第3話
夏休みに入ってヒカルから電話がきた。
『海行こうぜ!』
電話に出るなりヒカルのハイテンションな声が聞こえた。
「行かない」
俺は即答して電話を切ろうとしたが、ヒカルの悲鳴のような声が聞こえて思いとどまった。
『なっ、なっ、なんでだよ!』
「なんでって、別に俺と二人で行くわけじゃないだろう? 桔梗ちゃんとのデートだろう? それで、里衣奈もくるからとか言う話だろう?」
『あっ、う、うん……』
あまりにも予想どおりすぎて頭が痛くなってきた。
「ヒカル。桔梗ちゃんとの初デートの時に、間が持たないかもしれないって言って俺と里衣奈を引っ張り出したよな? それで結局、ヒカルたちは速攻で二人だけの世界を作っちゃって、俺たちとはほとんど話をしなかったよな? それで、もう何回も二人だけでデートしてるよな? 今さら俺と里衣奈が行く必要なんかないよな?」
俺は畳み掛けたが、ヒカルは引き下がらなかった。
『あっ、いやっ、男手が足りなくなるかもしれないし!』
海水浴場でなにをするつもりなんだ。馬鹿でかいバーベキューコンロでも持っていくのか? だがまあ、ヒカルの言いたいこともわからないではない。
「……わかった。いつだ?」
『明後日!』
またヒカルがハイテンションになっていた。
「何時出発だ?」
『俺が朝トモの家に迎えにいく!』
だから何時だと聞いているのに。俺はため息をついた。
「……わかった。準備して待ってるから」
『サンキュ! じゃあ明後日な!』
ハイテンションなまま電話が切れた。
しばらくしたら、またスマートフォンが鳴った。またヒカルかと思ったら、里衣奈だった。
「はい」
『あっ、智くん? 今いい?』
「ああ」
『明後日のこと聞いた?』
「海だろう。やっぱり里衣奈もか」
『なに、あたしがいたら嫌なの?』
「そんなわけない。あの二人に俺一人で付き添うなんて、拷問だろう」
『そうよね』
里衣奈がくすくす笑った。
『あっ、それでね、明日の予定空いてる?』
「夜の仕事以外はなにもないな」
『じゃあ、水着買いに行くのに付き合ってくれない?』
「え、俺? 桔梗ちゃんと行ったらいいんじゃないか?」
『だって桔梗は光くんと行くって』
「ああ」
俺は考え込んだ。付き合っているわけでもない女の子と水着を買いに行くと言うのはどうなんだろう。そこで俺は気がついた。
『……駄目かなあ?』
「いや。俺は水着を持っていないことにいま気がついた」
『えっ?』
「中学の水泳の授業以来、一度も泳いでなかったから」
『じゃあ、智くんの水着はあたしが選んであげる』
「わかった」
ん? 俺の水着『は』?
『待ち合わせなんだけど、駅に……九時四五分。いい?』
「ああ」
なんだかデートみたいだなと思った。したことはないが。ああ、限りなくデートに近いことはしたんだったか。
『じゃあ、また明日ね。……あっそうだ』
「なに?」
危うく電話を切りかけた。
『あたし、智くんの話し方が好きだって言ったかな?』
「えっ?」
俺は驚いた。話し方?
「……いや、言われてないと思う」
『そっか。じゃあ、そう言うことなの。また明日』
電話は切れた。なんなんだ?
