4章 第16話

「どういう、事⋯⋯?」


 凛が理解できない、という表情で玲華を見る。

 玲華は、さっきまでの怒気が全くなく、諦めたように笑っていた。


「あなたをこうやって罵るために、私が仕組んだって事」

「え⋯⋯ちょっと、なに、言ってる、の⋯⋯?」

「今の事を言って、あなたを傷つけて、無力だって知らしめて、ほんとに辛いときに側にいるのは私だよって、あの人に思ってもらいたくて⋯⋯そうやって出し抜くつもりだった、って言ってるの」


 彼女は自嘲するように笑って続けた。


「人に言えないような狡い事、ずっとしてた。私ね、知ってたんだ。どうやったら断られないかも、どうすれば優しくしてくれるかも、どうすれば彼が傷ついて、どうすればこっちを見てくれるかも。あの人の弱みに付け込んでたんだよ。あの人がわざと傷つくように仕向けて、それを見つけたふりして、近づいて⋯⋯そこにつけ入ろうとしてた」


 凛は驚いた表情で玲華を見ていた。

 何を言っているのかわからない、という表情だった。

 ただ、俺だけは、彼女のその言葉に心当たりがあった。

 もしかして全部そういう事だったのか? 全部お前の描いた筋書きだったっていうのか?


「これじゃ、どっちがドロボウ猫かわからないね⋯⋯?」


 玲華は諦めたように笑った。

 どうしてそんな達観しているんだよ⋯⋯。

 本当にそうなのか? 玲華は、俺が疎外感を感じて、ひとりで傷つくのも⋯⋯凛が自分の事で精一杯になって、余裕がなくなって⋯⋯その間にどんどん俺の心が荒んでいくことも、知っていたというのか? そうやって少し弱った時に、いつも声をかけてくれていたのか?

 おにぎりをくれた時も、駅のホームまで追いかけてきたのも、できれば撮影を見に来てほしいって言ったのも⋯⋯そのあと事あるごとに話しかけて和ませてくれたのも、全部、そのためだったっていうのか?


「ううん、違う⋯⋯きっと私が背後霊で、ドロボウ猫なんだ」

「違う⋯⋯違うよ。そんなことするはず⋯⋯」

「違わない」


 玲華は断言するように言った。


「ほんとはね、彼が傷つくの知ってて、苦しむの知ってて⋯⋯でも、もっと彼を傷つけるように仕向けたの。苦しいだけって知ってたのに、お願いしたんだよ。あなたが自分の事で精一杯なのも知ってて、彼が見たくないものを見るのも知ってて。それでも、逃げないように来てねって言った。もっと傷ついて、心に隙間ができるようにって⋯⋯それでまだ自分に望みがあるならって⋯⋯そう、思って」

「⋯⋯⋯⋯」

「さっきは私が気付く事なんで気付けないんだよって怒鳴ったけど⋯⋯当たり前だよ。だって、彼はきっとあなたにだけは気付かせないようにするから。あなたに心配かけないようにするってわかってた。そんな時に私だけが気づいてあげればいいって思ってた。そうやってあなたを出し抜いて⋯⋯でも、結局それは、私が好きな人を傷つけてただけだった。苦しめただけだった⋯⋯」


 凛はただ黙っていた。

 黙って、悲しそうに玲華を見つめていた。

 これは玲華の独白⋯⋯いや、懺悔のようにも思えた。


「殴りたくなった?」


 凛は首を横に振る。


「殴っていいよ。私、あなたにも彼にも最低な事した。出し抜かないで正々堂々なんて自分から言ったくせに、出し抜いて卑怯な事をした。あなたの大切な人を意図的に傷つけてた⋯⋯殴られても罵倒されても仕方ないから」


