第2話

 朝、学校の玄関で靴を履き替えていると、

「あっ……」

 ヒカルが小さな声を上げた。俺が最下段の下駄箱に外履きを入れて立ち上がると、ヒカルの手にはピンクの封筒があった。またラブレターか。珍しくもない。

 俺が覗き込もうとしたら、ヒカルが大あわてで手紙を隠そうとした。

「……悪い」

 確かに無神経だった。ただ、ヒカルのこんな反応は見たことがない。

「い、いや……いいんだけど……」

 俺はヒカルの顔が赤くなっているのに気がついた。

 ヒカルが封筒を差し出してきたので、受け取った。差出人の名前を見る。

 二―B、杜下もりした桔梗ききょう

 うちのクラスの女子だ。俺も名前と顔くらいは一致している。漢字が読みにくかったからだが。俺はヒカルに封筒を返した。

 杜下さんはかなり小柄で、なんと言うか……ああ……ロリっぽい感じだ。顔はまあ……可愛らしいと言えるだろう。

「……そうか。ヒカルの好みがああ言うタイプだとは知らなかったな」

「トモっ、馬鹿っ、しーっ! しーっ!」

 ヒカルの顔が真っ赤だった。

「名前は言ってない。それより読むなら場所を変えたほうがいいぞ。玄関だと邪魔になる」

 ヒカルが俺の腕を引っ張って、体育館への通路へ引っ張り込んだ。

「ここで読むのか?」

「きょ、教室だと杜下さんがいるかもしれないだろ!」

 杜下さんは名字で呼ぶのか。アドレスを聞く女子は、だいたい名前で呼ぶのに。

「と、とにかくそこにいてくれ」

「え、俺も読むのか?」

「読むな! いいからそこにいろ!」

 俺は何度もこう言う場面に出くわしていたが、こう言うヒカルの前向きさは初めてで、いつもと勝手が違って困惑した。本気で恋文を読んでいる人間のそばにいると言うのも、落ち着かない。

「え、嘘、マジ……」

 とかつぶやきながら、ヒカルはラブレターを読んでいた。俺一人で先に教室に行きたい。

「今日の放課後に、体育館裏だって……」

 体育館裏は、明るいが体育館の中からは見えず、あまり人もこない。告白の定番スポットだ。まあ、ヒカルの例を考えると、と言うことだ。俺は告白なんかされたことはない。

「ト、トモ、きてくれるよな!?」

「え……」

 一瞬悩んだが、俺は今までほとんどすべてのヒカルが告白される場面に付き合ってきた。もちろん相手に姿は見せない。ただ、これまでのすべてはヒカルが断るのがはっきりしている場合だった。今回のは、どう見ても受ける気でいる。

