第4話
夏休みの最終日に、ヒカルから電話がきた。
「トモ……悪いけど、うちにきてくれないか……」
弱々しく沈んだ声で、俺はヒカルになにが起こったのかを悟った。ヒカルの恋は、ひと夏で終わった。
「すぐ行く」
俺は自分の部屋から飛び出して、階段を駆け下りた。居間に妹がいたので、ヒカルの家に行ってくると言って家を出た。ヒカルの家は目と鼻の先だが、俺は走った。ヒカルの家に、お邪魔しますと言って上がり、二階のヒカルの部屋まで駆け上がった。
ヒカルの部屋のドアを開けると、ヒカルが部屋の隅で体育座りをしていた。俺は、その正面にあぐらをかいて座った。
「なにがあった?」
ヒカルはしばらく無言だった。
「……今日、初めて桔梗とキスしたんだ……」
カップルの通過地点の一つだ。俺がヒカルに先んじていたとは思わなかったが。もちろんヒカルの話がこれだけのはずがない。
「……気持ち悪いって……」
ヒカルは、膝の間に顔をうずめた。俺は眉をひそめた。気持ち悪い?
「……気持ち悪いって、言われたんだ……女の子同士でするキスは気持ち悪いって……」
俺は唖然とした。
「そんなことは、最初からわかっていただろう。ヒカルの体が女だってことは、うちの学校の誰でも知ってる」
ヒカルは、高一の一学期までは女子のスカートの制服を着ていた。
そして、夏休み明けの二学期の始業式にいきなり学生服姿で登校してきた。大騒ぎになった。学校側には事前に相談していたので大きな混乱はなかったが、今の担任のようにヒカルのことが理解できない教師もいる。
ヒカルは、心が男で体が女だ。性同一性障害と言う。
俺もヒカルに教えてもらってから本を買って読んでみたが、うまく理解できたとは言えない。俺にわかるのは、ヒカルが自分を男だと認識し、男として扱ってもらいたいと望み、男として生きていきたいと願っていることだけだ。
ただ、いきなり学校で性同一性障害だとカミングアウトするのは、かなりリスクが高いことはわかった。普通は、学校や地域住民の目に触れないところで、男装したりするところから始める。これを一年くらい続けて、医者は性同一性障害であるとか他の病気であるとかを判断する。
しかしヒカルは、それを夏休みの一ヶ月強に短縮してしまった。詳しくは聞いていないが、中学三年間のスカートの制服と体育の授業、特に水泳でひどい精神的苦痛を負ったと言っていたから、そう言うのが勘案されたのかもしれない。
もっとも、性別適合手術の許可は下りていない。未成年だし、当然だった。
ヒカルが隣県の性的問題に詳しい病院に何度も通ったのは、診断書をもらうためだった。校則では男子の制服はこれ、女子の制服はこれと規定されているから、医者の診断がなければ校則違反になる。これをクリアするために、ヒカルは夏休みの間中、がんばった。もちろんおじさんもだ。
俺はおじさんのことを昔からすごい人だと思っていたが、このことでよりいっそう尊敬の念を強くした。
奥さんと別れ、一人娘は自分を男だと言う。どれほどの心労があっただろう。本にも、性同一性障害などは、肉親の理解を得られるのが極めて難しいと書いてあった。
だが、おじさんはヒカルに、おまえは女なんだ、などと怒鳴ったりは一度もしなかったそうだ。仕事はものすごく忙しいのに、平日に何度もヒカルと病院に行った。
あとでヒカルは、俺はあの人が親父で本当によかったと泣いたことがある。俺はその時、生まれて初めてヒカルの涙を見た。
俺はと言うと、最初はもちろんものすごく驚いた。だが数日すると、ああ、これがヒカルのあるべき姿なんだなと納得した。いや、俺はそのことを昔から知っていた。