駅に九時半に着いたら、もう里衣奈がきていた。
「おはよう、里衣奈。早いな」
「智くんおはよう。智くんは十五分前か……」
「ああ、なにか人物評価の指標か?」
「うん、ちょっとね。そう言うの、智くんは嫌?」
「嫌もなにも、俺もそう言う判断基準を持ってる。誰にでも必要だろう」
「よかった」
里衣奈の笑顔が素敵すぎて困る。
「ちなみに、最初のダブルデートの時、ヒカルは待ち合わせの一時間以上前にきていたんだが、その場合はどうなんだ?」
「……それは、あたしの物差しを超えちゃってるな……智くんも一緒だったの?」
「ああ。ヒカルが俺の家まで迎えにきて、駅に着いてから待ち合わせ時間を聞いたら、一時間以上先だった」
「……それは、すごく入れ込んでるね」
「ああ。付き合うのが初めてってこともあるだろうな。俺と違って中三の頃からすさまじくもてていたが、誰とも付き合わなかった」
「ふうん……あ、そろそろ電車だ。行こう?」
「ああ」
五駅先で降りて、駅ビルのテナントの中にその店はあった。俺には信じられないことに、どうも水着の専門店らしかった。まあ、寒くなるとスキー・スノーボードウェアを売るのかもしれない。
男性用水着は、売り場面積の一割くらいだった。まあそんなものだろう。と言うか、男物があること自体が不思議だった。
先に俺の水着を選ぶことになった。里衣奈がいくつか見て、
「これはどうかな?」
と言ったのに決めた。俺のサイズのを選び取った。三分かからなかった。
里衣奈はどんどん水着を抱え込んだ。途中で俺がかごがあるのに気がついて、俺が持ったかごの中にまた入れた。
試着室の前で、里衣奈が俺を上目づかいに見た。かごの中には大量の水着があった。
「……いい?」
今さらだった。
「そのつもりできている」
試着の繰り返しに一時間以上かかった。まあ、女物の水着は脱ぎ着がしづらいだろうから、仕方ない。
最終的に二着が残って、里衣奈は決めかねていた。ビキニとワンピースだった。
「智くんはビキニとワンピースとどっちが好き?」
「特に好みはないな」
「……じゃ、じゃあ、どっちがウェストがきれいに見えるか、見てくれる……?」
俺の場合、肉体美の判断基準が格闘技準拠なんだが。
「わかった。もう一度着てみてくれ」
二通りの水着姿を見て、俺は首を傾げた。
「ビキニの方がいい、気がする……」
「じゃあそうする」
里衣奈はにっこり笑った。
「海楽しみ」
帰りの電車の中で里衣奈が言った。
「どっちみち、俺と里衣奈はいらないことになると思うが」
「あたしとデートするって思ったら?」
「それは悪くないな」
里衣奈が微笑んだ。
海だ。何年ぶりだろう。親父が死んでからはきたことがない。
「えらく混んでるから、向こうの奥の方に行ってる」
俺は更衣室ですぐに水着に着替えて、ビーチパラソルを借りて砂浜を歩いた。
適当な場所を見つけて、持ってきたブルーシートを開いた。俺がホームセンターで買ってきた。これなら大した値段じゃないので、ためらいなく捨てられて、帰りの荷物が減る。まあ、色気はないが。
俺はビーチパラソルをブルーシートの真ん中に突き刺して、待った。
「お待たせ!」
桔梗ちゃんの声に、俺は振り向いた。そして唖然とした。
「……ヒカル。なんだそれ」
ヒカルの水着はえらく布面積が小さかった。
「い、いいだろ! 桔梗が一番似合うって言ってくれたんだから!」
ヒカルが赤くなっていた。桔梗ちゃんも変な趣味をしているな。
その桔梗ちゃんは、白いワンピースで、フリルがたくさん付いていた。いくらなんでもロリ趣味すぎないかと思った。
里衣奈のは昨日見たが、淡い緑色の迷彩みたいな柄で、同じ柄のパレオが付いている。
