すべてはこの手の中に

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第1話

 俺が小学校を卒業する直前に、親父が刺されて死んだ。

 ヒカルも同じく、母親が若い男を作って家を出ていった。

 俺たちは、ほとんど同時に片親になった。

 俺たちは狼になった。自分を狼だと勘違いした羊どもが、俺たちが片親だと言う理由でちょっかいを出してくることがあったからだ。

 中学時代、俺とヒカルはいつも肩を並べてそいつらを殴り倒し、蹴り飛ばした。どっちが狼なのかを、はっきりと教えてやった。羊が何匹いようが、俺たちが負けることはなかった。狼は、絶対に負けない。

 中三になると、二匹の狼の悪名は全校に知れ渡り、誰も手を出してこなくなった。

 俺たちは同じ理由で、できるだけ大学進学率の高い高校に行くことにした。俺たちは二人で一緒に勉強を始めた。

 俺たちは俺たちなりに、必死に頑張った。だが、二年間勉強をサボっていたつけは、はっきりと現れた。

 進路相談で、このあたりで一番の公立進学校は無理だとはっきり言われた。内申の問題もあった。

 ただし、二番手とみなされている公立高校なら十分に合格圏内だと言われた。俺たちにはそれで十分だった。大学の現役合格率は二割くらいだったが、俺たちがその二割に食い込めばいいだけのことだ。

 俺とヒカルは、同じ高校に合格した。クラスも同じだった。

 高校一年はまあ、夏の終わりに一悶着あったが、そこそこ平和にすぎた。狼の顔を見せる必要はなかった。

 俺たちは二年に進級して、また同じクラスになった。


「おはようございまーす!」

 ホームルーム中に教室の扉が開いて、能天気なほど明るいヒカルの声が響いた。

加賀谷かがや、遅いぞ! それから、服装はなんとかならんのか!」

「あ、すいませーん」

 ヒカルが笑って学生服の第一ボタンを留めた。担任がため息をついた。二年になってヒカルの担任になったばかりだから言いたくもなるんだろうが、今さらなにを言っても無駄だ。

杉原すぎはら、おまえからもなんとか言ってやれんのか」

 俺たちは高校に入ってからは二人でなにかをしでかした覚えもないのに、なぜか二人セットみたいに扱われている。

「いや、俺に言われても」

「トモは関係ないでしょー?」

 ヒカルが唇を尖らせた。担任がまたため息をついた。

「……もういい。遅刻扱いにはしないでやるから、さっさと席につけ」

「サンキューせんせー」

 ふざけた声色で言って、ヒカルは俺の右隣の席に座った。

 担任が出ていくと、俺はヒカルの脇の下をつついた。

「うひゃあう!」

 奇声を上げて、ヒカルが身悶えした。

「トモ、そこは弱いからやめろって言ってるだろ!」

「悪い悪い」

 俺は笑った。もちろんわざとやっている。俺の前の席の五代ごだいさんもくすくす笑っていた。

「それで、今日の重役出勤はどうしたんだ?」

「ネトゲ」

「またか」

「だってゆうべの野良パーティーがすっごい楽しくってさあ。狩りが終わっても延々チャットしてて。結局新しいギルド作ったよ」

「ヒカルそれ、何時までやってた?」

「二時くらい」

「ちゃんと勉強してるのか?」

「してるって。それにまだ焦らなくてもいいだろ?」

「俺たち、中三で遅れを取り戻せたか?」

「うっ……」

 ヒカルが言葉に詰まったところで、一限目の先生がきた。俺たちは授業に集中した。

「さって飯めし~」

 昼休みになると、ヒカルが伸びをしながら言った。俺もヒカルも学食なので、早めに行って注文した方がいい。いいんだが。

真子まこさん、俺たちと一緒に昼食いに行かない?」

 ヒカルが五代さんをナンパし始めた。ナチュラルに名前で呼ぶよなあと感心した。……え、俺たち?