「……わかった」

 俺は答えた。ヒカルが望んでいるし、昔のようなろくでもない罠である可能性も、一万分の一くらいはあるかもしれない。

「じゃ、じゃあよろしく!」

 ヒカルがいきなりダッシュして、俺は置いてけぼりを食らった。

 放課後までの間、ヒカルは気もそぞろだった。まあ無理もないが。

 昼休みになってもぼーっとしたままだったので、俺は一人で学食に行った。

「た、た、た、頼む」

 放課後、ヒカルは緊張しすぎてなにかおかしくなっていた。背中を押してやらないと前に進まなかった。

 体育館の角で、俺は止まった。

「ここからは自力で行け」

 俺はヒカルの背中を軽く突き飛ばした。ぎくしゃくした動きで、ヒカルは角を曲がっていった。

 一応なにが起こっているのか、俺は聞き耳を立てていなければいけない。断じて覗きではない。

「ほ、本当に俺でいいの?」

「はい、お願いします、加賀谷くん」

「あ、うん、よ、よろしく……」

 話は決まったようだ。断る時より早いなと思ったら、そうはいかなかった。

 二人はその場で話し始めた。俺が想像する、付き合い始めのカップルがする初々しい会話と言うやつを、延々と始めた。

 これはさすがに部外者にはこたえる。早く終われと俺は願った。途中から呼び名が光と桔梗に変わった。

 腕時計を見た。十五分経過。嘘だろう。俺はもう帰っていいんじゃなかと思ったが、なにがあるかもわからないので、二人が体育館裏から出てくるまで待つしかない。

 俺はようやく思い出して、スマートフォンを取り出した。最近電子書籍リーダーをインストールして、本も何冊か買ってあった。それを開いて読み始める。

 新刊の漫画を読んだが、一冊読み終わっても二人の会話は終わっていなかった。残っているのはラノベと学術書で、おそらく学術書の方が集中できて時間が潰せると思った。

 気がついたら、二人が体育館裏から出てきた。その直前には退散するつもりだったが、読書に熱中しすぎた。スマートフォンの時計を見たら、三十分が経過していた。

「え、す、杉原くん……」

 杜下さんの顔が引きつった。この子はまだ俺の顔に慣れていない。

 とりあえずスマートフォンでゲームでもしてたまたまいた風を装おうとしたが、ヒカルがばらした。

「ト、トモには頼んできてもらってたんだ……」

 どうして? と聞かれると説明に困ると思うが。

「じゃ、じゃあ桔梗、駅まで送るよ」

「うん」

「ト、トモも……」

 馬鹿なことを言うな。

「俺は駅には行かない。二人で帰れ」

「そ、そうか?」

「ああ」

 俺はスマートフォンをポケットに戻して、二人の後ろ姿を見送った。二人が見えなくなるまで、そうしていた。

 そして俺の心の奥底にあったなにかは、俺自身がその存在に気づくのより早く、溶けて消えてなくなった。


 部屋で勉強していたら、お袋に呼ばれた。

「智ー、光ちゃんよー」

 俺は立ち上がってドアを開けた。

「入れ」

 珍しいなと思った。いつもはお袋と妹に挨拶して、そのまま階段を上がって俺の部屋のドアをノックする。

 ヒカルが部屋に入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。

「わ、悪いな。時間まだ大丈夫か?」

「仕事までには余裕がある。座れよ」

 俺は勉強机の椅子に座り、ヒカルはベッドに腰かけた。

「どうした?」

「あ、う、うん……」

 ヒカルがもじもじしていた。

「あの、実は今度の日曜日に桔梗と初デートなんだけど……」

 惚気にきたのか?

「トモは、日曜日は時間あるか……?」

「日曜日は仕事が休みだから丸々空いてる」

 今の俺には、勉強くらいしかすることがない。

「じゃ、じゃあ……俺たちのデートにきてくれないか?」

「は?」

 なんだって?

