第5話 お母さん大好き〜(╹◡╹)♡

 五 お母さん大好き〜♡



 お母さんは私が気絶している間に準備をすっかり済ませた。私の手足を紐で結んで椅子にくくりつけて、動けないようにした。正面には机が置いてあって、机の上にお母さんの携帯が載せてある。携帯=iPhoneはある人の電話番号を表示している。お父さんの電話番号。私はお母さんが私にやらせたいことを知る。言ってくれればいいのに。わざわざこんな殴って気絶させて縛り付けまでしないでさ。言ってくれればやるよ、私。

 でお母さんは私に言った。

「これ使って一樹に電話しろ」

「なんて?」

 私が訊くと、お母さんは顔をしかめる。

「うっせーな、いいから電話しろよ」

「でも用件もないのにお父さんに電話できないよ」

 お母さんは私の顔面を殴った。口の中が切れて、口全体に鉄の味がした。

「電話しろ」

 お母さんはうつむいている私を、髪の毛を引っ張って、自分と見つめ合わせた。お母さんの眉はつり上がっているけど、瞳は澄んでいた。

「一樹が私のとこに戻ってくるようにしろ」

 無理に決まっている。


 お父さんは普通だった。普通に優しくて普通に頭が良くて普通に一般常識があって普通に働いていた。お母さんはお父さんのどこに惚れたかわからないけど、結婚して私を産んだ。

 お母さんはお父さんの前では自分を取り繕っていて、乱暴な口調は使わなかった。でもお母さんの中学生レベルの人格と品性ではその程度しか取り取り繕えなかった。お父さんはお母さんが他の男を連れ込んでいるのを五回以上発見して、離婚しようとしたけど、可愛い顔のお母さんに泣きつかれて離婚をやめた。お母さんは超軽い女だったけど、お父さんにだけは一途で、真実の愛とやらを見つけたらしかった。お母さんはお父さんにいつもべったりで、毎日家事もして掃除もして、行ってきますとただいまとおやすみのキスして、寝る前には自分がどれだけお父さんのことが好きか語って見せた。

 お父さんはお母さんが浮気ばっかりすることに怒っていたけど、同時にそれは直しようのないお母さんの性質だと気づいていた。だから六回目の浮気からお母さんを怒らなくなったし、自分への重すぎる愛を感じていたから、ある意味安心していたのだ。何があってもお母さんは自分を一番に優先するだろうし、他の男たちは自分以下だと思ったのだ。おかげで結婚生活は六年続いた。

 まぁ結局お母さんが私を殴っていることがバレて、離婚したけど。


 お母さんが発信アイコンを押した。

 私とお母さんの前で、iPhoneがブルブル鳴った。三秒経って、お父さんの声がした。

「もしもし」

「あ、お父さん久しぶり」

「......アンジェリーナ?」

「うん」

「なんで、ミキの携帯から?」

「借りたの、お父さんと話したいから」

「ミキの差し金だろ」

「まあ、ね」私が答えるとお母さんが舌打ちした。

「悪いけど切っていいか。俺はもうお前たちとは関わる気がないんだよ」

「ちょっと待ってよ。話ぐらいいいじゃん別に」

「......まあ、話だけならな」

「私ね、友達できたんだ。外国人ですごい背がでかいやつ。その子とつるんでて、最近ちょっと楽しいかも」

「......」

「そのせいで結構学校サボっちゃったりするけど、あ、成績はいいよ。全国模試五位とかとったし」

「......」

「それからね」

「アンジェリーナ」

「うん?」

「まだお母さんに殴られているのか」

「殴られてないけど」

「そうなんだな」

「......」

 お父さんが言う。「......子供ができたんだよ、新しいお母さんとの」

「別に知らないし」

「......今、すごくうまくいってるんだよ。何もかも。だからさ?」

「意味わかんないんだけど」

「頼むよアンジェリーナ」

「切らないでよ」

「無理なんだよ。ごめん」

「話聞いて」

 お父さんが電話を切った。後には沈黙が残った。

「あー......お母さん」

 私はお母さんの顔を上目遣いで見た。

 お母さんが鼻を鳴らした。「すん」そっから「すんすん」と、連続して、「えっう」に変わって、泣き出した。シワなんて一つもできていない目尻に涙いっぱいためて、「うええええん」って大声で泣いた。

