#4 始業
7月上旬 土曜日 8時50分 photostudio Cendorill☺︎n 2階事務所
バイト初日の今日は、前回の面接で訪れたときよりも幾分か緊張はしていない。
外階段を登り、良い時間だろうと今回は自分でインターフォンを鳴らす。
『はい』
「比叡です」
『おお!鍵は開いてるから入って来て良いよ。入って奥の左の部屋ね』
「わかりました」
ガラス扉を開き、中に入る。
面接の時は緊張で周りなんて見る余裕はなかったが、玄関のガラス扉を開きまず目に入るのは扉の目の前の壁に掛かったA0サイズの大きな写真とその近くに置かれたベンジャミンとアロエ。ガラス扉を開けた俺の右側には小さな窓があり、爽やかな日差しが暗い廊下を照らしている。左を向き指定された一番奥の部屋を目指す。
小さな窓を背に、廊下を進む。俺の右側には脚付きのホワイトボードと面接の際に通された応接室があり、左側にはエレベーターや洗面所、大きめのクローゼットがある。そして、クローゼットの横には扉の開いた事務所。
「おはようございます」
「おはよう!時間厳守、良いことだ!」
事務所内を覗き込むと、すでに金剛さんがデスクトップパソコンに向かい作業をしていた。俺は部屋の真ん中にあるミーティングテーブルで少し待つよう言われ、出入り口に一番近い椅子に座った。せっかくなので、部屋の中をぐるりと見てみることにした。
部屋の出入り口に背を向けるように配置されたスチールデスクが3つ。そのデスクには全てデスクトップパソコンが置かれており、金剛さんは出入り口の向かいのデスクで作業をしている。そんな金剛さんの横には簡易的な小さなキッチンがあり、冷蔵庫と上に置かれた電子レンジが見える。そのキッチンの隣にはたくさんのカメラが置かれた棚がある。出入り口の横、つまり俺の後ろにあるスピーカーからはあまり聞いたことのないFMが流れており、スピーカーの横の本棚には写真集やカメラ雑誌が綺麗に整頓されている。俺の右側にはベランダに続く窓があり、その横にも少し小さめのデスクとデスクトップパソコンが置かれている。その他にも、ベランダの窓の近くに置かれたコピー機や、部屋のいたるところに常駐する観葉植物。
手入れが大変そうだな。と単純にそう思った。
「もうちょっと待ってね。もう少ししたらきーやんさん達来ると思うから!あ、その前に着替えとくか…こっち来て」
そう言いながら、金剛さんは事務所を出て廊下の途中にあったクローゼットを開いた。俺はその後を追い、クローゼットの中を覗いて見た。中には使われていないスタンドライトやロール紙、小道具の詰められたダンボール箱が何個も置いてある。
その中から金剛さんはビニール袋に入った新品のつなぎ服を取り出し、俺に手渡した。
「中の服は持って来た?」
「はい」
「じゃあ、そこがトイレだから着替えておいで」
金剛さんは洗面所を指差し、事務所へと戻って行った。
俺はトイレに入り、渡されたつなぎ服と無地のTシャツに着替え、つなぎ服の前はしっかりとチャックを閉め、事務所に戻った。
「良いね!サイズも大丈夫そうだね」
そう言うと金剛さんは座っているキャスター付きの椅子を滑らせノートパソコンを俺の前に置き、
「まず、ここはphotostudio Cendorill☺︎nです。会社の名前にもなってる“サンドリヨン”の意味はわかる?」
「いいえ…」
「サンドリヨンとは灰かぶり、つまりシンデレラのことで普段はできないメイクをして綺麗な衣装に身を包んでひと時の夢を見れるように。そういうコンセプトでやっています。私たちスタッフはシンデレラを綺麗に変身させる魔法使い」
金剛さんはまるで魔法をかけるように手に持ったペンをくるくると回し不敵な笑みを浮かべた。
そのままデスクに置いた書類の束を俺の前に置き、ペンで文章を差しながら今日の撮影内容について説明を始めた。
「今日の撮影は2件入ってて、一つは商用でもう一つはウェディングフォト。とりあえず、比叡くんはスタジオ内を色々ぶらぶらしてどんなものかを見てて貰ったら良いから」
「商用というのは…?」
「あぁ、企業からこの商品をアピールするための写真を撮ってくださいっていうお仕事を貰って、今回は洋服の会社からで…」
金剛さんは書類の束から商用撮影に関する資料を探す。が、なかなか見つからないのか、俺に「ホームページでも見てて」と声を掛け、再びデスクへとキャスターを滑らせた。
俺はノートパソコンを操作し、ギャラリーと英語で書かれた文字をクリックした。スタジオや外で撮影された写真が一覧で表示され、カーソルを写真の上に置くとその写真に関する短い説明文が下からフレームインしてくる。
「新しいバイトの子はどんな子かな。かわいい子だったら良いな」
「どうだったっけ…?」
バタバタと玄関から二人分の足音とそんな会話が聞こえる。一人は霧島さんだと分かるが、もう一人の声は聞いたことがない。
そして、かわいい子じゃなくてごめんなさい。
「おはーよ」
「おはようございます」
「おはよー!」
事務所に現れたのはいつものつなぎ服ではなく、シンプルなモノトーンの服に身を包んだ霧島さんと俺よりも身長の高い男性。
