5章 第9話

 玲華曰く、彼女の中では1年半前の別れで全て諦めたつもりだった。心を閉ざして、俺との想い出を過去に封じ込めて⋯⋯ただ黙々と過ごしていたのだという。凛が芸能界を引退して、代役を引き受けたのも、そんな気持ちを紛らわせる為だった。

 そして、そんな時に、俺達は再会してしまった。


「君達と再会して私を覆った感情の根源は、リンへの嫉妬と羨望だったんだよ。再会できて嬉しい、やっぱり好きっていう気持ちよりも先に、私が手に入れられなかったものを簡単に手に入れたリンが許せなかった。純粋に君の事だけが好きだったかっていうと、多分違う」


 何となく、そんな気はしていた。

 玲華の行動は、どこか俺というよりも、凛が嫌がる事を進んでやっていたように思うから。俺への気持ちがゼロだったわけではもちろんないとは思うけれど⋯⋯でも、玲華の行動は、俺を好きというよりも、凛から俺を奪いたかったかのような行動が目立っていた。

 同じようで、それは大きく異なる。


「もし、本当に好きだったら⋯⋯リンみたいに全てを捨てて君のところに行けたのかな。でも、それができなかったのは、君の事が好きだったわけじゃないのかなって⋯⋯考えちゃう」

「⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯」


 玲華が鼻を啜って、泣きそうな顔で笑っていた。ショートカットの毛先を、指先でいじる。


「リンにさ」


 少し沈黙が続いたので、俺が話だそうとすると、玲華がそれを察知したように言葉を発した


「うん?」

「撮影の時、リンに『自分から手放したくせに』って言われた時、ほんとは悔しくて泣きたくなった。事実だったから。『そのままの彼を受け入れてあげなかった』って言われた時も、かなり応えたかな。あの子はあの子で結構キツイよ。私の痛いとこばっか突いてくるんだもん。案外私よりきっつい性格してたりしてね。苦労するよ?」


 玲華は急におちゃらけたように笑って、からかっているような表情を作って見せた。なんだかいきなり論点が少しズレ始めたように思う。それに、途端に演技臭くなった。

 その様子に、少し戸惑ってしまう。彼女は一体何がしたいんだ?


「今日だって、リンに行けって言われたから来たんでしょ? だって、リンが私の呪縛から解放されるには、君に私を拒絶させるしかないから。だから──」

「違う」


 そこだけははっきりと否定した。

 確かに、彼女からはっきり向き合えとは言われた。

 でも、ここにきて、玲華と話そうと思ったのは、俺の意思だった。俺は、玲華とケリをつけなければならないと思っていた。それは⋯⋯ずっと。そうしないと、俺達みんなが前に進めないから。


「違わない」

「違う。俺は⋯⋯自分の意思でここに来たよ」

「⋯⋯⋯⋯」


 玲華は下を向いて、唇を噛んだ。


「⋯⋯俺の話、していいか?」

「だめ。やだ⋯⋯」


 玲華が下を向いたまま、涙声になって頭を振った。


「どうして」

「だって⋯⋯話したら、本当に、もうショーとの時間が終わっちゃう」


 玲華が顔を上げた瞬間⋯⋯玲華の瞳からどばっと涙が溢れた。嗚咽をして、息苦しそうに喘いで、顔を両手で覆う。

 その時、俺は察してしまった。

 ここまで長い事、懺悔のように話を続けていたのは⋯⋯俺に話をさせない為だったのだ、と。中途半端な話をしても俺から遮られて押し切られてしまうのがわかっていたから、俺が遮れない話題で話し続けたのだ。いきなり演技臭くなったのは⋯⋯話題が尽きてしまったからだ。

 両手で抑え切れず、涙が手を伝って、手首、そして腕へと流れていく。あのアパートでの涙とも、1年半前のここでの別れとも違う涙。それこそ、永久の離別を予期するような、涙。