荷物を置くと、ヒカルと桔梗ちゃんは波打ち際に向かって走っていった。
「トモ、荷物番頼む!」
「ああ」
俺は手を上げて答えた。
「里衣奈も泳ぎに行っていいぞ」
「んーん。一人であそこに入るのはね」
里衣奈は俺の隣に座った。
「まあ……だがあの二人、たぶん昼飯にならないと戻ってこないぞ」
そしてそれを買いに行くのは俺の役目だ。
「その方がいいかな。智くんと話せるし」
「なにを?」
「デートっぽいこと」
その時の里衣奈の笑顔があんまり眩しくて、俺は思わず目をすがめた。
「どうしたの、智くん。変な顔になってるよ?」
「ああ……その、里衣奈の笑顔が眩しくて」
「えっ!?」
里衣奈が真っ赤になった。
「そ、それで変な顔になるの!?」
「眩しかったんだ」
俺は繰り返した。
「……ねえ、智くん」
里衣奈の目はなにか濡れているように見えた。涙じゃない。
「はしたないって思うかもしれないけど」
里衣奈は俺に体を寄せてきた。
「あたし、智くんとキスしたい。とっても」
どうも、俺の恥ずかしい思い違いじゃないようだった。
「俺から言わせてもらいたいことがある」
「うん」
「里衣奈。好きだ。付き合ってくれ」
「……はい。喜んで」
里衣奈が目を閉じた。それがキスをしていいと言うことだと気づくのに少し時間がかかった。
俺は里衣奈の肩にそっと手を置いて、キスをした。唇を重ねただけだが、俺には刺激が強すぎた。俺はすぐに離れた。
「……俺は最低だな」
「なにが?」
「女の子にキスがしたいなんて言わせて。これじゃあ保険をかけて告白したようなものだ」
「でも、告白は先にしてくれた」
「俺の主義なんだ。俺から告白するのは。まあ、今まで一度もこう言う場面はなかったが」
「……キス、初めてだった?」
「ああ。そもそも女の子を好きになったのが初めてだ。だから、これが俺の初恋になるな」
「……高校二年で、初恋?」
「恥ずかしながら」
「光栄だな」
里衣奈が笑った。そして、俺の肩に頭を乗せてきた。
「……あたしはファーストキスじゃなくてごめんね」
俺は笑った。
「里衣奈がこれまで誰とも付き合ってなかったとしたら、その方が驚きだな」
「……でも、あたしも……」
里衣奈が赤くなった。
「……なんでもない。ねえ、あの二人にキスしてるところ見られたかな?」
「別にかまわないが、見ていても見えていないだろうな」
里衣奈が笑った。
「あたしも泳いできていい? ちょっと熱を冷ましたいの」
「ああ。俺は荷物番をしている」
里衣奈は波打ち際に駆けていった。
不思議な気持ちだった。あんな可愛い女の子が、俺の恋人だなんて。だが現実だ。俺の唇には、里衣奈とのキスの感触がはっきりと残っている。
しばらく三人が泳いだり遊んだりしているのを遠目で見ていたら、様子がおかしくなった。男二人が近づいてきて、ヒカルが二人をかばうようにしている。俺は立ち上がって全速力で走った。
「ちょっと。俺の連れなんだが、どうかしたか?」
俺は両者の間に割り込んだ。
「なんだ? どけよ」
面倒くさいやつらだな。ナンパならもっとスマートにやってほしい。
里衣奈が桔梗ちゃんを抱くようにして離れた。ヒカルが俺の隣に立った。
「だからさっきから言ってるけど俺たちの連れだ。さっさと消えろ」
ヒカルが言った。
「なんだ、このお――」
いきなりヒカルの右足が高く上がった。この程度の連中なら、いくらでも大技が決まる。
ナンパ野郎その一は、左側頭部に蹴りを食らって失神した。ヒカルの方に倒れかかってきたので、ヒカルが嫌そうに胸を突いて、そいつは仰向けに倒れた。
ナンパ野郎その二は驚愕して目を見開いていた。
「わかったか? これ以上一言でもくだらないことを言うなら、おまえも恥ずかしい目にあう。邪魔だから、そいつを連れて失せろ」
