5章 第8話

 時刻は夜の七時。

 俺はあのバス停にいた。玲華から別れを切り出されたバス停、そして俺の時間が止まってしまったバス停だ。

 さっきから何度かバスから人が降りてくるが、玲華がやってくる気配はない。

 この場所にいるだけで、何回もこのバス停を使った事を思い出す。玲華の家に来る時と帰る時。そして、最後別れを切り出された時の口付け。もう1年半も前のはずなのに、くっきりと思い出せてしまう。それが少し憎らしくて、切ない。

 人間の記憶力というのは、思ったよりも良いらしい。

 玲華が何時に来るかわからない。あまり気負っていても仕方ない。俺は目を閉じて、玲華が来るのを待った。


「お待たせ」


 それから30分ほど経った頃、ふとそんな声がかかった。

 ゆっくり瞳を開けると、海成高校の制服に身を包んだ玲華がいた。玲華の制服姿を見るのは、あの修学旅行以来だろうか。

 最も、あの時は修羅場ってしまったので、それどころではなかった事もあってか、その姿を見ると懐かしい気持ちになる。


「⋯⋯案外早かったな」


 あと一時間は待つ覚悟だったのだけれど。


「急いだからね。田中に車飛ばさせて。リンに何か言われたの?」


 言いながら、バス停のベンチに座った。奇しくも、あの別れた時と同じ配置だった。

 マネージャーは東京に戻っても相変わらずパシられているようだった。凛はマネージャー相手でも気を遣いそうなものだが、きっと玲華のだから、ほぼ奴隷のようにこき使っているのだろう。


「いや、違う。ここに来たのは、俺の意思」

「そう⋯⋯」

「えっと、それで玲華。話っていうのは──」

「待って」


 話だそうとすると、手で制された。


「私から先に話していい? 私も、君と話したかったし」

「⋯⋯ああ。わかった」


 玲華がそう言うなら、俺はそれを受け入れるしかないと思っていた。

 俺はここで置き去りにしたものを、全て取りに来たのだから。彼女の話を聞くのも、その置き去りにしたものの一部だ。

 玲華は大きく息を吐くと、力なく微笑んだ。


「リンとの勝負、もともと勝ち目が薄い事はわかってたんだ。君はリンばかり見ていたから。きっと、もうその瞳に私は映ってないんだろうなって⋯⋯」


 唐突に玲華は話し出した。どうしてそんな話をしだしたのかはわからない。でも、その言葉に間違いはないように思う。俺の答えは、ああして彼女達が戦わなくても、最初から決まっていた。

 今、俺が付き合っているのは、玲華じゃなくて、凛なのだから。それでも、俺はここに気持ちを置き忘れていたせいで、玲華への情も捨て切れていなかった。それが二人を苦しめ続けた。あの戦いは本来不必要なもので⋯⋯俺の弱さが生んだのだと思う。


「でも、私はリンよりもショーの事をよく知ってるから⋯⋯どうすればショーが苦しんで、構ってくれて、気を許してくれるか、全部知ってるから、私はそこを突いて戦うしかなかったんだよ。だから、あんな作戦を選んだの。私にはああするしかなかったから」


 嫌な想いさせてごめんね、と玲華は謝った。

 俺は首を横に振る。もう、その事は今更どうでもいい。彼女は彼女で必死だった。凛も『自分も同じ立場ならそうしていた』と言っていた。きっと、彼女達を責める資格は、俺にはない。


「あの時、アパートに騙して連れ込んだ時もそうだよ。ショーならこうやって心配かければ断れないって、知っててやった。私のご飯を食べて、私と昔みたいに一緒に勉強してれば⋯⋯きっと、想い出すと思って」


 あそこで泣いちゃったのは私の誤算だったけどね、と溜め息を吐いた。


「でも、1番の誤算は、ショーが強くなってた事」

「俺が強くなってた?」


 そんなバカな。あそこでも俺はずっと弱者だったはずだ。


「うん。ほんと言うと、あそこまで耐えると思ってなかった。孤独と疎外感、それにヨースケへの嫉妬で、もっと簡単に折れると思っていた。折れかかったところを、『君の事わかってるのは私だけだよ』って寄り添って、そこで振り向いてもらうしかないって⋯⋯そう、思ってたから」


 これが、玲華が企てていた謀略なのだという。凛を女優に引き戻した時は、ここまで考えていなかったそうだ。ただ、凛の復帰が決まって、それから俺が陽介さんのスタッフとして手伝うと決まって、それでここまで考えていたというのだから、驚きだ。