 お母さんが大好きなお父さんがお母さんから逃げた発言して、悲しくなっちゃったんだね。うん、それは悲しい。私も私の大好きなお母さんが泣いているのを見て悲しくなる。お母さん泣かないでよ。笑ってよ。お母さんには泣き顔なんて似合わないよ。お母さんがたまに見せるニカッとした、笑い方が私は好きだ。口元を少しだけ上げて、前歯の半分ぐらい見えるやつ。めったに見せないから希少価値がすごい高いけど、私はそれをしっかりと覚えていて、今すぐにでも「うええええん」をやめて欲しいと思う。頭の中身が中学生なお母さん。私はお母さんの頭を撫でて慰めてあげたいけど、手足を縛られているのでできない。

「お母さん大丈夫だよ」

 私は言う。

「うええええん」

「大丈夫大丈夫」

 お母さんは目をゴシゴシ擦った。

「うええええんかずき〜」

「大丈夫、大丈夫」

 大丈夫なわけがない。 

 でも大丈夫って言うとなんだか私も大丈夫な気がしてきて、言う。どうしたら良いかなんて全然わかんないよね、私もそうだよ。泣いているお母さんを見ていると、私も不安で不安で大丈夫とか適当なことを言ってないと、お母さんみたいに泣いてしまいそうだから言い続ける。お母さん大丈夫だよ、大丈夫。


 お母さんは昔、お父さんがいた時に、ディズニーランドに連れて行ってくれた。私は帰りにファミレスでパンケーキを食べすぎて気持ち悪くなったんだ。お母さんは私が気持ち悪くなくるまで、背中をさすってくれた。気分が良くなった私は、安心して眠ってしまった。

 他にもある。幼稚園で描いた下手くそな似顔絵を、飾ってくれていた。前の家だからもうないだろうけど、描くたびに壁にセロハンテープで貼り付けていてくれた。誕生日にあまり美味しくないご飯を作ってくれた。母の日に手作りのメダルをプレゼントしたら、喜んでくれた。かくれんぼを一緒にやってくれた。わざと見つけないでいてくれたっけ。他にも寝る前に歯磨きをやってくれた。風邪になったら蜂蜜を舐めさせてくれた。一緒の布団で寝てくれた。他にも、他にも他にも......。


 次第にお母さんは落ち着いてきて、座り込んでしくしくと静かに泣く。もう大丈夫そう。てかお母さんが泣いているところを見たのはなにげに初めてかもしれない。まあ血も涙もない人間って言うけど、そういうやつもどうせ赤ちゃんの頃には泣いてるんだ。お母さんみたいな娘を殴る人間が泣いても全然不思議じゃない。