ナンパ野郎その二が口を開こうとした瞬間、再びヒカルの右ハイが炸裂した。どうしようもない馬鹿だな。今度は俺の方に倒れかかってきたので、俺はそいつを前から蹴った。
「ヒカル。二人を連れて戻っていろ」
「わかった。トモ、目障りだからそいつらどこかに捨ててきてくれ」
憤懣やる方ないと言った様子でヒカルが言った。
「はいはい」
まったく、大した男手の活用法だな。俺はナンパ野郎二人の手首をつかんで、波打ち際をずるずる引きずった。他の海水浴客が笑っていた。失神させない方がよかったかもしれないな。ボディー攻撃で。
監視塔から監視員が飛び降りて、走ってきた。
「どうかしましたか?」
「連れがしつこくナンパされたので。気絶しているだけです」
まあ、本当はかなり危ないわけだが。ナンパ野郎を振り向いたら、二人とも水着がずり落ちてフルチンだった。わざとじゃない。それであんなに笑われたのか。
「こちらで預かります」
「こいつらどうなりますか?」
「邪魔にならないところに寝かせて、目が覚めたらまあ逃げ帰るか、もう少し楽しく遊ぶ方法を見つけるかもしれませんね」
「お願いします」
俺は三人のところに戻った。
「光って強いんだね!」
桔梗ちゃんが興奮していた。さっきのいざこざは忘れたようだ。
「そ、そう? ちょっと格闘技やってて……」
ヒカルが照れていた。俺は里衣奈の隣に寝そべった。
「智、疲れた?」
「いや。ヒカルみたいな真似はできないが、スタミナはあるつもりだ」
しばらく横になっていたが、腕時計を見たら十二時近かった。俺は体を起こした。
「昼飯を買ってくる。みんなはなにがいい? 焼きそばとラーメンとカレーライス、それからたこ焼きくらいはどこにでもあるだろう」
「ラーメン!」
桔梗ちゃんが元気よく言った。また持ち運びしにくいものを。
「俺は焼きそば。あと、たこ焼き二つくらい。みんなでつつこう」
「わかった。里衣奈は?」
「あたしも焼きそばかな。でも、あたしも智と一緒に行く」
「いや、ここで待っていてくれていい」
「智はなににするの?」
「カレーかな」
「それ、一人で持ってこれると思う?」
まあ無理だな。
「悪い、頼む」
「じゃあ、智と一緒に行ってくるね」
「あれっ、里衣奈、智くんのこと呼び捨てにしてる?」
「うん」
里衣奈がにっこり笑った。
「さっき俺が告白して、OKしてもらったんだ」
「えっ、トモ、そうなのか!?」
ヒカルが仰天していた。まあ俺だって驚いているが。
「まあ、美女と野獣かと俺も思うが」
「そんなことない。お似合いだよ」
ヒカルがにっこり笑った。
「ヒカルと桔梗ちゃんには負けるな」
海の家に向かって歩いていると、里衣奈が言った。
「……さっきの本気?」
「なにが?」
「桔梗たちに負けるって」
「ああ……まあ、俺の顔だけなら完全に負けてるな」
「茶化さないで」
里衣奈が少し怒っていた。
「冗談だ。傍目ならともかく、相性は俺たちの方がいいんじゃないか」
「どんなところ?」
「水着選びのセンスとか」
里衣奈が吹き出した。
「光くんに選んだのもそうだけど、桔梗のもね……あれは狙ったキャラ作りなのかな……」
「どう見ても小学生にしか見えない」
本人を前にしては言えないが。と言うか、今日ここまでくる服装も、駅員に『こども料金ですよ』と言われた。学生証を見せて値段を上げると言うのを俺は初めて見た。
「他には?」
「少なくとも、俺は里衣奈と話すのにヒカルの付添いはいらない」
里衣奈がまた吹き出した。
「うん、まあ、初デートに智を連れ出すのに、あたしがいるって言われた時はなんのことかと思った」
「今日もな。まあ、里衣奈を口説き落とせたからかまわないが」
