人であろうとも、目的を阻む相手へは容赦なく銃口を向けるはずだ。


「カッハァァァーアッ」


「ちょっ、ちょっとヒロキ!」


 唐突にあがった呻き声は、意識を回復した弘樹のものであり、それに驚いた理沙の声が重なる。

 張りつめ、緊張感で膨張した空気は「ピリッ」という電気信号に似た感覚で火花を散らす。犬塚の思考回路が危険を示す深紅に染まった。

 ザジィと犬塚の会話は日本語でおこなわれた。だから、その内容は当人同士だけが理解しているに過ぎない。加えて、解放戦線のメンバーは指揮官のザジィが敵前に身を晒すという危険な状況に、極度の緊張を強いられていた。


 ダダダンッ


 響き渡る銃声は覚醒した弘樹と、それに慌てた理沙の対応がトリガーとなった結果だった。

 即座に危機を察知した犬塚の回避行動も戦闘を煽った一端ではあったが、決壊したダムの奔流のように広がった銃撃は、本来彼らが求めていた結果でもある。

 ザジィの制止があったから控えていただけで、解放戦線は戦闘するために海を渡ってきたのだ。当然の成り行きだった。


「クッ、このぉっ!」


 犬塚は跳躍しながら木箱の上に置いたAK小銃を掴み、理沙の隣に飛び込んだ。

  

「キャッ!

 ちょっと」


「伏せてろ」


 犬塚は理沙と花蓮に頭を下げさせ、動転した様子の弘樹の身体に覆いかぶさった。


「気が付いたな、ヒロキ。

 しっかりしろ。訊こえてるか?」


 しかし、その声のほとんどは激しく反響して響き渡る銃撃音に邪魔され、弘樹の耳には届いていなかった。

 数十の自動小銃の銃撃にさらされ、遮蔽物にした木箱は激しく木片を跳ね飛ばしている。


「いいかヒロキ、リサとカレンも無事だ。だから安心しろ」


 理沙と花蓮の悲鳴が交錯する中、雨あられの銃弾が降り注いだ。顔もだせない状況下で、犬塚は無理な気休めを怒鳴っていた。 


「二人とも無事だ。安心しろ」


 ドンッドンッドンッ


 銃撃の間隙を突き、犬塚はAK小銃のセミオート射撃で反撃する。

 弘樹は落雷のような音響と大気を震わせる衝撃波を感じながら、鼻腔を刺激する火薬の匂いに表情をしかめた。


( なんだ・・・俺、何が? )


「ヒロキ。よかった、頑張って」


「先輩、大丈夫ですか?」


 弘樹の視界に見知った2人の女子の顔が飛び込んだ。理沙と花蓮だ。


「っつ、お前ら、リサ・・・」


 少しづつ思いだしていた。絶望的で一方的な暴力の渦。理不尽な人数での蹂躙。悪党の、悪い集団の・・・

 弘樹は泣いた。我知らず涙が流れた。


「よくやったぞヒロキ。リサも、カレンも、お前が守ったんだ。

 あとひと頑張りだ。しっかりしろ」


 弘樹の健闘を称えた犬塚は、遮蔽物にした木箱から周囲を伺いつつ、なおも続く銃撃に表情を歪める。


( 駄目か。始まったが最後、誰にも止められない )


「まだだ。まだ我慢しろ、ヒロキ」


 肩を震わせて涙を流す弘樹に、状況を考えれば、極めて落ち着いた声で犬塚が叱咤する。


「お前は強い。大事なオンナを守るんだ。判るか、ヒロキ?」


 それは嘘だ。強いのはこの男だ。自分は結局、結局暴力に負けたのだ。

 唐突なヒーロー、犬塚の登場に、弘樹の思考回路は一気に逃避へと傾いていく。


 ドンッドンッ ドンッドンッ


 弘樹を抱えた犬塚は、その姿勢のまま撃ち尽くした弾倉を器用に片手で交換した。

 手にしたAK小銃は見張りを倒して奪った品だったが、扱いは心得ている。ただし、実際に自動小銃を、軍用のアサルトライフルを射撃した経験がある訳ではなかった。

 意を決した犬塚はAK小銃のセレクターを連射に設定し、銃だけを突きだして残弾を乱射した。


( ったく、当たりゃしねぇ )


 フルオートの目蔵撃ちが愚策だとは理解している。だからといって、単発射撃なら必中という訳でもなかった。

 何よりも、人数は圧倒的に不利な状況だ。40人以上の戦闘員に対して、犬塚1人での反撃では、戦闘自体が成立しないほどの格差といえる。


「ヒロキ、リサを見ろ。早く」


 圧倒的に不利な状況を前に、犬塚の声はなおも冷静だった。

 呆然としながら、言われるままに理沙へと視線を合わせる弘樹。目の前には土と埃で汚れ、それでもなお自分を心配する幼馴みの表情があった。


「お前が守ったんだ。だから、最後まで責任をもて

 お前は強い。リサとカレンを守るんだ」


 次の瞬間、遮蔽物にした木箱の脇を舐めるように銃撃が走る。木箱と床の木材が着弾の衝撃で飛散し、その銃撃に追従するように、別の場所からも銃撃が開始される。


『社長より強ければ・・・』


 今ではない。まだ幼かった頃の理沙の声がリフレインする。


( 俺は、俺は・・・なにを泣いてる?

 泣いてるヤツが強いか?

 甘ったれるな、リサを、リサを・・・ )


「怖いだろ?

 実のところ、俺もだ。けどな、強くなれ。それも、今すぐにだ。そしてリサとカレンを、守るんだ」


「・・・!」


 弘樹の脳内に応えるべき言葉が浮かんでくる。犬塚の瞳にたぎるような熱を感じた瞬間、爪先から指先にまで力が漲っていくのが感じられた。


「オレが、守ります」


 飛び交う銃弾の嵐の中、轟く銃声に妨げられ、弘樹の声は犬塚の耳には届かなかったが、唇の動きと瞳の光で意志は確認できた。


「出口が見えるな?

 リサを支えろ。スキを見てカレンと3人で脱出するんだ」


「待って下さい。それじゃ、犬塚さんがぁ・・・」


 悲鳴のように訴える花蓮の隣で、理沙も無謀な指示に息を吞んだ。


「俺1人ならどうとでもできる。

 今や、奴らの狙いは俺だけだ」


 それが理屈だったが、確信ではなかった。

 安全を確保するためには、犬塚がオトリとして派手に立ち回る必要があった。


「そんな、・・・鉄砲なんですよ」


「そんなの、絶対駄目です」


 理沙と弘樹の声に、犬塚は意図せず微笑んだ。


「安心しろ、俺は警察官だ」


「他の人とかは、どこにいるんですか?」


「すまない。実は、それを俺も待ってるんだ」


 少しも安心できない解答だった。犬塚の冷静な声は変わらず、笑みまで浮かべていたが、弘樹は初めてその笑みに悪意を感じていた。


 パパパッ パパパッ


 犬塚のAK小銃とは異質な銃声が響き。続いて、長い黒髪をポニーテイルにした女性が滑るように、4人の隠れる木箱に飛び込んできた。

 一瞬の出来事であり、足音を響かせない猫のようにしなやかな動作だった。


「待ってたぜ、トーカ」


「演技で喜ばないでよ」


 犬塚の称賛に苛立つたように応えた声は、これ以上ないというほどのセクシーボイスだった。その声は同性の理沙や花蓮でさえも、ドキリとする煽情的な響きがあった。

 特殊部隊専用のアサルトスーツに包まれた肢体は、着用した防弾ベストに抗うようなバストの主張も含め、マニアックな色気を放っている。


「ウソなわけねぇだろ。ホントに嬉しいぜ。で、SATは?」


「まだよ。アンタの独断専行でプランはオジャン。本部はパニックだし、潜入した私まで姿を晒すハメになった。

 応援なんて、来るわけないでしょ」


「孤独が身に染みるよ」


 なぜだろう。2人の会話には良い情報はひとつもない。にもかかわらず、弘樹や理沙、花蓮の不安は和らいでいった。


 パパパッ

 ドンッドンッ


 2人の警察官が撃つと、10倍以上の銃撃が返ってきた。


「状況は?」


「北側の見張り3人は始末したわ。

 突入時に体育館で1人。主任も見張りを1人無力化したわね?」


 冬華は手にしたマシンピストルの弾倉を交換しながら、上司に対するとは思えない口調で問い質す。


「したけどよ、『始末』って・・・お前」


「殺したのよ。彼らは絶対に降伏しない。自爆すらやってのける。

 覚悟を決めて」


 冬華の凄惨な報告に、高校生の3人は言葉を失った。


「決めてるさ。とっくにな」


「交渉、残念だったわね。ほとんど成功してた」


「見てたのか?」


「貴方はテロリストでさえ救おうとした。

 でも、全てを救えない時だってある。辛いわね。貴方は警察官なのよ」


 理沙は冬華の声に静かで深い情熱を感じた。鏡面のような水面を思わせる静寂に人肌の温もりを感じるような、不思議な違和感を覚えた。


「すまない。お前の努力をフイにした」


 犬塚の謝罪が今回の独断専行を指してだけの事でないのは理解していた。

 感情に任せて作戦を無視した挙句、奇襲のアドバンテージを失い、危機管理を第一に考える上層部の意向も無視した。もはや作戦の成否とは無関係に犬塚は処罰の対象になるだろう。夢も野心も、水泡に帰してしまったのだ。


「高くつくわよ。私にも、大した策はないもの」

 