「だ、だから、デートの時に、俺に付き添ってほしい……」

 俺は考えた。その状況の絵面を。熱々のカップルの楽しげな会話を横で聞いている間抜け男。告白の時の再現だ。

「嫌だ」

「そ、そんなこと言わないで助けてくれよ!」

「だいたいなにを助けろって言うんだ」

「ふ、二人っきりだと、間が持たなくなるかもしれないし……」

 俺は呆れた。

「告白の時だって、二人で長々と話をしていただろう」

 そもそも、俺はヒカルよりもはるかに喋るのが下手だ。特に女子相手。

「で、でも、今度はずっと時間が長いし! あ、あと、ちゃんともう一人女の子がくるから!」

「女の子?」

 つまり、世に言うダブルデートみたいなものか? 実在するとは知らなかったが。

「俺の知ってる子か?」

「うちのクラスの里衣奈りいなちゃん」

 誰だ。

「名字で言ってくれ」

三咲みさきさん」

 俺でもすぐに思い出せるほど印象的な女の子だった。

 うちのクラスでは、坂上さんと並び称される二大美人の一人だった。明るく気さくで、男女ともに人気が高い……らしい。まあ、実際には坂上さんも明るくて気さくだが。

「まあ……俺にはなにも文句はないが……俺が行くってことを三咲さんは知ってるのか? ああ……杜下さんも」

 俺のヤクザ顔に慣れていない女の子は、俺が近づくだけで最悪泣く。

「桔梗は大丈夫。里衣奈ちゃんは、桔梗から聞いてもらって、KOだって」

 ノックアウトしてどうする。だが杜下さんは、告白の時に俺を見て顔を引きつらせていたが。

「……わかった。付き合う」

「ありがとうトモ! じゃあ、日曜日にな!」

「待ち合わせはどうなってるんだ?」

「俺が朝トモを迎えにくる!」

 だから、どこに何時なんだ。

「風邪引いたりするなよ! よろしく!」

 ヒカルは部屋を飛び出していった。俺は部屋の電気を消して、階段を下りた。

「光ちゃんどうしたの? ずいぶん慌ただしかったけど」

 お袋に聞かれて答えた。

「日曜日に、ヒカルの初デートに付き添えって」

「えっ、光ちゃんに恋人ができたの!?」

 妹の圭子が目を丸くしていた。

「ああ。つい最近だが」

「どんな子?」

 お袋に聞かれて、少し考えた。

「ああ……小さい女の子」

 なにか言い方を間違った気がする。

「それにしても、デートに付添いって、光ちゃんも変わってるわねえ」

 お袋が笑った。まったくだ。

 俺はポケットの中にある封筒を思い出して引っ張り出した。

「お袋、今月分」

 俺は給料袋をお袋に渡した。現金でぴったり十万円が入っている。給与明細には十五万円と書いてあるが、俺が五万円を抜いたわけじゃない。税金対策だかピンハネだか知らないが、別にどうでもいい。お袋も気にしていない。

「お疲れさま、智。ありがとう」

「兄ちゃんお疲れさまー!」

 お袋は給料袋を仏壇に供えた。仏壇には親父の遺影が一枚あるだけだ。おそらく親父より長生きしていると思うが、俺と圭子は祖父さんと祖母さんの顔を知らない。

「じゃあ、俺は仕事に行ってくる」

「行ってらっしゃい」

「兄ちゃん行ってらっしゃーい」

 俺は仕事場に向かった。


 日曜日の朝、ヒカルは八時にきた。駅まで歩いて、八時半。

「何時に待ち合わせなんだ?」

「九時四十五分」

 一時間以上あるぞ。まあ、今さらなにを言っても始まらない。俺はスマートフォンを取り出して電子書籍リーダーを起動させた。俺はあれ以来、電子書籍にはまっている。いつでもどこでも何冊でも、すぐに続きを読めるのがいい。

 やがて女の子たちがやってきた。杜下さんは……ああ……服装もロリっぽかった。まあ、似合っていると言えなくもない。三咲さんは、すっきりしたブラウス……だと思う……に、ジーンズだ。

