第2話 群青色


 哲也は眠気に誘われながら、ベッドに背中を預けアルバムをめくってゆく。閉じ込められた思い出達はいつまでもきらきらと輝いて、今のどうしようもない自分を優しく照らしてくれているような気がした。


写真の女性を指でなぞる。愛おしくてたまらない、哲也の想い人。大切な人。——今は亡き、我が妻。子どもを身篭ってすぐに、我が子と共にあちらへ行ってしまった。


しかし、ああ——なんと、眠い。世界が粘度を増して哲也に覆いかぶさって来る。だめだ、もう堪えられない。引きずり込まれる。


「みやこ・・・・・・。」


そう呟くと、ぱたりと倒れるようにして眠った。——アルバムを胸にしかと抱えながら。


                   ○


三月二十七日、金曜日。


またあのマンションの夢だ。今日の夢では、マンションが嫌に静まりかえっていて不気味ったらありゃしない。皆して息を潜めているような、そんな緊迫した雰囲気。


二〇九号室前の通路に立っていた哲也は、下の道路を覗き込んだ。何か白い動くものが見えた気がしたのだ。

目を掠めたものは確かに白かった。——あの、昨日も夢に出てきた少女。その子がウサギのぬいぐるみを抱きしめて、何かに怯えている。


「——なにをしてるんだ……⁉ 」


小声で呟く。彼女はひどく怯えている様子だった。ぐっとより身を乗り出して下を見ると、彼女がなにに怯えているのか・・・・・・その正体がわかった。


ライオンだ。少し離れたエントランス方向から大きく猛々しい雄ライオンが彼女ににじり寄っている。


「一体なにが起きてる、」


そう呟いて階段へ向かおうとしたその時。背を向けた通路の奥から、グルグルという獣の喉の音が聞こえてきた。しかしこちらにはまだ気が付いていないようで、耳に届くのは遠くからの爪の音と喉の音だけ。


——風が吹いたら、終わり。


そう思うと血の気が引いた。その間にも少女は雄ライオンに追い詰められている。

あの子は殺させない、絶対に。腹をくくって、階段へと走った。全てお行儀良く降りていては追いつかれる。手すりを飛び越えて、一息で一階下へ。どんどん下っていく。しかし、一向に一階へ辿り着けない。


「どうっ、いう ことなんっ だよ! 」


愚痴りながら階段を跳ぶ。途中で狂暴な猿に襲われたりしながらも、必死に一階を目指す。必死に向かっているのに、全く階を降っている実感がない。ふざけるな、ふざけるな! ならば強硬手段に打って出てみせよう。

覚悟を決めて、階段からマンションの外へと飛び出した——。


                ○


 今回の夢はなんだかものすごくアクロバティックだったな、と苦笑しながら夢日記を綴った。体感時間も長かった。実際、眠っていた時間が長かったからか、既に差し込む明かりは西日の温かな暖色ではなく、既に日が落ちた事を知らせる群青色をしている。


一度ベランダに出て、夜風にあたりながら思いをはせる。

一体あのマンションは、あの人間離れした容姿の少女は何なのだろうか。群青に浮かぶ星々を眺めていると、ある事を思いついた。

・・・・・・そうだ、夢占いでもしてみようか。もしかしたら本当にメンタルが参っているのかもしれないし、何らかの真相心理が表れているかもしれない。


ざっくり調べたところ、当てはまりそうな項目は二つ。マンションが迷路になっている夢。そしてマンションの外が印象に残る夢。


それらによると今の哲也は、身の回りを見直す必要があり、将来設計を組み直すべき。そして自分よりも良い生活をする人間への嫉妬心の表れ、現実逃避とのこと。


・・・・・・どうやらそういうことらしい。なんだ、案外夢占いなんていうのも当たるんじゃないか、と乾いた笑いが漏れる。

ああそうだ。仰る通り。今の俺はこのままで良いのか迷いつつも足を踏み出せず、ただ漫然と休暇を取っているだけに過ぎない。『身の回りを見直す必要があり、将来設計を組み直すべき』、

そして自分よりも年下で同じく営業成績を取り、恋人とうまくいっているという順風満帆な佐々木に同じ目に遭えばいい、と思っており『自分よりも良い生活をする人間への嫉妬心の表れ、現実逃避』、つまりはどうしようもない糞のような人間になり果てた。


・・・・・・今、この現状がみやこに見られたら激怒されるだろうな、こんな、こんなにもどうしようもなくなった俺なんか。

それでも、縋り付かずにはいられなかった。アルバムを抱きしめて嗚咽する。


「みやこ・・・・・・みやこぉ。」


群青色の部屋に虚しく声が響いた。


                 ○


「なんだ、もう帰っちゃったの・・・・・・。」


寂しいね、みやこ。と呟いて少女はウサギのぬいぐるみを抱きしめる。そこには既に獣の姿はなく、いつもの寂しげで静謐なマンションにもどっていた。


少女はこの静けさが嫌いだった。ここはもっと賑やかで暖かくて、楽しい場所であるべきなの。もちろん、哲也とみやこもいっしょにいてね……。そう思えるのに、目の前のマンションはまるで墓石のよう。

それに嫌悪感を覚えながらも、ようよう立ち上がっていつもの二〇九号室へと帰る。


このマンションでただ一つ、気に入るとすればこの部屋のこの壁面だった。少女はそれを見つめて思いをはせながら、ぺたりと座り込む。


——まだまだ夜が始まったばかり。明日の昼まで一人ぼっち。少女はただ待つことしかできなかった。

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