「策なら、俺のがある」


 犬塚の思わぬ発言に、冬華は愁眉を寄せた。


「この木箱だ」


「遮蔽物として、役には立ってるわね」


 コンコンと木箱を叩く犬塚に向かって、冬華はつまらない物でも見るような口調で応えた。


「弾薬が収納されてるんだと思う。多分、それ以外もな」


「だからって。・・・まさか!」


「そうだ。だから、奴らは積極的には撃ってこない」


 トーカと呼ばれた女性の表情に、初めて恐怖心が浮かんだのを認め、理沙の意識にも不安が広がった。


「そうかもしれないけど、・・・」


「向こうの切り札は、押さえてるんだ」


 冬華の脳裏にドイツの情報機関から提供された資料の内容が蘇る。


( ・・・次元爆弾 )


 スメイル語の特殊な表現ゆえに、その爆弾の名は翻訳できる単語がなかった。ゆえに、その俗称が付けられている。

 ドイツ出身でフランス国籍の物理学者が製造した特殊爆弾。名前ばかりが独り歩きした新型爆弾は、その実、性能の詳細も判明してなかった。


「奴らの装備には手榴弾やグレネードランチャーまである。使ってこない理由は、コレのせいだ」


「それを、どう喜べっていうのよ」


「ヒロキ達を頼む。ザジィとケリをつけてくる」


「なにをバカな・・・」


 2対40という戦力差を無視した発言に、流石の冬華も啞然とした。


「ここなら人質を守れる」


「だったら、2人で守るべきでしょ」


「それで、部下だけ突入させて、死なせるのか?」


 犬塚の口調に、冬華は返す反論を失った。

 確かに解放戦線の銃撃は木箱の中身を気にしてか、過度な乱射は控えている。しかし、それも数分と待たず、状況は一変するだろう。

 相手は歴戦の兵士の集団なのだ。切り札の奪還に固執するなら、最後は捨て身で突撃してでも取り返しにくるはずだ。そうなれば人数でも火力でも劣る犬塚と冬華に生き残る道はない。結果、3人の学生も死ぬ。


「使ってくれ。弾倉は交換済みだ」


 犬塚はAK小銃を冬華に押しつけると、腰のホルスターから自動拳銃を引き抜いた。


「了解」


「えっ?」


 あまりに素直な冬華の返答に、犬塚の間の抜けた問い。弘樹と理沙、花蓮も表情が硬直する。 

 ただし、その冬華の返答は犬塚にではなく、左耳に装着したイヤホンマイクへ向けてのものだった。


「カッコよかったけれど、貴方はまだ死ねないわ」


「って、ちょっと待て」


「状況開始」


 慌てる犬塚を尻目に、冬華はイヤホンマイクに告げる。

 直後、四方に存在する鉄扉が大音響と共に吹き飛び、白煙を引く円筒形の物体が撃ち込まれる。


「なんでちょっとだけ待てねえんだ」


「私を守って死のうなんて、するからよ」


 犬塚はダイブして理沙と花蓮を抱えて床に伏せた。冬華は弘樹を抱きしめて一緒に伏せる。


「目を閉じて」


 冬華の指示が熱い吐息と共に弘樹の耳朶を打ち、直後に頬にかかる黒髪から淡く上品な香りが鼻腔に届いた。


「これ、ベランダー」


 直後、催涙ガス弾と同時に撃ち込まれた音響閃光手榴弾が炸裂し、凄まじい炸裂音が弘樹の呟きをかき消した。

 ガスに抗い、視界を確保しようとしていた兵士は一瞬で視覚と聴覚を奪われ、完全にパニック状態に陥った。


 パラララッ パラッ パララッ


 サプレッサーの効果によってくぐもった銃声があがり、次々と解放戦線の兵士が撃ち倒されていく。

 突入したSAT隊員の構えるMP5サブマシンガンの猛打が、確実に解放戦線兵士を無力化していく。


 パパパッ


 弘樹を床に押しつけたまま木箱の陰から拳銃を突きだした冬華は、苦し紛れに突っ込んできた作業服の男を撃ち倒す。


「クリアっ」


「まだだっ」


 犬塚の怒声に反応して、冬華は素早く伏せる。

 直後、AK小銃の猛打が木箱の破片を跳ね上げる。


「レディッ」


 犬塚の号令。同時に背中に掌が押し当てられる感触。


「カヴァッ」


 パパパッ パパパッ


 冬華の発砲と同時に、木箱を飛びだした犬塚が自動拳銃を連射する。


 ドンドンドンッ


 サプレッサーを装着した冬華の拳銃とは違い、犬塚の射撃は9mm弾の渇いた咆哮で吐きだされる。 

 もんどりうって倒れる作業服男の無力化を確認すると、白煙が立ち込める車両の先、体育館のステージの方向へと視線を巡らす。

 一方、冬華は護衛対象である高校生3人へ即座に向き直り、周囲を警戒する。


「ラベンダーよ。気に入ったかしら?」


 催涙ガスに目と喉を刺激されながら、咳き込むのを我慢していた弘樹は、突然に声をかけられて動揺した。


「そのぅ、ラベ?」


「髪の毛よ、私の」


 弘樹はあまりに妖艶な冬華の笑みに、そして自分の失言への指摘に、死ぬほど恥ずかしくなってきた。


「君、名前は?」


「弘樹です。庄司弘樹って、いいます」


「朱里冬華よ。よろしくね」


 肌の露出などないアサルトスーツを纏った冬華に、何故にこれほど女性を感じるのだろうか?

 弘樹は半ば硬直した状態で冬華を見つめた。


「理沙です。角熊理沙っていいます」


 なぜかムクれた表情の理沙が、木箱に寄りかかりながら、勝手に自己紹介をした。


「あの、私は、雉谷、花蓮と申しますぅ」


 花蓮は、理沙に釣られたように、恥ずかし気に自己紹介する。


「2人とも美人ね。すぐに護衛を手配するわ。動かないで待っていて」


 冬華の視線は大人の男なら勘違いするような熱を含めて、弘樹へ向けられた。

 もちろん冬華はリラックス誘発と、からかう目的で流し目を送ったのだが、この場合、弘樹よりも理沙の方が敏感に意図を見抜いていた。

 

「ちょとヒロキ先輩。肩を貸すとかが、先輩の嗜みなんじゃないいの?」


 弘樹には理沙の不機嫌の理由は判らないし、そもそも不機嫌だと気づいてもいなかった。


「おお、悪いな」


「その前に、杖も拾ってくれる?」


「おお、いいぜ」


( なによ『ラベンダー』って?

 そもそも、ヒロキの腑抜けちゃった態度とかって・・・ )


「なあ。ベランダーって、スゲェいい匂いだぜ」


「殴るわよ」


「なんでだよ?」


 無防備に身体を晒して棒立ちする犬塚を危惧し、冬華は周囲を警戒しつつ、犬塚の横に立った。


「以降、掃討はSATに任せるわ。後退しましょ」


「まだだ。まだザジィが残ってる」


「そうかも知れないけど、マスクもなしで、これ以上は危険よ」


 犬塚は残弾が数発となっている弾倉を抜きだすと、スペアの弾倉を叩き込んだ。それから渋々という仕草で冬華へ向き直る。


「お待たせです、先輩。

 主任も、ご無事で何よりっす」


 ガスマスクを被った俊介がSAT隊員を伴って駆けつけた。

 失礼だと思ったのか、慌ててマスクを外して冬華に差しだすと、吸い込んだガスに咳き込んだ。


「いらないわ。外すなら浅く呼吸なさい」


「オス。すんません」


俊介は痣に膨れた頬に汗を浮かべ、気持ちよく謝罪する。


「後ろのチームは、突入班のひとつか?」


「オス。3班の8名です」


 犬塚の問いにも俊介は停滞なく答え、屋上での禍根を感じさせなかった。

 俊介の報告によると、4か所から8名のチームが突入。合計で32名のSAT隊員が突入したことになる。犬塚の暴走が原因とはいえ、人数も増強されていた。


「私じゃないわよ。白木君の采配よ」


「それはいいさ」


犬塚は俊介に向き直った。


「そこの木箱の所にマル学が3人ともいる。何人か連れて、指揮車まで護衛してくれ」


「ああ、例の3人組っすね。了解です」


 俊介の体育会系返答に交じり、不自然な金属音を耳にした犬塚は、迷うことなく怒声を張り上げた。


「伏せろぉぉぉっ!」


 微かな音ではあったが、拳銃やAK小銃の装填音とは根本的に異なっている。犬塚の全身に電撃のような戦慄が走っていた。


 ドガガガガガガガッ ドガガガガッ


 直後の銃声は室内の反響効果を考慮したとしても、恐ろしい轟音の銃撃音となった。

 怒声と悲鳴が交錯しつつ、MP5サブマシンガンの反撃が開始されたが、目蔵撃ちに等しい銃撃に命中弾など期待できるものではなかった。

 ボディアーマーや対弾ヘルメットの防御力を嘲笑うようにSAT隊員がなぎ倒されていき、犬塚が遮蔽物に利用したハンドリフトも数発の命中弾で変形した。


「レディッ」


 背中にSAT3班の号令を訊き、犬塚は慌てた。


「待てっ!」


「ゴウ、ゴウ、ゴウッ」


 凄まじい銃声に犬塚の制止の声は届かず、サブマシンガンを構えて突進するSAT隊員が容赦なく銃弾を浴びる。

 続いて左翼から綺麗に散開しながら援護射撃をするSAT隊員の集団がグレネードランチャーによって吹き飛ばされた。


( やってくれる! )


