鈍色幻影マンション 二〇九号室

東屋猫人(元:附木)

第1話 鈍色


 燦燦と降り注ぐ西日に目を覚ます。随分と部屋が暑苦しい……。急激に意識が覚醒して、霧島哲也は布団をガバリとはいだ。——またやってしまった。いつも後悔するのに、まただ。先ほどまでいた世界を思い出しながら、書きなぐるようにして枕元に常備してある夢日記を書きつける。


思えば、この手帳ももう一冊終わってしまう頃だ。まさか、こんなにもこの現象が続くなんて思ってもみなかった……。思わず、左手でページをぐしゃりと握りつぶした。


                〇


三月二十六日。木曜日。


今日もまた気が付くとマンションにいた。いたのは、二〇九号室前。いつもはバタつくのが恒例だが、今回は平穏無事だった。静まりかえったマンションで、俺は通路から窓越しに少女を見つめている。


——そこは、かつての自分の部屋だった。しかし今は「不思議の国のアリス」に出てきてもおかしくないような美しい少女、それがウサギのぬいぐるみを抱えて呆然自失としているのが見える。あの部屋の壁に、何があるのだろうか。気になって覗き込もうとしても、身体が動かない。


今回は短く、そうこうしているうちに他に誰もいないはずのこの通路を駆け抜ける足音を聞いた。


今日の夢は、以上だ。


                〇


 ふと気が付くといつも、例のマンションに佇んでいる。それはエントランスだったり、部屋の前だったり中だったり。はたまた屋上であったりした。

このマンションにこうやって訪れるようになったのはいつからだっただろうか……。もう覚えてもいないが、ここに住んでいた頃からだったと記憶している。

時にはここで掃除をして回ったり、ライオンに襲われたり、人形に追いかけられたりしていた。その時々によってシチュエーションも登場人物の人数もまちまち。ただ、夢の舞台がマンションに限定されている、それだけの共通点。


この夢そのものが、哲也の今最大の悩みの種だった。


                 〇


 霧島哲也という人間は、もともとは営業マンをしていた。医薬品卸の会社に勤め、そこで営業成績トップの佐々木景人と張り合いながら、今でも元気に仕事をしていたはずだったのだ。

……だが、変調は前触れもなくやってくる。部署が移動になり、担当地域が今までと変わった。店舗ごとのの対応も随分違っていて、苦戦しながらもある程度の成績を取れるようになっていたのだ。……なのに。


突然、身体が動かなくなって。仕事を休みがちになった。当然ながら上司からはしばらくの暇を取るように伝えられた。そこで、傷病休暇を取ったのが、丁度二ヵ月前のこと。


しかし現状は、全く変わらないどころか悪化の一途を辿っている。

体調も芳しくなく、変な夢を見続ける。健康的な生活を営もうと思っても、貯金が少しずつ減っていくのが恐ろしくて、野菜や肉など少々値の張るものを買うのもためらわれた。そうなると自然と、安売りのカップ麺だとかそんなもので済ませてしまうようになってゆく。


ようやくと言った形で生活を営んでいる哲也だったが、心の問題は根深く、徐々に蝕まれているような気持ち悪さがぬぐえない。医者に診断された抑うつ症状だとか、不眠症状だとかは薬のおかげでなんとか抑えられているので問題ないのだが……。

なんといっても気がかりなのは、あの夢だ。いくら眠りを深くする薬を飲んで夜寝られたって、必ず昼間も眠たくなり、マンションの夢を見る。——強制的に引きずりこまれているような、おぞましい感覚。


そして必ずその夢の舞台は、以前住んでいた幽霊マンション。病院が目の前にあって、城郭の堀跡に建てられた物件だった。深夜にはよく姿の見えない子どもが目撃されたり、風も通っておらず誰も出入りしていない物置部屋の荷物が崩れたりといった怪奇現象が後を絶たなかった。おかげで住民は皆、玄関とトイレには必ず塩を盛っていたのだった。

しかし、そこに住んでいたのは中学生の頃まで。……なぜ、社会人になって久しいようなこんな時に現れる。規則正しい生活を送りたいと心掛けた時から俺をむしばむ。


得も言われぬ焦燥感と不愉快感がふつふつと湧き出てくる。


哲也は頭を掻きむしって、風呂に入って気を紛らわすことにした。


                〇


「……あら、もう行ってしまったの。せっかちな人ね。」


少女は窓に視線を投げて、つまらなそうに言う。開け放たれた窓からは、夜のとばりを切り裂いて西日が差し、冷え切った空気を暖めていた。


「ねえ、みやこ。あなた、何をしたいの? 私をここに閉じ込めておきたい訳でもないでしょうに。」


少女はウサギのぬいぐるみに向かって話しかけた。しかし、どこからも返答はない。この部屋には少女一人しかいないのだから。

少女はふう、と嘆息して、窓から身を乗り出して風景を目に焼き付ける。


「——ああ、暖かい。暖かくて優しい色をしているのね、そっちは。いいなぁ、いいなぁ。鈍色のこんな世界から、飛び出せたらいいのに。」


そうぽつりと独り言をこぼした。空へ手を伸ばしたその瞬間、西日は細く薄くなっていき、ついには鈍色に閉ざされる。

世界にはただ一人の少女と、ウサギのぬいぐるみ。そして古ぼけたマンションのみが残された。

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