ヒカルは子供の頃から男の子と遊ぶことを好んだ。男子と一緒にスポーツをした。少年漫画を読んだ。テレビゲームをした。そして、一人称は一貫して俺だった。
だが、やっぱりリスクは発生した。学校の人間の多くは、ヒカルを恐れて遠ざかった。教師も同じだった。
彼らはなぜヒカルが男装をするのか理解できない。理解できないものは怖い。だから離れる。
一方で、熱狂的なヒカルの崇拝者が現れた。元々ヒカルはかなりの美貌の持ち主で、学生服を着たくらいでそれが目減りすることはなかった。
けっこうな数の女子がヒカルに恋い焦がれた。ヒカルの性的嗜好からすれば、恋愛対象は女だから、それでいい。
だが、相変わらずヒカルに夢中になる男子もあとを絶たなかった。どうも、ヒカルの美貌が男装をしていると言うことに、なにか背徳的な美しさを見出すらしい。こっちの方は、まあ迷惑極まりないと言うところだ。
「トモ」
俺がなんて声をかけたらいいだろうと考えていたら、ヒカルが言った。
「ああ」
「……男とするキスって、どんな感じなのかな」
「俺が知るわけがない」
「……俺は、それを知りたい」
「なんで?」
「それを知ってたら、桔梗に気持ち悪がられずにいれたかもしれない」
俺は一瞬考えたが、考えたこと自体が馬鹿らしかった。
「なにを言ってるんだ? ヒカルがそれを知っていたとしても、ヒカルの唇が男になるわけじゃない」
「わかってる」
「ああ」
俺がまた言葉を探していたら、いきなりヒカルが俺に飛びかかってきた。不意を突かれて俺は床に組み伏せられた。
「なんだ、おい」
「……トモ。キスさせてくれ」
「なんだと? おい、ふざけるな」
だがヒカルは、俺の肩をつかんで顔を近づけてくる。俺もヒカルの肩をつかんで押し返すが、力で負けていた。まずい、インナーマッスルの差か?
「冗談はやめろ!」
ヒカルの顔がどんどん近づいてくる。
俺はヒカルの目を見つめた。その瞳に浮かぶ、深い絶望と苦悩を見た。
俺は、ヒカルの肩から手を外した。一瞬あとにはヒカルにキスされているかもしれないが、今のヒカルを拒絶することは俺にはできなかった。
「……いいのか?」
ヒカルも動きを止めていた。
「ヒカルが本当にそうしたいなら。だが、言いたいことがある」
「……うん」
「俺は、ヒカルが悲しい時も苦しい時もつらい時も、どんなことでもどんなことをしてでも、ヒカルを助ける。その方法の中に、キスを含めたっていい。だが、今のこれは違う。逃避にさえなっていない。ヒカルが自分を傷つけようとしているだけだ。今キスをしても、ヒカルを助けることにはならない」
ヒカルが、強く強く俺を睨んだ。そして涙をこぼした。俺の顔に、熱いしずくが落ちてきた。
ヒカルは俺の胸に顔をうずめて、泣いた。ヒカルの涙を見るのはこれで二度目だなと思った。
しばらく泣き続けてからヒカルは体を起こし、涙を袖で拭った。そして、俺から離れた。
「……くそっ。泣いて失恋を忘れようなんて、どんだけ女々しいんだよ」
「それも悪くない。こう言うことには儀式が必要……らしい」
俺の仕事場でも、女と別れたと言って酒を飲みまくる客がくる。
「トモも里衣奈ちゃんに振られたら泣くのか?」
「泣くかもな。あんまり想像したくないが」
「よし、その時は俺が慰めてやろう」
「ああ、頼む」
ヒカルがやっと笑った。俺はそれがすごく嬉しくて、笑った。
ヒカルの家から帰ってしばらくしたあと、里衣奈から電話がきた。
「はい」
『……智……』
里衣奈の声は、はっきりと涙に濡れていた。
「里衣奈、どうした? 大丈夫か?」
『智……ごめんなさい……』
俺に謝るようなことがなにかあったか?
