第3話 錆色
哲也は久方ぶりにジムへ来ていた。今日は三月二十八日、土曜日。昨日見た夢に何だか叱られているような気がして、思い出したのがこのジムだった。
おりしも春休みの時期。そしてぽかぽかとしたうららかな陽気に誘われ老若男女が集まっている。空いているマシンを探しながら、哲也は思う。
そういえば、このジムもしばらく来ていなかった。契約した当時は仕事を始めたはかり、みやことも交際中だったから、がちがちに体を鍛えて良いところを見せてやろうと思って早々に契約したのだった。——あれから三年がたつ。時の流れと言うものは残酷だな。しみじみ思う。
ぐるりと周囲を見渡すと、バイクが一台空いているのを見つけた。すぐさま確保し、高さを調節した。漕ぎ始めながらバイク備え付けのテレビチャンネルを回していくと、動物園の特集が映り出された。
曰く、可愛らしいパンダの赤ちゃんが生まれたという。全く、世間は平和だな、などと考えながら何気なしに見る。ほう、ここにはキリンの子どももいるのか。……可愛いな。きっとみやこがいたら明日にでも行こうと言って大変なことになっていただろう。
ぼんやり画面を見つめていると、実況しているアナウンサーはふれあい広場へと移動した。画面に映り出されるのは、モルモット、ひよこ、うさぎ。なるほど定番の三種だな、などと思う。
しかし、その時奇妙な感覚に襲われた。何かが脳裏に引っかかっている……。
パンダ、キリン、モルモット、ひよこ、うさぎ。なにか思い入れのあるものが有ったろうか?
哲也は一つ一つ可能性を潰していく。
パンダ——可愛いな、くらいの印象。キリン——足が折れてしまいそうで怖いが可愛い。モルモット——そういえば動物園でくらいしか見ないよな。ひよこ——黄色くてふわふわで可愛い。うさぎ——……。そういえば、あの女の子ずっとウサギのぬいぐるみを持っているよな。
なんだ、あの女の子がウサギのぬいぐるみを持っていることが思い出されたのか。原因がわかり、すっきりしたような未だもやもやするような感覚を覚えつつ、考えてもきりがないし……と、強制的に思考とチャンネルを切り替えた。
適当に切り替えた先はニュース番組。どうやら、今日はこんなにも天気がいいのに明日は寒波が襲って来るらしい。それならば、今日帰りに食材を買って帰らないとな。スーパーの特売に何があったか思い出そうとするも、そこまで詳しく見ていなかったことが災いして何も思い出せない。
ああ、今日の夕飯は、何にしよう。
〇
……ポー ピーポー ピーポー
——なんだ、うるさいな。救急車の音。誰か体調不良者が出たのか。
あれ、そもそも俺、今どこにいるんだっけ? ジム行って、そのあとカフェに行ってコーヒーで一服。それで駐車場出て——。
「大丈夫ですか! もう少しですよ、もう少し! 」
がんばってください、とがなり立てる声が遠くに聞こえる。なんだ、どうしたんだ、一体。
そうぼんやりとしながらも、頭をそちらに向けようとした時に壮絶な痛みが走った。
「っぐあっ、ひっ、い、いだっ、うううう———‼ 」
なんだこれはなんだこれはなんだこれは! いったいどうなってる、足が、足が腕が、頭が痛い! うるさいうるさい、呻くのをやめてくれ、頭に響く!
生理的な涙がぼろぼろと顔を濡らしていく。そこで漸く理解が追い付いた。
そうだ、俺。今日はいつもの時間になっても眠気がこないし、大丈夫と思って運転して——少しぼうっとしてしまって、横から追突された——あっているかな————もう、なんだかよくわからない————。
そこで、意識がぷつりと切れた。
〇
頬にひんやりとした感触がする。ざらざらとして、ひんやり。
思わずがばりと体を起こし、手足を見る。……一見、何もない。何も異常がない。よかった、あの事故が夢だったんだ。
そう思いかけたその時、がちゃりと玄関の開く音が聞こえる。そちらに目をやると、すっころびそうな勢いで少女が出てきた。思わずその体を受け止めるも、少女はそのまま動かずじっとしている。
「君、大丈夫? 足でも捻挫した? 」
そう問うとぎゅう、とシャツを握りしめながら
「大丈夫はこっちの台詞よ、何してるの、いったい。なんでこっちに来ようとするの。もっと自分の身を大事にしてよ、お願いよ。」
そう言うと堰を切ったようにわんわんと泣き出してしまった。それを撫でて宥めながら、哲也は思う。——ここには来たくて来ているというより、吸い込まれてきているようなものなんだけどなぁ……。
ふと、そういえばこの子の名前を聞いていなかったな、と思い起ち聞いてみることにした。少女と話せる機会など、そうそうない。
「そういえば君、何て名前なの? 」
「私? 私は、唯であり菜々であり莉であり楓花であり、そのどれでもないものよ。」
「え、それ、それって——」
急激に意識が遠のく。身体が後ろに倒れる。柵に掴まりこらえようとしても、その波は哲也を飲み込んでいく——。
遠くで少女の叫ぶ声が聞こえた。
〇
ゆっくり瞼が持ち上がる。目を覚ますよりも先にきつい消毒液の匂いが鼻腔を刺激して、嫌でも今いる場所を知らせてくれた。視界に飛び込んできたのは、やはりと言っては何だが何らかのチューブと、包帯ぐるぐる巻きで吊られた足。それに端っこに寄せられているカーテン。
思わずため息を吐こうとして、きしむ肋骨に呻く。即座に看護師が寄ってきた。
……ああ、入院費どうしよう。ぽんぽんと投げられる質問に適当に答えながら、早くもそんな現実がちらついては消えていった。
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