「あたしお弁当なの。真綾まあやたちと食べるから、ごめんね」

 にっこり笑って、五代さんは去っていった。

「振られたな」

 俺は笑って立ち上がった。

「まだまだ」

 ヒカルも笑いながら、俺と連れ立って教室を出た。

「しかしヒカル、年明けくらいから節操ないな」

「そうかあ? ただアドレス聞いて回ってるだけなんだけど」

「それで誰ともデートしてないし、付き合うわけでもないんだから、俺からすると意味がわからないんだが」

 そして同じ時期から、学校内でヒカルの人気は急激に上がっている。告白を受けたのも二桁を超えている。

「教えてやろうか、アドレス? 誰のがいい?」

「いらない」

 そもそも俺には特に好きな女がいない。

 学食は混雑していた。ヒカルがナンパなんかしてるからだ。

「これ席あるかな?」

「ヒカルのせいだろう」

ひかるくーん!」

 食券の自動販売機に並んでいると、どこからか女子がヒカルを呼ぶ声が聞こえた。

「はーい」

 ヒカルが手を振った。その先には食事途中の女子が二人いた。二人とも俺は見覚えがない。

「ここくるー?」

「行くー。あ、トモも一緒なんだけどー?」

「いいよー」

 いいよと言うんだから、俺の顔を見ても泣かないよな?

 俺の顔は死んだ親父譲りの凶相で、つまりヤクザ顔だ。一緒のクラスになった女子が、俺の顔に慣れるまでにだいたい一学期丸々がかかる。その前に迂闊に近づくと最悪泣かれる。

 ヒカルが俺を見てにやっと笑った。

「どうだ、アドレス集めも役に立つだろ?」

「そうかもな」

 俺は苦笑した。

 俺たちは食事を乗せたトレイを持って、女子二人の隣の席に座った。

 彼女たちは泣きはしなかったが、顔を引きつらせていた。だから言ったのに。


 俺とヒカルは一緒に下校した。二人とも部活には入っていない。中学時代に暴力沙汰を起こしているので、公式戦のある運動部に入るのははばかられた。

 家の前で別れた。俺とヒカルの家は目と鼻の先だ。

「じゃあなー」

「ああ。そう言えば、今日はジムだったか?」

「そうだよ。そっちは仕事だろ?」

「日曜日以外毎日だからな。じゃあ、また」

 俺たちは手を振って別れた。

 家に帰ると、お袋と四歳年下の妹の圭子けいこが、居間でテレビを観ていた。

「ただいま」

「兄ちゃんおかえりー」

「おかえり」

 俺はうがいと手洗いをしてから、二階の自分の部屋に行って勉強を始めた。

 授業の予習復習をする。予習はあまり先まではできず、復習は二年になったばかりであまり戻れない。一年の復習をするかと思ったが、春休みにけっこうやっていたので気が乗らなかった。

 ああ、久しぶりにヒカルの練習風景でも見に行くかと思って、一階に下りた。

「行ってくる」

「兄ちゃん行ってらっしゃーい」

とも、早いわね?」

「ヒカルのジムに寄ってから行く」

「そう。行ってらっしゃい」

 俺はヒカルの通っている格闘技ジムに向かった。

「こんにちは」

 ドアを開けて入ると、小野コーチが手を上げた。

「智くん、久しぶり。やっとうちに入門する気になった?」

 俺は苦笑した。

「いえ、今日もこれから仕事です」

 前にも体験入門の名目で、十回以上揉まれたことがある。まあ俺もやってみたいとは思うが、時間がない。

「お、トモきたか」

 ヒカルは奥の大きなサンドバッグの前に立っていた。少し見ていたが、どうもただの練習じゃなさそうだった。

「試合決まったんですか?」

「うん。関西なんだけどね」

「ヒカル、なんで言わなかったんだ?」

「だって関西じゃ、トモは応援にこれないだろ? 土曜日なんだよ」

「ああ……仕事があるからな」

 関西までの往復だと、仕事の時間に間に合わない。

 ヒカルがサンドバッグを蹴り始めた。細身のヒカルのキックだとは信じられないほど、大きな音がしてサンドバッグが揺れた。

 ヒカルと俺は、小学校の時に同じ空手道場に通っていた。中学になると俺は仕事を始めて格闘技をやめたが、ヒカルはキックボクシングを始めた。高校生になると、同じジムの総合格闘技MMAクラスに移った。