 体育館全体が震撼する爆発。その爆風が犬塚のコートを激しくなびかせる。

 犬塚は咄嗟に顔面を拳銃のフレームでガードし、叩きつける爆風に目を細めた。


 ドゥン ドゥン


 ドガガガガガガガッ


 なおも容赦のない砲撃と銃撃の中、犬塚は体重を感じさせない身のこなしでクイックダッシュしながら、冬華の位置を確認する。

 駐車されてるセダン車の陰に飛び込んだ時には、冬華も犬塚のハンドサインに呼応するべく、コンテナの裏にダイブしたのを確認していた。


 ドンドン ドンドン


「俊介、マル学を守りなさい。木箱を死守よ」


「了解っす」


 犬塚の威嚇射撃に冬華の命令と俊介の返答が重なる。


 パパパッ


 ドンドンドンッ


 犬塚と冬華の射撃で、突っ込んできた2人の作業服が血飛沫をあげて倒れる。

 周辺に充満していたはずの催涙ガスは爆風によって薙ぎ払われ、薄い靄程度に漂っている。充分に開けた視界の先、ステージの脇に重火器が設置されているのを確認した。


「よくもっ」


「よせっ」


 パパパッ


 犬塚の制止を無視して冬華が発砲し、AK小銃を構える作業服を撃ち倒したが、見返りとばかりに遮蔽物にしたセダン車へ銃撃が集中する。


「よせっ。的になるだけだ」


 飛び込むように移動しながら冬華の肩を掴んで伏せさせると、これまでとは比べ物にならない銃撃が加えられる。


 ドガガガガガガガッ


 粉砕されたボディパーツとガラスが滅茶苦茶に飛び散り、数秒で車体自体が変形していく。

 ボディを貫通した銃弾がフローリングコートにミシンのように穴を穿ち、眼前の床が穴だらけになる光景には、流石の犬塚も肝を冷やした。


「なんなのよ、この出鱈目な武器は」


「らしくねぇ、落ち着けよ。

 間違いない。重機関銃、ヘビーマシンガンだ」


 犬塚は吐き捨てるように教えた。しかも、毎分700の速度で50口径を撃ちだすM2機関銃に対して、小銃以下の武器で有視界戦闘という絶望的な条件がプラスされている。


「それと、グレネードランチャーだな。発射間隔からして、40mm榴弾の6連発。

 お前さんの策は、間に合うのか?」


「まずは撃たせるのよ。それで、リロードさせる」


 冬華の指示に、犬塚は視線だけで頷いた。

 ヘビーマシンガンもグレネードランチャーも、撃ち尽くした後の弾薬装填には時間を要する。

 反撃の手札は幾つか予想できるが、冬華の支度に不備があるとは思っていなかった。


「なら、俺が撃たせるぞ」


 言うなり、犬塚は冬華の肩を「ポポン」と叩いて合図しつつ、弾かれたように跳躍し、遮蔽物を飛び出した。

 合図を心得ている冬華も停滞なく遮蔽物を捨てたが、爆風は着地の前に襲いかかってきた。

 爆圧に翻弄されながら転がる視界に、犬塚の送るハンドサインを確認する。


( 9時方向、マルタイ1 )


 パパパッ パパパッ


 思考よりも先に、身体は電撃的に反応していた。

 手の中で弾けるようにリコイルする拳銃の発砲音。犬塚の援護射撃の銃声。それだけではない。冬華は周囲全ての音が消失したことで、自身の聴覚の喪失を悟る。

 パニックになりかける意識を無理矢理に押し込め、右手で射撃しつつ、左手で胸元の送話ボタンを弾く。


「SSより『監視ゼロ』・・・」


 聴覚を失った冬華は、通信状態の確認が不可能だった。聴覚を失っているのだから、伝わっていると信じるしかなかった。

 だから信じて、マイクに指示を叫んだ。


「・・・オールライフル、シューッ!」


 視界の隅にヘビーマシンガンの猛打によって粉砕されたSAT隊員の無残な遺体が転がっている。

 心血を注いで編成してきたチームスタッフの多くが殺された現実を前に、冬華に逮捕、検挙への執着は霧散していた。


 タララッツ


 胸部を撃ち抜かれた作業服がAK小銃を乱射しつつ、コマのように回転しながら倒れる。

 他でも、冬華や犬塚へ銃撃する作業服が続けて狙撃の餌食となっていった。

 冬華の指揮下、白木の采配による狙撃班の成果だった。


( まだよ。本命は・・・重機関銃! )


 12,7mm×99mmの巨弾は、一般的なアサルトライフルに使用される5,56mm×51mm弾と比べ、ジュール換算で約10倍の破壊力となる。それは、ボディアーマーや対弾ヘルメットを無力化するに足る充分な威力である。

 ただし、その給弾作業には複数の人数で取り組んでも数十秒かかるという欠点もあり、戦場であれば歩兵や砲兵の支援下でスキを補填する連携が常となる。だが、互いに殺戮を躊躇しない現状下においては、解放戦線サイドの兵員も残りは十数人にまで減っている。

 損失としては警察サイドも甚大な被害だったが、この場合、人員不足のツケは銃火器の運用にこそ、より大きく回ってくる。


 タラララッ タララララッ


 負傷者を抱えて後退するSAT隊員が銃撃によって倒され、続いて躍りでてきた解放戦線兵士を犬塚が射殺した。

 無音なだけに、より凄惨さを増す光景を前に、冬華の唇が歪んだ。即座に送信チャンネルを切り替え、壁際で掃射を続ける作業服へ牽制射撃する。


「SSより『ライフルワン』、SWステージをポイント。フリーファイアッ!」


 依然と回復しない聴覚のおかげで、この送話も通じてるかは判らなかった。しかし、白木に通じたならば「狙撃1班」にも通じると信じるしかない。

 南側西寄り( SW )のターゲット。ステージ上の重機関銃を指定した冬華は、直後に4人の作業服の1人、給弾作業をしている兵士の頭部が吹き飛ぶのを目撃した。


 ドゥゥンッ


 距離150メートル。狙撃としては近距離から放たれた50口径12,7mmの弾頭は、障害物となる窓ガラスと暗幕の先に熱源を補足し、赤外線スコープの照準軌道を飛翔。全ての障害物を貫通しながら兵士の頭部に着弾。強烈な推進エネルギーを衝撃に転嫁し、頭蓋と脳を吹き飛ばした。


( ・・・凄い )


 冬華の采配によって取り寄せ、配備させたアンチマテリアルライフルの威力は予想以上に凄まじかった。そのケタ違いの破壊力は、冬華自身をも凍りつかせる。


ドゥゥンッ


 一方、泡を食ったのは重機関銃を運用する兵士だった。

 射手のニット帽を被った作業服が散開を指示した次の瞬間には、弾薬を運搬していた若い兵士が爆発したように血肉をぶちまけ、胴体から真っ二つにされた。


 ドゥゥンッ


 既にトラウマとなった3度目の凶悪な銃声。放たれた50口径弾はステージ上に設置された投光器を粉砕する。

 この3発目の着弾が、射手だったニット帽の兵士にヒントを与えた。

 敵のスナイパーは標的を狙っているのではなく、熱源を見つけ、見当をつけているのだと解答をだした。

 ニット帽はステージから飛び降りるとナイフでドラム缶のキャップを外し、一気に押し倒す。

 勢い良く流れだす軽油の量に満足の笑みを浮かべると、足で押しだすように転がし、躊躇なく火を点したジッポライターを放って火を付けた。

 炎は蛇のように転がるドラム缶を追尾し、西側の外壁内側に火炎の壁を作りあげた。この炎の壁によって、赤外線スコープによる標的確認は不可能となった。


「・・・ぉぃ、・・・」


 微かに戻った聴覚ではなく、肩に触れられた感触で冬華は振り向き、同時に銃口を突きつけた。

 手首を掴まれて射角を反らされた時には、相手が犬塚だと理解していた。


「耳がダメなの。自分の声も、訊こえない」


 頷いた犬塚の誘導に従って、冬華はコンテナの脇に座った。

 インカムへ何かを怒鳴り続ける犬塚の姿に、その生存への喜びと、手練れが揃った解放軍兵士への脅威の感情が交錯する。


「やられたわ。これで、・・・ライフルチームは、・・・赤外線が使えない」


 きちんと言葉は伝わったらしく、犬塚は無理に浮かべた笑みで応えた。その唇の動きは「らしくねぇな。少し、カワイイぞ」と読み取れた。

 冬華は喉の奥から笑った。この最愛の男が放つにしては、最高のジョークだと思えた。


( 勿体ないわね。生で訊きたかったのに )


