第24話 恋の原点に思いを馳せる

 その夜。

 私は天童の師匠から届いた手紙を吟味していた。 

 我が篆刻専用ルームは夏向きにできていて、こと夕方は冷え込む。以前は部屋の趣味に合わせ火鉢などを暖房にしていた。燃えやすい紙が多いことを考慮して、一昨年からは、オイルヒーターに頼るようになった。部屋の構造のせいもあるが、そんなに温まらない。

 師匠の手紙には、イモが添えてある。

 ジャガイモだ。

 篆刻の印材には、実に様々なモノが用いられる。

 柘植に黒檀紫檀などの木。金銀、チタンにタングステンのような金属。そして象牙等の骨。水晶、青田石等の鉱物に、陶器、プラスチックなどの人工物。しかし初心者には、とりわけ彫刻刀を持つのが初めてのような小学生には、もっと柔らかい、印材が向いている。

 というわけで、私はジャガイモの切り口に、スポーツカーを彫る練習をしていた。普段使う鉄筆とは勝手が違う大味な切れ味に、悪戦苦闘する。

 桜子が、例によって音もなく忍び込んできて、スズメのように私の隣に並んだ。

「今さら、イモ判? もう、年賀状の準備をしてるとか?」

「街コンからの離脱劇の、後始末の後始末」

「なに、それ」

 古川植木屋さんの職人衆、それと我がママさんチアチームの活躍のおかげで、街コンそのものが盛り上がったのは、言うまでもない。

 けれど、主催者たちが期待したカップル成立は一組もでなかった。女性陣はみんな既婚者だったのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけれど、例の和装組合のお偉いさんたちは、これを失敗とみなした。なんでも、今回の街コンがきっかけで、結婚にまで及ぶカップルが出てきたら、その将来のお嫁さんに白無垢からお色直しの色打掛まで、花嫁衣裳一式をプレゼントするつもりでいたらしい。ネットのホームページにも掲載済。逆に一組もカップルが成立しなかったのは、縁起が悪いことこの上ない、とご立腹とのこと。ま、大枚をはたいてイベントをぶったのは、なにも慈善事業のためじゃない。この手の「くっつく」「くっつかない」の行方は、神のみぞ知る世界の話ではある。関係者一同奮闘むなしく、というのなら諦めがつくけれど、今回は、明らかに違った。娘をなんとかしようと、街コンを私物化した古川パパという、最大戦犯がいる。彼のたくらみを阻止するためとは言え、私たちにも、責任がなくはない。

「……金銭的な償いをしなければならないとして、それは古川パパが全部ひっかぶるべきことだろう、ということで、話は落ち着いたんだ。けど、法的な責任と、道義的な謝罪は別だからね。でも、現金のやり取りをするなんて、ヤボなことは、向こうさんも、嫌がった。で、私たち篆刻グループみんなで、その和装組合のお店から、羽織袴を新調しようか、という話になった」

「それと、ジャガイモ、関係あるの?」

「会の主催者は東海林先生だから、ね。天童に電話して、山形・宮城のお弟子さんたちみんなに根回ししてもらった。で、師匠に口を利いてもらったお礼なんだ、このイモ判」

「新しい素材のハンコに挑戦、とか?」

「師匠の奥さんがPTAの役員をなさっていてね。小学生と保護者が楽しめるイベントを開催できないか、と学校側から打診されていたそうだ。奥さんはすぐに、このイモ判彫り教室を思いついた。奥さんの提案を受けて、他のPTAの人が、河原で芋煮会をしながらのイモ判彫りを計画した。ハンコを押したあとは、煮て食べましょうって、わけだ。もちろん師匠は講師を仰せつかったわけだけれど、出不精なひとでね、行きたくないと言い張ってたらしい。そこへ、飛んで火にいる夏の虫、私が相談に行ったわけだ」

