第19話 本当の恋愛は、どん底に落ちてからがスタートだ(by梅子)

 新人戦宮城県大会一日目。

 例年は九月開催というけれど、今年は例外的に遅い。

 例年は利府のスタジアムのほうで開催されるけれど、今年は昔ながらの宮城野原が会場になる。

 例年は四日かけてじっくり行われるけれど、今年に限って三日の日程。しわ寄せは選手に行っているらしく、多種目かけもちがむつかしい状況だ、と我がくノ一、富谷アキラさんが教えてくれた。

 さて。

 丹野君の出場種目110mHは、いきなりこの日のうちに、予選から決勝まで行ってしまう。スタンドに陣どって応援するのはむつかしくないが、選手本人に接触するのは、むつかしそうな雰囲気だ。

 頼みの綱、富谷さんも、今度は選手として参加するとか。まさか、競技に集中するのを邪魔してまで、くノ一に暗躍してもらうわけには、いかない。

 丹野君本人は、この日のために青春の大半を捧げるような生活をしてきた。彼が古川さんを熱烈に気に入っていても、この日ばかりは色恋の話はやめてくれ、という心境だろう。

 しかし、大事な日だからこそ、古川さんにとっては応援しがいのある日である。「また集中力が乱れた」なんぞ言われないように、ここは奥の手を使うことにした。

 ポカリスエット、カロリーメイト、その他スポーツドリンクのたぐいを何箱も買って、陸上部自体に差し入れにいく、という手だ。OB会に手を回して、この部の大先輩だと、顧問の先生に紹介してもらう。ハイエースに積んだお土産をおろすのに、丹野君の手を借りて、少しでも古川さんとの接点を回復する、という作戦。これなら、彼も断れまい。大量の差し入れをすれば、試合開会式前に、スピーチの一つもさせてもらえるのでは? と思う。

 荷物が大量になるので、桜子以外は、みんな仙石線にて現地集合してもらうことにした。古川さんには、うまく丹野君たちの乗っている車両に乗り合わせろよ、と言ってある。宮城野原駅は、スポーツ公園のある駅とは思えないほど小さい駅で、この手の大会があるときには、いつでも混雑している。プティーさんが腕によりをかけて人数分の弁当を作ってきてくれるとのことで、桜子は家を出る前からウキウキ気分だった。おなかが減るように、一生懸命声を張り上げて応援すると我が姪は張り切っていたけれど、サッカーや野球と違って、そういうのは推奨されない。

 修正バージョンの「語られアプローチ」、要するにブッチャケ版はじわじわと陸上部内に浸透している、と、富谷さんは報告をくれていた。男子部員の中には、丹野君を時折からかったりするヤカラもいるそうな。ただ、根がカタブツゆえ、何を言われても丹野君は反論ひとつしない。からかいがいがない男、という「残念な」評判もまた、しっかりと定着しているらしい。一年女子の何人かが、古川さんに陸上部マネージャーをやらないかと、誘ってくれた。古川さんは私に相談してくれ、私は、丹野君や富谷さん以外の陸上部員の活躍を知っているか、と彼女に問うた。古川さんは、ただ、首を横に振った。たとえ女子部員に誘われて入部したとして、丹野君しか見てないようでは、長続きしない。勉強します、という古川さんにストップウオッチを買わせ、観戦のイロハを伝授することにした。

 それで、今日という日がやってきたわけだ。

 ウォームアップ等が楽なように、選手たちはたいてい、サブトラックのほうに「基地」を作る。開会式のあと、私たちは激励訪問をすることにして、とりあえずメインスタンドに上った。

 スタートとゴール、どっちを見たいか? と私は古川さんに問うた。

 分からない、という返事が返ってくる。

 私は肩をすくめ、みんなとゴール側のベンチに陣取ることにした。

 大量の弁当をお供の者たちに背負わせた我が婚約者の顔色が、やたらめったらよい。

「ひょっとしたら、浮気とかしてる? プティー女王様?」

「いやだわ、ダーリン。前回の騒動のあと、フィットネスクラブのプレミアム会員になって、毎日エステしているせいよ」

 半面、弟のほうは、顔色が悪い。目の下に、くっきりクマができている。

「人数ぶん、お弁当を作らされてたの、僕のほうなんですよ。姉さんたら、引き受けるときだけは調子よくて」

「つべこべいってないで、パシリなさい、テンジン」

 姉に尻を叩かれ、テンジン君は、人数ぶんのプログラムを買いにいった。

 丹野君出場、110mHの予選出走は十時半から。二組目6コース、まあまあのポジションだ。

 待っている間、退屈ですね、という古川さんを、早速とがめる。

 彼のチームメイトも、応援すべきだ、と注意したばかりなのに。

 それに、トラックのみならず、フィールドでも競技はある。出走順や試技順はプログラムで確認できる。紺のランニングシャツにピンクのランニングパンツというユニフォームは目立つので、丹野君の仲間を見つけるのは、むつかしくない。