 ほぼ俺は手のひらの上で踊らされていたと言っても過言ではない。


「それなのに、あのへっぽこのショーがさ、自分で居場所や役割を作って、スタッフの人達から認められていってさ、逃げずに耐え抜くだなんて⋯⋯思ってもなかったよ。そんなにも凛の事が好きなんだ、大切なんだって思うと⋯⋯悔しかったし悲しかった。私もそういう風に想ってもらいたかったって⋯⋯もし、あの時のショーならそうしてくれたのかなって思うと、余計につらくなった」


 玲華の瞳に涙が浮かんで、声が震えていた。

 それでも、彼女はぐっと涙を堪えて、溜め息を吐く。


「だから、もう私には⋯⋯あれしか残されてなかったんだよ。ああすることで、リンに敗北感を与えるしかなかった。ショーと付き合ってる限り、一生引きずれって⋯⋯そうやって呪いをかける事が、私に残された、最後の抵抗だったんだ」


 イタチの最後っ屁ってやつだね、と玲華は自嘲的に言った。


「私は自分の計画を自白していた時でさえ卑怯者だったんだよ。もう勝てないから、全部言って、勝ちを譲るように幕を引いて⋯⋯リンが傷つく事をわかっててやった。リンが自信を無くして、私にも勝ちを譲られて、誰にも当たれず、ただ自分一人だけ苦悩して、ずっと苦しんで耐えられなくなってしまえばいいって。最後の最後まで、私はズルをするしかなかった。正々堂々の勝負なんてちゃんちゃら嘘。最初から、そうやってズルして勝つ事しか考えてなかったの。ショーと再会した時から⋯⋯もう、ショーの気持ちはわかり切ってたから」


 ここで、愛梨が昨日怒っていた理由について確信した。

 勝ちを譲る事で、敢えて凛だけを苦しめようとした事に、愛梨は怒っていたのだ。『お前は彼氏の異変に気付けなかったけど勝ちを譲られた』という、誰にも当たれない敗北感だけを与えて、ずっと自分の影に苦しめばいい、と⋯⋯玲華は、凛にそんな呪縛を与えたのだ。"優菜"は"沙織"に負けたが、玲華は凛に完全に負けないように手を打っていた。

 愛梨が『爆弾を抱えたまま相手に突っ込んで自決したようなもの』と玲華の行動を評価した理由もわかった。凛が自信をなくして力ない笑みしか浮かべられなくなったのも、今ならよくわかる。彼女は気付けなかった自分を怨み、そして、無力感の中で自分を呪っていたのである。

 彼女が最後に『幸せになってね、"沙織"』と言ったのは、おそらく⋯⋯『"沙織"の幸せを願ってはいるが、おの幸せは願っていない』という想いも込められていたのだろう。そして、凛はその隠されたメッセージを受け取りつつも"沙織"として、表だけのメッセージを受け取った様に演じたのである。

 女ってやつはどうしてこんなに、他者が読み取れないような駆け引きを裏でやっているのだろうか。


「ほんとはこんな事したくなかったはずなんだけどね。凛とは正々堂々勝負をしたいって、最初は思ってたはずだった。負けないとも思ってた⋯⋯でも、君と話すにつれて、勝てないんだなって⋯⋯気付いたんだ」


 こうして思い返せば、玲華の行動は矛盾だらけだった。

 正々堂々と勝負をしたいと言いつつ、やっている事は自分でも卑怯と思えるような事。でも、もっと卑怯な手を使おうと思えば、使えたはずなのだ。それこそ、あのアパートに俺が誘い込まれた時の事だって本当の事を言えば、俺達の関係はもっと壊れかけてしまっていたのかもしれない。

 でも、それだけはしなかった。玲華も玲華で、正々堂々と卑怯な手法の合間で苦しみ続けていたのかもしれない。


「リン、凄く苦しんでたでしょ? それで演技も崩れるのかと思ったけど⋯⋯やっぱりそこだけはリンも譲らなかった。撮影中だけは完璧にこなしてた。凄いと思うよ」


 私はズタボロだったけどね、と玲華は笑った。

 あの後の撮影で、台本が変わって一番苦労したのは玲華だったという。台本を捻じ曲げて我を通した責任を自ら背負ったはいいが、"優菜"の負の感情と自分の負の感情が一致し過ぎて、精神的にどんどん辛くなったのだそうだ。撮影も玲華だけなかなか満足のできる演技が出来ず、長引いたという。それは、彼女は"優菜"の感情と自分の感情で押しつぶされそうになっていたからだ。打ち上げにも参加せずに、東京にさっさと帰ったのはその為だったのだ。