「じゃあ、東海林先生の代役だ」

「そう。ケガをさせないことが、まず第一で、そのための練習ってとこかな」

 もちろん、文字を彫ってハンコにするような殊勝な子どもは、ほとんどいないだろう。文字の指導ならむつかしくないが、絵心がなければできない題材はしんどい。アニメから始まって、パトカーや消防車のような「働く車」、犬だの猫だののペット、風景に大人の似顔絵。当日慌てないように、今から試し彫りをしている、というわけだ。

「失敗作全部と、成功作の一部は、母屋の君のお母さんのところに、もっていった。事情を話して、処理を頼んだから、しばらくは毎日イモざんまいの料理かな。覚悟しておいてくれ」

「えー」

「お手伝い、大歓迎、と言ってたぞ。これを機に、イモ料理のバリエーションを増やすっていう手があるけれどね。肉じゃがにカレー、みそ汁にマッシュポテト。イモ料理って、案外多彩だし、食材として値段は高くないし、将来、お嫁さんに行くとき、役に立つかもしれない」

「ふうん。タクちゃん、イモ料理、好き?」

「炭水化物は、たいていのモノが好きかな。どうした?」

「アユミちゃんたちのこと、少し考えてて。ボーイフレンドがいたことない私なのに、タクちゃんの口から結婚とか言われると、ドキっとしちゃう自分が、なんだか、ヘン」

「恋に対して臆病なんだよ、たぶん」

「そうかなあ」

「誰かに恋する前に、失恋しているからね、桜子は」

「私、誰にも失恋なんて、してないよ」

「誰かに、じゃないさ。恋に恋する女の子がいるように、恋に失恋する女の子もいる。初めて一緒に住んだころの桜子は、まさにそんな女の子だった」


 女の子が、自分を女の子と意識するのは、いくつくらいになってからのころだろう。

 小学五年生当時、私がこの離れに移り済んだとき、桜子はまだ子どものままだった。同級生女子がバレンタインデーだの告白だのマセたことをしているときに、ひとり子どものままでいた。男の子と遊ぶのは好きだったけれど、それは桜子自身が、わんぱくな子どものままだったから、だ。川での水遊びや虫取り、近所の廃墟への「冒険」に参加する女の子は、徐々に少なくなっていった。銭湯で、私とともに男湯に入ろうとすれば、さりげなく番台さんにたしなめられもした。

 鈍感な姪の目を覚ましてくれたのは、一通のラブレターだった。

 一緒に、北上川の川開きを見にいきませんか。

 そう、デートのお誘いだ。

 ラブレターには、これを機に、二人っきりでもっと遊びたい、とも書いてあった。

 間違いない、小学生流の、愛の告白だ。

 つたない字で書かれたそれは、近所の公園でケードロ遊びをするときのライバルにして、ベーゴマとけん玉の達人、ハジメ君からのものだった。真冬の大雪の時でも半そで半ズボンを死守、家に虫かごいっぱいのトンボを持ち帰って、お母さんに叱られたというエピソードの持ち主。ワイルドさで、我が姪とタメをはる、永遠のライバルだ。お似合いの二人かな、と私は桜子の母親と午後三時の一服のとき、語りあったものだ。これで少しはオテンバが治ってくれれば……と、お母さんのほうはささやかに希望を口にしていた。

 ああ。けれど。

 桜子に恋愛感情、というのは理解できなかったのだ。

 姪は、こともあろうに、そのラブレターを友達に見せて回った。

 桜子の幼馴染たち、は気遣いというのが、分からなかった。自分の気持ちはよくわかっているけれど、他人の気持ちはテンデ分からないオボコだったのだ。

 彼女たちは、残酷だった。

「キショイ」「エッチ」「私はアイツキライ」……思ったことを、そのまま桜子に告げた。

 ラブレターの件は、桜子を中心とした小さなサークルのみならず、ご近所の小学生みんなに知れることになった。昔ならガキ大将的な立場だったハジメ君は、いじめられることこそなかったけれど、今までの遊び仲間からは、少し距離を置かれるようになった。遠足の班分けがなかなか決まらず、ドッチボールをすれば、いの一番に狙われるようになった。なにより、当の桜子が、自分の気持ちを軽く受け流してしまったことが、こたえたようだった。桜子自身には、ハジメ君を振ったという自覚はなかったようだけど、彼のほうは、初めての失恋を実感していた。