「……口説き落としたの?」
「保険があったとは言え、一応そう言う体面は保てたと思うんだが……」
「嘘。意地悪言っちゃった。ごめんね」
里衣奈が俺の腕に絡みついてきた。胸が……。
「でも、智ってもっと自分の顔に自信を持っていいと思うのよね」
「だが、本当に何度も女の子を泣かせてきたんだぞ?」
「なんだ、そんなに大勢コマしてきてたの?」
「なに? いや、そう言う意味じゃない」
俺があわてて言うと、里衣奈が笑った。
「……まあ、里衣奈が恋人になってくれたから、多少は自信を持ってもいいのかもしれないが」
「あたしそんなに面食いじゃないけどね」
「……ああ、やっぱりそうか」
「えっ? あっ、違う! そう言う意味じゃないから!」
里衣奈があわてていた。
昼を食べたあとはみんなでビーチパラソルの下でごろごろしていた。ナンパ野郎とのごたごたのせいでなんとなく盛り上がりに欠け、そろそろ帰ろうかと言うことになった。桔梗ちゃんは、俺と里衣奈のことをしつこく聞きたがったが。
帰りの電車の中で、桔梗ちゃんは疲れたらしく眠ってしまった。最初はヒカルの肩にもたれかかっていたが、やがてヒカルの膝の上に寝転んでしまった。ヒカルが幸せそうにその様子を見ていた。
「仲いいね、あの二人」
「ああ。俺が心配することもなかったな」
それから俺は、今日一度も海に入らなかったことに気がついた。
「もう一回映画デートしない?」
告白して少ししてから、里衣奈から電話がきた。
「ああ……」
俺はスマートフォンを持ったままうなだれた。
「どうかした?」
里衣奈が不思議そうな声で言った。
「いや……初デートも里衣奈に誘わせるとか……どれだけ甲斐性なしなんだ……」
「彼女のわがままに付き合うと思ったら?」
なるほど。
「まあ、それなら少しは気が楽になるな。……えっ、まさか恋愛映画か?」
それだとかなり覚悟しないといけない。
「んーん。怪獣映画」
「怪獣映画?」
里衣奈にしては意外な気がした。
「怪獣映画好きなのか?」
「初めてだけど、これは面白そうだったから」
「そうか。いや、わかった」
「じゃあまた駅に九時四五分で」
「ああ。もう早くきすぎるなよ?」
「うん、わかった」
里衣奈が笑っていた。
映画はなかなか面白かった。怪獣対策をする首相閣僚が最初はあまりにも馬鹿すぎて、この映画はコメディなのかと思ったが、どんどんしっかりしてきて、国民を守るために決死の覚悟で尽力する素晴らしい政治家たちになった。
「面白かったね」
「ああ。正直、思っていたよりずっとよかった」
「もう少し怪獣が暴れてもよかったかも」
「それはあるな」
怪獣がすさまじく迫力があったので、なおさらそう思った。その場合は東京が壊滅しかねなかったが。
「ご飯どうする?」
「戻ることになるが、駅裏のハンバーグ&ステーキハウスに行かないか?」
「それってあの店の百倍美味しいってところ?」
里衣奈が笑った。
「保証する」
「いいけど、あたし食べ切れるかな?」
「肉の量で二種類メニューがあるはずだ。確か、二五〇グラムと一五〇グラム」
「それなら大丈夫かな」
電車に乗って戻った。
「ほんとだ、肉汁がすごい! 熱!」
「気をつけろ」
俺は笑った。俺はライスをおかわりした。
「ねえ、智」
食後に出されたコーラを飲んでいたら、里衣奈が言った。
「ああ」
「……これから、智の部屋に寄らせてもらえない?」
「かまわないが、特に面白いものはないぞ」
ヒカルの部屋にはパソコンとゲーム機がごろごろしているが、それもない。
「……あの、お母さんいる?」
俺は腕時計を見た。
「この時間ならいる思う。夏休みだから妹の圭子は遊びに行っているかもしれないが」