 お母さんは化粧が流れてべちゃべちゃになった顔を私に向けると、不意に私の手足を結んでいた紐を外した。

「アンジェリーナ......」

 お母さんは私の顔に手を添えた。

 さっきまで泣いていたのに、お母さんの手はずいぶんひんやりしていた。

 私はお母さんを抱きしめた。

 言いたいことは言わなきゃだめだ。守川はなもそう言ってた。

「お母さん大好き」私は言う。

 お母さんの手が顎をつたって首元まで降りてきた。

「お母さんは私のこと好き?」

 お母さんのほっそりとした指が私の首に沈んでいく。

「何気持ち悪いこと言ってんの。てめえなんか嫌いだよ」

「でもちょっとぐらい好きって気持ちがなければ、ここまで私育ててないでしょ」

「うっせーわボケ、嫌いっつってるだろ」

 喉がキュッと締められて、少し苦しくなってくる。

「本当に嫌い? 私はお母さんのこと好きだよ」

「馬鹿だろてめえ。やっぱ気持ち悪いわ」

「お母さんがつけてくれた名前、好きだよ。かっこいいもん」

「名前の話なんかどうでもいいだろ」

「お母さん、ありがとね」

「マジで、きめえガキだな」

 お母さんの爪が私の喉の皮を破いた。うっすらと血がにじむ。

 気道が圧迫されて発声しづらくなる。

「頼み事しても全然使えねぇしよ。一樹、連れ戻せっつったよな。使えねぇ。死ねこのカス」

「じゃあなんで、あの時私を病院になんて連れてったの?」

 私は言う。頭蓋骨骨折の大怪我。

「はあ何言ってんの」

「あのおかげで私は死ななかったんだよ」

「あー、それか」お母さんは言った。

 私はうなずいた。

「あれ、隣の奴が余計なおせっかい、きかせたっつうの。ズカズカ他人ん家に入ってきて、救急車呼ぶし、警察まで呼ぼうとするから、金握らせて、黙らせたよ。その後は知らん。めんどくせーし」とお母さんは言った。「てかなんで私がこんなこと、てめえと話さなきゃなんねーんだよ。さっさと死ね」

 目の前が暗く暗くなっていく。私を助けたのはお母さんじゃなかった。私はお母さんに助けられていなかった。

 ようやく私は気づく。私はお母さんのまともな部分に実はとても期待していたのだ。小さい頃の思い出にすがってばかりで、今のお母さんの私への愛情のなさから目を背けていたのだ。

「大嫌い」お母さんは言う。

 そんなこと言わないでよ。私は大好きだよ。

「大嫌い」お母さんは言う。

 やだ、私を好きになってよ。普通の親子みたいに暮らそうよ。

「お前なんて産まなきゃよかった。そうすれば一樹とずっと一緒に居られたのに」お母さんは言う。


 全身が沸騰して、その熱がまるで頭にだけ集められたみたいに私の脳がカッと震えた。

「ひどいよ」

 私はお母さんの服をギュッと握った。掠れた声しか出なかった。

「なんでそんなこと言うの。私だってずっとお母さんといたい」

「意味わかんねえ。死ね死ね死ね」

「やだよやだ」

「死ね死ね、死んでくれ」

「やだよお」

「マジ死ね」

「やだ」

「さっさと死ね」

「や」

「ゴキブリかよ。マジしぶと」

「......」

「死ね死ね、うっぜー」

「......」

「頼むから死んでくれー、うぜえから」

「......」

「お?」

「......」

「死んだ?」

「......」

「はあ......」

「......」

「邪魔......」

 お母さんは自分の背中に手を回している私を外そうとする。その瞬間に私は、水槽から出した金魚みたいにもがいた。ゴトッと落ちる。お母さんがぼう然と口を開けた。私は跳ねるようにして、走り出す。靴もはかないで、タックルするように玄関を開けて、錆びた階段を一気に降りて、走る。......走る。


 みんな死ね。

 みんな死ね。

 私より幸せなやつ、みんな死ね。

 ほんのちょっとでも幸せ感じたやつは、今すぐ殺されればいい。殺人鬼に。

 私は唐突にひどいことをしたくなる。商店街の近くまで来て、人が多くなる。私はメガネをかけた茶色いスーツのおじさんが歩いてくるのを確認して、そこら辺に落ちている石ころを拾い、おじさんの顔面に放り投げた。パリン。メガネが割れて、おじさんの顔に亀裂が入った。おじさんは数秒間固まって、自分がされたことをなんとか理解した。「何すんじゃボケっ」「ばーか死ね」私は言う。

 おじさんは頭の血管がブチって切れたみたいに顔を赤くして、私をぶん殴った。私は駐輪してある自転車を巻き込んで、倒れた。リーンとベルが鳴った。おじさんは我に帰ったみたいに、周りを見渡して、自分が悪くないって感じでそそくさと逃げていった。

 死ね。

 死ね。

 十三人じゃ足りない。もっと殺してよ。あんなにささっと人を殺せるんだったら、七十億人ぐらい殺して見せてよ。

 小さい女の子を連れた母親が歩いてきた。母親は女の子と手を繋いでいて、空いているもう片方の手にはものがいっぱい詰められたビニール袋を持っていた。

 私は母親に言った。

「どうして手を繋いでるんですか」

「はあ、よくわかりませんけど」

「いいから答えてください」

 ちょっと考えて、母親は言う。

「この子が手繋いで帰りたいって言ったからよ」

「あなたはそう言われたら、誰とでも手を繋ぐんですか」

「そんなわけないじゃない。何言ってるのよ」

「手を繋ぎたいって言われたくらいで、どうして繋ぐんですか。あなたはどうしてそれだけで手を繋ぐんですか。どういう気持ちで繋いでいるんですか。娘のことが大事だから繋いでいるんですか。それとも片方だけ手がぶらぶらしているから繋いでるんですか」