「アルファより各部、撤退だ。

 木箱の付近にマル学あり。確保しつつ撤退。繰り返す・・・」


 イタズラな聴覚だった。突然、この瞬間に回復していた。冬華は即座に犬塚の手にしたインカムを奪う。


「待ってよ」


「駄目だ。コレはもう戦争だ。SATだけじゃ対処できねぇだろ」


「爆弾はどうするのよ?」


 その懸念がある限り、冬華が撤退を容認することはできなかった。


「周辺住民の避難を優先する。切れ者の白木なら、すでに手配してるはずだ」


「威力も不明なのよ。それこそ、核に匹敵するかもしれない」


「そもそも、あるかどうかも判らない爆弾のために・・・」


「あるわ。そう仮定するべきよ」


 解放戦線兵士の戦闘は決して破れかぶれではなく、明確な目的を持っているように感じられた。冬華は切り札となる「次元爆弾」の存在を濃厚だと判断する。

 お互いの挑むような視線の交差は数秒後、犬塚が大きく息を吐きだして終了となった。


「急いで応援を手配しろ。

 マル学の避難と木箱の確保を優先する」


「狙撃班も配置を変更するわ」


「任せる」


 その直後、まさに冬華が頷いた瞬間に続けざまの爆発が起こり、体育館が激震する。


「クッソぅ、またグレネードかよ」


 弘樹は真木俊介と名乗った刑事の悪態を、理沙と花蓮に覆いかぶさった姿勢で訊いていた。

 刑事というよりも部活の指導に来たOBという雰囲気であり、犬塚のような頼もしさはないものの、妙に親しみやすい雰囲気を感じていた。

 とはいえ、俊介の人柄が状況の打開に繋がるわけでもなく、銃声と爆風にさらされ、反撃するSAT隊員や俊介の発砲音も重なり、すでに弘樹の聴覚は麻痺寸前となっている。


「もう少しだ。もう少しだけ辛抱してくれ」


 文句が言える状況でもないが、その俊介の台詞は5回目だった。

 爆風は盾にしている木箱が防いでくれるが、至近弾の一撃で全員が吹き飛ばされるだろう。

 文句を言っても仕方がないのだが、「少しって何分何秒ですか?」と、問い返したくもなってくる。


「大丈夫、だよ」


「私も、平気、です」


 理沙と花蓮の状態報告も3回目だった。

 弘樹は苛立つように膝立ちになったが、そこへ再度の爆風が襲い、またもや理沙と花蓮の頭をかばい、抱きしめながら床へ伏せた。

 周囲にはSAT隊員が集まり始めていたが、そのせいで砲撃も近くなってきているのを実感する。

 咄嗟に木箱の脇を転がってきた鉄パイプを掴んだが、その行為に自分でも笑ってしまう。

 それが作業機械の部品なのか、コンテナのパーツなのかは判らなかったが、直径4 ~ 5cm、長さ50cm程度の鉄パイプは、弘樹にとって適当な得物だった。


( っていうか、・・・ウケるな。コレでどうするってんだ? )


 銃撃戦の最中、大砲まで撃ってる状況だ。ましてや鉄パイプでの乱闘など、近頃ではヤンキーですらやっていない。

 笑うほどに殴打されたあちこちが痛んだが、弘樹の笑いは止まらない。


「・・・って、ヒロキ?」


「あのぅ、先輩?」


 不安そうに、訝しげに自分を見上げる理沙と花蓮の視線に、弘樹はようやく笑いが治まった。


「大丈夫だよ。・・・でもなんだか・・・なんでかな?」


 腫れあがった顔に柔らかい笑みを浮かべ、弘樹は呟くように応えた。

 役に立たないと思いながらも、得物を握ったことは別の効果をもたらしていた。不思議なもので、恐怖心が和らいでいったのだ。

 ただの鉄パイプにすぎなかったが、素手よりは遥かにマシであり、守るべき理沙と花蓮を目の前に、微かに埋まったアドバンテージが安心をもたらしたのだろうか?

 だが次の瞬間、弘樹はその感覚がただの錯覚に過ぎないのを実感する。


 タララララッ タララララッ


 猛烈な銃撃が木箱を襲い、周囲のSAT隊員がなぎ倒されていく中、作業服の男が音もなく飛び込んできた。

 俊介は拳銃を握った手で作業服の銃床による一撃を受け止めたが、続く膝蹴りを喰らい、膝を折った。続く銃床の打撃が容赦なく頭部に打ち落とされる。


「・・・!」


 あまりの見事な手際に度肝を抜かれた弘樹も、瞬きした時には銃口を突きつけられていた。


「ちょっ、ヒロ・・・」


「いや、キャッ」


 理沙と花蓮も別の作業服に引き起こされ、その周囲では至近距離で射殺されたSAT隊員と気絶した俊介が転がっている。

 生き残ったSAT隊員と解放戦線兵士が至近距離で銃口を向けあい、膠着状態となる。


「フリーズ」


( 英語・・・だよな )


 恐怖と驚愕の中、それだけを思考した弘樹の前に、英語を発した本人、ザジィが立っていた。


「ステイバック。ドロップ、ザ・ウェポン」


 ナイフのように鋭い口調であり、その眼光は肌に圧力を感じるほどの威圧感を放っている。

 そのザジィの声に連動するように、2人の作業服がほとんど原型を失っている木箱の蓋を開け始める。

 ナイフをテコに使って釘打ちされた木箱を開放すると、ややあって小ぶりなアルミケースを取りだした。


( ・・・なんだ? )


 SAT隊員の息を飲む気配。果敢に戦っていた隊員の一転したような緊張の気配に、弘樹は違和感を覚え、自身も恐怖に金縛りとなっていた。


( 判んねぇけど、・・・ヤバいってのは判るぞ

 なんなんだ、どーなるんだ? )


 弘樹に銃口を突きつけた作業服の表情は、慈悲の欠片もなさそうな渇いた瞳に凄まじい闘争心を匂わせていた。弘樹が1ミリでも動こうものなら「即座に撃つ」という態度だ。加えて、弘樹が手にした鉄パイプを没収しようとさえしない。そんな棒切れの存在は、意に介してさえいないのだろう。つまり、それだけ必殺する気があるのだ。

 異様な雰囲気に包まれた状況で、高校生に過ぎない弘樹でも、事態がファイナルラウンドに突入したのが伺える。


「まずいぞ」


「判ってる。だが、まだ待機だ」


 SAT隊員の押し殺した声のやり取りから、やはり尋常ではない事態なのは確かだった。とはいえ弘樹にソノ内容が判るはずもなく、不安感だけが募っていく。

 アルミケースのダイヤル錠を合わせる「チキチキ」という音が続き、やがて、派手な演出もなくケースは開放される。

 周囲がざわつき、緊張が一気に高まる中、開いたケースから取りだした品は銀色の球体だった。その美しい球体はザジィへと手渡される。


「アレが・・・次元、爆弾」


( ジゲン・・・って、爆弾って言ったよな? )


 SAT隊員の呟きが弘樹の脳裏で「時限爆弾」というワードを完成させる。

 咄嗟に全ての状況分析をするべく、弘樹の視線が踊る。

 ザジィと自分との距離、3メートル。近すぎる!

 理沙と花蓮は自分の背後。つまり、爆発で絶対に死ぬ!

 隠れる所。無いし、あっても間に合わない。そもそも逃げられない!

 闘う方法。自動小銃に対して鉄パイプ。論外だ!

 自分が盾になる。自動小銃の連射で瞬殺される。意味がない!


( ダメだ。・・・マジで詰んでるぞ )


 全否定の結論に、弘樹の視線は中空を泳いだ。例え命を賭けたとしても、時間稼ぎにすらならないのが現実だ。

 思わず首を巡らし、理沙を見つめた。

 銃口を突きつけてる作業服の男が渇いた口調で弘樹を恫喝するが、その言葉は理解できないし、もはや関係なかった。


「ヒロキ」


 理沙の声と瞳から、その感情が伝わってくる。


( っていうか、『しっかりして』とかって・・・判って言ってんのかよ? )


 困惑しながらも、弘樹の口元に苦笑いが浮ぶ。

 やはり、理沙は「強い社長」だった。

 弘樹と同程度には状況を理解してるはずなのに、投げだしたりしていない。諦めたり、絶望したりもしない。


( なにか・・・、理沙と花蓮だけでも、どうにか・・・ならないのかよ )


 パパパッ パパパッ


 ドンドンッ


 救援の騎兵隊が奏でるラッパは、2種類の銃声として体育館に響いた。


( 犬塚、さんと・・・ )


 ザジィがソノ、銀色の球体を手にした瞬間だった。飛びだした犬塚と冬華の射撃でザジィの両脇に立つ作業服が共に撃ち倒されていった。

 驚愕する弘樹の眼前で、自分へ銃を突き付けていた作業服も顔面を撃ち抜かれ、のけ反るように倒れる。

 頬に作業服の血飛沫を浴びた弘樹は、つい先ほどから気に入っている芳香を感知する。


( ・・・ベランダー! )


 その香りが鼻腔をくすぐった時には黒い稲妻が弘樹の脇を駆け抜け、木箱を飛び越えていた。


 カキッ


金属を金属で受ける音が響く。


「あっ!」


 理沙は無意識に声を上げていた。ヤクザから自分を庇ってくれた少女が、冬華の拳銃をショットガンのフレームで跳ね上げた音だったのだ。


 パパパッ


 反射的に発砲した冬華の様子を視界の隅に、同時に飛びだした犬塚にも、援護の余裕はなかった。というよりも、優先する目標はひとつだと打ち合わせている。

 まんまと射線を反らされた冬華の発砲に舌打ちしながら、自身も迷わずトリガーを絞る。


 ドンドンッ


 表情すら変えずに射線から逃れる身のこなしに、ザジィの力量が伺えた。残像を残すような高速での回避に、犬塚の拳銃のポイントが翻弄される。

 同時に犬塚の脳裏に驚嘆と恐怖が・・・生まれると同時に打ち消した。


( 避けてんじゃねぇっ! )


 消えたと錯覚するような反射神経で射線から逃れたザジィへ、犬塚は一気に距離を詰め、膝蹴りを叩き込んだ。

 二の腕でブロックされた膝を引き戻しながら、右手に握った銃把を側頭部を狙って叩き落す。


 ドンッ


 躱され際に発砲したが、ザジィはこれも首を逸らして回避してみせる。


( っだと? )