『あたし……知らなくて……』
「なにがあったんだ?」
『さっき、真子から電話がきて……』
真子?
「うちのクラスの五代さんか?」
『うん……真子は、桔梗と一年の時も同じクラスだったんだけど……』
それがどうしたんだ?
『あのね……桔梗には、男の子をコレクションする趣味があるんだって……』
「なんだって?」
俺は思わず聞き返した。全然意味がわからない。
『あの……周りが羨ましがるような、見栄えのいい男の子とばかり付き合うの……でもそれ以外のことは全然考えてないから、すぐ別れちゃうんだけど……桔梗はそんなこと気にしなくて、また別の男の子と付き合うの』
「……」
腸が煮えくり返ってきた。
『それで……今学校で一番注目されてて、一番かっこいいのは、光くんだから……』
俺は怒りのあまり視界が朱に染まった。いま目の前に杜下がいたら、殴り殺していたかもしれない。
「つまり、リングやピアスみたいなアクセサリーと同じように、きれいなヒカルをコレクションしていたわけか。それで、性同一性障害もなにも知ったことじゃないから、ヒカルとキスして気持ち悪いと言って別れた。なるほどな。ああ、キスの話もしていたのか?」
乾いた声が出た。もちろん里衣奈はなにも悪くない。だが、そうでもしないと俺の殺意は本物になりそうだった。
『そう……だから、光くんとの別れ話の内容が全部……ごめんなさい……』
「謝るな。里衣奈はなにも悪くない。泣かないでくれ。頼む」
なぜヒカルが苦悩の果てに泣かなくてはいけない。なぜ里衣奈が泣きながら謝らなくてはいけない。そんなことをしなければならない理由はなにもない。
ただ、俺はこの話をヒカルに伝えるべきかどうか、真剣に悩んだ。
『うん……智、ありがとう……でもね、真子の話だと、桔梗は他の子にも話しているだろうって』
「ああ」
俺にはなぜこんな馬鹿げた話を杜下がそこら中で喋っているかの理由がわかった。いや、理由などないと言うことを、俺は知っていた。
悪意と言うものは、たいていの場合放つ側はそれを悪意とは思わない。受けた側がどれだけ傷つくのかなど想像できない。なぜなら連中には、そもそも悪意がないからだ。存在しない悪意に罪悪感を感じるはずがない。
俺とヒカルは、中学一、二年の間にそれを嫌というほど味わった。
「そうすると、明日他の誰かから聞くよりは、今日教えてやった方がいいな」
『あたしもそう思う……智、光くんのことを助けてあげて』
「ああ。これから行ってくる。里衣奈」
『なに?』
「ありがとう。また電話する」
『……うん』
電話が切れた。すぐにヒカルに電話する。
『うす』
「ヒカル。悪いが話さないといけないことがある。これからそっちに行っていいか?」
『いいよ』
ヒカルは軽く言った。今の話を聞いて、平静でいられるといいが。
「……はあー。アクセサリーねえ。とんだコレクターだな」
ヒカルの声も、さっきの俺と同じく乾いていた。
「大した悪女だったわけだな、桔梗……杜下は。俺たち三人とも、手玉に取られていたってことか」
「そうなるな」
しかし、そんなに杜下がもてるものかなと俺は思った。確かに顔は多少可愛いが。まあ、俺たちくらいの歳だと、告白されたらすぐに付き合ってしまうものかもしれない。
「ふーん……まったく貴重な人生経験だったな。それで、今の話は里衣奈ちゃんが教えてくれたって?」
「ああ。五代さん経由で」
「……里衣奈ちゃん、泣いてなかったか?」
「……ああ」
俺はうなずいた。
「ごめん。俺の問題で」
「謝るな。ヒカルも里衣奈も、なにも悪くないんだから」
「そうだな……」