「ちょ、ちょっと何言ってるのよ、あなた。おかしいわ」

「知りたいから訊いてるだけです」私は怯えている女の子に言う。「いいよね。お母さんと手を繋げてね。私とも繋ごうよ」

 私は女の子の手を取ると、ブンブン振り回した。

「やーだー。やーめーてーよー」女の子は言った。

 私は構わずに腕を上下に振った。すると、女の子が転んだ。いいいいいいと女の子が泣き声をあげた。アスファルトに肌が引っかかって、女の子の膝とか肘とかに傷ができた。女の子は痛みで完全に抵抗できなくなり、私に振り回された。宙に浮いて、落ちて、浮いて、落ちて。私はそれを続ける。

「やめなさいっ」

 母親は私の右頬を平手で張った。ピシャンと良い音がした。女の子が私の手から離れて、「ママ〜」と泣きながら、母親に抱きついた。

「今、どういう気持ちで私を叩いたんですか。娘が傷ついて怒っているんですか。どうして怒るんですか。教えてください」

「あんた、学校どこっ」

 母親が叫んだ。

「教えてください」

 私がそう言うと、母親はもう一度私を叩いた。ビニール袋の中身が落ちた。じゃがいも。

「ふざけるのもいい加減にしなさいっ」

「そうやって、よその子供は普通に叩けると思うんですが、自分の子供は叩くんですか。叩いたことありますか。悪いことをして叱る時に叩いたりしますか。もしそうだったらその時どう感じますか。本当は叩きたくないとか思っているんですか」

 母親は気味悪そうに後ずさって、低い声で子供に言った。

「帰るわよ」

 母親は子供の手を握ると、何度か振り返りながら、小走りで去っていった。

 しーね。

 しーね。

 私以外の全ての人間。

 さっきの母親が落としていったじゃがいもを拾った。土の色が指についた。じゃがいもをアスファルトに擦り合わせた。こうやってすりつぶされるように地球が崩壊して、人類も絶滅すればいい。


 頭上から声がかかった。すばらしき守川はなの声。

「何やってんだよ、こんなとこで」

「何もしてないよ」

「どう見たって、してんだろうが。つか何で裸足?」

 私は立ち上がると、「どーん」と守川はなの胸を押した。

 守川はなはピクリとも動かなかったけど、胡乱げに私を見つめた。

「お前さぁ……」

「あ、マック行こマック」

「別にいいけど……お前どうした」

「別にいいならいいじゃん。私お腹空いた。空いた空いた空いた空いた空いた空いた。腹ペコリーヌ〜お腹ちゅいた〜」

「......」

「あ、そうだ」と言って私は守川はなの頬を叩く。ペチンと良い音がする。

「てめえ......」

 守川はなの彫りの深いハーフらしい顔がスッと暗くなる。叩いたついでにこれも言っておく。言ってしまう。

「はなのお父さんもう死んじゃってるから。ホームレス生活してる途中に首ポーンで死んだから」

 守川はなが目を見開いた。

「パパが......?」

「お父さんの名前、ケンゴって言うんでしょ」

「なんでそれを」

「だって友達だったもん。よく知ってるよ。あの人さぁ、お酒で家族崩壊させたのに、ホームレスになってからもずっとお酒飲んでるんだよ。笑えるよね。ケンゴさんね、ずっと言ってたよ。俺がこんな目にあっているのも全部あいつのせいだって。住所わかったら家燃やしてえーって言ってたよ」

 無言になった守川はなを見て、私は満足する。嬉しい。私は守川はなが傷ついている姿を見たい。過去を現在に掘り返す企みが成功してよかった。守川はなのでっかい目が揺れている。予想もしてなかったことを言われたから、顔が真っ青になっている。へえ、こんな顔するの。面白い。私はさらに言う。

「はなもさあ、ケンゴさんみたいになると思うなあ私。喧嘩ばっかのヤンキーで、ろくに勉強していないんだから、きっとそうなるよ。そしたらケンゴさんも喜ぶよ。はなが死んだ後も、地獄で、殴らないようになってくれるよ」