身長の高い男性は、黒く長い前髪をセンターで分け、遠くからでも目立つ程に派手な白地の柄シャツを着ている。目元には色付きの丸メガネをかけた、なんとも軽そうな見た目をしている。
男性は、ノートパソコンに向かう俺を見てズボンのポケットに入れている手もそのままにその場で固まった。その横を霧島さんが通り抜けて金剛さんの隣のデスクに座った。
余りにもじっと見られてしまい、何か顔についているのだろうかと不安になってしまう。さっきトイレで見た時は何も付いていなかった。
「おはようございます。比叡透です。今日からよろしくお願いします」
立ち上がり、扉の前で固まる男性に挨拶をする。軽く一礼をすると、足元にはランニングシューズが見えた。運動が好きなのかな。なんて考えながら、動かない男性はようやく「わぁ…」と驚いたような、残念そうな声を漏らすと、一度咳払いをし、ポケットに入れていた手を腿の横に移動させ改まって口を開いた。
「
「よろしくお願いしまっ」
「うぇーい、へい。へーい」
「え?え?」
「ねぇきーやん!全然かわいい子じゃなーい!」
「僕は女の子なんて一言も言ってないけんね」
「女の子が増えるかと思って期待して走って来たのに…」
俺の言葉を遮り、鳳さんは俺の方に手を翳しハイタッチを求めて来ている。つられて俺も手をあげると、パチンと軽く手を叩かれ次いでがしりと手を握られた。
戸惑う俺をよそに、鳳さんは失礼な事を言いながらさっさと霧島さんの後を追いかけてデスクに向かった。
若干のイラつきを覚えたが、まだバイトは初日である。しかも、本格的に始まってすらいない。俺はミーティングテーブルに向き直り、目の前に置かれたノートパソコンに目を向けた。画面には相変わらず色とりどりの写真が表示されている。
「ハルちゃん今日は警察のお世話にならずに来れたね」
「そんなに俺の見た目って怪しい?こんなに普通の見た目した善良な市民なのに、おかしい!」
「おかしいねーこんなにかっこいいのにねー」
「ねー!」
女子高生のような会話を繰り広げる金剛さんと鳳さんの話の内容からするに、鳳さんは良く職務質問をされるらしい。怪しいかと聞かれれば、ノーとは言えないかもしれない。何より、俺の中での第一印象はかなり悪い。
金剛さんとはまた違った賑やかさを纏う鳳さんは、霧吹きを手に持ち、部屋にある観葉植物一つ一つに声をかけながら水をやっている。植物に話しかけるとよく育つ。とは聞いたことがあるが、本当に実践している人がいるのかと思い、水やりの終わった観葉植物を見ると、水滴が朝日に反射してキラキラとしていた。
鳳さんは水やりが終わると、霧島さんの隣のデスクに腰掛けデスクトップパソコンを起動した。
「八重ちゃん、今日の商用は服だっけ?モデルの子は女の子?」
「
「よっし!じゃぁ、俺商用」
椅子に座ったのも束の間、がたんと大きな音を立て椅子から立ち上がり、鳳さんは軽やかなステップで事務所を出て行く。向かいの応接室の扉が開く音がし静かになった事務所にはFMから流れる音楽だけが聞こえている。鳳さんの起動したデスクトップパソコンはパスワード入力画面のままになっていた。
「毎回思うんですけど、ハルちゃんって台風みたいですよね」
「八重ちゃんも変わらんけんね」
予想外の返答に驚いた表情をしている金剛さんを無視して、霧島さんは一枚の紙を俺に差し出してきた。
そこには今日の商用のモデルである旭美希のプロフィールと撮影の依頼をした企業のことが書かれていた。
レディース服のブランドのようで、ピンクや水色などのパステルカラーの洋服や、ふんわりとしたスカートなどの可愛い系の洋服が並んでおり、10代から20代前半の女性が好きな服だな。と思いながら、モデルの旭美希さんの顔写真に目を向けた。プロフィールには20代後半と書かれており、可愛い系というよりは綺麗系な顔の彼女を俺はメディアでは見たことがない。駆け出しのモデルなのかなとも思ったが、駆け出しにしては年齢に違和感を感じた。
今回の洋服も綺麗目な顔をした彼女には余り似合わない気がした。
「美希さん…この前の御夫婦のお嫁さんも美希さんでしたよね」
「確かに」
「同じ名前の人って結構いるんですね」
「その美希ちゃんこそが真の美希ちゃんだと?」
俺の後ろから突然声がし、振り返ると黒いつなぎ服に着替えた鳳さんが腕を組んで立っていた。上に着ている白地の柄シャツも丸メガネもそのままで、つなぎ服は金剛さんと同じように袖を腰のあたりで結んでいる。
「今回は榛名の考えが当たっとるかもしれんね」
「きーやん、もっと褒めて良いんだぜ」
「遠慮しておきます」
話がわからず、一人おいてけぼりになっている俺を構う人はおらず金剛さんのデスクに置かれたスマートフォンが鳴り響き、内容の分からない会話は終了した。
鳴り響くスマートフォンの通話ボタンをタップし、金剛さんは電話の対応をしている。その横で霧島さんは鳳さんに向かって口パクで「行け」と合図を送り、その合図に鳳さんは駆け出し、玄関へと向かった。
鳳さんが動いたということは商用の撮影の方だろうか。
「じゃあ、比叡くん。お仕事開始ね」
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