「おはよう、待った?」

 杜下さんが言ったが、馬鹿みたいに待ったとは言わなかった。

「じゃあ、行こう?」

 自然と杜下さんはヒカルと手をつないだ。あんまり初々しさがないな。あれは、恋人つなぎと言うやつだろう。

「杉原くん?」

「ああ、行く」

 三咲さんに呼ばれて俺も駅に入った。

 電車に乗って、俺はヒカルに聞いた。

「なにかスケジュールはあるのか?」

「うん、とりあえず映画でも観ようって」

 定番だが、俺は嫌な予感がした。

「どんな映画だ?」

「あー、恋愛ものかな。すごいロングランのだぜ」

「俺は観ないぞ」

 一〇〇%確実に寝る。

「お、おい、トモ!」

 ヒカルがあわてた。

「俺は映画の途中で間違いなく寝る。みんなに不愉快な思いをさせたくない」

 こう言うのは先に言っておいた方がましだ。杜下さんは鼻白んでいたが。

「じゃあ、杉原くんはあたしの買い物に付き合ってくれない?」

「え?」

 三咲さんに言われて驚いた。

「映画館の近くにあたしの好きなデパートがあるの。久しぶりに行ってみたいんだけど、杉原くんは女の買い物に付き合うのは駄目?」

「いや。お袋と妹の買い物に、散々付き合わされてる」

「じゃあ、それで。映画の上映時間、一時間半くらいでしょ? あたしたちもその頃映画館に戻るから」

「あ、うん、わかった……」

 ヒカルが気圧されていた。

 駅を出たところで、俺たちは二組に別れた。

「三咲さんも恋愛映画は苦手なのか?」

「そうでもないけど。でも、出来たてカップルと一緒に観るのはね」

「ああ」

 まったくだ。

「こっちも恋人同士ならともかく」

 それはそうだなと思った。

 デパートに着いてエレベーターに乗ると、三咲さんは最上階のボタンを押した。そこにはバーしかないようだが。

「買い物は?」

「そんなの言い訳よ」

「なるほど」

 なんに対する言い訳なのかはわからなかったが。

 バーの席に着いた。当然ノンアルコール飲料もあって、俺はコーラ、三咲さんはアイスティーを頼んだ。カフェバーとか言うのかもしれなかった。

「杉原くん」

「ああ」

「智くんって呼んでもいい?」

「ああ」

「じゃあ、あたしもそれで」

「里衣奈ちゃん?」

「ちゃんはいらないかな」

「わかった」

 俺はコーラを少し飲んだ。

「智くんが、今日のこのダブルデートみたいなのにきたのって」

「ああ」

「相手があたしだったってこともある?」

「ああ」

「どうして?」

「俺の顔に慣れてるっぽかったからだな」

「顔に慣れる?」

「俺は顔が怖いから、慣れてない女の子だと泣かせかねない」

「えっ?」

 里衣奈が驚いていた。

「そんなこと、本当にあったの?」

「ああ。何度も。あれはすごくバツが悪いんだ」

 里衣奈が吹き出した。

「泣くほど怖いかなあ?」

「ヤクザ顔だろう?」

「ええー?」

 里衣奈が首を傾げた。

「あたしは好きだけどな」

「光栄だ」

「それで、顔に慣れてるってことだけ?」

「いや。人生初のデート紛いのイベントの相手が、里衣奈みたいな美人で幸運だと思った」

「ん、ありがと……」

 里衣奈が少し赤くなっていた。

「でも、智くんの人生初だなんて嬉しいな。本当に初めてなの?」

「ああ。俺は誰とも付き合ったことがない」

「ふうん……?」

 里衣奈がまた首を傾げた。それからアイスティーを飲んだ。

「ねえ、智くん」

「ああ」

「今あたしたちがこうやってお喋りしてるのって、ほとんど完全にデートだと思うんだけど」

「そうなのか?」

「うん」

「それはますます光栄だな」

 俺は笑った。本当に、なかなかいい気分だった。

「あたしを口説いたりしない?」

 なにか話の流れがおかしくなってきた。

「ああ……いや。そこまで欲が深くはない。と言うか、ああ……恋人はいないのか?」

「付き合ってる人がいたら、今日ここにくると思う?」

 それはそうだな。

「智くんてストイックなのね」

「単に女の子の口説き方を知らないだけだ」

「あたしが好きだって言ったら?」

「話が美味しすぎて信じられないな」

「あたしのこと疑ってる?」

「いや。俺はほとんど、里衣奈のことを狼だと確信しつつある」

「狼?」

「比喩だよ。俺は、世の中の人間を二種類にしか分けて見れない幼稚な人間なんだ」

「狼っていい方なの?」

「もちろん」

「その反対は?」

「羊」

「ねえ、あたしが狼になれたらどうなるの?」

「俺は絶対に里衣奈を裏切らない。里衣奈がなにをしようと、どこまでも信じてついていく」

「……」

 里衣奈が息を呑んだ。

「……智くん……それって、ほとんど愛してるって言うのと変わらないってわかってる……?」

「さあ……俺は親兄妹以外の愛と言うものを知らないから」

「……あたし、絶対に智くんの狼になりたい」

「簡単だ。明日には決まる」

「どう言うこと?」

「学校は、今の俺たちが所属する最大組織だ。ここに俺たち学生の人生の半分は入っていると言ってもいいと思う。ああ……俺って今さっき、けっこう恥ずかしいことを言わなかったか?」