「……じゃあ、智の部屋を見せて」
「ああ」
二人で俺の家に向かった。
「ただいま」
「お邪魔します」
圭子が玄関にすっ飛んできた。
「に、兄ちゃん! 彼女!? 彼女なの!?」
「ああ」
「三咲里衣奈です、よろしくね」
圭子が今度は居間に飛んでいった。
「お母さん! 兄ちゃんに彼女!」
騒々しいやつだな。
「上がって」
「うん」
俺たちは居間の前で足を止めた。
「お袋、俺の恋人の三咲里衣奈」
「三咲里衣奈です、よろしくお願いします」
里衣奈が頭を下げた。
「はい、いらっしゃい。里衣奈ちゃん、智をよろしくね」
お袋が微笑んでいた。
「は、はい!」
里衣奈が赤くなっていた。
「部屋に行くから」
「あ、智、飲みものは?」
「ああ、買い忘れたな。なにかあるか?」
「コーラと、圭子のレモンティー。圭子、お出ししていい?」
「うん! あたしが持っていく!」
「悪い、頼む」
俺たちは二階へ上がった。
俺の部屋に入ると里衣奈は、
「うん、なかなか殺風景ね」
と言った。
「参考書と本くらいだからな」
ポスターやなんかを貼る趣味もない。
「これは?」
「え? ああ、格闘技の試合のDVD。最近はテレビ放送も少ないから」
ドアがノックされて、里衣奈は座卓の前に座った。
「どうぞ」
圭子が入ってきた。わざわざお盆の上にペットボトルを二本とグラスを二つ乗せている。お盆が揺れて危なっかしかった。
「ど、どうぞ」
さっきと違って妙に落ち着きがなかった。
「ありがとう」
俺が途中でお盆を受け取った。
「あ、あの、三咲さん」
「里衣奈でいいよ、佳子ちゃん」
里衣奈が笑った。
「あ、あの、里衣奈さん、兄をよろしくお願いします」
兄?
「うん、こちらこそよろしくね」
圭子は微笑んで出ていった。
「お母さんと圭子ちゃん、美人ね」
「うちは同性で遺伝したみたいだな」
俺の顔は死んだ親父にそっくりだ。
飲みものをグラスに入れて一口飲んで、俺は里衣奈の肩を抱き寄せてキスをした。
「……今日は大胆だね」
「たまにはイニシアチブを取らないとな」
「……ベッドがあるね」
「それはあるな。まあ、いくらなんでもそこまで大胆じゃない」
「……あたしの部屋に連れ込んじゃえばよかったかな」
「ご両親は?」
「共働きなの」
俺は首を傾げた。
「なるほど」
なんて言ったらいいのかよくわからなかった。まあ、キスならいくらでもし放題だった。
「ねえ、智」
夕食中にお袋が言った。
「ああ」
「里衣奈ちゃんて、きれいな子ね」
「ああ。素敵な子だよ。俺にはもったいなさすぎるな」
「そうは思わないけど」
お袋は微笑んだ。
「でも、お母さんは、智は光ちゃんとくっつくってずっと思ってた」
俺は首を傾げた。
「俺は昔から、ヒカルをそんな目で見たことは一度もない」
「わかってるけど」
「里衣奈と付き合うのをやめろって言うのか?」
「そんなこと言わないけど」
お袋も首を傾げた。
「ただ、そう思ってただけ」
「そうか」
俺は食事を再開した。圭子はなにも言わなかった。
里衣奈の部屋に、二人でいた。エアコンの冷気が肌に心地よかった。
「智」
「ああ」
俺は里衣奈の方を向いた。
「怒るかもしれないけど……中学時代になにがあったのか教えて」
「いじめのことか?」
里衣奈が小さくうなずいた。
「ああ。怒りはしない。隠すつもりもなかった。ただ、どっちみち聞いても面白くない話だと思ったんだ」
「……聞かせて」
「わかった。ことの始まりはこうだ。俺の親父はヤクザで、くだらない抗争で刺されて死んだ。お袋は、水商売で男から金を巻き上げている。ヒカルの親父さんは、女房を若い男に寝取られた甲斐性なしだ、と。中学生がよくそんな言い回しを知っていたなと思うが、まあ大人に聞いたんだろう。教師かもしれないな」