「......」

「頭悪いんだよ。暴力振るうことが自分をどこかに導いてくれるとでも、思ってんの? どんだけ自信あんの? 無理無理、しょぼいから。 馬鹿だから。馬鹿だから、未来のことなんか、なんも考えないよね。人殴ってれば幸せだからそれでいいんだよね。だから風俗とか、派遣とかしかいくとこないよ、はな。大学だって、どうせいくつもりないでしょ」

 守川はなが腕を振り上げたのが見えた。

「役に立たないアホ、バカ、死んだらいいじゃんっ死ねっ」

「殴らねえぞ」

 守川はなは振り上げた腕を私の後頭部に回して、自分の胸元に押し付けた。

「死ね死ね死んじゃえっ」

「うん、あたしは死なない」

「死ねーっ死ねーっ」

「うん」

「えふっ死ねっふっふっえふっ死ねっ」

「ごめんな」

「ふっ何がっだよっぐぅっふっバカっ」

「無理矢理にでも助けに行けばよかった」

「えっんん、ふっ、ふっふう、誰も頼んでない、そんなこと」

「あたしは、お前が親から殴られていることを知ってたのに」

「なら、ううう、あっう、ふ、ほっとけば、いいじゃん」

「アンジェリーナ、お前、虐待されてるのに親が好きなんだな。わかるよ。あたしもそうだったから」

「ふっは、ふっ、わかるよとかっ馬鹿みたいなこと言わないでよ。だれも他人のことなんてわかるわけない」

「どんなに酷いことされたって、昔好きだったのはなくならないもんな」

「あ、うふううっ、うっ酷いことなんて、うっう、ふ、されてない、もん」

「アンジェリーナ、もうお前を殴らせないよ」

「えふっえんっえ、ふ、お母さんは私を殴らないもんっ! 優しいもんっ! はなのお父さんとは違うもんっ!」

「うん」

「お母さんは最高だし、料理はおいしいし、おしゃれだし、きれいだし、一緒にいて楽しいし、えふっ、頭も、ふっ、ふう、良いし、私のこと、ふっ、褒めて、くれるし、ふ、ふっ、ふっ、ふっう、うっふ、ふわああああん、ううううう、ふわああああんっ」

「大丈夫だよ、アンジェリーナ」

「ふわああああん、死ね死ねっ」

「うん」

「ううう、ふっふっ、うっ、な、なんで、ふっ、お母さん、あああっふっう、私のこと殺したいの。もう殴られたくないよ。ふっ好きなのに。お母さん! お母さん! お母さん! ふうううっふっ殴んないで私のこと好きなってよ! まともに、なってよ!」

「あたしがそうさせるよ」

「なんで普通じゃないの! 簡単なことでしょ」

「そうだよ。お前のお母さんがおかしいんだ」

「う、っふう、死ねばいいんだ私」

「何でそうなるんだ。そんな必要ないよ」

「ふ、ふっふ、う、うう、産まなきゃ良かったって、私なんかふ、っふ、死んだ方がいいんだ!」

「あたしは生きて欲しいよ」

 守川はながそう言ったけど、私はお母さんにこそその言葉を言って欲しかった。抱きしめて頭を撫でられたりするのもお母さんにやって欲しかった。励ましたり肯定したりされるのも全部お母さんにやって欲しかった。でも守川はなは私のことを抱きしめてくれたんだ。

「ん、ぐ、な、なんで、そ、そんなに優しくしてくれるの?」

「友達だからだよ。お前はこれからもあたしと一緒にどっか行ったり、遊んだり、飯食ったりするんだ」

「うっ、えふっ、ふ、酷いこと言ったのに、まだそうしようと思ってくれる?」

「気にすんなよ。言われ慣れてるし、どうせこれからも言われるし」

「ごめん、ごめんねっうっぐ、ふう、ぐう、ごめん! ごめん! ごめんっ! はなっ、ごめんねっ、はななら何だってなれるよ、絶対! ごめん、ぐぅ、ふっ、ふうわああああんっ取り消せないけど、全部嘘だからぁ! ごめんね、はなっ、ごめんねえっ」