ヒカルはしばらく黙っていた。それから、にやっと笑って俺を見た。
「トモ。俺今、杜下との付き合いでのよかった探しをしてたんだけど」
「よかった探し?」
「うん。そうしたら、とびきりのが一つあった」
「なんだ?」
「里衣奈ちゃんとトモが付き合うようになったことだよ」
「……」
「杜下と付き合わなかったら、トモと里衣奈ちゃんは出会わなかったかもしれない。それだけは、よかったと思う」
「……そうだな」
こんなことを言えるなら、ヒカルはもう大丈夫だろう。
「じゃあ、俺は仕事に行ってくる」
「うん」
俺は仕事場に向かって歩きながら里衣奈に電話した。
「里衣奈、今大丈夫か?」
『大丈夫。光くんどうだった?』
「大丈夫そうだった。ありがとう。それに、杜下と付き合うことで、俺と里衣奈が付き合うようになったのはよかったと言っていた」
『……光くん、すごいね』
「ああ。じゃあ、また明日」
『うん、また明日』
翌朝、ヒカルと二人で登校したら、俺たちの教室から大声が聞こえてきた。俺たちは急いで教室に入った。
大声で怒鳴り合っているのは、里衣奈と杜下だった。その周りを他の生徒が囲んで見ている。
「桔梗、どうして光くんにあんなこと言ったの!」
「あたしの勝手でしょ! 気持ち悪いものは気持ち悪いの!」
「桔梗!」
誰も止めようとしないので、同級生の輪をかき分けて、俺が里衣奈の肩に手を置いた。
「智……」
俺を振り仰いだ里衣奈は、泣きそうだった。
ヒカルも杜下の肩に手を置いた。
「触らないでよ、気持ち悪い!」
邪険に手を振り払われて、ヒカルは傷ついた表情をした。俺はゆうべの殺意が蘇りかけた。
俺とヒカルは、俺たちに危害を加えようとするなら、たとえ雌羊でも容赦はしない。だが、今回はそれには当たらないだろう。俺はなんとか気持ちを落ち着かせた。
「いいわよね、里衣奈はちゃっかり杉原くんをゲットしちゃって。あーあ、あたしも最初から杉原くん狙いにしておけばよかった!」
俺だとコレクションにはならないと思うが。
「ゲットとか言わないで!」
里衣奈が急に俺に抱きついて泣き始めた。俺は左手で里衣奈の背中を抱きしめて、右手で頭をなでた。俺たちが付き合っているのを知っているのはヒカルと杜下だけだから、他の同級生たちはぽかんとしていた。
「……ふん。ねえ、杉原くん。前から気になってたんだけど」
杜下に呼ばれて、俺は彼女の方を見た。里衣奈をなでる手は止めなかった。
「ひょっとして杉原くん、前から加賀谷くんのこと好きだったんじゃないの? 里衣奈よりも。ねえ、どうなの? 海で見たけど、すっごくやらしい体してるよね、加賀谷くん。あ、それともホモなの?」
こんなひどい顔をした女の子だったかな、と俺は不思議に思った。そこそこ可愛かったと思ったが。里衣奈よりヒカルの方が好きなんじゃないかと言われても、里衣奈はなにも反応しなかった。
「とりあえず、ホモって言うのは差別用語だな。ゲイと言うのが正しい。それから俺はヒカルが好きだ。あたりまえだろう。子供の頃からの、俺にはたった一人の友達なんだ。スタイルが杜下よりいいのも、もちろん知っていた。小中学校の水泳で散々見たんだ。他になにか質問はあるか?」
杜下は二の句が継げなくなっていた。
「ないのか? じゃあ、俺からも言っておこう。杜下は、ちゃんとした友達を作らないと駄目だ。いいことはいい、悪いことは悪いと言い合える友達だ。そしてそれを素直に受け止められる友達だ。まあ親の役目かもしれないが、この歳だと友達の方がいいだろう。ただ、里衣奈は無理そうだから、他を当たってくれ」
教室が静まり返った。里衣奈も泣きやんでいた。俺から体を離して、涙を拭った。