 もはや反射神経などというレベルではない。瞬間移動かと思えるようなザジィの回避に、犬塚も舌を巻いた。

 周囲を取り囲む解放戦線兵士は、貫通力の高い軍用アサルトライフルがザジィをも傷つける懸念からか、肩付けした小銃を発砲することはなかった。

 これは犬塚が狙った状況なのだが、すでに奇襲のアドバンテージも失われ、切り札もザジィの手中にある。現状、時間は犬塚の味方ではなかった。

 いつでもボタンを押せるザジィへ、そのスキを与えまいとする犬塚。

 しかし、現実には指一本でボタンは押せる。ザジィが目的を放棄して自爆を選んだなら、その瞬間に全てが終わるのだ。

 

( とはいえ。自爆なんざ、できねーよなっ! )


 犬塚は確信していた。

 尊敬を一身に集めるような有能な人格者であるリーダーが、民族の存亡を賭けた切り札となる『次元爆弾』を、安易な感情で自爆に使うはずがないのだ。

 格闘戦に応じたザジィの対応も、その推測を裏付けている。


( いったいなんなのよ、この娘はっ! )


 ネコ科の獣のようにしなやかに反転した冬華は、その勢いを利用してハイキックを繰りだしたものの、少女は踊るように流れる動作で回避する。

 冬華は格闘に固執せず、拳銃を少女の身体中央へポイントする。

 威嚇や牽制ではなく、とにかく必中を優先する容赦のない選択だった。

 

 パパパッ


 少女は冬華の射撃も流れるように回避し、反撃のハイキックを放つ。

 肩口で受けた冬華はブロックされるのを承知で、少女の顔面を狙って左の肘を叩き込んだ。


 ギガッツ


 少女がショットガンのフレームで冬華の肘をブロック。

 対する冬華は、瞬間的な密着状態を利用して、少女の鳩尾に銃口を押しつけた。


( エグすぎだよ )


 混乱しながらも、弘樹はその様子を視界に捉えていた。

 少女の年齢は理沙や花蓮と同じか、少し上、自分と同い年くらいだと思える。冬華の容赦ない選択に、立場を忘れて不快感を抱いていた。


パパパッ


 弘樹の感情をよそに、冬華はゼロ距離射撃で躊躇なくトリガーを絞る。


( そんな・・・! )


 冬華の表情が驚愕に引きつる。少女はくるりと身体を旋回して射撃を回避すると、遠心力を乗せたショットガンのグリップで冬華の胸元を強打する。

 冬華には驚いてる暇も、苦痛に喘ぐ時間もなかった。


 ダァンッ


 轟然と火花を吐きだすショットガン。その射線を転がりつつ回避した冬華は、バネ仕掛けのように起き上がり、反撃の銃口を少女の胸元へ・・・


 ガッ


 ・・・その銃口は少女のショットガンのフレームで跳ね上げられた。


( 凄すぎだろ・・・あんな女の子が・・・ )


 弘樹の称賛以上に、冬華は驚いていた。直後、背中に強烈な肘打ちを見舞われ、そのインパクトに視界が霞む。

 意識に反して溢れる涙が視界を阻害し、内心で舌打ちするよりも先に、冬華の顎は痛烈な膝蹴りで跳ね上げられた。


( ウソだろ! )


 冬華の格闘センスを知る犬塚は、視界の隅で一方的に蹂躙される姿を認め、冷静さを失った。

 銀色の球体を持つザジィは片手がふさがった状態でもあり、初撃を躱されたとはいえ、充分なアドバンテージがあったはずだが、眼前の苦戦は戦闘が理屈だけではない事を証明している。

 犬塚による側頭部を狙った打撃は躱され、直後に鳩尾へ肘の打撃を受ける。呼吸が乱れ、直後に足さばきも停滞する。


( こっのぉぉ! ) 


 大きく体勢を崩した犬塚だが、内心の咆哮を息吹として、ローとハイキックのコンビネーションを繰りだした。

 潜るように蹴りを回避して犬塚に密着したザジィは、顎を狙った掌底で犬塚の身体を浮き上がらせ・・・いや、犬塚は自分でジャンプしていた。


 ドンドンッ


 苦し紛れの発砲だ。周囲にいるSAT隊員や高校生へはひとつも配慮していない射撃であり、それゆえに、ザジィの動きも止まる。

 周囲を囲んだSAT隊員や作業服がどよめきながら身を屈める中で、犬塚は着地と同時に床に手を突き、下方からのすくい上げるような回し蹴りを放つ。


( ったく、とんでもねぇ )


 空を切る蹴りに落胆する暇もなく、ザジィの正拳が顔面へ打ち降ろされる。

 犬塚は風車のように旋回しながらバックステップして躱し、続くハイキックをクロスした両腕でブロック。威力を減殺する。

 ビリビリと痺れるような痛みが走るが、その無理な姿勢から強引に拳銃をザジィにポイントする。


 ドンドンドンッ


 今度こそ、犬塚は掛け値なしに驚愕した。

 銃口から延びる延長線、その射線さえ躱せば命中は避けられる。事実、格闘におけるパンチやキックは相手の軌道を読んで回避するのだから。

 それが理屈だとしても、実際に銃火器に対した場合、恐怖心や焦燥感は判断を誤らせ、身体能力を冷静に発揮するのは困難なはずなのだ。

 しかし、犬塚の眼前で、ザジィは表情すら変えずに銃弾を回避して見せる。

 ただし、その周囲への配慮を欠いた犬塚の乱射は、意外にも冬華に一瞬の機会を与えてもいた。

 犬塚の撃った9mm弾の1発が少女の頬を擦過したのだ。その一瞬の硬直を逃さず、冬華の手刀が少女の顔面へヒットする。


「はうっつ」


 手首に少女を捉えた確かなインパクトを確認するも、返しで鳩尾に叩き込まれた膝蹴りに、冬華の呼吸が止まる。


 ダァンッ


 轟然と銃火を吐きだすショットガンの銃口を、冬華は無意識に繰りだした手刀ではらっていた。

 射線からは逃れたものの、熱風が手首と頬を撫でる感触に戦慄する。

 即座に湧き上がる恐怖心を、切った息吹きで打ち消した。


 シュキンッ


 タララッ


 少女がポンプを操作して次弾を装填する音に、どこかの作業服が発砲したAK小銃の銃声が重なった。

 冬華は闘志を剝きだしにして少女と視線を合わせる。対する少女の瞳も燃えるような憎悪にランランと輝いている。突発的な銃声など気にもしていない様子だった。


( ゴメンね、シロー君 )


 これまで冬華が対峙してきた凶悪犯達。反政府運動の活動家や暴力団の構成員等とは比べ物にならない技術と殺意に圧倒され、思わず、脳内で呟きが零れた。


「だらぁあっ」


 ダァンッ


 それは思いもよらぬ救援だった。俊介の雄叫びが冬華の耳朶を打った瞬間には、ショットガンの銃口は反れ、天井へと発砲されていた。

 鳴り響く銃声で跳ね起きた俊介は、警戒する解放戦線兵士の銃撃で肩口に擦過傷を受けつつ、問答無用で冬華と少女の間に飛び込んだのだ。


「ちょっ、やめて」


 稀なことだが、冬華は激しく取り乱した。

 様子を見ているしかない弘樹も驚きに絶句し、続いて迷いのない俊介の突撃に全身が粟立った。それは、感動したといってもいい衝撃で、弘樹の心臓を大きく鼓動させる。

 一方で、当の俊介は周囲の状況など気にしてはいなかった。そんな場合ではなかったのだ。

 跳ね起きた俊介は即座に冬華の危機だけを認識し、ニット帽の兵士による銃撃を左肩口に受けながらも、躊躇うことなく少女へとクイックダッシュしていた。

 これ以上の射撃が同士討ちを誘発しかねないと判断したニット帽は、少女へ警告を発しながら、他の部下にも発砲を禁止させる。

 ダッシュで肉迫した俊介は、その時になって、初めて相手が17 ~ 18才と思われる少女だと認識する。


( なんで女の子が・・・

 いいやっ、そうじゃねぇっ!)