 ハジメ君の子ども時代は、たぶん、そこで終わったのだ。

 彼は虫取り網を持って野山で遊びまわるのをやめ、少年サッカーチームに入団した。背こそ伸びなかったけれど、足の速さを生かしたサイドバックとして、活躍し始めた。桜子の友達の一人が、彼のことを好きになった。ラブレター事件のときには、ハジメ君をからかっていた子だ。その友達に誘われ、桜子はよく彼のサッカーの試合を見に行った。そのうち、ハジメ君と彼女がつきあい始めた、という噂を聞いた。中学に上がる少し前、二人は別れた。別れた後で、噂が立った。二人がどこでキスしただの、おっぱいを触っただの、プライベートに留めておくべき、噂だ。ハジメ君本人が、その流言飛語の元凶と知って、桜子は直談判しに行った。待ち合わせ場所に、ハジメ君は、ケードロに使っていた公園を指定した。久しぶりの公園には、二年前のように子どもか遊んでいることもなく、小さく狭く感じられるようになっていた。桜子は偶然スカートはいて行った。ちゃんとした女の子に見えるな、とハジメ君は桜子を褒めた。

 我が姪には、ほめ言葉を嬉しがる余裕もなかった。すぐに抗議した。

 女の子の名誉に関することなんだから、エッチな噂をベラベラしゃべるのは、やめて、と。

 ハジメ君は、寂しそうに返事をした。

 桜子に振られたとき、彼女にさんざんイヤな噂を流されて、からかわれたのは、僕のほうなんだけどな。

 桜子は、自分のことをあげつらわれて、思わず彼を罵倒していた。

 復讐するために彼女とつきあって、さんざんもてあそんで、捨てたのか、と。

 ハジメ君は、さらに寂しそうに返事をした。

 好きで好きでたまらなかった裏返しで、ベラベラしゃべっちゃうんだけどな、と。

 恋って、そういうものなの?

 思わず叫んだ桜子に、ハジメ君は、さらにさらに寂しそうに返事した。

 お前も、一度失恋すれば、分かるよ。

 桜子は、彼にというより、自分へ、叫んでいた。

 恋がそういうものなら、私は恋に恋しないよ、と。


「そういうことも、あったなあ……てか、タクちゃん、よく覚えてる」

「毎日、一緒にフロに入ってた桜子が、突然一人で入るようになったから。大人への第一歩を踏み出したかな、と嬉しくも寂しい気持ちなったのを、覚えてる。娘ができる一足前に、父親気分、味わっちゃったなあって」

「そうだったっけ」

「ああ。でも、中二に上がるころから、また一緒入るようになった。なぜって聞いたら、恋も捨てたもんじゃないって気づいたからって、返事だった。そのときは何を言ってるか分からなかったけど、ハジメ君が、モトカノとヨリを戻したって、教えてもらった。恋愛に失望して……いや、恋に失恋したけれど、もう一度見直す気になったんだなって、思った」

 桜子は、なにより、最初のラブレターの話をしたがった。

 両親にじっくり話すような話題じゃないし、姉には小言を言われそうな話題でもある。

 たまたま、私がいた。

 でも、自分の気持ちが吐き出せれば、ぬいぐるみのクマでも、神棚の招き猫でも、なんでもよかったんじゃないか、とは思う。

「それは、違うよ、タクちゃん。タクちゃんだから、だよ」

「なにが、違うの?」

「察しなさいよ。鈍感」

「やれやれ。オトコには、言葉にならない言葉を聞く能力が、いるな」

「そうよ。来週、丹野くんにも、よく言い聞かせてね」

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