第17話 ブラウン


楽しそうな笑い声がマンションにこだまする。そう、菜々とみやこである。なんだかんだこのマンションも便利なもので、現実の哲也の様子を垣間見ることができるのだが、これがなかなか。プライバシーの侵害とも言われそうだが、これは天国から見守っているということでセーフだろう、セーフ。


そのスクリーンの役目を果たしているのが、ここ子供部屋の壁一面だ。二人してここからこっそり哲也の様子を見守っていたのである。……それにしても、ここに長く滞在できるよう筋トレをするなんて。


「当たり前だけど、愛されてるわね菜々―! 」

「も、もうっ、左足だけムキムキに鍛えるつもりなのパパは⁉ 」


ちょうど今、恩田という先生に怒られてやっと筋トレをやめてくれたところだった。ああ、やっとやめてくれた、とみやこは言う。ぐしゃぐしゃに菜々の髪をかき混ぜて遊んでいたのを、きちんと整えてやる。菜々の髪は幼子特有の絹糸のような柔らかく繊細な髪質をしていた。真っすぐストレートの、黒にブラウンの混じった髪色。まっすぐなのはみやこ似だが、少し茶色がかっているのは哲也似だったようだ。髪を梳かれて、ご機嫌のご様子。


笑って少し汗ばんだ首筋を、手で仰いでやる。すると気持ちよさそうにするので、みやこは微笑みを浮かべた。


「ねえ、ママ。」

「なあに、菜々。」

「あのね、パパ——あれで大丈夫なのかしら。」

「そうねぇ……ま、あの調子なら大丈夫なんじゃない? だんだん元気になっているんだし。」

「でも、このマンションが消えちゃったらまた元通りになっちゃうかもよ。」

「まあ、それもなくはないわね。」


怪訝そうに見上げてくる我が子ににっこりと微笑みかけながら、生前にプロポーズされた時の事を思い出す。せっかくだから、この子に喋ってしまおうか。なんてったって、自分の胸の中だけにとどめておくにはもったいないと思えるものだし。


「ママ、何企んでいるの? 」

「あ、バレちゃった? 」

「ママ、悪だくみしている時口がむにってなるからわかりやすいんだもの。」

「むにってなによーう。」

「むにはむによ。」


それよりも、なにを考えていたの? と、菜々は問いかける。


「っふふ、パパがプロポーズしてくれた時のこと! 」

「なになに、なにがあったの、教えて! 」


菜々は好奇心旺盛だ。それも、特に哲也やみやこについては特に顕著。月並みな言葉だが、乾いたスポンジが水を吸うように色んなことを学んでいく。


「あのね、パパがママに結婚してくださいって言ってくれた時にはね、とっても大変なことになったの。ロマンチックに夜景の見える丘でばっちり決めようとして一生懸命探した挙句に、なんとなーく夜景が見えるかなくらいの絶妙な丘を選んじゃったり——」

「あははっなにそれ、パパ面白いのね! 」


そうそう、その後緊張しすぎて丘からちょっと転げ落ちて、一生懸命気に選んだらしい服も草まみれになっちゃったりしてね。哲也との日々は本当に楽しかった。様々な楽しい思い出が尽きない。なのに、別れはあんなに突然に——


「ママ? 」

「っあ、ご、ごめん菜々。ちょっと考え事しちゃったみたい。」

「…………。」

「菜々? 」


「今日、パパと話すのはママね。」


はい、指切りげんまん。そういって小指を差し出してきた。この子はよく知識を吸収するから、それだけ色々に感づけるようになるのも早い。今も多分、みやこと哲也の間にまだ悔恨があることを察知しての事なのだろう。しっかりと目を見て小指を差し出している娘。——ほんと、どうしてこうなっちゃったかなぁ。


「……いいの? 」

「うん。ママ、このままじゃ次に行けなくなっちゃう。」

「……ありがとう、菜々。」

「どういたしまして! 」


にっこりと笑んだ菜々と指切りをして、抱きしめる。


ごめんね、菜々。ごめんね。ごめんなさい。


                 〇


玄関でじゃり、と足音が聞こえる。今、菜々はこの部屋から弾き飛ばされてしまっている。この部屋にいられるのは、二人だけ。三人家族なのに、酷い制度。

普通亡者と生者の一対一だからそれはイレギュラーなのだ、と説明された。もう少し、亡者に優しくしてくれたって良いものを。そんなことを思いながら、ただ窓の外を眺める。


——ああ、ああ。哲也が菜々を呼ぶ声が聞こえる。手にすることができたはずの未来。その欠片が今ここにある。


「菜々——」


足音は居間に入ってきたところでぴたりとやんだ。ここにいるのが菜々でなく私だと気が付いたのだろう。

——時間を奪ってごめんね。

そんなことを思っていると、ばたばたとした足音とともに衝撃が走った。


                〇


「菜々——」


今日は散歩にでて昼食の後の寝付きだったから、長く話ができるはずだ、何を話そうか。そんなことを考えながら、哲也は部屋に足を踏み入れる。

しかし、いつもは迎えにきてくれるはずの菜々が現れない。悪戯でもしかけようとしているのか、と思いながらゆっくり部屋をみてみても、まったく見つけられなかった。しかし、今日は珍しく居間へ向かう扉が閉まっている。きっとそこだ、と見当をつけて扉を開いた。