「泣きすぎ」と守川はなは言って、頭を寄せた。でっかい目がキラキラと輝いていた。「死んだりすんなよ」

「うんっふうわああああああん」


 もう無理だ。さっきからずっと泣いてるけど涙が止まらない。私は頭の中でお母さんへの不満をずっとうまく飼い馴らしていたつもりだったけど、そうではなかった。不満はどんなに頑張って、取り繕ったり茶化したりこねくり回したところで、消えないんだ。自分の中にとどまり続けて、自分を蝕んでいくんだ。だから、外に出さなければいけなかった。口に出さないと、決してなくならない。私は自分の望みを言葉にしなくてはならなかったんだ。言葉にすることで本当のことが見えてくる。私は暴力しか振るわないお母さんじゃなきゃダメだとか勝手に思い込んでいたけど、やっぱりそれは自分を慰めるための考えで、嘘なんだ。自分で自分を慰めるにも限界がある。だって私はこんなにも救われている。守川はなが言った短くて安っぽい言葉に救われている。さっきまでこの世の全ての人間に向けていた恨みとかわけわかんない怒りとか妬みとか憎しみとか、全部流しちゃっていいやって気分になっている。

 それでいいんだ。そうなってるならそのままで。自分の心を誤魔化したりするのはよくないしもうやめよう。守川はなは私に生きていて欲しいんだ。


「お前んち行くから」守川はなが言った。「悪いけど、お前のお母さんぶん殴ってやる」


 守川はなは私を連れて商店街を抜け、私の家に向かう。ピリピリしているのがわかる。守川はなはヤンキーと戦う時みたいに笑っていない。アパートの前につくと、守川はなは「そこで待ってろ」と言って一人で行ってしまう。ガシャンガシャンと階段を勢い良く上がって、ドアを蹴破って開けると、「おらああってめえっこのクソヤローっ」と外に聞こえるくらい大きく叫んだ。すぐにぐわしゃああんと嫌な音がして、守川はなとお母さんが飛び出してきた。

「やんのかボケ!」とお母さんが守川はなを殴ろうとする。守川はなは「やってんだろっボケ!」と言い、お母さんの拳をスウェーして、殴り返した。「ってーなあ」お母さんが低い声で言う。すごい怖い。でも守川はなは「知るか! クソヤローっ」と怒鳴った。

「自分の娘、こんなになるまでボコしていじめて楽しいのかっ! お前! なあっ! アンジェリーナ泣いてんだぞこのボケっ! お前なんかのことまだ好き好きって言ってんのに、殴んのかよ! なあっ! なんも思わねえのかよこのアホっ! アホっ! ボケっ! 最低野郎! アンジェリーナはなぁ、あたしの友達なんだぞっ! ぜってえーっ許さねーっ! 友達殺させてたまるかよお前よおーっ! アンジェリーナの腕とか折りやがって、腕折れたら痛いんだぞ! 想像しろよそんくらいボケっ! アンジェリーナ死にそうになってんだぞ! お前が散々なこと言いやがるからよ! 産まなきゃよかったとか言ってんじゃねーよ親のくせに、それ言われたら娘がどんな気持ちになるかわかんねぇのかよ。このボケっ! クソヤローっ! わかんねえんだったら、わかるようになるまでぶん殴ってやる!」

 もう充分。充分だよ。

 私は今嬉しいし、その嬉しさを思いっきり表現したい。守川はなが私のために怒ってくれていることにありがとうって言いたい。

 私が目をしばしばさせながら見ているうちに、また殴り合いが始まった。

「てめえ誰だこのヤロー!」とお母さんが殴りつける。

「守川はなだっアホっ覚えとけ」守川はなも殴る殴る。

「だあってろ! てめえっ! いきなり来てきもいこと言ってんじゃねー!」お母さんは守川はなの長い手足を避けて、懐に潜り込みパンチ。

「お前がきもいんだ。虐待なんかすんな!」守川はなが、お母さんを上から押さえ込んで膝を食らわせようとするけど、お母さんはするりと抜け出して背後に回り込む。そんで足払い。ゴンゴンゴン! 守川はながアパートの階段を上から下に転がっていく。お母さんはすぐさま馳け降りて、ジャンプ。守川はなを思いっきり踏みつける。