 でも、今の俺は、その涙を拭ってやる事も抱き締めてやる事もできなくて。こうして泣いている、昔大切だった人をもっと傷つける事を言わなくちゃいけなくて。

 こんな風に泣いている彼女を見ていると、ちゃんと話せる自信がない。カタカタと歯が震えて、視界がぼやけて玲華がちゃんと見えなくなってくる。

 でも、言わなきゃいけないんだ。

 俺は、これを言う為にここまできたのだから。どれだけ辛くても、玲華を傷つける事になっても、俺はこれを言わなきゃいけない。


「俺は⋯⋯」


 玲華は咽び泣いている。もう、この後に何が続くのか、理解しているのだろう。


「俺は⋯⋯凛が好きだ」


 ぐっと手を握り締めて、言葉を絞り出す。


「でも、まだ俺はお前に何も御礼言えてなくて。高校受験のあと、たくさん元気付けてくれた事も、一緒に色んなとこ遊びに行ったことも⋯⋯あの時、二人で過ごしていた時間が楽しかった事も。お前に別れを切り出されるまで、全然気付いてなくて、ずっと後悔してた」


 玲華はもう顔を上げられない。聞いているのかどうかもわからないほど、咽び泣いている。そんな玲華を見ていると、もう俺も涙を抑えられなくなっていた。


「あの時、俺が落ち込んでた時、必死に元気付けてくれてありがとう。感謝してる。あの時の俺は、間違いなくお前の事が、本当に好きだった。それなのに、俺が弱かったばっかりに⋯⋯お前の事支えてやれなくて、同じ場所に立ってやれなくて、ごめん」


 玲華との楽しかった想い出が走馬灯のように脳裏を横切っていった。いつでも俺が困っていて、振り回されていて、でも、玲華が笑っていた。それが嬉しくて、振り回されていた。あの時、俺が耐えきれていれば⋯⋯今くらいの強さがあの時あれば、あの笑顔をまだ見れていたのだろうか。こんな風に泣かせずに済んだのだろうか。そんな事を思わなくもない。

 でも、もう違うんだ。俺も、玲華も。あの時とは、違ってしまっている。人は変わってしまうのだ。


「玲華にはずっと憧れてた。お前と同じ場所に行きたかった。お前と同じ目線で話したかった。でも、今はそうじゃない。俺が居たいのは凛の傍で、俺が今好きなのは⋯⋯雨宮凛なんだ。あいつ以上に俺をわかってくれる奴はもういなくて、俺以上にあいつを理解できる奴もきっといなくて⋯⋯一緒にいるのが、一番落ち着くし、安らげる。それが⋯⋯凛なんだ」


 玲華はただ呻いて、頷いていた。俺も咽び泣いた。

 それから、俺達は言葉もなく、互いに涙を流し合った。きっと、互いを慰めてやりたい、あやしてやりたいと思っていたに違いない。背中を摩って、抱き締めてやりたいと、互いに思っていたのだと思う。それほど、俺達は、互いに酷い有様だった。

 でも、もう俺達にはそれができなくて⋯⋯少し手を伸ばすと届く距離にいるのに、まるで時空を隔てているように、触れられなくて。そして、誰よりも俺達自身がその事を知っていた。

 ただただ、言葉を交わす事なく、涙を流し続けるしかなかった。


 それからしばらく泣き続けていた。

 その間、何本かのバスが、俺達が泣いている間にバスは停まっていて、その都度降りてくる乗客に奇異な目で見られていた。それを気にする事なく、ただただ互いの悲しみを咀嚼していた。

 ようやく落ち着いてきた時、玲華がはっとしてスマホを取り出した。


「ショー、やばい! もうこんな時間!」


 時刻は20時半といったところだった。


「え?」

「次のバス来たら、もう早く行って! 間に合わなくなるから!」

「別に、まだ終電までしばらく時間あるし⋯⋯」

「あほ! あほショー! 君、今日が何の日だかまさか知らないの!?」

「は?」


 玲華はスマホのディスプレイ日付を指差す。12月5日と書かれている。

 日付以外にも目に入ったのが⋯⋯スマホの壁紙。そこには、凛と肩を組んで二人でツーショットを撮っていた写真。おそらく、映画の撮影の時のものだ。

 玲華にとって、やっぱり凛は恋敵以上の友達でもあるのではないか、と一瞬思ってしまうのだった。そんな二人をあそこまで傷つけ合わせてしまったのは俺で⋯⋯やっぱり、罪悪感を拭い去れない。


