4章 第20話

 再び、沈黙が俺達を襲う。

 何を話していいか、わからなくなってしまって、つい、言葉が思い浮かんでは消えて、結果として沈黙がつづいた。

 そのうち、凛の家が見えてきた。

 誰もいない、真っ暗な家だ。今日もお祖母ちゃんはいないのだろうか。


「ねえ、翔くん」

「うん?」


 彼女が言葉を切り出してくれたことに少し不安を覚えた。

 彼女の声から、決意を感じたからだ。

 そして、彼女はこう訊いてきた。


「ほんとに私でいいの?」


 彼女がこの質問を俺に投げかけるのは、二度目だった。一度目は、初めてデートをした日の夜。泣きながら訊いてきた。

 このタイミングで訊いてくるとは思っていなくて、言葉に詰まる。


「私と玲華にできる事は終わったから⋯⋯もう、私達の間では何も起こらないと思う。でも、翔くんは? 翔くんの気持ちは? 翔くんは、本当にこんな私でいいの?」

「だから、お前な⋯⋯」

「ちゃんと、翔くんの気持ちを聞かせて」

「凛⋯⋯」

「私は⋯⋯気付かなきゃいけなかった事に気付けなかったから。どう言われても、どんな事情があっても、それに気付けなかった自分を許せない」


 もちろん、俺の答えは決まっている。だけど、それを今伝えても、凛は納得しないだろう。

 彼女は、自分が俺の異変に気付けなかった事に関して、相当悔やんでいる。だから、自信がなくなっているのかもしれない。

 撮影中は、凛に弱音を悟られないよう、俺が意図的に隠していた。凛にだけは気付かれないようにと努力していた。彼女が女優として活躍できるよう、俺はそれだけの為に撮影に参加していたと言っても過言ではない。だから、弱音を吐けるわけがなかったのだ。

 陽介さんにくだらない嫉妬をしている事や、自分に役割がない疎外感を必死で埋めたくて、映画の雑用や犬飼監督の作品、みんなの会話についていけるように色々調べたりして会話を合わせて、必死で隠した。その副産物で、スタッフの人達から評価してもらえた。凛も、そんな俺のお陰で今日まで撮影に参加できたと言ってくれていた。俺の取り組みは成功したと言ってもいい。

 でも、それでも⋯⋯凛は気付きたかったと思っているのだと思う。


(いや、それだけじゃない、か⋯⋯)


 自分が気付けなかった事を、玲華が気付けた事にもショックを受けているのだ。

 俺は、自分の心や弱みを閉ざした。弱みですら受け入れてくれる、どんなかっこ悪い俺でも受け入れてくれると言った凛に対して、本音を隠していた。

 そして、そこで無理して隠していたから、玲華の前ではダダ洩れで、意図していなかったとはいえ、玲華にこそ本音を見せてしまっていた。

 きっと、凛は表には出していないが、それがすごくショックだったのだろう。


『自分が勝てないって思った女が元カノで、その元カノが彼氏のことをまだ好きだと知ったら⋯⋯普通の女ならとっくに気が狂ってる。メンヘラ一直線だ。凛がそうなってないのは、それだけ凛が強いのと、無理してるってことなんだよ』


 いつかの愛梨の言葉が蘇ってくる。

 凛の心はギリギリのバランスで保たれていたのかもしれない。彼女が心を保っているのは、彼女の強さとプライドの高さ。そうして心を保っていた彼女が、瞳を潤ませて、泣きそうになりながら、怯えたような瞳でそう切り出している。

 これは、あの時と同じ瞳だ。玲華と再会して、彼女に罵られて、怯えている時の⋯⋯弱々しい凛。

 取り戻し掛けていた自信を、失ってしまったのだ。自分が俺と付き合っていていいのか、玲華に勝ちを譲られたような形で、敗北感だけが彼女を襲っている。この状態のまま俺と付き合っていても、結局凛は、玲華への敗北感から逃れられない。撮影を挑んで、乗り越えつつあったのに、さっきのやり取りで、その全てが崩れた。