「……ごめんね」
「いいんだ」
いつの間にか、ヒカルも俺たちの近くにきていた。
「……な、なによ偉そうに! 自分たちは中学の時ひどかったくせに! みんなに言いふらしてやるから!」
杜下が真っ赤になって怒っていた。違う中学のはずだが、コレクションの中に俺たちと同中のやつがいたんだろう。
「好きにすればいい。別に秘密にしているわけでもない。中学の内申は確かにひどかったが、その話が蒸し返されたところで高校の成績にまで響くとは思えないな。ただの武勇伝として広まるだけじゃないか?」
この学校の不良連中に知られると面倒になるかもしれないが、同中でそのグループに入っているやつがいるのを思い出した。たぶんなにも起こらないだろう。
杜下は体を震わせると、教室を飛び出していった。もうすぐホームルームなんだが。
「……言いふらすだって」
女子たちがくすくす笑っていた。
「スタイルって、それは負けるよねえ?」
今度はけっこう大きな笑い声が上がった。女子怖い。いや俺が言ったことだが。
俺とヒカルは自分の席に座った。里衣奈もきた。同級生たちは、まだ杜下のことで盛り上がっていた。
「……俺、言いすぎたか?」
悪い意味で目立ちすぎて、杜下がいじめられたりしないといいんだが。杜下は、やっぱり羊だった。狼の皮をかぶったつもりの。
「んーん? そんなことないと思うよ?」
「喧嘩売ってきたのは杜下の方だしなあ」
ヒカルがさっぱりした顔で言った。
「でも、一つだけ不満かな」
里衣奈が首を傾げて言った。
「なにが?」
「光くんのことを友達として好きって言ったあと、あたしのことを恋人として好きって言ってくれなかったこと」
「えっ?」
俺はさっきの会話を思い出そうとした。
「……いや、それを宣言するような話の流れだったか?」
「んー、ちょっと難しかったかもね」
なんなんだ。
「……まあ、同級生全員が見てる前で抱きしめたから、もう公認になってる気はするが」
「ああうん。あれ最高。智に抱きしめられるのも頭なでられるのも、あたし大好き」
「それはよかった」
俺は棒読みで言った。ヒカルが笑った。
翌日から、俺は里衣奈と一緒に下校できないことに気がついた。里衣奈はバレーボールの部活動があって、俺はその時間に家で勉強してから仕事に行く。
「悪い」
「いいよ。休みの日はデートしてくれる?」
「もちろん。ちゃんと俺から連絡する」
里衣奈が笑った。
結局今までどおりヒカルと下校することになった。
「里衣奈ちゃんと一緒じゃなくて寂しいか?」
ヒカルが笑いながら俺の顔を仰ぎ見て言った。
「いや。同じクラスだし、土日には会える」
「メールは?」
「ああ……」
俺はうめいた。
俺はメールが絶望的なまでに苦手だ。自分で読み返してさえ、なんとかならないかと思うほど素っ気ない。努力しようとしてみると、今度は意味のわからない文章になる。
「トモは面倒くさくなって、すぐ電話するからな」
ヒカルが笑った。
「悪い……だが里衣奈が部活中の時もあるから、慣れないとな」
「……俺が練習相手になってやろうか?」
「え?」
「だ、だからメールのやり取りの練習に」
「なにを書けばいいんだ?」
「そ、そんなのなんでもいいんだよ。練習なんだから」
俺は少し考えた。
「なるほど」
「や、やってみるか?」
「ああ。頼む。悪いな」
「い、いいよ」
俺はヒカルとメールのやり取りをするようになったが、結局里衣奈とはあまりしなかった。
いつもどおりヒカルと二人で下校する時に、玄関でヒカルがまた小さな声を上げた。
「……あっ」
