第9話 閑話
「……? 」
少女はただ、鈍色の中に立ち尽くしていた。何も知らない、何処かもわからない。ただ手にしているぬいぐるみの温もりが胸の痛みを和らげてくれる気がして、必死に縋った。
訳もわからなくてただただ、泣いた。わんわんと泣いた。瞼が腫れて、からからに体が渇いた感覚に襲われたその時、
「あなた、そんなに泣いていては美人が台無しよ。」
そう真後ろから声がかけられた。
「……? 」
そこには、背の高い整った顔の女性。お腹に手を添えて立っている。
少女は奇妙な感覚に、凄まじい違和感を覚えた。まるでなにか、今この一瞬で得体のしれない何かを流し込まれたような、知らないはずなのにわかっているような、そんな感覚。もやもやと言語化できないまま、疑問に感じているその感情だけが頭を支配した。
「ああ、そうよね。私はね、みやこっていうの。ほら、言ってみて? みやこ、って。」
「……んい、やこ? 」
あれ、なんだか違う感じがする。もっと綺麗なものではなかったか? そう考えていると、「みやこ」は泣きそうな嬉しそうな顔をして笑っていた。なんだかそれに胸のあたりがもたっとざわついて、何度もやってみた。
「んいやこ、にやこ、……に、んい? 」
「いや——! 可愛いっ! 」
そう言うと「みやこ」はたまらず少女の体を抱きしめてきた。驚いてびくりと肩をはねさせた少女に、またもや「可愛い、頬ずりしちゃう! 」とすり着いていく。なんとか離れようと、少女は「みやこ」の隙間をかいくぐってなんとか抜けることができたのだった。「もう、つれないわ。」そういって「みやこ」はつんと唇を突き出す。
「そっか、そうだよね。そういう言葉、お話してあげてなかったものね。私は、みやこ。これは、顔。」
「……ぁお。」
「そう。舌……これの根っこのところを上につけて、放しながらもう一回言ってみよう。」
「……お、ぁお。くあ、お。……かお。」
「! そう! そうよそうよ、よくできました! やっぱり私たちの子はとってもお利口さんだわ! 」
「みやこ」は頬ずりしてまた抱きついてくる。今度は逃げようとは思わなかった。
少女は言葉を知らない。かろうじて知っているのは、かつてあったかい安心できるところにいたのに、この変なところに突然来てしまったこと。それだけ。「みやこ」が何者かはよくわからないままだが、言葉を教えてくれるのならと思えた。それに、なんだかここは前にいたあったかい場所によく似ている。
少女の知っている言葉は、「たんぽぽ」「あったかい」「げんき」「うまれ」「あかちゃん」「おんなのこ」「てつや」「みやこ」……それから、「かお」。しかしそれも、聞いただけだったから発音などできはしない。ただ、「聞いたことがある」それだけだ。
「ねえ、あなた、名前は何がいいかしらね。」
「な、まえ? 」
「そう、お名前。ずっとあなた呼びなんて言うのは寂しいでしょう? 」
「さみ、しー? 」
「あっ! 今、みって言えたね! もう一回みやこって言ってみて! 」
「……み、やこ。」
「そうそう! 私の名前はみやこ、みやこよ! 嬉しいわ、貴女から名前を呼んでもらえるのがこんなにも嬉しいだなんて! 」
なんだかよくわからないが、「みやこ」は自分に名前を呼ばれるのが嬉しいらしい。なんだかみやこのこの顔を見ると胸のあたりがぽかぽかするので、また呼んであげようかな。……「なまえ」って、そんなに嬉しいものなのかな? 少女は疑問に思った。
するとその疑問が顔に出ていたらしく、
「ああ、そう、そう。あなたのお名前の話をしていたっていうのに、私ったら。」
「……? 」
「聞いてね。あなたには今沢山名前があるの。その中から、何か一つだけ選んでね。気に入ったものを、一つだけよ。」
真面目にそういうので、少女はただこくりと頷いた。沢山、とはどういうことなのだろうか。どれくらいのものなのだろうか。そう、ぼんやりと思いながら。
「じゃあ言うわね。あなたの名前は——……」
そう言って紡ぎ出された名前は正直、一たびで覚えきれるものではなかった。戸惑っているのに気が付いたみやこは、「これから何度だって伝えてあげるからね」と言って微笑んだ。と、その時みやこはぱっと顔をあげる。真剣な表情でしばらくそちらを見つめてから少女に向き直って言った。
「……今日はね、私がここにいられるのはここまでみたい。またきっとすぐにここへ来るから、待っていてね。良い子でいるのよ。私の可愛い子。」
そう言って名残惜しそうに手を放し、みやこは壁へ溶けて消えていった。
みやこって、溶けるんだ。
そうぼんやり思いながら、その壁を見つめた。何があったのかはわからないが、そうしていれば帰ってきてくれそうな気もしていたから。だって、みやこはあったかかった。すぐにここへ来るって言った。だから大丈夫、すぐ来てくれる。
——そう思いながらも、みやこのいない部屋は妙に寒々しく感じて。ぬいぐるみをぎゅう、と抱きしめた。最初に抱いた時よりも強く、強く。
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