 さっき凛は、玲華に対して勝者"沙織"として接した。だからこそ、あれは映画のクライマックスたり得るシーンにもなった。それができたのは、凛が強者であり、女優だったからだ。

 だが、凛の本心は、自身が知らなかった事を知らされて、それに気付けなかった事や玲華が気付いていた事への敗北感で満たされている。最後のシーンで、彼女が人知れず唇を噛み締めていたのは、きっとその悔しさからだ。

 

「私⋯⋯翔くんの事、好きだから。諦めたくないけど、でも、同時に邪魔もしたくない。だから⋯⋯ちゃんと、向き合って欲しい。私とも、玲華とも」


 今俺が凛に対して『お前だけだ』と伝えても、きっと彼女は満足しない。そういう事を望んでいるのではない。

 それに、俺にはまだ、去年の6月から後回しにしている問題がある。

 いや、それだけではない。俺はここ至るまで、何も決めていないのだ。長野に逃げてきてから、一度も俺は自分で決めていない。決断から逃げてしまっていた。

 凛とは半分流れで付き合うようになっていたし、そこから玲華と再会してからも、この映画の撮影に至るまで、俺はほとんど何も決めてないのではないだろうか。凛と玲華も、これまでいくつもの決断をしてきたというのに。

 本当に、俺は情けない。つくづく情けない。その情けなさが、この2人をここまで苦しめてしまっている。

 いい加減男を見せないと、立つ瀬がない。


「ごめん⋯⋯私、かっこ悪いよね。かっこいいとこ見せるって言ったのに、結局最後がこれだもんね」


 弱々しい笑みを作って少し首を傾げた。目じりに溜まった涙を精一杯堪えながら。

 そんな彼女に対して、俺は首を横に振る。


「凛⋯⋯お前はかっこ悪くなんてないよ。すげえかっこいい。今日も最後まで堂々としてた」


 敗北感を押し殺して、勝者を演じた。その姿のどこがかっこ悪いと言えるだろうか。


「⋯⋯こう見えて、準主演女優なのさっ」


 いつものあっけらかんとした笑顔を作ろうとしたけど、それができなくて⋯⋯凛の頬を一滴の涙が伝う。

 俺が採った選択肢は、誤りだったのか。こんな彼女を見ていると、そう思ってしまう。

 凛を心置きなく撮影に参加させる事に関しては最善だったのかもしれない。ただ、凛が本当に勝ちたかった勝負──玲華との勝負──に関しては、完全に悪手だったのではないか。

 今更言ってもどうしようもない。そして、例えこれが悪手だったとしても、こんな情けない俺でも、男のプライドというものがある。あの状況下で、どんなにつらい事があっても凛を支えてやると誓った俺が、凛に弱音を吐くという選択肢はない。あってはならない。それこそ、俺が変われていない証なのだから。


「撮影が終わった後⋯⋯ちゃんとケジメつけるから」


 不安そうに俺を見つめる凛を、我慢できずに抱き締めた。

 本来、今はこんな事許されていなくて。少なくとも、俺がしっかりと過去の自分にケジメをつけるまでは、彼女に触れる事は許されないはずだと思う。それでも、俺はそうせざるを得なかった。こんな彼女を放っておけないから。

 彼女も何度か腰に腕を回そうとしていたが、それができなくて、結局行き場に困らせた手は、そのまま下ろしていた。


「俺はもう撮影に参加できないけど⋯⋯お前は、最後まで最高の"沙織"を演じて、あの映画を完成させろよ」


 彼女は俺の胸の中でこくりと頷いた。

 凛が作品を完成させてくれたのなら⋯⋯俺にできる事は、もう、あと1つだけしかない。

 1年半前にあのバス停に置き去りにしたものとちゃんと向き合う──それだけだ。

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