杜下の時のことを思い出して、俺は迂闊に近寄らなかった。
最下段の下駄箱で靴を履き替えてから立ち上がると、ヒカルが無言で青い封筒を差し出してきた。俺はその封筒を受け取り、差出人の名前を見た。
3―D、
俺の知らない生徒だが、とにかくどこをどう読んでも男だ。まあ特に珍しいわけでもないが。
「一〇〇%ないんだから、捨てて無視したらどうだ」
「でもそれだと、変なタイミングで絡まれるかもしれないしな……」
「ああ、それはあるな。じゃあ、読んでみろ」
「うん……」
ヒカルは嫌々封筒を開けて中の便箋に視線を落とした。恋文本文はすっ飛ばして、手紙の末尾で視線が止まる。
「……今日の放課後に……」
「今日? 今か? そんなもの、最低でも朝には読まれるようにしておくものだろう」
人の都合というものを考えないのか。杜下でさえそうしていた。
「校舎裏で……」
耳を疑いたくなるようなひどさだった。
校舎裏は、うちの学校の不良連中がたむろして、喧嘩したりリンチしたりカツアゲしたりしている場所だった。告白のようなロマンチックなことをするような場所では絶対にない。
「……どうしよう……」
俺はため息をついた。
「……よし、ヒカルは体育館裏に行ってろ。俺が西条とか言うのを連れていくから」
「トモは大丈夫か?」
「一応告白したいってことだから、ついてくるだろう」
「わかった」
俺たちは別方向に歩き出した。
校舎裏に踏み込むと、目を覆いたくなった。おそらく西条だろうと思われるやつの他に、四人がいた。なにをどう考えたら、ヒカルに告白するのに五人の男が必要なのか、まったくわからなかった。
中二の終わり頃の再現だった。ヒカルは自分を憎んでいるはずの相手からのラブレターに書かれたとおりの場所に行き、三人組の男子に待ち伏せされた。
当時のヒカルと俺は、告白の場面がリンチ会場になるとは想像もしておらず、油断していた。
幸いその時は、俺が騒ぎを聞きつけて乱入し、事なきを得たが。それ以来、俺はヒカルの告白現場に必ず付き添ってきた。今回はそれが功を奏したことになる。
なんだこいつみたいな目で睨まれたが、俺は気にしなかった。
「西条先輩はいますか?」
一応俺は下手に出た。
「誰だてめえ?」
名乗らないので、今声を上げたのが西条なのかどうかはっきりしない。
「加賀谷と同じクラスの杉原です。ああ、加賀谷はここにはきません。俺が加賀谷のところまで案内します」
「は? てめえなんざお呼びじゃねえ、加賀谷連れてこい!」
「でも、いくら待ってもここには加賀谷はきませんが」
「……どこだ?」
「俺についてきてください。西条先輩一人だけです。ああ、付添いにもう一人ならいいです」
「なめてんのかこらあ!!」
俺はもう心底うんざりした。堪忍袋の緒はとっくに切れていた。内申も停学も退学も、頭から吹き飛んだ。こんな屑ども、ヒカルに見せたくもない。
もう一度五人を見回す。まあ二度見したところでこいつらが羊なのは変わらない。信義を持たない人間など、たとえ百人群れようが俺たちに勝てはしない。
俺一人でも問題なく始末をつけられるだろうが、勝手に始めるとヒカルにあとから怒られるので電話した。馬鹿どもはなにしてるんだこいつと言う目で俺を見ていた。ワンコールでヒカルは出た。
『問題か?』
「五人だ。片付ける」
阿呆どもが色めき立った。
『ちょっと待っ』
俺は電話を切ってスマートフォンをポケットに戻した。
「……おいてめえ、今なんて言った?」
「記憶力の悪いあんたらのために、二度も言う気にはならないな」
一人が奇声を上げて俺に飛びかかってきた。いきなり顔面狙い。よけられたが、まあ一応アリバイを作っておこう。