 ヒカルはまだ投げと関節技が仕上がっていない。空手とキックボクシングベースの打撃特化型の選手なので、総合格闘技の試合だと苦しい。ただしヒカルは立ち技スタンドが恐ろしく強いから、相手選手が寝技グラウンドに持ち込もうとするのをガードできれば、いいところまで行く。

「MMAですか?」

「いや、久しぶりのキックだよ。肘なし」

 それならヒカルは相手選手を蹴りまくるだろう。ガードが間に合わずにヒカルの右ハイキックを食らえば、ヘッドガードをしていても失神KOだ。もっとも、そんなに美味しい局面はそうそうない。

「トモ、ちょっと蹴ってみろよ。どれだけなまったか見てやる」

 ヒカルが笑っていた。今ジムの中にいる選手はヒカルの他には眼鏡をかけた高校生らしい一人しかいない。社会人選手が練習にくるのは、もう少しあとだ。

「どうぞ」

 小野コーチがにっこり笑った。俺は上着を脱いで、ヒカルに近づいた。ヒカルがどいて、俺はサンドバッグの前に立った。

 拳をサンドバッグに当てて、距離を測る。下段蹴りをゆっくりと入れる。まったく音はしない。距離を測り直し、中段蹴り。最後に、上段蹴り。

 足が上がらなかった。自分の肩より下。我慢できずに、そこからは足を早く動かしてサンドバッグを蹴った。ぽすんと言う情けない音がした。

「痛てて……」

 俺は股関節を押さえた。

「ひでえな!」

 ヒカルがげらげら笑った。もう一人いた眼鏡の選手も笑った。ヒカルがそいつを睨みつけた。

「智くんは相変わらず体幹はいいんだけどなあ。トレーニングしてる?」

「筋トレと、雨が降っていなければランニングは」

「ストレッチは?」

「あまりしてませんね」

 小野コーチが俺の肩を掴んで、座らせた。そのまま股裂きをかけられた。

「痛てててててて!」

 俺は情けない悲鳴を上げた。

「まだまだ」

 さらに体重を乗せてきた。

「痛い痛い痛い痛い!」

 小野コーチがやっと開放してくれた。

「一人だとやりにくいのもあるけど、筋トレだけだと使える体にならないよ」

「……はい、気をつけます……」

 気絶するかと思った。

 俺が立ち上がると、ヒカルがキックミットを俺に投げて寄こした。

「俺のキックも受けていけ。左ミドルな」

 俺は言われたとおり、体の右側中段にキックミットをかまえた。ヒカルが左ミドルキックを放ってきた。体がずれて、キックミット越しなのにこたえた。

「おい、しっかり踏ん張れよ」

 ヒカルが呆れて言った。

「ああ」

「右ハイ」

 俺は頭の左にかまえ、しっかり足を踏ん張った。ヒカル得意の右ハイキック。

 ヒカルの蹴りを受けた瞬間、キックミットが頭にぶつかって俺の意識は途絶えた。

 気がつくと、ヒカルが上下逆さまで俺の顔を覗き込んでいた。俺はヒカルの太腿の間に膝枕をされていた。

「お……」

 体を起こそうとすると、ヒカルに押さえられた。

「失神してたんだ。わかるだろ」

「ああ」

 失神と言うのは、かなり危ない。脳へのダメージをしっかり見極めないといけない。そして俺は、自分がなにをしでかしたのかに気づいてぞっとした。

「小野さん、申し訳ありません……俺、とんでもないことを……」

 部外者に怪我などさせたら、小野コーチの立場が危ない。下手をしたらジムの存続にまで関わりかねない。ヒカルもとっくに平謝りしているだろう。

 小野さんは俺の正面にしゃがんでいて、微笑みを浮かべた。

「大丈夫だよ。悪いのは俺だからね。つい、二人の攻防を見てみたくなっちゃったんだ」

 耳障りな笑い声が聞こえた。まあ俺は笑われても仕方ないざまだったが、今が笑うタイミングなのか?