「菜々……」


目の前に広がるのは、いつもの見慣れた居間。しかしそこで床に座り込んでたんぽぽを眺めているのは——


気が付いたら、思わず駆け寄って抱きしめていた。


                  〇


衝撃の後、暖かな温もりを感じた——。ああ、この温もり。すこしだけ体温が低めの、この体温。ぎゅうと抱きしめる強い腕。


「哲也ぁ……。」

「みやこ、なんでみやこがここに、みやこぉ。」


ぼたぼたと雨が降ってくるし、自分の目からもぼろぼろとこぼれて落ちて止まらない。ただひたすらに謝りながら哲也に縋る。哲也は哲也で謝っているしで、だんだん面白くなってきて二人して泣き笑いをした。そうだった、泣いている場合じゃないんだった。


「っ、哲也、ごめんね。私のせいだ。今哲也が苦しんでんのも、菜々がこんなところにいるのも。」

「違う、それは絶対に違う。誰のせいでもない、誰も悪くないんだよみやこ。」

「なんでよ、責めてよ。しっかり手すりを握ってなかったお前が悪いんだって。だから菜々と会えずにこんなんになったんだって。言ってよ、ねえ! 」

「絶対そんなこと言わない。絶対にだ。二人は悪くないんだから。——俺も、謝んなきゃいけないのに、責めるなんてできないんだよ。」

「なにを謝るって言うの? 哲也はいつだって自慢の私の旦那さんだし一生懸命な新米パパだったんだよ。なんにも謝ることなんて無い! 」

「いや、そうじゃないんだよ、みやこ。俺はみやこと菜々を失ってから廃人のようになってた。前を向けなかった。毎日毎日泣いて縋ってばっかりで、心配かけたろ……ごめん。君の大好きな強かな俺じゃなくてごめん。二人を言い訳にしてごめん……! 」


痛いくらいに抱きしめられる。もう、一体いつから覗いていたのがばれていたのだろう。なんでこんなにも温かくて優しくて惨いんだろう。いっそお前のせいで生まれてくるはずだった菜々まで巻き添えになったんだ、といってくれれば良かったのに。それも飲み込んで責めないと言う。なんて人。


しばらくはそのまま抱きしめあって過ごした。少しして落ち着いてきたところで、二人離れて赤面した。——いい年して、何やっているんだろう。

以心伝心。向こうも同じことを思ったらしく、どちらからともなく笑いがあふれ出た。


「もー! 哲也ったら、ほんと、心配したんだから! 」

「ごっ、ごめんて! 悲しいやら寂しいやらで滅茶苦茶だったんだから! 」

「だからってあんな一日に一食たべるか食べないかでずっと泣いていたら弱りもするわよ馬鹿っ」

「馬鹿って言った? 馬鹿って言ったな⁉ このっ」

「わーまってたんまたんま! 」


二人してじゃれついていると、起こった悲劇の何もかもが夢だったかのように思えてくる。今、普通にこの世界に色がついていたら。他の人がいたら。すんなり「あれは嫌な夢だったね」と言いながら菜々のいるお腹をさする事だろう。

——でも、ここは鈍色。

色があるのはお互いの存在と、ベランダにあるたんぽぽだけ。たったのそれだけだった。


「なあ、みやこ。」

「なに、哲也。」

「…………。」

「なぁに、ちょっとはやく言ってよ。気になるじゃん。」

「……ん、あのさ、俺は今でも本当に二人を大切に思ってるから。これ以上ないくらいに大好きだ。だから、二人を抱きしめて歩いて行くから。頑張って、歩いて行くから! だから、見守っていてくれよ。消えるなんて、言わないでくれよ……。」

「……そうね。でも仕方がないことなの。ここにいられるのは一か月半と決まってる。知っているでしょう? 四十九日が過ぎたら旅立たなくちゃいけないのよ。次の生にうつらなくちゃいけない。」

「そんな……。」

「もう、情けない顔して。私達を抱きしめて歩いて行ってくれるんでしょ? それで十分! 哲也は哲也の人生を歩いて行かないとダメなの。ね、約束して。哲也は自分の人生ちゃんと生きていくって。約束してくれたら……」

「…………約束したら? 」

「きっと、私達二人は貴方の下に会いに行くから。」


哲也は苦しそうにぐしゃりと顔をゆがませて、こくりと頷いた。

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