「え? 今日、なんかあるの? 特番?」


 壁紙には気付かないふりをして、今日が何の日だったのか記憶を遡る。俺の記憶の限り、今日は何もない。


「ちゃーう! あほ、ばかたれ! 脳みそ腐ってんのか、あほショー!」

「はぁ!? なんでいきなりそんな事言われなくちゃいけないんだよ!」

「今日リンの誕生日でしょーが! だから今日中にケリつけに来たんじゃないの!?」


 え⋯⋯? 凛の、誕生日?

 その言葉に、すっと血の気が引いていくのを感じた。

 いや、そういえば、凛の誕生日を聞いていなかった。12月だったというのだけは聞いていたけれど、それがまさか今日だったなんて⋯⋯もし今日だと知っていたら、別の日にしていた。


「う、うそだろ⋯⋯?」

「うそなわけあるか!  ほんと、あほショー⋯⋯私の時と同じミスして、彼女の誕生日忘れる機能でもついてんの、その脳みそは? それともあほなの?」


 そうだった。玲華の時も誕生日を知らなくて、彼女を怒らせたのだった。ケーキビュッフェに連れていくことで何とかご機嫌を回復させたのだ。

 そうか。それでさっきの電話で玲華は『君も今日中に帰らないといけないだろうし』と言ったのか。あの時は何の事かさっぱりわからなかったから流してしまっていた。


「いや、お前もだし凛もだけど、二人とも誕生日予めちゃんと教えてくれてなかったんじゃないか⋯⋯」

「うっさい、言い訳するな! ほら、次のバス来たから。大宮から行けばギリ日付変わる前に帰れるでしょ? 絶対に今日中に帰れ!」


 ばん、と玲華が俺の背中を𠮟咤激励するように叩く。

 彼女の言った通り、路線バスが来ていたので、慌てて立ち上がって、バスに乗る準備をした。スマホで時刻表を調べると、ぎりぎり何とか日付が変わる前に鳴那町に着けそうだ。

 バスが停車して、扉を開いた。そのバスに慌てて乗ってICカードをタッチすると、「ショー」と名前を呼ばれたので、振り返る。

 そこには、付き合っていた当時のような、綺麗な笑顔を見せていた玲華がいた。彼女が乗らない事を確認してから、運転手がドアを閉めようとすると、その直前に玲華が手でドアを抑える。


「大好きだよ、ショー。今までありがとう。それに、たくさん傷つけてごめんね。幸せになって」


 にっこりと、これ以上ない綺麗な笑顔を作ってみせてから、彼女はそう言った。言い切ったタイミングでドアから手を離すと、運転手はもう一度ドアを閉めてから、バスを発車させた。

 また溢れだしそうになった涙を抑えて、後部座席から彼女の姿を捉える。玲華は、バス停からずっと笑顔でこちらを見ていた。


「くっそ⋯⋯!」


 どんどん小さくなっていく玲華を眺めながら、小さく呟いた。その直後にバスが曲がって、玲華が見えなくなった。

 どうしようもない思いと苦しさが込み上げてきて、腕で顔を覆った。


「それでも俺は⋯⋯凛が好きなんだよ⋯⋯」


 どさりと力を無くした様に座席に座って、そう心の声を小さく呟く。

 変わってしまった心は自分の意思ではもう戻せない。

 どれだけ玲華が好きでいてくれても、どれだけ昔玲華の事が好きだったとしても、今の俺は凛の事が好きで⋯⋯それは、さっき彼女に言った通りの事で。

 だから、この苦しみにも耐えなければいけないんだ。

 この苦しみや悲しみこそが、ここに置き忘れたもので──俺はこの忘れ物を取りにきたのだから。

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