左頬に拳を食らう。駄目だ、痣にもならない。
残りの四人が殺到してきた。ガードするふりをしながら殴られる。適当なところで倒れた。五人に囲まれて蹴りまくられる。頭部にいいのをもらうと脳震盪を起こしかねないので、そこだけは守った。
そろそろ十分かと思ったら、意外な声が聞こえてきた。
「杉原、なにしてるの?」
五人全員が声の主を見た。俺も最強空手男を見た。
「鈴本。いいんだ。俺の問題だ」
「いやいや、なんだか楽しそうだから俺も混ぜてもらいたいなあ」
鈴本はいつもの温厚な声で、にこにこ笑いながら近づいてきた。目だけが、本気だった。組手の時のだ。
鳥頭どもは、俺のことはすっかり忘れて鈴本の方を見ていた。俺は素早く立ち上がり、正面で俺に背中を向けていたやつの右脇腹に、右拳を叩き込んだ。レバーブローだ。そいつはぶっ倒れて悶絶した。
おまけにこいつには全然脇腹の筋肉がない。腹筋もそうだろう。防御力ゼロだ。他の連中も同じだろう。
「あれ、あんまりなまってない?」
鈴本が嬉しそうに笑った。
「なまってるよ」
「一撃必倒とか、伝説だよね」
「こいつら相手じゃな」
今度は残りの四人が俺を見た。本物の馬鹿だな。
近づいてきた鈴本が、とんでもない大技を披露した。片足を高く上げ、背中を向けている相手の頭に叩き落とした。踵落としだ。正面からだったらよけられたかもしれないが、そいつも倒れた。失神しているだろう。
「……首折れてないか?」
「さあ。カルシウムは足りてなさそうだよね」
残りの三人は、俺を相手にするのか鈴本を相手にするのか決められなくなっていた。そんな優柔不断じゃあ、告白もうまくいかないだろう。
視線をさまよわせているやつに、正面から前蹴りを食らわせた。胃に入り、そいつがうずくまりながらまき散らす吐しゃ物をよけた。
「胃壁破っちゃってない?」
「俺はそこまで強くない」
「こらあ、トモ! 俺の喧嘩だぞ!」
校舎裏に飛び込んできたヒカルが、いきなり得意のハイキックを見舞った。地面に頭をぶつけるのより早く、そいつは失神した。残りは一人だ。
「そいつが西条か? そうだといいんだけど」
「たぶん。名乗らなかったからわからないが」
最初に五人を見た時、中心にいたのはこいつだ。まあ、残っていたのはたまたまだ。
「どうも、西条先輩。ところで、俺と付き合ったとして、俺となにをしたかったんですか?」
西条であろうやつは、震え上がった。ヒカルの美貌は、激怒した時、その美しさのためにとてつもなく恐ろしいものになる。
なにも言わない西条に、ヒカルは左ミドルを蹴り込んだ。レバーだ。膝を落としかける西条の顔に、ヒカルが右肘を叩き込んだ。
「ヒカル、肘はまずい」
肘はよく切れる。あまり出血させると面倒だ。
「知るか」
俺は西条に近づいて、地面に突っ伏した頭の髪をつかんで持ち上げた。うめき声が聞こえた。生きてはいる。
「……ああ、切れてない。青痣になるだろうが」
「ちっ」
おい。
「鈴本がトモを助けてくれたのか?」
「面白そうだと思って乱入してみたんだけどね。結局一人だけで物足りないなあ。杉原少し相手してくれない?」
「ネリョチャギなんて大技が決まっただろう。だいたい鈴本とまともにやり合えるわけがない。俺はまだ死にたくない」
俺たち三人が通っていた空手道場は、一応伝統派とされているが、フルコンタクト系と比べても遜色はなく、門下生は恐ろしく強い。鈴本は、そこで十年以上も稽古をしている。
「あ、杉原怪我してるね」
俺は頬をなでた。
「先にボコられたって形にしたかっただけだ。痛くもなんともない」