木戸きど、てめえ、なんのつもりだ?」

 ヒカルは俺を膝枕していなければ、眼鏡に飛びかかりそうな勢いだった。

「やめろ」

 俺はヒカルの腕をつかんだ。ジム仲間と喧嘩なんかしたらまずい。

 小野コーチが俺の状態を確認して、立ち上がった。

「本当にすいませんでした。じゃあ、俺は仕事に行きます」

 俺は小野コーチに頭を下げた。

「大丈夫かい?」

「はい」

「仕事にはまだ早くないか? もう少し寝ていったらどうだ?」

「いや。しっかり掃除でもしてるさ。あそこには寝心地のいいソファーもあるしな」

 俺は失礼しますと言ってジムを出て、仕事場に向かった。


 翌朝、ヒカルは得意満面だった。

「トモ、おはよう。昨日あれから、木戸の野郎をKOしてやったぜ」

 まあ、そんなようなことをするだろうとは思っていたが。

「スパーしようぜって言ったら、まあ乗るよな。あげくにヘッドガードはいらないとか抜かして」

「小野さんも黙認か?」

「他のコーチもな。選手同士だぜ?」

「ヒカルは着けてたんだろうな?」

「あたりまえだよ。どんだけ危ないと思ってるんだ」

 ヒカルもだろうと思ったが、俺だってミット越しに失神させられるとは思わなかった。

「で、右ハイか」

「まさか。危ないだろ。左ミドル一発で悶絶だよ」

「ミドルキック一発? 本当か?」

 あのジムで鍛えている選手をボディで一発KOなんて、漫画だ。

「あいつヘッドガードしなかっただろ。そっちに俺の意識を向けさせるつもりでいて、ガードが高すぎだった。脇ががら空きで、全力でレバー蹴ってやったよ。失神もできないから、だいぶ苦しんでたな」

 肝臓と言うのは、叩かれるとものすごく痛い。

「ヒカルと同じリングには上がりたくないな」

 俺は笑った。

 これから一ヶ月半後くらいに、関西のキックボクシングの試合で、ヒカルは四人トーナメントで二戦二勝二KO、どちらも右ハイキックで決めて優勝した。


 ヒカルは昼休みになると、鞄の中から四角いものを取り出した。

「なんだそれ?」

「弁当だよ」

 ヒカルが胸を張った。

「え? おじさんが作ってくれたのか?」

「そんなわけないだろ。昨日はネトゲしないで早く寝て、早起きして作った」

「なんでまた」

「弁当があれば、真子さんと一緒に食べられるだろ?」

「……ヒカルのそう言うところは、たまに尊敬しそうになるな」

 半分くらい本気で言った。

「さて、声かけてくるかな」

 立ち上がろうとしたヒカルの肩を、ほとんど無意識につかんで止めた。

「なんだよ」

 俺も、そもそもなんでヒカルを止めようとしたのかを考えていた。

「おい、トモ」

「……思い出した。五代さん、坂上さかがみ真綾さんと一緒にご飯食べてるって言ってたよな?」

「言ってたな」

「坂上さんには彼氏がいる」

「そうなのか?」

「ああ。本人から聞いた。彼氏の方だ」

「誰だよ?」

鈴本すずもとけんだ。覚えてないか?」

「……覚えてる。小学校の時に同じ空手道場に通ってたよな? 組手になるとキレキレになる」

「そうだ。先月だか先々月だかに、たまたま玄関で一緒になって帰った。帰る方向が同じだからな。その時に、真綾と付き合ってるんだけど、そっちのクラスだとどんな感じとか聞かれた。その時はなんで俺に言うのか意味がわからなかったが」

「……あっ」

 やっぱりヒカルには思い当たることがあるようだった。

「……俺、たぶんその頃、真綾さんのアドレス聞いた……」

「それだな。俺経由で、彼女にちょっかい出すなと言いたかったんだろう」

「……あー鈴本かあ……あいつはまずいなあ……」

 俺とヒカルは羊が何匹群れようと問題にしないが、鈴本は普段は温厚に見えるが間違いなく狼だった。もっとも狼であれ羊であれ、ヒカルは人の彼女に手を出すようなことはしないはずだが。