 激しく動揺したのは一瞬だった。

 右正拳で銃口を冬華から外し、発砲させると同時に顔面を狙って肘を叩き込む。

 少女は首を傾けて俊介の肘を躱すと、そのまま頭突きで俊介の鼻を殴打した。

 少女の反撃によって強制的に鼻血と涙が溢れる俊介。打撃によって意識も途切れかけたが、息吹きを切りって無理矢理に覚醒させる。


 シュキンッ


「§Δ★ξ*◆」


 涙で視界が不自由な状況下、ショットガンのポンプ操作音に、少女の罵る声が重なった。次弾発射準備が整った銃口の標的は、またしても冬華だった。

 どう邪魔されようとも、絶対に標的を変えない少女の必殺の意思。その行動に対し、俊介の体内では「気」が音を立てて漲っていく。

 武道における「気」とは、漫画のように収縮させた光弾として放って攻撃する。などという代物ではない。そんな事ができる人間など存在するはずがない。

 少なくとも、俊介が感じる「気」とは体内で拡散するエネルギーであり、ソレゆえに武道家は、物理的には拳よりも硬い岩を正拳で砕いたりできるのだ。


( だから・・・ )


 俊介にとって、撃たれた痛みも脳震盪寸前の意識も関係はなかった。

 漲った「気」の恩恵で、反射するように少女の懐に飛び込むと、冬華に向けられたショットガンの銃口を掴む。


「無茶だっ!」


 あまりにも無策な特攻に、弘樹は思わず叫んでいた。


「ソッチを撃つんじゃねぇっ!」


 無計画で衝動的な行動だったが、渾身の力で銃口を自分の胸元に引き寄せる俊介は、胸中で「根性ぉぉぉっ!」と叫びつつ、少女を睨みつけた。


 ダァンッ


 少女の表情はミリも変わらず、『なれば、お望みどおり』とでも言う風情で手にしたショットガンが火を吹いた。

 俊介の叫びを圧倒する銃声が轟き、その身体は馬に蹴られたようにのけ反り、跳ね飛んだ。


「そんなっ」


 その、悲鳴のような冬華の声が俊介の耳朶を打つ。

 俊介の意識では時が停止したようなスローモーションの視界であり、冬華の美貌もハッキリと見えていた。だから、自然に笑みが零れた。


( キレーだ よな)


 意識せず、俊介は見つめ続けた。視線の先にある冬華の表情は、驚いたように両目を開いている。

 大輪の花のような美貌に、驚きと困惑というレアリティの高い表情が乗せられている。


( やっぱよぉ、すっげーキレイだぜ )


「あぁぁああっ」


 叫び声を上げつつ、車に跳ね飛ばされた子犬のように転がる俊介の姿を、冬華は最後まで見送りはしなかった。俊介が作った僅かなスキを逃さず、ワンステップで間合いに入ると同時に、少女の鳩尾へ肘を繰りだす。

 冬華の打撃は躱されたが、停滞なくミドルからハイ、ローからミドルへと連続で攻撃する。少女は全ての攻撃を躱しつつ、フットワークで巧みに冬華の間合いを外す。


 シュキンッ


 僅かなスキを突いて、少女がポンプを操作する。ソレを訊いた時には右手のマシンピストルのトリガーを絞っていた。


 パパパッ


( なんでよ!? )


 ほぼゼロ距離の射撃なのだが、少女は苦もなく首を反らし、身体を旋回させて回避してのけた。


( 撃つっ! )


 そう思った時にはショットガンのフレームが視界いっぱいに広がっていた。スウェーバックで銃把の打撃を回避したが、どうしても装填済みのショットガンへの脅威が意識に張り付く。

 その恐怖心は当然であり、急所を捉えなければ必殺とはなり得ない打撃とは違い、どこに命中しようと、ショットガンには致命の威力がある。そのショットガンは装填済みであり、その使用者は殺人に禁忌を感じない少女なのだ。

 耳元を掠める少女の打撃が髪の毛を数本引き抜いていく。続いて、返しの一撃がバックブローとして繰りだされる。その手の甲を肩で受けながら、冬華は推測し、思考する。


( いつでも撃てる。いつ、・・・どこで撃ってくるの? )


 冬華は強烈な打撃に膝を折りかけるが、反射的にマシンピストルを握った右手で正拳を繰りだしていた。

 無策な反撃だったが、この打撃で初めてヒットのインパクトを得る。


( いけるっ! )


 確かな手応え。そして、姿勢を崩した少女の姿を前に、冬華のアドレナリンが瞬時に爆発する。

 千載一遇の機会を眼前にして、冬華の身体は電撃的に反応した。


 パパパッ


 発砲直後、手の中でマシンピストルが「ガチン」とホールドオープンし、残弾ゼロを主張する。

 冬華のポイントした標的、その少女は床に伏せて射撃を回避していた。

 動体標的への射撃において、最も難易度が高いとされるのは、実は下方へ移動する標的である。冬華は知識として知っている事ではあったが、ソレを利用するような犯罪者と渡り合った経験など、もちろん一度もなかった。

 そして今、相対している少女は、日本の国内法における犯罪者ではあるが、その素性は兵士なのだ。

 日常的に銃弾が飛び交う中で、重武装の正規軍を相手に戦争してきた戦士である。冬華はその事実を、驚愕と共に再認識させられるハメになっていた。


( この娘は・・・バケモノってことなの? )


 咄嗟の反撃に効果が伺えたことも、ショットガンを発砲せずに心理的に圧迫することも、すべて少女のシナリオなのだと悟った。 

 冬華がマガジンリリースボタンを押して空弾倉を排出した時には、少女はスケート選手のごとく、滑るような流麗さで距離を詰めていた。


「ハアァァッ!」


 潔く弾倉交換を諦めた冬華は犬塚の十八番を奪う、すくい上げるような蹴りで迎撃を試みる。が、少女が躱すのは想定していた。

 蹴りを躱した少女が突きだしたショットガンの銃身を掌底で跳ね上げつつ、すれ違うように大きく踏み込んだ。


( そして、・・・安易に撃ってこないことも・・・ )


 再び正面に相対するべくターンする動作の過程でスペア弾倉を叩き込み、少女と正対した時にはスライドストップを解除。初弾は藥室に装填されていた。


( ・・・知ってるわ )


 交差してすれ違った2人が振り向いたタイミングは同時であり、互いの距離的も2メートル近くあった。攻撃手段として、射撃を選ぶことが有利な条件である。


「特に、今はね」


 その言葉はウインクしながら放たれた。冬華の無邪気な笑みに、少女は事態の深刻さを理解する。

 射線の先。冬華の背後では、ザジィが日本の刑事と闘っているのだ。


( 無駄よ。2度は通じない )


 パパパッ


 冬華のマシンピストルによる3点バースト射撃は、拳銃を横に構えた状態から足元を狙って発砲される。射出された9ミリパラペラム弾はマズルジャンプ( 発砲時の反動 )により、広く水平に散開して飛翔する。

 少女の不規則な回避術への対策だが、致命は望めない。ただし、確実に何発かは命中する。

 事実、1発が太股を貫通し、少女が膝を突いた。


「これでも心理戦は得意なの。大人を舐めないことね」


 少女の強烈な怨嗟の視線を涼し気に受け止めながら、冬華は自身の狡猾さに自嘲した笑みを浮かべる。

 この少女の怒りは警察へ向けてのモノというよりも、ザジィを狙った事に起因すると考えたのだ。

 だからこそ割って入ってきた俊介よりも、冬華の確殺が優先されたし、憤怒の怒りで追い詰めてきたのだ。もっと言えば、ザジィが死ぬような状況ならば、自身が盾となる事も厭わない。それが、この少女の本質だと見抜いていた。


「凄いな、アノ・・・」


「ラベンダーの人よ」


 見惚れていた弘樹に、理沙が横から指摘する。


「ったく、ベランダーとかって。コッチも死ぬほど恥ずかしいんだからね」


 キョトンとした様子の弘樹の態度に、理沙は溜息をついた。

 理沙自身、冬華の美貌が飛び抜けているからこそ、公正に見れていないのでは、と疑ってみたが、やはり、凛とした冬華の立ち姿は、作為的な悪意があるように感じてしまうのだ。

 さらに、その冬華へ夢中になって視線を向ける弘樹の態度も不快だった。


「凄いけど、でも、・・・なんかキライ。ズルいっていうか、なんかさ」


 理沙の意見に弘樹も賛同できる部分はある。ただし、近代戦闘ではなく、古流剣術において考えれば、相手を欺く「誘い」や「誘導」の技は多彩に存在し、奥義を活かすためには重要な繋ぎ技ともなっている。

 つまり、相手との心理的な駆け引きは、奥義を習得するよりも大切な技量となるのだ。


「真剣勝負だ。綺麗ごとだけじゃ、すまいんだよ。きっと」


「・・・そうかも、知れないけどさ」


 アノ少女は、凄く恐い目で睨んだりもしてきたが、ヤクザから自分を庇ってくれたり、不自由な身体を気遣ってもくれた。

 理沙は少女が犯罪者云々の話しを別にして、自覚してる以上の好意を持っているのかも知れないとも思っていた。


「理沙ちゃんの不満って、『吊り橋効果』とか『ストックホルム症候群』とかなんですかねぇ?」


「ああ、アレか」


 花蓮の指摘に、弘樹が納得の表情で頷いた。


「なぁによソレ?

 ヒロキも知ってて納得してるワケ?」


 キッとした表情の理沙に、弘樹は少したじろいだ。


「アレだろ?