「……そんなことを言う先生が、本当に……?」
「実在する。こんなくだらない噂話から、俺とヒカルはいじめの標的になった。いじめの内容は、本当にどこでもよく聞くようなものだった。私物を盗まれる、それを捨てたり墨汁で汚されたりする。机の中や下駄箱に汚物を突っ込まれる。教室の中で足を引っ掛けられる。後ろから肩を小突かれる、蹴られる。いじめの中心メンバーに人目につかないところに引きずられていって、殴る蹴るの暴行を受けた。ただ、カツアゲだけは絶対に許さなかった。お袋が苦労して稼いだ金を、盗られるわけにはいかなかった」
私物を買い換えさせられることも許せなかったから、すべての私物を持ち帰っていた。
「俺とヒカルは耐えた。頭を低くして目立たなくして、いじめが終わるのを待った。だが、いつまでたっても終わらなかった。そもそも耐える必要はなかたったと、今なら思うが、その時は気力が根こそぎ奪われていた」
里衣奈の目からは、さっきから涙があふれ続けいていた。俺はそれを美しいと思った。心強く感じた。安心できた。
「一ヶ月くらいたって、本気で死のうかと考え始めた。だが、その時にヒカルの顔に傷があるのを見つけた。どうしたと問いただしたら、いじめられていることを打ち明けてくれた。俺とほとんど同じだった。俺も、自分がいじめられていることを話した。俺たちの怒りが爆発して、なにもかもが変わった」
「変わった?」
里衣奈が俺の頬に手を添えた。気持ちよかった。
「ああ。俺たちは、自分自身の境遇に怒ることはできなかった。だが、お互いがそんな目にあわせられていると言うのは、絶対に許すことができなかった。それで俺たち二人は肩を並べて、どっちのいじめにも対抗した。つまり……軽蔑されるとは思うが、暴力で」
里衣奈が無言で首を振った。
「なにかいじめ行為があれば、犯人を見つけ出して殴った。なかなか口を割らない時は、クラス全員の胸ぐらをつかんで吐かせた。女子でも容赦しない。俺たちはクラス全員から無視されていて、必要な用事で声をかけても無視された。もう一度言っても返事をしない場合、俺たちはそいつも殴った」
俺は、頬に添えられた里衣奈の手を両手で握った。
「大勢に囲まれて喧嘩になっても、ヒカルと一緒なら絶対に負けなかった。俺たちは職員室に呼ばれて説教をされた。いじめっ子が呼ばれたことは一度もなかった」
「どうしてなの?」
「俺たちの親は学校に呼び出された。いじめを受けていたのはうちの子だと言ったら、校長は言った。そちらの家庭環境に問題があるんじゃないですか、と。お袋は泣いていた」
里衣奈が声を上げて泣いて、俺に抱きついてきた。俺も抱きしめ返した。
「……つまりこれが俺たちの負債なんだ。本当に、ろくでもない話なんだ。誰もなにも救われない。俺たちは何度も繰り返されるいじめをすべて撃退したが、中学生活の丸二年間を棒に振った。そして俺たちは恐れられ、誰も近づいてこなくなった。もちろん教師も。俺たちは、羊の群れに囲まれた、たった二匹の狼だった」
「智……」
懸命に泣き止もうとしながら、里衣奈が言った。
「ああ」
「智は、同情されるのは、嫌い……?」
「好きでも嫌いでもない。相手による」
「あたしなら……?」
「誰よりも嬉しく思う」
里衣奈は俺の頭を抱きしめて、俺の顔をその豊かな胸にうずめさせた。
「智、つらかったね。でもこれからは、きっとあたしが幸せにしてあげる」
「里衣奈がそばにいてくれるなら、永久保証付きだな」
俺は里衣奈の芳しい匂いを胸一杯に吸い込んだ。
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