その5 右目の傷と壁ドン契約
「
「関係ねぇよ……
「あばばばばばば……」
演出通りに壁ドンしたら、菫屋が白目を向いて腰砕け状態になった。
「お、おい……こっちは真面目にやってるのに……」
「はあ、はあ……ごめんなさい、一人じゃない壁ドンがこんなに刺激的なものだなんて知らなかったの」
そりゃあ一人でやる壁ドンは何の刺激もなかっただろうよ。
一人でやるものじゃないからな。
「あなた、もしかして壁ドン慣れしてる?」
「初めてやったに決まってるでしょ……」
「天才? プロ?」
「言われた通りにやっただけなんだが」
多分褒めてくれてるんだろうけど、全く嬉しくない。
とは言え、菫屋にけっこう短い距離で迫れるので、そんなに悪い気はしないのが悲しい。
菫屋はノリノリで、僕の顔を見ながらうっとりしていた。
勘違いしそうになるからやめてほしい。
ただ、一つ気になることがあった。
「なあ、菫屋」
「奏音でいいわよ。私も栄介って呼ぶから」
「ん、そうか」
僕は壁ドンのときでさえ菫屋を下の名前で呼ぶのに気恥ずかしさがあったのに、こういうことをさらっと言えてしまうのはかっこいいな、と素直に関心してしまった。
僕には絶対にできないから。
「で、なあに?」
「僕の顔、怖くなかった?」
「栄介を初めて見たときだけ少し、ね。絡むようになってからは全然」
「そっか。ならいいんだ」
「聞いていい? その傷のこと」
こんなに自然に、ズケズケといった風もなく、傷のことを聞かれたのは初めてだった。菫屋……じゃなくて、奏音の人柄だろうか。
「小学生の頃、家族で遊園地に行ったんだ」
「うん」
「テンション上がりすぎて転んで、コンクリートブロックの角に顔から思いっきり突っ込んだ」
「ぶっ!」
「でも奇跡的に眼球には何の問題もなかった」
「あっははははははは!」
「むしろ右目の方が視力がいい」
「ひーっ、やめてやめて! お腹痛い! ……あ、ごめん。笑うようなことじゃないいわよね」
「いや、いいんだ。笑ってもらえた方が気が楽だから」
このエピソードはウケを狙ったわけではなく、本当のことだ。
ただ、今まで傷のことを話した人は、僕が無理して笑い話にしているのだろうと、信じてくれなかった。
なのに、奏音は疑うこともせず、笑ってくれた。
「切るか上げるかすればいいのに、前髪」
「やだよ。そっちこそ普通にスカートはけばいいのに」
「うっ……そ、それは……」
「そうだ、ちょっとこっち来て」
家庭科準備室に置いてある荷物の中に、姿見があったのでその前に奏音を立たせた。
「え、なあに?」
「そのヅラってすぐ取れるの?」
「取れるわよ?」
「それ」
「へっ?」
黒髪ロングのウィッグをすぽんと取り外すと、奏音の髪は栗色のショートボブになった。
普段はワイルドな感じにセットしてあるけど、ウィッグをつけていたせいで今はぺたんとしていて可愛らしい。
「ななななななにするのよ! 返して!」
まるでハゲがバレたオッサンみたいに慌てている。
「別にヅラはなくてもいいと思うんだが」
「ダメなの! この頭じゃ可愛くないから!」
奏音はウィッグをひったくると、すぐにかぶりなおした。
雑につけたせいで、少し斜めになって地毛がはみ出している。
メガネも少し斜めになっている。
その顔で可愛くないとは、なんて贅沢な。
「あー、びっくりした……なんてことするのよ!」
「悪かったよ。あってもなくてもたいして変わらないと思ったんだけど」
「変わるわよ! いい? この黒髪ロングは服の一部なの。今、栄介は服を脱がせたも同然なのよ!」
だとしたら普段の奏音は下着姿で出歩いてるようなものなのだろうか。
まあ今日だけで二回も下着姿を見てしまったわけだが。
「明日からはあんなことしちゃダメよ?」
「気をつけるよ。……ん? 明日? 明日もやるの?」
「当たり前じゃない」
「壁ドン?」
「他にも色々」
えーと……。明日から、僕は美女に毎日壁ドンとか色々できる、と?
オイシイ。確かにオイシイ。
だが、ここで「壁ドンがしたいです……」と言うのもなんか悔しい。
「これで私は昼休みに栄介を探さなくて済むし、栄介は私から逃げなくて済むでしょう?」
確かに、それは一理ある。
奏音のことはバカだと思っていたので、それはそれで悔しい。
「し、しょうがないなあ……わかったよ」
なんとか絞り出したセリフがこれだ。
事実上の敗北に等しい。
「じゃあ今日はそろそろ帰りましょうか。明日も私を女にしてね」
「言い方!」
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