 つまり『勘違いの恋』ってヤツだよな。多分」


「と、言うよりもぉ、危険や恐怖感を共有した事によるぅ、親近感ってことですね」


 弘樹のザックリすぎる解釈を、花蓮が適正に正す。

 普段と変わらないやりとりだったが、ココは銃撃戦の現場であり、テロリストと警察が戦っている中心だった。

 理沙は思う。変わらぬ恐怖心が脳内に刻まれているものの、やはり、何かが麻痺してきている実感もあった。周囲には射殺死体だって転がっているのだ。とても自分が正常だとは思えない。そして、それだけに、友人から分析されるのも面白くなかった。

 その、どこか納得しきれないままの理沙の視線の先で、少女を無力化した冬華は、安堵する余裕もなく戦っていた。

 間を置かずに作業服の兵士が冬華の間合いに入り、首筋を狙ってナイフを突きだしてきたのだ。


( キリがないわね。・・・シロー君、急いでくれないと・・・ )


 冬華はマシンピストルのアンダーレイルとトリガーガードの間で刃を受け止めるや、側頭部へ肘を叩き込んだ。

 周囲の敵味方が近距離で銃口を向け合う状況下である。冬華と犬塚が格闘戦をしているからこそ、同士討ちを恐れて撃ってこないのだが、この膠着状態が無限に続くはずもない。

 膠着状態に痺れを切らす。あるいは、目的を諦めるなどの判断で自爆を選んだならば、その時点で強制的にゲームセットとなるのだ。

 時間がかかるほどに周囲の包囲が固められ、自分達が不利になっていくことは、スメイル解放戦線サイドも予想しているはずなのだ。

 だからこそ冬華は危惧しているし、犬塚も焦っていた。


( つまり、日本は平和だった・・・ってことかい? )


 犬塚も内心で愚痴を零しつつ、ザジィの力量には舌を巻いていた。周囲のSAT隊員や弘樹達高校生へ配慮しつつではあるが、自分は容赦なく発砲しながら闘っているのだ。ところが、ザジィにおいては肩に吊ったサブマシンガンや腰のホルスターの拳銃へ、手すらかけていないのだ。

 繰りだす打撃は回避かブロックし、射撃は弾道を見切って躱してくる。SAT隊員や自衛隊の教官に指導を受けて熟成した犬塚の射撃術が、至近距離で無力化されている事実は、その技量を知っているSAT隊員達をも驚愕させていた。


「判ってるさ」


 離れていても冬華の思念、というより焦燥は犬塚も感じ取っていた。

 内心の呟きのはずが声にでていて、犬塚は思わず苦笑いする。ただし、その目は笑っていなかった。笑って相手ができる技量ではないのだ。それでも口元に笑みを浮かべてしまうのが、犬塚の豪胆なところであった。


( とはいえ、コイツは強すぎるだろ )


 ザジィが取りだした物体は「爆弾」としては極めて小型な代物であり、ソレ自体は起爆装置だと推測している。そうであるなら事態は火急であり、覚悟の強襲となったのだが、正規軍を相手に戦ってきたザジィの技量は、少女がそうであったように、職業犯罪者の比ではなかった。

 

 ドンドンッ


( しかも、なんで当たらねぇんだっ! )


 どれほどの修練を積もうが、身体が弾丸よりも速く動くわけがない。つまり、犬塚の発砲が先読みされているのだが、そうなると抗う術がなくなってくる。

 射撃を回避したザジィは滑るように犬塚の間合いに飛び込み、ハイキックで反撃してくる。


( ったく、とんでもねぇ )


 ムチのようにしなる放物線を描いた蹴りは、犬塚の二の腕によるブロックを弾き飛ばす。軌道や速度を自在に変えるキックであり、読みにくい上に威力も高い。


( 押されてる原因は明らかだ。俺ってことだよな )


 ソレは、原因が犬塚の力量不足という事であり、その力量を即座に上げる方法などないのだから、対抗策がないという理屈だ。

 しかも、事はザジィの技量だけの話しではない。銃口を向けられ、死の恐怖というストレス下にもかかわらず、冷静に予備動作を見抜いて軌道から逃れるなど、その精神構造自体が、すでに人間の領域を超えているとも評価できる。


「クッ!」


 次の瞬間、拳銃を握った手首がザジィに掴まれる。ソレとほぼ同時に犬塚も起爆装置を手にしたザジィの左手首を掴んでいた。


「ここからは技じゃねえ。パワー勝負だ」


 軽口を叩いてる場合ではないし、遊んでるわけでもないのだが、犬塚はザジィが日本語を解する事を考慮し、不敵に宣言した。

 それはなぜか?

 犬塚が自身の不利を悟っているからだった。

 変則的なキックをブロックしてきた両腕はとっくに感覚がなくなっているし、手首を抑えていても、起爆ボタンを押すことは可能なのだ。つまり、犬塚に有利な要素が皆無だから、「お前が不利だ」と心理戦を仕掛けたに過ぎない。

 やがて、相手を制圧するべくかけられる握力が拮抗する中、ザジィが視線を外さずに顎をしゃくった。まるで「アレを見ろ」とでも言うように。

 犬塚はザジィを視界から外さない範囲で視線を巡らせた。そして、落胆する。

 

( ったく。とんだレア動画だぜ )


 ソコに、背後からショットガンを突きつけられた冬華の姿があった。

 相手の見た目が少女であっても、訓練された兵士である。太股を撃たれた程度で戦線離脱などしないのも道理なのだが、ソコに冬華の誤算があった。

 例え致命傷ではなくとも、撃たれたという恐怖心は暴力団員でさえ、以降の抵抗を断念させる。死の恐怖とは、それほどに大きいものなのだ。

 ところが、この少女における銃創など、公園で遊んで作った擦り傷程度なのだろう。

 多少の不自由はあったものの、複数で対峙したアドバンテージもあり、あえなく冬華は制圧された。

 犬塚の眼前で冬華は膝間づかされ、更に別の作業服もAK小銃を突きつける。


「そんな・・・。負けちゃったの?」


 理沙の呟きに、弘樹も唇を噛んだ。明らかな決着の光景に、花蓮も膝立ちのまま硬直している。

 作業服姿の戦闘集団と濃紺のアサルトスーツを着用した特殊部隊は半径7~8mの範囲内で銃を向け合っている。その危険地帯の内部には弘樹や理沙と花蓮がおり、犬塚やザジィもいる。


( これで・・・撃ち合いとかに、なったら・・・ )


 全員が死ぬ。その解答は即座にだされた。そして、弘樹の思考は恐怖に染まった。

 周囲の緊張が一斉に高まり、臨界点に達しようとした刹那・・・


「よせっ。プリーズ、シースファイア」


 という犬塚の鋭い制止が響く。それはこの場の全員へ向けた訴えだったが、即座に視線をザジィに戻す。


「頼む。・・・せめて、子供だけでも」


 犬塚の懇願とも取れる口調に、ザジィの表情は動かなかった。

 更に顔を寄せた犬塚は、そのザジィの瞳を10センチの距離で見つめる。

 そして、掴んでいたザジィの左手を離す。

 起爆ボタンが押せる状況である以上、元々その拘束には意味がなかったのだが、敵意を否定するためには必要なリスクだった。

 対して、ザジィは犬塚の言葉を待つように、掴んでいた右手を放す。


「神に誓う。俺だって、家族が殺されたなら、銃を手にする。

 軽々しく、気持ちは判る。なんて、言うつもりもない

 どの国も、この日本にだって、正義なんざ、存在しない。ノージャスティスだ。

 だがな、コレは違う。判るはずだ。ザジィなら。

 頼む。お願いだ」


 感情を見せないザジィの瞳に微かな、淋し気な光を認める。犬塚は祈るような思いで褐色の瞳を見つめた。

 その後、ザジィは母国語のスメイル語らしき言葉で静かに犬塚に語りかけた。その意味を犬塚が判るはずもなく、それでも、音として正確に記憶に刻み込む。

 次の刹那、ザジィの瞳の奥。その感情を認め、犬塚は一気に感情を炸裂させる。

 ソレは、犯罪者が覚悟を決めるさいの光に酷似していたのだ。

 

「ザジィッ」


 叫んだ時には犬塚の拳銃はザジィのアゴへ、脳天を貫く角度で押しつけられていた。そして、その時には、すでにボタンが押されていた。

 あまりにショッキングな展開を前に、弘樹は咄嗟に理沙と花蓮を木箱に寄り添うように座らせる。無駄だと判っていても、そこまでは本能的に行動していた。

 弘樹の意図を即座に理解した理沙は、軽量合金の杖ごと花蓮を抱きしめるようにして、床に座った。

 そして、周囲にどよめきと静寂が訪れて数秒後。その静寂は守られたままだった。

 SATとスメイル解放戦線が銃口を向け合い、緊張感は頂点を維持しながら、間の抜けた余韻だけが漂う。


「不発、・・・なのか?」


 詳しい意味は弘樹には判らない。ただ、そう呟いた特殊部隊員の声を背に、視線はザジィの手にした球体に釘付けになっていた。


「ザジィ」


 銃口を突きつけながら呼びかける犬塚の声を無視し、ザジィは再度ボタンを押込むが、銀色の球体も、体育館の内部にも変化は訪れなかった。


「ザジィ。・・・なぁザジィ」


 諦めずに呼びかける犬塚の前で、ザジィは3回目、4回目とボタンを押し込む。

 ザジィの狼狽した表情を見るまでもなく、何らかの不具合が生じているのは明らかだった。情報の特殊性を考慮すれば、不良品やニセモノ、もしくは爆弾自体が存在していなかった可能性すらある。


「落ち着けザジィ。もう、・・・終わったんだ」


 犬塚は思う。CIAやMI6といった、なまじ一流とされる諜報機関から情報がもたらされたゆえに、世界も日本も踊らされたのではないか? と。

 性能不明の新型爆弾、「次元爆弾」という名前だけが独り歩きし、実働部隊であるザジィまで踊るハメになったのではないか? と。


「ザジィ、お前は・・・」


 犬塚の呼びかけに、ようやくザジィが泣き顔に近い顔を向ける。


「・・・無念だろうな。・・・騙されたんだよ」


 ザジィは低く、唸るような声で、いくつかのスメイル語を呟いた。


「ムダに死ぬな。その爆弾は・・・ウソだ」


 その犬塚の言葉がとどめであったかのように、ザジィは身体を捩りながら叫び声をあげ、何度も周囲と犬塚を見つめ直す。

 その様子は、起爆の危機が去ったことを悟った理沙と花蓮も見ていた。


「君、歩けるか?」


 唐突な質問は黒いマスクで対弾ヘルメットを被ったSAT隊員のものだった。


「まだ危険な状況だ。今のうちに避難するぞ」

 