 おっと、その前に。

 開会式が終わった。

 私は桜子、古川さんを誘って、差し入れにいった。


 顧問の先生に朝の挨拶をすると、キャプテンらしき精悍な顔つきの女子部員が、全員に集合をかける。整列し、一斉に頭を下げるところまで、なんとも礼儀正しい。普段、桜子たちを相手にしているせいか、こんな高校生も世にいるのだなあと、感心してしまう。下心まんまんの私は、恐縮した。OB会からみっちり情報を仕入れてきたのか、顧問の先生がキャプテンの挨拶をひきとって、丁寧に私の紹介を……今の仕事から、学生時代の競技歴まで、紹介してくれる。

 私の経歴を聞いて、丹野君が驚いた顔をしている。

 現役時代にやっていた種目は400mだったが、大会初日最初に予選が行われる種目らしく、該当者はみんなウオームアップで出払っていた。

 ちょっと肩透かし、だ。

 私は、選手たちの迷惑にならないよう、ありきたりの「訓示」を垂れた。

 差し入れの運搬は、補欠になっている一年男子の面々が手伝ってくれることになった。なぜか選手の丹野君も、率先して名乗り出てくれる。バージョンアップ版語られアプローチの成果なのか? しかし、彼は古川さん目当てで、助っ人を名乗り出たのではなかった。

「庭野先生。ウチのOBだとは、知りませんでした」

「うん。まあ、言ってもなかなか信じてもらえなくてさ。スポーツ経験者っていうと、相撲部の出身ですか、とか真顔で聞かれたりするんだよ」

「表彰台に立ったこと、あるんですね」

「私が現役のころは、物理的な意味での台ってのは、なかったなあ。お偉いさんの前に一列にならんで、順番に鉛筆書きの表彰状を手渡されただけで」

「そんなにスゴイ人だとは知らなくて。今まで、失礼なことを、してしまって」

「色々迷惑をかけてきたのは、こっちのほうだから。それに、私、記録自体は全然すごくない人なんだ。ただ、やたら運がよくて、やたり勝負強かっただけ」

「勝ち方を、教えてください」

 深々と頭を下げられては、少しく真剣にならざるをえない。

 でも……。

「もう二時間もしたら予選が始まるのに、コツもヘッタクレもないよ」

「そんな」

「上位に残りそうなのは、どーせみんな顔見知りなんだろ。持ちタイム、どんな感じ」

「三年生が、すっかり引退したから、この新人戦出場者の中で、一応三位です」

「わ。順調にいけば、表彰台に乗るじゃないか」

「今までも二度、こんな場面があって……でも、両方とも、四位だったんです」

「丹野くん、メンタルが弱いひとなの?」

「自分では、熱血派だと思ってます。怖気づいたりすることは、ないです」

 立ち話中の私たちのところに、桜子が古川さんをひっぱってくる。

 ウインクしているつもりか、両目をぱちぱちさせて、我が姪が何やらあやしい合図をしてくる。

 ドン、と文字通り背中を押されて、ヒロインが私たちの間に割って入った。

「あの……レン君……頑張ってほしくって……」

 なんとも間が悪いときに、くるもんだ。

 出走前、こんな私にアドバイスを求めるにくるなんて、丹野君も必死なのだ。誰かが悪者にならなければ、古川さんが「空気読めない」悪者になってしまう場面だ。私は心を鬼にする。