「はなっ」私は叫んだ。

「アンジェリーナ〜てめえがこいつ差し向けたのかよ」お母さんが言う。

「うららあっ」守川はながお母さんの足首をつかんで地面に引き倒した。「あたしの勝手だボケ。お前みたいな親すげえむかつくんだよ」ガツン。守川はなが馬乗りになって、お母さんのきれいな顔を殴る。

「ぶっ殺すぞクソガキ!」お母さんも腕で防ぎながら逆に何発か入れる。

「やってから言えボケ!」

 守川はなはお母さんの顔を叩いて殴って殴りまくる。一発ごとにゴッゴッと重い音がしてそのたびに血が飛び散ってでもお母さんは「殺す! ぶっ殺してやる!」って言い返しながら守川はなに殴り返す。私も息ができなくなる。そしたら守川はなが雄叫びを上げてお母さんに頭突きしてものすごい音が響いて辺りがしんとした。

 守川はなが立ち上がってお母さんの顔が見えた。赤くてグロくてとても見てられないのにお母さんは守川はなを睨みっぱなしだった。

「殺すてめえ......」

「はあ、はあ、うるせえ」

 守川はなも息切れしているけど「こんなもんで終わるかよ」と言う。そしてスパナをポケットから取り出す。

 ちょ!

「やめて......」

 と私は守川はなを後ろから羽交い締めにする。

「許すのかよ、こんな奴。許せんのかよ?」と守川はなが言う。

 私は考える。

 そもそも私はお母さんのことを許せないとか思ってたの? いつか復讐してやろうとかあったの? ......多分ない。一度もそう思ったことはない、はず。でも、それは麻痺していただけかも。殴られることに。愛してもらえないことに。苦しいことを当たり前としてしまっていたんだ。

 私はそっと守川はなに囁く。

「それでも私のお母さんだから」

 結局答えになってないし。でも答えはこれしか思い浮かばない。許すとか許さないとか私には無理だ。

「そうか」

 と守川はなはスパナをポケットに戻す。

 私はお母さんが起き上がるのを手伝おうと、手を差し伸べるけど振り払われる。

「んだよ」守川はなが言う。

 お母さんがじーっと守川はなを睨みつけている。

「別に」

「アンジェリーナに礼でも言えよ。本当だったら、お前の頭、アンジェリーナと同じようにかち割ってやるところだったんだぞ」と守川はなが言った。

 お母さんは大嫌いなラズベリーでも口に入れたみたいな顔をした。

「......どうも」お母さんは言う。

 ありがとうぐらい言ってよと思ったけど、お母さんらしいのでよしとする。で今だったら許されるでしょと私は、お母さんにもたれかかった。ちょうど腕の中。ほっそりとした体が受け止めてくれる。お母さんは舌打ちをした。それでもその音さえ心地よかった。

 何と言うか、ひたすらに嬉しい。

 この時だけはお母さんは私を受け入れてくれている。それが、守川はなに言われたからやっていることでも、私は嬉しい。このまま眠ってしまいたい。この時を保存してしまいたい。これが私の幸せ。

 もぞりとお母さんが動く。だいぶ嫌そう。だけど、私は離れない。なぜならお母さんのことが好きだから。散々言ってきたけど、好きだ。好きだから好きだ。

 守川はなが何かに気づいたように「あっ」と言うので見ると、いつの間にか魔剣13秒がお母さんの後ろに立っていた。おもちゃの剣を既に抜き出している。のっぺりとした顔はお母さんではなく、私に向けられている。


 殺すつもりだ私を。

 首を切って、十三秒数えるつもりだ。


「我が名は『テラー』!」

 妙に場違いで明るい声が聞こえたと思ったら、プツプツプツと地面の影からあの、首が飛んで死んだ水瀬が出てきて、魔剣13秒を摘んでしまう。蟻でも摘むみたいに、ヒョイっと持ち上げる。そのまま口の方へ持っていき、「闇に飲み込んでやろう」と言った。魔剣13秒はそれで消えてしまった。

 おかしいって、明らかに口に入る大きさじゃなかったでしょ。いや助けてくれたのはいいけど。

 って何? 魔剣13秒、現れて速攻消えたし。

「わははははっ!」

 水瀬が大声で笑う。

「借りは返したぞ! わははははっ!」

 水瀬はそれで、トプンと地面に沈み込んでいく。

 ありがとうとか言う暇もなかった。

 というか水瀬復活したってこと?