「そうかも」

 里衣奈がくすっと笑った。

「それを学校で冗談のネタにでもされない限り、俺は里衣奈を狼だと認める。偉そうだが」

「シンプルね」

「単純な話なんだ。突き詰めれば、信じるか、信じられないか。一度信じたら、絶対に変わらない」

「もしあたしが火曜日に裏切ったら?」

「たとえそんなことが起こっても変わらない。俺は里衣奈を信じる。永遠不変なんだ」

「……ねえ……それって、すっごく素敵……」

 素敵?

「俺にとっては、単なる自衛のための人物区分方法なんだが」

「そうだとしてもよ。あの、よかったら智くんが狼だって認めている人を教えてくれる……?」

「俺の家族。ヒカルとヒカルの親父さん。鈴本と坂上さん。ヒカルが行ってるジムの小野コーチ。ああ……もう少しいるが、これくらいだな」

「学校の先生はいないのね」

「教師は一人の例外もなく羊だ」

 俺は吐き捨てた。連中は、誰もいじめと言う問題に取り組もうとしない。必ず見て見ぬふりをする。時にはいじめに参加さえする。少なくとも、俺が出会った教師は。

「厳しいね……あの、なにかあったの……?」

「俺とヒカルは、中学でひどいいじめにあったんだ。俺たちが片親だって言う理由で。その時、教師はなにもしなかった。そもそも俺が狼と羊なんて考えだしたのは、そのせいなんだ。絶対に信じられる人間がいなければ、耐えられなかった」

 里衣奈の目から涙がこぼれ落ちて、俺は驚愕した。椅子から腰を浮かせかけた。

「え……」

「あっ……ご、ごめんなさい……」

 里衣奈は下を向き、ハンカチを取り出して涙を拭っていた。

「あの、ほんとに、ご、ごめんね……」

 里衣奈は健気に微笑んでみせた。俺には、なぜ里衣奈が泣いたのかよくわからなかった。

 里衣奈はしばらく胸に手を当てて、自分を落ち着かせようとしているようだった。

「まだ、聞いてもいいかな……」

「ああ。俺以外の人間のプライバシーに関わることでなければ」

 里衣奈が少し顔を赤くした。

「外れてたら恥ずかしいんだけど……智くんは、もうあたしのことを狼だって思ってくれてない……?」

「ああ、そのとおりだ。と言うか、今気がついたら、とっくにそう思っていた」

 俺はうなずいた。

「ありがとう。すごく嬉しい」

 ただ勝手に俺が決めているだけなんだが。それなのに、里衣奈は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。すごく素敵だった。これは人気が出るだろうなと俺も思った。

「これは、言いにくいと思うんだけど……」

「ああ」

「桔梗は?」

「残念ながら、俺は杜下さんを羊だと考えている」

 俺は即答した。

「問題なのは、普通は狼と羊が混ざった群れは作れないと言うことだ。表面的な付き合いならともかく。深く付き合う場合、最終的には悲惨な結末になる。もちろん、ヒカルと杜下さんがそんなことにならないように願っているが」

「……そんなにひどいことになるの?」

「詳しくは言えないが、狼と最低の羊がつがいになって、ろくでもないことになった。俺はその羊を、金輪際許さない」

「加賀谷くんには、羊が区別できないの?」

「狼とか羊とか言うのは、俺だけの判断基準なんだ。ヒカルには話したこともない」

「えっ……?」

 里衣奈が少しのけ反っていた。

「それなのに、あたしには話してくれたの……?」

「え……」

 そう言われてみると、こんな話を今まで人に話したことがない。

「ああ……そうだな。たぶん初めて話したはずだ」

「どうして?」

「ああ……悪い。自分でもよくわからない」

「ふうん?」

 里衣奈は首を傾げて微笑んだ。

「ところで、あたしが狼として認められたってことは、智くんのこと好きになる資格ができたってことよね?」

 資格……?