「ね? あの時言った通り、最低な元カノでしょ?」

「そこまであの一言に籠められてたのかよ」

「そう、籠めてた」


 呆れて言葉も浮かばなかった。

 やっぱり⋯⋯こいつは俺なんかよりもはるかに凄い場所にいて、何でも見通せて何でも自分の思い通りにしてしまうような、そんな人間離れした凄さすら感じてしまった。


「でも、そうやって卑怯な事やってる裏側で、リンの為にあそこまでショーは強くなれるんだなって⋯⋯羨ましくて嫉妬してた。どれだけ頑張っても、ズルしてもリンには勝てないんだって気付いた。多分それは⋯⋯弱さを知っているからこそ、君の弱さを受け入れられる強さがリンにあったからなんだと思う。当時の私は、君の弱さを受け入れられなかった。その弱さを理解できなかったから。君はそんなんじゃないでしょ、もっとやれるでしょって⋯⋯皮肉にも、私が弱さを理解できたのは、君に別れを告げた後だった」


 1年半前の6月、このバス停で。玲華から別れを告げられたこの場所で彼女は弱さを知ったという。俺が自分の弱さに耐えきれなくて、うずくまってしまっていたあの時に、玲華も⋯⋯自分の弱さを見ていたのだ。

 それは何んとも皮肉な話だと思えた。


「私さ、見ての通り、運動も勉強も、顔もスタイルも、何でも人より優れてるでしょ?」


 少し自信ありげな顔で、俺に笑いかけて見せる。悔しいながら全て事実なので、俺は頷くしかない。玲華は満足げに「よろしい」と頷いて、続けた。


「だから、自分は特別恵まれていて、何でもできると思ってた。若さ故の万能感ってやつも入っていたし、それだけのものを神様から与えられていると思ってた。でも、そんな私でも君だけはどうにもならなかった。1年半前のここで君を失って、私は初めて人生で挫折したんだ」


 どうにもならなかった、とは⋯⋯俺を立ち直らせる事。どれだけ彼女が尽くしても、俺の心は玲華への劣等感で満ちていた。

 いや、違う。彼女に尽くされたからこそ、俺の劣等感は募っていったのだ。決して俺を下に見るような事はしていなかったけれど、同情されているような、そんな気持ちになっていたのだ。

 そう⋯⋯俺があの時に求めていたのは、慰めでも奉仕でもなかった。


『私にとって、ショーはショーだよ』


 撮影中に彼女はこう言ってくれた。

 この言葉こそ、当時の俺が求めていたものだった。別に海成高校に受かってなくてもいい、そのまんまの俺でいいよ、と⋯⋯凛が俺に言ってくれたみたいに、言って欲しかった。

 慰めでもなく、奉仕でもなく、ただそのままの俺を受け入れて欲しかっただけなのだと思う。もちろん、それには俺自身も気付いていなかった。凛に言われて、初めて俺がその言葉を欲していたのだと知った。だからこそ、凛の言葉に涙が出る程嬉しく感じたのだろう。


「それに気づいた時、自分が普通なんだって気付いちゃった。特別でも何でもない、普通の女なんだって。そうなった時に初めて、ようやく君の弱さも理解できたってわけ。もう、手遅れだったけどね」


 再会してからの玲華は、俺が見ている限りは付き合っていた当初と同じように見えていた。ただ、玲華に言わせると、それはそう演じていただけなのだという。

 ただ、それが演じきれなくなったのが、あのアパートでのひと時。一度自分は完璧だという万能感がなくなって、弱さを知ってしまえば、崩れ易くなってしまったのだ。


「あのアパートで泣いちゃった時⋯⋯私ってほんとに弱いんだなって思ったよ。ううん、もしかしたら君に私の弱さを見てもらいたかったのかもしれない。私も弱いんだよって⋯⋯君と同じなんだよって、知って欲しかった」


 そう。それで、俺は初めて玲華の弱さを知った。完璧じゃなかったと知った。玲華は何でも完璧で苦労なんてしないと思っていた自分の愚かさを許せなくなった。


「でも、君にもう1つ謝らなきゃいけない事があるんだ」

「⋯⋯なに?」


 もう、今更何を言われても驚かない自身があった。

 俺は溜め息を吐いて、彼女の横顔を見る。


「私は、君の事が好きだったけど、その感情だけでこんな事をしてたわけじゃないんだと思う」

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