 その隊員は理沙の返事を待つこともなく、ハンドサインで数名を呼び寄せた。


「心配しなくていい。いざとなったら、全員で盾になってやる。行くぞ」


「いや、・・・でも」


 理沙は何故か難色を示す弘樹を睨んだが、自分自身も去りがたい心境なのを自覚していた。

 その理沙も両脇を抱えられ、屈強な隊員に支えられた瞬間、麻痺しかけていた恐怖心が浮き上がっていた。

 アサルトスーツを通し、精鋭部隊を象徴するような強靭な筋肉の躍動を感じる。

 それは、ある意味で強力な暴力の象徴ともいえる。問題は、その暴力の矛先なのだが、理沙の恐怖心にそのことは関係なかった。。


( こんなに、・・・強そうな大人なのに・・・殺されたんだ )


「まずいぞ」


 その隊員の声に、弘樹や理沙も視線を巡らせた。

 見ると、ザジィが反応を見せない球体をなじるように声を上げ、表情を歪めながら犬塚の制止を振り切る姿があった。


「イーズィ。ザジィ、テイクイーズィ」


 犬塚は拳銃をザジィへポイントしつつ、なだめるように英語での説得を続けた。

 それは、別に人情論からの理由ではなかった。何があろうとザジィを射殺するわけにはいかないからだ。彼の部下はリーダーが殺されたとなれば、それこそ死ぬまで闘いつづけることが判っているからだった。

 スメイル解放戦線の兵士が最期の一兵まで闘うとなれば、その装備と練度を考慮しなければならない。

 絶対に投降しない兵士を相手にするのだ。当然、一般の警察官での制圧などで期待できないし、それこそ自衛隊が出動するレベルの戦力である。

 それが国会での審議の後、総理大臣による権限で出動できたとしても、それまでの過程において、過去にも例のない甚大は犠牲が生まれるだろう。

 すでに、現在までの作戦におけるSATの殉職者をカウントすれば、甚大な犠牲となっているのだ。


「頼む、投降してくれ。公正な裁判を約束する」


 なおも犬塚は説得を諦めない。

 部隊の練度と結束がザジィのカリスマ性によるモノならば、そのザジィの命令さえあれば、全員が投降するはずなのだ。

 犠牲者をだしたくない。その一点において、犬塚とザジィの利害は一致している。

 その意味において、犬塚は心底から奇跡を願っていた。


「ザジィ。・・・訊いてくれザジィ・・・」


 周囲の敵味方が見守る中で、ザジィはスメイル語で怨嗟の言葉を叫びつつ、手にした銀色の球体を床に叩きつけた。

 金属音を響かせてバウンドする球体を尻目に、ザジィは近づいてきた犬塚を突き飛ばす。


「いかんっ、死守しろっ!」


 それは「何を?」となりそうな指示であるが、犬塚は「高校生3人を守れ」という意図で命令しており、冬華やSAT隊員も、その内容は理解していた。


 ドゥゥン


 遠雷が響くような銃声が犬塚の命令に重なる。

 狙撃1班、ライフルワンの放った12,7mmの巨弾が冬華を囲む作業服の一人を撃ち抜き、炸裂したように血肉をバラ撒く。

 膠着状態が崩れた瞬間だった。

 互いの乱射が始まる前に、続く第2射によって、冬華を拘束していたもう1人の作業服も粉砕される。

 

( これで、もう止まらないわね )


 冬華は白木が下したであろう早計な命令に舌打ちしつつ、ベットリと血肉を浴びた修羅の様相のまま、床に転がるAK小銃へとダイブした。

 一方、弘樹はというと、依然として中空にある球体を目で追っていた。

 その後、大きくバウンドした球体は偶然にも理沙の胸元へと放物線を描き、咄嗟にという動作で理沙がキャッチした。


「えっ?」


 飛んできた球体を反射的に掴んでしまった理沙は、キョトンとした表情のまま弘樹と視線を合わせる。


「リサ・・・ソレってさぁ。あんまし良くないっていうか、マズくねえか?」


「だって、・・・」


 2人の会話はそこまでだった。一斉に轟いた銃声にかき消され、弘樹の思考は理沙と花蓮の安全確保に向けられる。

 弘樹は理沙を庇うべく踏みだしたが、SAT隊員の対応はさらに早かった。

 その隊員は左手で弘樹の頭を下げさせつつ、右手だけでMP5サブマシンガンを連射し、弘樹の前に飛びだした。


( そんな・・・待ってくれっ! )


 その弘樹を庇った隊員は、ボディアーマーを貫く小銃弾のインパクトに痙攣しつつ、全弾を撃ち尽くしてから床に倒れた。

 先刻の宣言通りに盾となった隊員を前に、弘樹は恐怖と憎悪が炸裂するのを、脳内で音として訊いていた。


 パチンッ


 弾けるような音色は金属音にも似ており、弘樹の全身にアドレナリンが噴き出す。


 タララッツ タララッツ


 なおも続く銃撃に怯むことなく、SAT隊員は理沙を、花蓮を庇う位置で反撃しつつ、次々に倒されていく。

 続く隊員も弘樹を庇うように掃射しながら前進し、その弘樹も意識せず鉄パイプを握り直し、隊員の後に続く。


( なんで、・・・こんなことを・・・ )


 マスクで顔は判らないが、精悍な声で逞しい雰囲気の隊員ばかりだった。

 真っ先に理沙を心配してくれて、言葉通りに守ってくれた。

 弘樹の無防備な行動を見て、理沙と花蓮がたまらず声をかけたものの、弘樹の耳には届いていなかった。


( ・・・なんで、殺したんだっ! )


 そして、弘樹の前を進む隊員が銃弾を受けながら倒れたのがダメ押しとなった。その隊員の死体を跨いで突進してきた作業服を確認するなり、弘樹の全身に「気」が漲っていく。


「ティィヤァァーッツ」


 弘樹は条件反射のように鉄パイプを握り直し、裂ぱくの気合と共に下段脇構えから居合いの要領で斬撃した。


 キンッ


 金属音と共に作業服の銃口が跳ね上げられる。弘樹の暴行を受けた全身が電流を受けたように痛んだが、構ってる場合ではなかった。

 なおも銃口を向けようとする動作を悟り、下方からのすくい上げるような一刀( 鉄パイプ )を上段から返し、作業服の肩口へと叩き込んだ。

 呻き、膝をつく作業服の顔面に膝蹴りを叩き込んで昏倒させると、構えを正眼に直しつつ、理沙へと視線を移す。


「なにやってるのよっ!

 死んじゃうから早くコッチに・・・」


 それ以降は声として届かなかったし、何より花蓮に支えられた理沙の胸元。ソコに抱いた球体の発光に呆然とし、弘樹は恐怖に硬直した。


「ダメだリサっ!」


 叫んだ弘樹の鼻先を銃弾が擦過し、視界が溢れた涙でボヤける。

 訳が判らないまま衝撃を受けた弘樹は膝から崩れて鼻血を噴きだした。

 理沙と花蓮にしてみれば、弘樹が銃弾で倒れたように見えていたが、実際は擦過による衝撃波の影響だった。

 2人の心配を外に、意識を保っていた弘樹は理沙の胸元で光量を増していく球体だけを見つめていた。


「ソレを捨てろ。・・・逃げるんだ」


 叫んだつもりだったが、その声に力はなく、それでも涙で歪む世界へ懸命に叫び続けた。

 その頃には花蓮も理沙の胸元の異変に気付き、その理沙も慌てた様子で球体を見つめて絶句する。


( 冗談じゃねえぞ、なんでリサが・・・ふざけるなっ! )


 弘樹は、胸中で絶叫しながら床を這い、リサを目指して床に爪を立てた。

 ぼんやり、うっすらとした光だったソレは、急速に光度を上げ、数秒後には眩しさから直視が叶わなくなるほどになった。


「ウソでしょ。なんなの?」


 突然の異常事態に、理沙も思考停止のパニック状態になっていた。


( 動けっ、動けっ動けぇぇぇっ! )


流れ落ちた鼻血を吹き飛ばす息吹きで立ち上がった弘樹は、そのまま一気にダッシュして・・・


「駄目だ!」


 そのSAT隊員が𠮟咤した時には、弘樹は信じられない剛力で床に倒されていた。即座に立ち上がろうとするが、隊員が身体ごと覆いかぶさってくる。


「ちょっ・・・」


 弘樹は絶句した。自分を庇った隊員が身体を密着させた状態で、痙攣するように激しく身体を揺らしている。

 少ししてからAK小銃のフルオート射撃を受けているのだと理解する。


「ウソだろ・・・。なんで?」

 

 弘樹の声は大半が銃声にかき消され、理沙の手にした球体は圧力すら感じるような強烈な光で周囲を、体育館を包んでいった。

 視界が白く染まった時には聴覚から音が消え、手足からは触覚が消えていた。


「リィィサァァァッ!」


 その弘樹の叫びは自身ですら訊こえず、やがて思考までもが白く染まっていくのを自覚する。


( ダメだ。リサだけは・・・リサだけでも・・・ )


 奈落へ落ちていくような浮遊感と共に、弘樹は薄れゆく意識と懸命に闘った。手足を動かし、叫び続けて抗った。

 虚空ばかりを掴む手足の感覚が消失していく中で、叫びは絶叫となり、最後は悲鳴のようになっていく。

 周囲の全てが、あらゆる物体と感覚が白く染まっていき、消失していく。

 世界は果てしなく白い。最後に意識できたのは、その感覚だけであり、やがて意識は途切れていった。

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