「ああ……まあ、それにはなにも問題はないと俺は考える」

「だったら」

「いやいや」

 俺はあわてて首を振った。

「お、俺の恥ずかしい思い違いだとは思うが」

「たぶんそれで合ってる」

 里衣奈がにっこり笑った。

「じ、時間が……」

「もう、永久に信じてくれてるのに?」

「その……お、俺にはまったく恋愛経験がないから……それだけはなんとも言えない……」

「わかった。もっと時間をかけてみることにする。でも、一つだけ智くんの今の気持ちを教えて」

「ああ」

「あたしのこと、女の子としてどう見える?」

「とても素敵な女の子に見える」

 俺は真顔で言った。

「そう? よかった」

 里衣奈のものすごく魅力的な笑顔に、本当に惚れそうになった。

「じゃあ、そろそろ映画館に戻ろうか。遅れると桔梗うるさいし」

「え、そんなに時間が経ったのか」

 腕時計を見たらけっこうぎりぎりだった。

 映画館の前で二人を待った。

「映画面白かったよ! 二人も観ればよかったのに!」

 映画館から出てきた杜下さんが頬を膨らませながら言った。そう言う表情が異様に似合う子だった。このあたりがヒカルの好みなのかもしれない。

「ごめんね。デパートも楽しかったよ」

「あれ、なにも買わなかったの?」

「今日はね」

 里衣奈が笑った。

 俺は少し離れていたヒカルに近づいた。

「面白かったのか?」

「え、あ、もちろん」

 微妙だな。

「……寝なかったか?」

「ね、寝てない」

 危なかったらしい。

「智くん、どうしたの?」

「いや、別に」

 里衣奈に聞かれて俺はごまかした。

「あれ、名前で呼んでるの?」

「うん。桔梗、加賀谷くんのこと光くんて呼んでもいい?」

「んー、いいよ。あたしも智くんて呼ぶね。里衣奈はなんて呼ばれてるの?」

「里衣奈」

「じゃああたしも桔梗で」

「いや、それはできない。ヒカルに殺されたくない」

 俺はあわてて言った。なにかものすごく背筋が寒かった。

「じゃあ桔梗ちゃんなら?」

 俺はヒカルを横目でうかがった。許容範囲らしい。

「わかった、桔梗ちゃん」

 桔梗ちゃんがにっこり笑った。どうも俺の顔に慣れてくれたらしい。

「次は?」

「ご飯にしよう!」

 桔梗ちゃんが元気よく言った。

「店は決まってるのか?」

「うん、桔梗に任せた」

「そうか」

 俺たちは桔梗ちゃんのあとに続いた。

 店の前に着くと、高そうな店だなと思った。そして中に入ってメニューを見たら実際高かった。ハンバーグセットが五千円?

 桔梗ちゃんはなにか俺には名前が覚えられないものを頼んでいた。里衣奈はけっこう考え込んでから、やっぱり覚えにくい名前のものを頼んだ。最後にパスタと言っていた気がするから、スパゲティだろう。俺とヒカルはハンバーグにした。

 料理を待ちながら喋り始めたら、まあこうなるだろうなと思っていたとおりになった。ヒカルと桔梗ちゃんは、完全に二人の世界に入ってしまった。

 俺は水を飲みながら料理がくるのを待った。里衣奈が小声で話しかけてきた。

「……あの二人、こっちの言うことが聞こえてると思う?」

「普通の大きさの声で喋っても聞こえないと思うぞ」

 やっぱりどう考えても俺と里衣奈はいらない。まあ、俺は里衣奈と話してすごした。料理が出てくるまでに、あの告白の時と同じくらいの時間がかかった。

「……?」

 あげくに料理がきたら、俺は表情が変わるのと首を傾げるのをこらえるのに必死になった。

 なんだこれ? ハンバーグの中はぱさぱさで肉汁もなにもない。ソースも薄すぎると言うか味がない。ライスもぱさぱさだった。肉を飲み込むのに、いちいち水を飲まなければ飲み下せず、何度も水を頼んだ。ついにはピッチャーを置いていった。最初からそうしてほしい。