 俺が鈴本を狼だと言うのは、別に空手が強いからじゃない。腕力など関係ない。ただその在り方のために、結果として狼は誰もが強い。

 俺は狼と羊を信義によって区別する。嘘を言わない。人を騙さない。絶対の真実だけに従う人。それが信義を持つ人間だ。ただそれだけのことだが、なかなか狼には巡り会えない。

 俺のお袋はスナックでホステスをしながら、たった一人で俺と妹を養ってくれている狼だ。死んだ親父は確かにチンピラヤクザだったが、家では最高の父親である狼だった。中一の妹も、今のところ曲がるところのない狼だと言える。ヒカルの親父さんもそうだ。だが、ヒカルを産んだ母親は、最低の羊だった。

 大人には色んな事情があるんだろう。だがあの女は、自分が浮気をしていたにもかかわらず、財産の半分を強奪し、親権なんかいらない、子供なんか邪魔なだけだからと言った。一言半句の違いもなく、ヒカルを目の前にしてそう言った。俺はそれを、虚ろな目をしたヒカルから聞いた。もしその場に居合わせていたら、小六の俺には半分しか意味がわからなかっただろうが、それでもあの女の顔を二度と若い男が寄ってこないほど噛みちぎってやっただろう。

 鈴本の彼女の坂上さんは、佳人薄命と呼ばれるほど儚げな雰囲気の美人だが、やっぱり狼だろうと思っている。ほとんど話したことはないが、なにか係の仕事への対応や、それとない言動でもわかる。