「ああでも、傷口に砂が入ってるね。落としていった方がいいよ。真綾ー」
鈴本が彼女の名前を呼んだので驚いた。
「坂上さんがいるのか?」
「いるよ。いつも一緒に帰るし」
「いや、こいつらに見られるとまずい。こっちにこさせないでくれ」
「見れる状態じゃないみたいだけど」
「全員が失神してるわけじゃない。ここから離れよう」
「わかった。真綾、そこで待ってて」
「うん、わかった」
坂上さんの、独特の柔らかな声が聞こえた。俺たちは、馬鹿五人を尻目に校舎裏をあとにした。
「健ちゃん大丈夫だった?」
まったく心配した様子もなく、坂上さんが言った。
「平気。でも、杉原がやられちゃって。真綾タオルあるよね?」
「うん。あ、杉原くん、怪我してますよ」
気遣わしげに言いながら、坂上さんが真っ白できれいなタオルを取り出した。坂上さんは鈴本以外の誰にでも敬語を使う。
「いや、平気だ。そんなきれいなタオルは使えない」
俺はあわてて言った。
「駄目です。それに、制服も汚れちゃってますよ」
「トモ、砂埃まみれだな」
「転がってるところを蹴られたからな」
「無茶しやがる」
打たれ強さなら、この二人に勝てるかもしれない。いや、やっぱり無理だな。二人とも的確に急所を突いてくる。
ヒカルがばんばん背中を叩いてきた。俺も体の前の砂埃を叩く。
「落ちないな」
「まずい。お袋に喧嘩したことがばれると怒られる」
俺とヒカルは、一応中三で更生したことになっている。
「あの、それならタオルを濡らして傷を拭いたあと、そのまま汚れを落としてください」
「いや、それは」
「なんなら杉原が新しいの買って返してよ」
鈴本が笑って言った。
「ああ……じゃあ坂上さん、使わせてもらう」
坂上さんがにっこり微笑んだ。里衣奈に新しいのを見繕ってもらおう。
「水道のところに行きましょう」
俺たちは歩き始めた。
「あいつら学校にチクるかな?」
ヒカルが首を傾げた。
「まず大丈夫だろう。くだらない面子とかあるんじゃないか。それに、ああ……一応女の体のヒカルと、人畜無害に見える鈴本にのされたとあっては、恥ずかしくて言えないだろう」
「人畜無害ってなに?」
鈴本と坂上さんが笑っていた。
「トモはどうなる?」
おそらく外見上は、俺が一番喧嘩をしそうに見える。ヤクザ顔だからだ。
「そのために蹴らせてやったんだ。制服の下は痣だらけだろう。言い訳は立つと思う」
「同じ大学に行くんだからな?」
「ああ。先走って悪かった」
「え、二人とも大学まで一緒なの?」
鈴本が驚いて声を上げた。
「いや、俺たちは実家から通えればいいんだが。お袋と妹を残してはいけない」
「俺の親父もな」
「でもそれだと選択肢は一つしかないよね?」
「まあ……」
俺たちの住んでいる県には、国立大学が一つあるだけだ。なかなかの難関ではある。
水道でタオルを濡らしてまず頬の傷を拭こうとしたら、
「杉原くん、その傷自分だと見えないですよね?」
と言って坂上さんがタオルを取ろうとしたので、あわてて首を振った。
「いや、いい。ヒカル頼む」
鈴本の目が怖い。
制服は俺とヒカルで拭いた。
「ありがとう、これなら大丈夫だ」
「トモ、頬の傷は隠せないぞ。お母さんになんて言うんだ?」
「校庭で転んだって言うさ。事実だからな」
みんなで笑った。
翌日、頬にでかい絆創膏を貼った俺を見つけた里衣奈が飛んできた。
里衣奈を廊下に連れ出して、坂上さんに返すタオルを見繕ってほしいと頼み、経緯を説明したらめちゃくちゃ怒られた。
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