 里衣奈を見たら、二ミリくらい首を傾けた。パスタも微妙らしい。

 精算する時、ヒカルは桔梗ちゃんの分も払った。俺の主義には反するが、一応里衣奈に声をかけた。

「払おうか?」

「いい。あたし男の子に奢らせない主義なの」

「奇遇だな」

 そう言えばデパートのバーでデートみたいなことをした時も、割り勘だった。

 店を出て次のお茶は、ファミレスでと言うことになった。一気に庶民的になった。

 ヒカルと桔梗ちゃんは手をつないで歩き、俺と里衣奈は少し遅れてあとに続いた。

「……どうだった、ハンバーグ?」

 里衣奈は小声で言ったが、俺は普通に話した。どうせ聞こえるわけがない。

「ひどかった。なにもかもぱさぱさで。駅裏にあるハンバーグ&ステーキハウスなら、二千円以下で百倍美味しいのが食べられる」

「パスタも、完全に茹ですぎなの……ソースはそんなでもなかったんだけど、あれはなあ……」

「まあ、次は庶民的なドリンクバーで気分を変えよう」

 里衣奈が笑った。

 ファミレスでも当然同じことが起こった。

「里衣奈、デザートは?」

「あたしはいいかな」

 が、こっちの組とあっちの組との唯一のやり取りだった。

「里衣奈はバレーボール部だったのか」

 俺は相変わらずコーラを飲みながら言った。里衣奈はアイスカフェオレを飲んでいた。隣のことは知らない。

「うん、セッター。もっと上背があれば、アタッカーとか色々やれたんだけどね。でも、セッターも楽しいの」

「身長は?」

「一六二センチ。智くんは?」

「一七九センチ」

「やっぱり大きいねー」

「もし男バレだったら並みじゃないか?」

「たぶんうちの男バレなら、けっこう高い方だと思うよ。智くんバレーボール好きなの?」

「観るのは。俺がテレビを観るのは、格闘技全般とバレーボールくらいだな」

「格闘技も好きなの?」

「ああ。小学生の時にはヒカルと一緒に空手をやっていた。中学生になって柔道部に入ったが、まあ……ごたごたがあって辞めた。ヒカルはそのあとも外の格闘技ジムでキックボクシングをやって、今はMMAの選手」

「MMA?」

「ああ、悪い。総合格闘技のことなんだ。パンチやキックに加えて、投げや関節技もありの格闘技」

 里衣奈が目を丸くした。

「光くん、それの選手なの!?」

「MMAはまだ稽古中だな。だがキックなら、ハイアマのトップクラスだ」

「すごーい……でも光くんて背が」

「確か一六八センチだ。恵まれているとは言えないな」

 里衣奈がヒカルの方を見たが、やに下がっていて全然強そうには見えない。

「バレーは、春高とか観る?」

「もちろん。オリンピックなんかより面白いかもしれないな。日本のオリンピック選手だと、なんでそんなミスするんだって腹が立つから。その点、春高バレーはだいたい実力が伯仲していて面白い。ワンサイドゲームもあるが」

