第3話 凛が笑う時

 山田病院は、すぐに見えてきた。雑草が生え放題で、病院の入り口に行くのも大変だった。

 建物は二階建てで、経年劣化しているのか、コンクリートはボロボロになっいて、ガラスも全て割れてしまっていた。

 誰でもどこからでも院内に入れる状態だ。

 俺達は無言で顔を見合わせ、壊れているエントランスの前に立った。

 その瞬間、さっきまで蒸し暑かったはずの空気が一変して、寒さを感じた。何か別の空間に入り込んでしまったような……そんな気がしなくもない。


「なあ、凛……」

「え、何かいた!?」


 ──やっぱり帰らないか? その言葉は、凛のワクワクした声によって喉の奥に押し込まれてしまった。

 いつもどうでもいい事には鋭いくせに、どうしてこう、凛に危ない目に遭ってほしくないなっていう俺の男心には気付いてくれないんだろうか。いや、そういうのに夢中になっちゃうところも可愛いんだけどさ。

 でも、こんな楽しそうな凛を見ていると、引き返そうだなんて言えるはずがない。大丈夫、きっと大丈夫。純哉のお姉さんの言葉を信じよう。

 さっきまでノリノリだった純哉や、愛梨が固唾を飲んで固まってしまっている。俺がいだいた違和感を彼らも抱いているのだろうか。

 意を決して、エントランスから廃病院に入る。凛が俺の手を強くぎゅっと握っていた。きっと彼女も好奇心と恐怖心が入り混じっているのだろう。

 エントランスフロアは──当たり前だが──しんと静まり返っていて、小さなゴミやガラスを踏むだけで予想以上に大きな音がした。ひとつひとつの音、足で何かを踏みしめる感触に、心臓が高鳴った。

 そのままエントランスフロアを抜けて、レントゲン室や診察室の前を通り抜ける。ナースステーションもあったが、特段変わった事はなかった。その間、俺達は無言だった。


「あ、わり。ちょっとしょんべんさせて。そこらで済ませっから」


 ナースステーションに着いた時、ぶるっと身体を震わせた純哉が唐突に言った。おそらく、緊張から尿意を感じたのだろう。


「やだ、純哉くん汚い」

「おめえ、いくら廃墟だからって屋内で立ちションはねえだろ。ンな汚ねえもんあたし等に見せるなよ」

「わーってるって。あっちの角でいったとこでするから、ちょっと先進んでててくれよ。もう漏れそうなんだよ」


 廃墟だし野生動物がもう院内でしょんべんくらいしてるだろ、と言い、純哉が股間を押さえながらナースステーションから向かって左の廊下を走っていく。よほど限界だったのだろう。


「あたし等ここ真っすぐ歩いてくから追い付いてこいよー」

「ういー!」


 愛梨と純哉がそんなやり取りをして、俺達はそのまま真っすぐ道を歩いた。

 懐中電灯が一個になると、いきなり心細くなる。

 まだ純哉が戻ってこないが、そのままゆっくりと廊下を進んだ。

 屋内のはずなのになぜか風が通っていて、身体にまとわりついてくる。その風が冷たくて、思わずぶるりと身体が震えた。


「ちょっと寒いね……」


 凛がぽそりと話すと、彼女の声がまるで病院の奥底にまで聞こえてしまうのではないかと思うほど、院内に響いていた。


「そうだな」


 きっと、緊張しているからだ。そうに違いない。


「うん……」


 凛が俺の腕にすり寄ってきて、ひしっと腕を抱え込んだ。凛の体温と柔らかさが腕を伝って実感できて、思わずどきりとする。

 おお、これこれ! これだよ、肝試し。これでこそ肝試しだ。ようやく味わえた肝試しの喜びに、俺はどこか満足感を得ていた。

 一方の愛梨は無言で俺の横を歩いている。案外一番怖がっているのは愛梨かもしれないが、今は彼女をからかっている余裕はない。凛が横にいるから強がっているけども、俺もぶっちゃけかなり怖いのだ。