 まあ、俺にとっての最高最強の狼は、ヒカルだ。ヒカルが俺みたいな幼稚な二元論で人を見ているのかどうかはわからないが、俺もヒカルにとっての狼でありたいと思っている。

 そしてその信義の人は、なにかわけのわからないことを言っていた。

「くそ、弁当作戦失敗かあ……」

「ご愁傷さま。じゃあ俺は学食に行ってくる」

「ちょ、ちょっと待て! 俺に一人で自分の手作り弁当を食べろって言うのか!? どんだけ羞恥プレイなんだよ!」

「他にも弁当を食べてる女子のグループがあるだろう。そっちに声をかけたらどうだ?」

「もうそんなテンションじゃない!」

 わがままなやつだな。

「じゃあどうしろって言うんだ?」

「……トモは売店でパン買ってこい。それで、一緒に食おう」

「それは絵面的になにか変わるのか?」

「いいから!」

 俺はヒカルに追い立てられて、売店に向かった。そもそも出遅れすぎなので、パンが残っているかどうか疑問だ。まあその時は学食に行こう。

 あんぱんが一個だけ残っていた。甘いのは嫌いなのに。

 あんぱんを買って教室に戻って、ヒカルと二人で食べ始めた。蓋を開けたヒカルの弁当を見て、驚愕した。

「……すごいな……」

 俺はうなった。おかずは全部焦げ焦げで、真っ黒だった。米はあきらかに水が多すぎて、おかゆみたいだった。つまり全体の色調は、

「葬式の垂れ幕か?」

「うるさい!」

 ひどかった。

 俺も弁当のおかずになるような料理はしたことがないが、仕事では厨房にいるので、何種類かの料理は作れる。たぶん俺の方がまともな弁当を作れるだろう。

 俺はすぐにあんぱんを食べ終わった。異様に胸焼けがした。こんなに甘いものを食べたのは久しぶりだった。

 ヒカルが弁当を食べる様子をぼーっと見ていたら、急に俺の目を見つめてきた。

 なんだと思ったら、おそらく卵焼きと思われる物体を箸でつまみ上げた。

「あ、あーん(はあと)」

 捨て身のギャグをかましてきた。

 無視すると泣きそうだったので、仕方なく俺はそれを食べた。……まあ、見た目よりは卵焼きらしい味がした。

「ど、どう?」

 ヒカルがわざとらしいしなを作ってみせて、すでに笑っていた教室にいる女子全員が、弾けるように笑いだした。

「ああうん。けっこういける。ごちそうさま」

 もうやるなと、俺は目で釘を差した。


 夕方、ヒカルから電話がきた。

『小野さんがまずいんだ。ジムにきてくれ』

「わかった」

 ヒカルは自分のことは言わなかった。俺は急いでジムに向かった。

 ヒカルが玄関で待っていて、一緒に二階の会長室へ行った。

 会長室には会長と小野コーチと眼鏡の木戸がいた。

「すまないね、杉原くん。呼び立ててしまって」

 会長が丁寧に言った。

「いえ」

「うちの加賀谷が、杉原くんを蹴って昏倒させたと聞いたが、事実だろうか」

「いえ。俺は加賀谷の練習を見学しにきて、少しサンドバッグを蹴らせてもらっただけです」

「嘘をつくな!」

 眼鏡がいきり立った。会長がそれを制した。

「そんな事実はないと?」

「はい。ああ、そうでした。小野さんに股裂きをやらされて、あんまり痛くて気絶しそうにはなりましたね」

 ヒカルが吹き出した。

「小野くん、そうなのかね?」

「ええまあ、体験入門の一環としてしましたね」

 小野コーチも肝が太いなと思ったが、まあ会長だってわかっているだろう。

「小野くんは今後注意するように。杉原くん、ご足労いただいてすまなかったね。ありがとう」

「いえ。それじゃあ、失礼します」

 俺とヒカルは軽く頭を下げて、会長室を出た。眼鏡がまだ騒いでいた。

「途中で笑うなよ」

「だって……」

 ヒカルがまだ笑っていた。

「小野さんは大丈夫かな? ヒカルは?」

「目撃者が他にいなくて、被害者がそんなこと知らないって言ってるんだから、大丈夫だろ。だいたい木戸は前々から素行がよくないんだ。ライトスパーだって言ってるのに強く当てるし。ウェイト差のある女子選手にも容赦しないし。女子の顔面ばっか狙って鼻血出させるんだぞ」

「プライドだけは高そうだったな」

「だな。まあ、木戸はこのジムを辞めるだろ。他の選手がだいたい集まったところで、俺にやられたから。今の騒動は最後っ屁だな」

「ヒカルは、一応しばらくは眼鏡に注意した方がいいな」

「トモもだぞ。さっきので恥かかされたから」

「あれなら、上段蹴りが出せなくても勝てそうな気がするな」

「トモ、あれでも鍛えてるんだから油断するなよ」

「わかっている。出くわしたらさっさと逃げる」

「そうしろ。あ、トモはまだ仕事の時間大丈夫だろ? 久しぶりにゲーセン行こうぜ」

「俺は間に合うが、練習は?」

「木戸があれじゃ、練習どころじゃない」

「ああ」

 それはそうだな。ヒカルはまだ練習着に着替えてもいなかった。

 二人で近くのゲームセンターに行った。

 ゲームセンターでヒカルの好きな対戦格闘ゲームのところに行ったが、まだ誰も対戦待ちをしていなかったので、とりあえず俺と対戦することになった。

 いつの間にコンボにつなげられたのかわからないまま二本取られた。ヒカルはゲームとリアルが直結すると言う珍しいタイプだった。

 三本目もヒカルが俺を圧倒してぎりぎりまで体力ゲージを削られたが、ヒカルの方がリングアウトして負けた。

「わざとか?」

「ハンデだよ。それから、そこまでゲージ減ってたら超必殺技が出せるぞ」

 ヒカルが笑っていた。忘れていた。

 四本目も同じ流れになったが、そもそも超必殺技の入力コマンドを忘れていて、そこで俺が負けた。

 後ろに待っている人間がいたので、俺はヒカルの方へ行った。

「さて、今度は歯応えがあるかな?」

 ヒカルが笑った。まあ、だいたいは俺よりも強いだろう。

 俺よりはるかに強いだろう対戦相手たちを難なく勝ち抜いて五連勝した頃、ヒカルに二本先取された対戦相手がゲームの筐体を蹴った。ヒカルは舌打ちしてゲームの途中で立ち上がった。

 ゲームに熱中するあまり、負けると喧嘩を売ってくるのがたまにいる。ゲームセンターでの揉めごとはさけたい。

「まったく。せっかく気分よくやってたのに」

「まあ、眼鏡もそうだが馬鹿は相手にしないに限る」

「だな。トモはもう仕事に行くのか?」

「ああ。じゃあまた」

「おう、またな」

 俺は仕事場に向かった。

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