 里衣奈が笑った。

「そんなに好きなのに、男バレに入らないの?」

「ああ……その」

 俺は少し言いよどんだ。だが、里衣奈には話してもかまわない。桔梗ちゃんはどうせ聞いていない。

「俺は、中学時代のいじめを解決するのに、暴力を使った。だから柔道部を辞めたし、高校に入ってからも公式戦のある運動部には入れなかった」

「……」

 里衣奈が黙った。また泣かないでほしいと思った。

「……でも、今は関係のないことでしょう?」

「教師たちは知っているだろうし、うちの高校には同中のやつがけっこういる。歓迎はされないだろうな」

「……智くんはそれでいいの?」

 いつの間にか、テーブルの上に乗せていた手に里衣奈が自分の手を重ねていた。

「ああ。中学時代のことは後悔していないし恥じてもいない。俺は今、大学に現役合格するために勉強している。それだけでいい」

「家から通えるところ?」

「ああ。お袋と妹を残していけない」

「光くんも?」

「ああ。地元の大学に行って、地元のできるだけ給料のいい会社に入る。親に楽をさせてやりたい。俺たちはそれだけだ」

「……あたし、全然不純な動機で大学決めようとしてた……」

 俺は笑った。

「俺たちだって十分不純だ。稼げる会社に入るための手段として、大学を選んでる」

「でも、お父さんとお母さんのために」

「俺たちは親にとんでもない負債がある。返すのには一生かかるだろうな」

「負債?」

「里衣奈には話してもかまわない。だが、今この場所はそれにふさわしくなさそうだな」

 里衣奈がヒカルと桔梗ちゃんを見た。まあ全然聞こえてはいないだろうが。

「そうみたいね」

 里衣奈がくすっと笑った。

「いつか聞かせてくれる?」

「ああ。この先二人っきりになれる機会でもあれば」

「……口説いてる?」

 俺は首を傾げた。

「ストイックなんだ」

 里衣奈は笑った。

 帰りの電車で里衣奈と桔梗ちゃんが先に降りて、俺はヒカルに聞いた。

「桔梗ちゃんとはどうだった?」

「け、けっこうよかったと思う……」

 まあ、あれだけ仲よく喋っていればな。

「よかったな」

「トモは?」

「なにが?」

「里衣奈ちゃんと楽しそうに話してたみたいだけど」

 それくらいは気づいていたのか。

「まあ、あんな美人と話すのは初めてだったな」

「口説かないのか?」

 またか。

「ストイックなんだ」

 ヒカルが笑った。


「杉原、三咲さんと付き合ってるのか?」

「付き合ってない」

 何人目だ。ヒカルの初デート以来、何人もの男子が俺に聞いてくる。他のクラスの男子まで聞きにきた。

 ヒカルと桔梗ちゃんの仲は公認で、昼休みには桔梗ちゃんが作ってきてくれる弁当を二人で食べている。里衣奈は元々桔梗ちゃんと弁当を食べていたが、ヒカルと付き合い始めてからは一緒はしていない。坂上さんたちと食べるようになっていたが、時々弁当を作ってこなかったから一緒に学食に食べにいこうと俺を誘ってくれて、二人で学食に行く。あと、休み時間に時々話す。

「でも、二人で仲よくご飯を食べてるって」

 面倒くさい。

「レストランで二人っきりならともかく、学食だぞ。仲よくもなにもない」

「でも、そう言うカップルもいる」

 鬱陶しいな。

「他のことなんか知らない。俺と里衣奈は付き合ってない」

「でも、名前を呼び捨てで」

 キレそうになった。

「智くん」

 里衣奈が近づいてきて、男子は逃げていった。俺は机に突っ伏した。

「どうかした?」

「いや……また里衣奈と付き合ってるのかって聞かれた」

「な、なんだかごめんね?」

 俺は顔を上げた。

「里衣奈はなにも悪くない。そう言う風に誤解されるのは光栄だが、いくらなんでも多すぎる」

 さすがうちのクラスの二大美人。と言うか、全校女子の中でもトップレベルかもしれない。

「……光栄なの?」

「ああ。今日も弁当なしか?」

「うん。……一緒に行ってくれるの?」

「ああ。くだらない邪推をされるからって、里衣奈との友達付き合いを絶つのはもったいなさすぎるな」

「……下心あり?」

 俺は首を傾げた。

「ストイックなんだ」

 里衣奈が笑った。

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