第10話 青色
四月六日。月曜日。
哲也は久しぶりにあのマンションに招かれた。前回ここへ来た時には、少女を「菜々」と呼んだ瞬間はじき出されるようにして現実世界へと帰ってきてしまったのだった。
——あれは、少女からの拒否反応だったのだろうか。
2人を救えなかった俺に、何もできなかった俺に、気安く呼ばれたくなかった——そういう事ではないのだろうか、と思い悩んでいたのだった。
心なしか緊張しながら、玄関を開ける。真っすぐ直進したところ……風の吹きこむリビングの窓際に、少女は立っていた。いつものように、あのウサギのぬいぐるみを持って。
「……早く入ってきたら? パパ。」
「あ、ああ、お邪魔するよ。」
「ここ、パパたちが住んでいた場所なのに。変なの。」
くすくすと笑うその笑顔は年相応の可愛い笑顔だった。つられて哲也も笑う。
「……なあ、今更なんだけど。菜々、って呼んでいいかい? それとも、他の名前が気に入った? 」
「ううん、菜々でいいわ。私は、菜々。なんて可愛い響き! 」
ウサギを掲げてくるくると軽やかに回っているのを見守る。
しかし、それでは一体なぜ? ……一つ、疑問が残る。
「菜々、前回は、その……」
「なんで急に帰らされちゃったか、でしょ? 」
「ああ、そうだ。いつもと違う帰り方で、びっくりしたんだ。……それで、名前が気に入らなかったのかと。」
「それでそんなにぎくしゃくしていたわけ? もう、パパは心配性なのね。」
随分と今日はご機嫌な様子だ。いつもよりにこにことしていて、表情も明るい。
「あれはね? 我慢できなくてママが飛び出してきちゃったからなの。だから、パパはここからはじき出されちゃった。」
「ママ……みやこが⁉ 」
みやこも、ここに? どういうことだ。
ここは、菜々がいるならあの世とこの世の境目、賽の河原のようなものだと思っていた。そうでなければ自分の見ている、都合のよくついた夢でしかない。なのに、みやこもいるだと? ふたりともに同時に居られないのは何故だ? そもそも、みやこも……いや、いつから二人ともに未練が無いなどと思っていたんだろう。あんなに急に命を落として、まだまだやりたいこともたくさんあったはずだろうに。
「パパ? なにか難しいこと考えているでしょ? 」
「あ、え、? 」
「わっかりやすい。」
眉間のあたりを指さして笑った。……なるほど。自分で触ってもわかる、深めの皺ができていた。この歳からこの皺ができるなんて勘弁だ。そう思いぐりぐりと伸ばしながら、
「菜々も十分わかりやすいよ。今日、随分とご機嫌じゃないか。」
と言う。
「……わかっちゃった? 」
「ああ、もちろん。似た者親子だな。」
「……! そう、そうね、似た者親子ね、私達! パパと私は、似ているの! 」
「それで、なんでそんなご機嫌なんだ? 」
「それはね、ふふ、外をみて。」
「外……? 」
怪訝に思いながら、外を見る。この世界は、自分たち以外は全て鈍色だ。空も、地面も、なにもかも。見ても面白いものなんて——。
「…………これ、菜々が? 」
「うん、そうよ。毎日きちんとお手入れしていたらこんなに元気になってくれたの。」
色があるって、それだけで嬉しいものね、こんな世界じゃ貴重だわ、と愛おしそうに言う。
その目線の先には、きちんと根を張り元気に息づくあのたんぽぽがあった。きちんと、小さい一輪も元気そうに咲き誇っている。
「菜々はまめだし、植物を育てるのが上手いんだな。これなら夏休みの朝顔日記も上手くいっただろうなぁ。」
思わず口をついて言葉が転び出た。その直後に気が付く。奪われた未来、イフの話をしていてはもしかしたら、傷つけてしまうのではないか——。そんな思いも他所に、菜々は言った。
「朝顔日記? なあに、それ、どういういうものなの? 」
「え? あ、えっとだな……。」
「もう、今日のパパ何だか変だわ。しっかりしてよ。」
ぷうっと頬を膨らませて拗ねている。そうしていたかと思うと、ぬいぐるみをクッションにして懐に飛び込んできた。
「……私、気にしてないわよ。」
「え、なにを、」
「だから、自分が生きられたかもしれない未来の事も、あそこで死んじゃったこともよ。だって経験するはずだったものは全部パパとママがここで教えてくれるもの! それで十分、十分なの。……だから、あまり気にしないで、話して? 私ができたかもしれない未来のこと、たくさん。」
「……! はは、菜々は大人だなぁ。」
「でしょ? しっかりみっちりママから礼儀作法に言葉に教えてもらっているんだから。」
「流石みやこだ。しっかり教育する派だったんだな。」
「そうなの? ママ、まじめちゃんだったの? 」
「ああ、そうだよ。すっごくまじめでさ、よくパパは怒られてたんだ。だらしないーとか、ちゃんと片付けてー、とか。」
「あはは、ママの尻に敷かれてたのね。」
「みやこはもうそんな言葉まで菜々に教えたの……? 」
そんなやり取りをしていた。ふたりで並んで、たんぽぽを眺めながら。ひまわりではないけど。来ることのなかった夏休みを過ごしていて、今にも後ろからみやこが
「スイカ食べる人―? 」
なんて言って出て来そうなくらいに現実的な夏休みを過ごしていた。
ひとしきりみやこの話をしていると、ぐにゃりと傾く感覚が哲也を襲う。
——もう、もうなのか。やめてくれ、まだ、もうちょっと。
最後の最後に、遠くで菜々が「もう、マンションのけちんぼ! 」と言っているのが聞こえて、思わず笑ってしまった。
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