第18話 紫苑
「これください」
「はい、二点で二百二十円頂戴いたします。」
ありがとうございましたー、というのんびりした声を背後に聞きながら、哲也は松葉杖をついてエレベーターへ向かう。今日は思い起って、レターセットを購入しに来たのだった。シンプルなものを二種類。可愛いシールもあればと思ったのだが、そちらは無かったので購入したのはレターセットだけだ。
「あら霧島さん。手紙書くんですか。頑張らなきゃですね、右手。」
「ええ、頑張り時です。人生で二番目の頑張り時。」
「もう、大げさなんだから。」
偶然乗り合わせた、お世話になった介護士さんとそんなことを話しながら病室へ戻る。ベッドへ移るや否や、レターセットを開封し始めた。ほぼ右手も治ってきたところだがまだ上手く使えない。その差に非常にやきもきする。
「霧島さん、かして。開けるよ。」
「あ……篠崎さん。ありがとう。」
横からすっと手が伸びてレターセットをさらってゆく。さりげなくフォローしてくれる彼女にいつも助けられてばかりだった。今も、頼んでもいないのに苦労しているのを見越して手を貸してくれている。
今は、五月十日。事故に遭ったのが三月二十八日だから、もう一か月半になる。この病室のメンバーももう退院時期を迎え、篠崎さんは明日。持田くんは明後日。哲也は一週間後の予定だった。
——もう、そんなに月日が経ったのか。信じられない思いで懐古する。ここに入院したのも、この二人に出会ったのも。そして、夢で菜々やみやこと会えたのも。そう思うと、一気にまた環境が変わるのが恐ろしくもあった。
「はい。」
「ありがとう。篠崎さんは凄く気が利くんだね。」
「いいや? あんだけ隣で唸られていたらそりゃ気にもなるってだけだよ。」
彼女が親切なことに変わりはないが、どうやら自分がわかりやすかっただけらしい。なんとなく気恥ずかしい思いをしていると、斜め向かいの持田くんと目が合った。わかる、と言うようにこっくりと頷いている。
気を取り直し、レターセットに向き直る。用紙はそれぞれ十枚ずつ。これになんとかおさめるように手紙を書かなくてはならない。二セットだからそこそこ量があると思うと大間違いだ。利き腕がまだ不自由なのだ、普通一行で書くものも二行ほど使う羽目になるだろう。つまり、実質四枚。それに全て書き切らねばならない。
「よっし! 」
気合を入れていざ手紙を綴る。まずは菜々へ。包帯を未だ巻いて固定しているおかげで書きにくい。しかし今書かねばいつ書くというのだ。今が千載一遇のチャンスなんだ。今は亡き妻子に「ありがとう」を届けられる希少なチャンス。
手紙を二行ふんだんに使って、一字一字必死の思いで書きつけていく。酷く時間はかかるが仕方がない。これを明日の昼までに全員分完成させないといけないのだ。やはり右腕が少し痛むが、気にしてはいられない。
休み休み数時間をかけてなんとか菜々への手紙を書き終える。……これは、きちんと読めるだろうか。そうも思うが、これ以上きちんと書けなかったのだ。これで勘弁してもらおう。
次に、みやこ。愛する妻へ。
出会った時から今までの楽しかった思い出が忙しなく脳裏を過ぎ去っていく。——正直、何を書けば良いのかわからない。でも。哲也は悩みながらも筆を執った。
〇
「それじゃあ、お世話になりました! 」
篠崎さんの明るい声がフロアによく通った。いつも明るく元気いっぱい、気が利いてそれでいてなぜか見舞いがいつも沢庵という不思議な彼女はこのフロアの人気者だった。花束を抱えて晴れやかに笑っている。
昨日、なんでそんなに元気で明るくいられるのか彼女に聞いてみた。すると「楽しみがあるからね」そう言ってにんまり笑ったのだった。楽しみがあるから、明るく元気でいられるのか……。自分に、そういう希望は見つけられるだろうか。きっと難しいだろうけど。
強かで素晴らしい人だった。
「もう、霧島さんなにしんみりしちゃってんの⁉ 」
そんな思いに駆られていると当の本人からばしばしと左肩を叩かれる。やはり、俺は顔に出やすいらしい。観念して、衆人環視の中だが——
「篠崎さんと同じ病室になれて本当に良かったよ、今までありがとう。」
感謝の気持ちをたっぷり込めて、手紙を渡す。昨日、みやこや菜々の手紙を書いたあと、寝静まったのを見計らって夜なべして書いたものだ。
この時の彼女はやけに幼げな、嬉し恥ずかしというような表情を浮かべていたのをよく覚えている。
〇
翌日。ついに持田くんも退院の日を迎えた。篠崎さんへのサプライズも、彼と共謀したものだった。なんだか相棒がいなくなるようで寂しい。
「霧島さん、どうかお元気で。」
また交通事故に巻き込まれちゃだめですよ、無理しちゃだめですよ、と念押ししていく様はどちらが大人なのかわからないくらいだった。
「持田くんも。トラックにはくれぐれも気を付けるんだよ。」
「もうこりごりです、あんな痛いの。トラウマですよ。」
トラウマ? と聞きつけた心理士さんがぱっとこちらを見てくるのでつい二人して口に手を当ててだんまりをした。過ぎ去るのを待って、顔を見合わせて笑いあう。
「俺、あと五日もここに一人なの寂しいなぁ。」
「大丈夫ですよ、すぐ次の患者が来ますから。」
「感慨というものはないの? 」
ふふふと悪戯っぽく笑う。またね、と言って別れる。もちろん手紙は渡してある。……またどこかで通りすがりででも会えたら御の字だ。
〇
退院まであと三日の、五月十四日。
この日はついに、みやこや菜々から告知されていた通り、この鈍色のマンションも最後の日だ。これでとうとう、会えなくなる。
告知されてからは精いっぱい夢の中で思い出を作った。もう大丈夫、そう思えるまでに。直接伝えるのが恥ずかしいものはもう十一日——レターセットを買った翌日——に渡してある。翌日、翌々日と二人交互に会って、思う存分に話をした。もう思い残すことは無い。
——そりゃあ、我が子と妻ともう会えないなんて身が引き裂かれそうだし断腸の思いという言葉ですらも役不足なくらいだ。でも仕方がない。夢にみやこが現れるようになってからはこちら二週間しかなかった。たったの二週間だ。
……でも、それでいい。別れの期間を貰えただけ幸運なのだ。それに、「会いに行く」という言質もとってある。なにも心配はいらない。また会えるんだから。
そう自分自身に言い聞かせながら、まどろみに身を沈めていった。
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