「古川さん、ちと、黙ってて」

「えー」

「大事なところだから、外して」

「えー」

 なんのための差し入れ場面よ、と桜子が声なき声で私の二の腕をつねったが、ここが我慢のしどきである。そもそも丹野君は、彼女のほうを見てない。私の言葉を待っている。

「予選、決勝は、まず通過するんだろ」

「ええ。十中八九大丈夫です」

「なら、決勝前に改めてきてくれよ。何もできないけど、リラックスくらいはさせてやる。まずは、勝ってこい」

「了解です」

 丹野君は、便秘が治ったようなすがすがしい顔で、学校のテントに戻っていった。

 彼を見届けてから、桜子たちの抗議を受ける。

「けど、あの場面は、何を言っても古川さんのマイナスポイントになったよ?」

「庭野先生」

「はい、古川さん」

「もう、気持ちがバレバレなら、自分から告白しようと思ってたんです、私」

「その言や、よし。でも、かみ合わないなあ」


 丹野君は、自己申告通り、というか周囲の期待通り、予選準決勝とも危なげなく一位通過した。

 日が照ったり陰ったり、競技場内はちょうどいい暖かさで、なんだかピクニックにでも来ている気分になる。試合自体に昼休みというのは、ない。私たちは少し早めに、プティーさんから弁当を受け取った。自分のぶんとして、二つ頼んでいたのに、とサルトビ氏が不満顔だ。私が自分のぶんをアーンしてあげるから、とマリーさんが言っているらしい。彼女も日本語ができない。けれど、日本の習慣に、いや、日本のアニメの習慣に、ずいぶんと染まっているようだ。

 丹野君が、他の応援客の視界を遮らないように、低姿勢で来た。はやめの昼食をとって決勝に備えていた、とのこと。

「アドバイスをもらいに来ました」

 まあ、そこまではいいけれど、なぜか富谷さんがついてきている。「弁当にギョーザかよ」と言いながら、富谷さんは箸を借り桜子のおかずをひょいひょい平らげていた。桜子は負けじとテンジン君のおかずを食い荒らし、たかる相手のいない彼は「僕が作ったのに……」と半べそをかいた。

「……丹野君。もう、勝負は終わってるんだ。番狂わせなんて、相当なことがないとおきんよ。タイムの上ではすでに三位ってなら、勝ちを確認してこいよ。それだけだ」

「……つまり、そういう心境で臨め、と」

「ほんの半日だけのコーチなら、ここまで言うのが精いっぱい、かな。一カ月、一年というスパンだったら、もっと詳しくアドバイスできるんだけど。……タイムで勝って、勝負で負けるのは、迷いがあるからだよ。でもさ、迷いがあるから、負けるんじゃない。負けたからこそ、自分には迷いがあったんだって、確認できるんだ」

「なんか、逆ですね」

「最初から、自分に迷いがあるって分かってれば、大会までの数週間、数カ月で解決できるじゃないか。自覚ができないから、解決できない、だから四位になり続ける。負けて、自分の迷いを見つけろ。私がメンタル面でコーチを頼まれれば、まず、そこを鍛えるね」

「……もっとはやく、庭野先生のこと、知ってればなあ」

「今のは、少し長い時間がとれた場合の話、だけどね。ま、今の今は、別の話をしよう。そうだな、参考になるか分からんけど、自分の場合、一回一回の勝負にこだわらないほうが勝てた気がする。そもそも、こういう場面でも、熱くなったこと、ないんだ。ひょうひょうと、淡々と、事前の予想通りの結果を出す。それだけだった」

「僕とは違うタイプですね」

「ああ。でも、勘違いしないでくれ。出走前、顔やら太ももやら、自分でビンタしまくって、番狂わせを起こそうとする、実際に起こしてしまう選手も、決して嫌いじゃない。熱血でいられるのは、若いころの特権だ」

「なんか、ジジくさいこと、言いますね」

「実際、ジジイだから、さ。それと、もう一つ。今のアドバイスは、別に決勝に臨むハードラーだけに向けたものじゃない」

「と、いうと?」

「ウチの桜子が、君のところの富谷さんと親友でね。私たちの工作の色々を、君が知ってしまったことも、我々は知ってる。だから、ぶっちゃけて言ってしまう。これは、恋愛の告白にも使えるアドバイスだって、ね。

涼しい顔で、相思相愛の確認をする告白もある。無理を承知で、振られるのを承知で当たって砕ける熱い告白もあるだろうさ。丹野君が……女の子から告白されるとしたら、やっぱり、当たって砕けるほうが、好きかい?」

 古川さんが、飲みかけの紙コップをおいて、スーと立ち上がった。

 見つめあうこと、一秒半。

 丹野くんは、くるりと背を向けて、言った。

「古川。オレは約束、覚えてるよ。お前を映画に連れていく話。もうちょっと、待っててくれ」

 目をきらきらさせながら、古川さんは彼を見送った。

 そして、三十分後。


 残念ながら、我らがハードラーは、また四位に終わった。

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