 それとも、水瀬も最初から魔剣13秒的な何かで、いつも言っていた中二病フレーズは、本当のことだってこと?

 考えられていたのはそこまでで、「あそこです」と近所の人の声がして、警官が二人やってきていた。あっ、そうか。殴り合いしてたし、そりゃ警察呼ばれるよね。

「逃げよっ!」私は言う。

「おう」と守川はなが答える。

 私は最後にもう一度お母さんにハグした。

 私のお母さん。

 きっと私を受け入れるのは今日だけなんだろう。何も変わらないで、明日も明後日も私を殴るんだろう。お父さんのことで勝手に嫉妬して不安になって、私をまたいつか殺そうとするかもしれない。

 でも悲しくはない。

 それが私のお母さん。

「お母さん、警察の人に救急車呼んでもらってね」私は言った。「じゃあね」


 中央公園に着く頃には、ほとんど陽が落ちていて、ぼんやりと橙色が地平線に見えるだけだった。人は私たちの他にはいなくて、生い茂っている木々のあたりから、虫の鳴き声が響いていた。

 私の足はここに来るまでに真っ黒になっていた。

「あそこ」

 と私は目を向ける。

 噴水。しょろしょろと揺らめいている水面の上をあめんぼが走っていた。

「あそこでケンゴさんが殺されたの」

 今はもう誰が見ても、死人が出たとは思わないだろう。

「どんな感じに死んでたんだ」

 と守川はなが言う。

「首が噴水の中で、体がそこのあたり」

「苦しそうだった?」

「うん」

 私が答えると、守川はなは噴水の縁に腰掛けて、涙をつうっーと、一滴流す。

「パパ......」

 私も守川はなの隣に座る。

「ケンゴさんね、はなとはなのお母さんのことを、ずっと愛してるって言ってたよ」

「本当?」

 守川はなの声は気弱な感じがした。

「本当だよ」

「そっか」

 守川はなはそう言って、うつむいた。私はふと思いついて縁に乗って立ち上がって、

「生きろーっ!」

 と叫ぶと、守川はなはきょとんとしている。はは。面白いでしょ。

「何だよそれ?」

「そのままの意味」

「だから誰にだよ」

「はなにだよ」

「はあっ、別に......パ、親父が死んだからって、死にたいとか思わねーよ! つーか、どっちかっつーと、それ、お前だろ」

「えへ、そうです」

「そうですじゃねーよ......ったく。......ありがとな」

 守川はなはそう言って、涙の跡を指で拭いた。

「えへ、すっごい嬉しい」

 いええい! ピース! ピース!

「お前なあ......茶化すなよ......」

「でもほんとだもん」

 えへ。


 ケンゴさんといて楽しかったのは、ケンゴさんがはなに暴力を振るうことを聞いて、それは私のお母さんと一緒だと思ったからだ。ついケンゴさんにお母さんの影を重ねてしまっていたからだ。お母さんが暴力を振るわないとこんな感じなのかなって、勝手に想像していた。ケンゴさんが下らない話をして、私も下らないことを言う。傷の舐め合いみたいに。でもそれは確かに私を癒してくれていたんだ。本当に助けられてばかりだった。もちろんケンゴさんのスーパークールなはなちゃんにも。

 ケンゴさんが死んで私も悲しい。

 私は一滴涙を流す。一滴なのはさっき泣きすぎたから。もうこれ以上は出ない。ごめんねケンゴさん。

「みんな生きろーっ!」

 私は叫ぶ。私はクズが好きだし、そんなクズたちに死なないでいてほしいと思う。どん底で苦しくても可能な限り長生きしてほしいと思う。最低のシマノンにだって生きていてほしいし、病院のあの人にだって生きてほしいし、お母さんだって生きてほしいと思う。とりあえず、殺人鬼に殺されたりするのは嫌だ。

「みんな生きろーっ!」

 守川はなも私の真似をして叫んでくれる。

 そうだ。誰も聞いていないかもしれないけど、とにかくみんな生きろーっ!

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