「何も起こんないけどさ……こういうのって、ドキドキして楽しくない?」


 凛が俺と愛梨に訊く。きっと悪戯げな笑みを浮かべているに違いない。


「何も、起こらなければな」


 愛梨が余計な事を言う。

 それにしても、純哉が遅い。本当はしょんべんじゃなくてうんこだったというオチだろうか。そんな事をしたらまたザ・うんちマンの名前で呼ばれてしまうと思うのだけれど。


「ねえねえ、これって……何の部屋?」


 凛がふと目の前の部屋を指差したので、懐中電灯で部屋札を照らすと──


「……霊安室、だな」


 俺と愛梨が顔を見合わせる。

 彼女は早く離れたそうだが、凛がそのドアをじっと見ている。


「霊安室ってさ……」


 凛がぽそりと言う。


「うん?」


 もしかして、ようやく怖くなってきたか? もう出たくなった? 出たいならすぐ出よう。俺と愛梨は大歓迎だ。


「霊安室だよね」


 そんなよくわからない事を凛が呟いて、顔を伏せる。そして、その時──凛の震えが、俺の腕に伝わってきた。うん、やっぱり寒いんだろう。そろそろ帰った方がいいな。

 ちらりと愛梨を見ると、彼女も俺の意図が通じたのか頷いてくれた。

 ──もう出ようか。そう言おうと思って、凛の顔を覗き込む。


「……ふふふっ、ぷっ……くくくっ」


 え……? 凛さん、なんかいきなり笑うの堪えてませんか?

 もう一度彼女を見ると、凛が震えていたのが寒いからではないのがわかった。笑い出しそうなのを、堪えていたのだ。


「なあ、相沢。これは……やばいんじゃねえか?」


 愛梨がごくりと唾を飲んで、呟いた。


「ぷっ……くすくす……霊安室……霊安室だって! あはっ、あはははははははは!」


 あ、やばい。これ絶対にやばい。凛が壊れたようにいきなり笑い出した。

 夜の病院に、凛の笑い声が響き渡った。

 その瞬間──ガラーン! カランカランカラン……俺達がいる反対側の場所から、洗面器か何かが落ちたような音が響いた。


「う、うえ!?」

「ねえ、翔くん! 聞いた⁉ 今の聞いた⁉ あははははは! 物音がしてたよ! カランカランだって! 何か落ちたのかな? あははははは!」


 うわああああ! 玲華がドン引いたのわかるよ! これ絶対にやばいやつだって!

 俺と愛梨は予期していなかった事態に顔を合わせて互いに首を振る。いや、どうしていいかわからない!


「すっごく暗いよね! おっかし~! あはははは! あはっ、あはははは!」


 凛は凛で壊れたように笑っているし。取り憑かれた? いや、でも自分の考えはちゃんと話せているから、憑かれているわけではないか。

 考えろ、凛のこの笑いの意味を考えるんだ。霊安室に来るまでは、笑っていなかった。それはどういう意味だ?


「よし、凛。落ち着け。とりあえず、純哉がいた場所まで戻──」

「ほら、見て! あはははは! あのベッド! あのベッド真っ赤! ほら、血! 血! 真っ赤! あはははは!」


 凛が指差した病床は暗くて何も見えないし、懐中電灯で照らし見ても血で濡れていなかった。

 待ってくれ、お前は一体どんな景色を見てるんだ!?

 その時、また別の箇所でも物がガランガラガランと落ちた。というか、さっきより音が近づいてきてないか!?


「おい、これはやばい! 凛、愛梨、とりあえず戻るぞ!」


 愛梨は真っ青な顔で頷いてくれたので凛の手を引くと、何とか凛もふらふらと──笑いながらだけど──ついてきてくれた。

 凛の手を引き、必死に走る。必死に走りまくる。

 それからすぐに純哉と分かれたナースステーション前まで戻ってきたが──今度は純哉の野郎がいなくなっていた。おい、俺達さっきこの通り真っすぐ行くって言ったよな? なんで会わないんだよ!

 ナースステーションまで来れば、ようだ。

 これはどういう事だろうか。霊安室前だから笑いが収まらなかったのか? それとも、あそこに何かいたから笑いが収まらなかったのか? どっちだ?

 ただ、今は笑っていないので、きっと大丈夫なのだろう。いや、絶対に大丈夫じゃない。この病院は、絶対に。とっととこんな場所から逃げるに限る。


「おい、純哉!? どこだよ!」


 あのバカ、迷ったか? そう思っていると、ナースステーションから向かって右側の廊下から人影がにゅっと出てきた。

 びくっとしてそちらを懐中電灯で照らすと、純哉だった。

 思わず「ビビらせやがって……」と安堵の息を漏らした。


「おー! やっと見つけたぜ、お前ら!」


 純哉だとわかって、とりあえず俺は今来た方──霊安室があった方角──へと懐中電灯を向ける。何かが追ってきている気配はなかった。

 しかし……そこでふと俺は思った。

 今純哉が出てきた廊下は、


「あれ? ていうか、お前ら何でそっちに三人いるんだよ?」


 純哉がいきなりわけのわからない事を言う。


「は? 何意味わからねえ事言ってんだよ! 冗談にしちゃ笑えねえぞこの馬糞野郎!」


 どうせ物音もお前だろ、と愛梨がキレ気味で言うが、純哉は動じない。

 その時、俺の手を握る凛の手が震えた。


「……ふふっ、ぷぷっ……くくくっ」


 のだ……。


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