 凛はそれでもいやいやするように首を振っていた。


「殴れよ! 気の済むまで⋯⋯殴ってよ⋯⋯お願いだから、殴って⋯⋯」


 玲華が怒鳴るように言う。

 それでも凛は首を横に振って⋯⋯玲華に問い返した。


「じゃあ、どうして今、泣いてるの⋯⋯?」


 そこで、玲華は自分の頬に手で触れて、はっとした。

 彼女の瞳から、涙がポロポロと溢れていた。


「ほんとに勝ちたかったならさ、言わなくてよかった。本当の事言わなかったらさ、自分じゃダメだって、やっぱりあなたには勝てないって⋯⋯私は、そう思うしかなかった」

「⋯⋯⋯」


 玲華が下を向いた。


「後悔してたんでしょ? そうやって仕向けた事も、私に対しても、彼に対しても⋯⋯誰よりも、自分に対して」


 玲華の頬を伝った水滴が地面に落ちた。


「自分で自分が許せなくなって⋯⋯自己嫌悪して。それで、誰よりも傷ついてたんじゃないの? だから⋯⋯最後まで偽れなかったんじゃない?」


 玲華は何も言い返さない。


「ていうかさ⋯⋯私には罵る資格も殴る資格もないからさ」


 凛は困ったように笑うと、玲華が顔を上げた。


「私もきっと、同じ立場だったらそうしてた」


 凛は玲華に歩み寄って、指で彼女の涙を拭ってやる。


「すっごいプライド高いのに、そのプライド捨ててさ、ほんとはやりたくない事もして、みんなも自分も傷つくってわかってて⋯⋯それでもそうしちゃうくらい、好きだったんだよね⋯⋯?」


 玲華の涙を拭っている凛も、話してる間に涙が溢れてきていて、次第に綺麗な顔が涙でぐしゃぐしゃになっていた。


「私も好きだからさ⋯⋯わかるよ。絶対に諦めたくないから⋯⋯そんなとき自分の方を向いてないって知ったら、私もきっと、使えるものなんでも使ってた⋯⋯狡い事だってしてたと思う」


 凛⋯⋯。

 俺はどうしてこんなに2人につらい想いをさせているのだろう。自分の本来の気持ちを無視させてまで、こうして2人を苦しめているんだろう。

 心臓をかきむしってしまいたいくらい、どうしようもない気持ちに襲われた。


「だからさ、偶然立場が違っただけ⋯⋯私にそれを責める資格なんて、ないよ」


 凛は、玲華をぎゅっと抱き締めた。

 玲華は凛の肩に額を当てながら、声を殺して泣いていた。


「ほんと私、バカみたいだね⋯⋯。自分でもわからなくなっちゃってた。私がしてることって、一体なんなんだろうって⋯⋯あの人を傷つけてて、君から引き離そうとしてるだけ。エゴの塊。でも、それって結局⋯⋯あの人の幸せから一番遠い事なんだよね」


 まるで懺悔するように玲華は続けた。


「だって、あの人が大切に想ってるのは君だから⋯⋯そんなの、壊せない。私が壊しちゃいけないんだよ」


 玲華は一度凛から体を離した。

 そこで、大きく息を吐いた。


「だから⋯⋯幸せになってね、""」


 玲華はその表情のまま言った。とても晴れやかで、吹っ切れたようにスッキリとした笑を見せている。

 凛はそんな玲華⋯⋯いや、"優菜"をぎゅっと抱き締めた。

 きっとこれは、映画のクライマックスシーンとしては、申し分ない。さっきまで罵りあっていた2人は⋯⋯誰よりも互いを理解している

 だが、何故だろう? この時の凛の表情は、まるで何かに耐えるように苦しそうに、いや、顔を伏せていた。カメラからは死角になっていて、撮られていない。それは、清々しい笑みを浮かべている玲華とは対照的な表情だった。

 そこで、監督がようやくカットの指示を出し、そのシーンの撮影は終わった。

 凛は玲華の肩から手を離すと、下を向いたまま泣いていた。一方の玲華は満足したような笑顔を見せている。

 スタッフさん達が迷いながらも彼女達に歩み寄り、ベンチコートを羽織らせている。

 俺は⋯⋯一体どうすればいいんだろう。

 こんなものを見せられて、俺はどうすればいいんだろう。彼女達が話していたのは、映画とは全く関係なくて。

 俺は彼女達にどんな顔を向ければいい? 何を話せばいいんだ?


「⋯⋯俺のせいだな」


 黙って様子を見守っていた陽介さんが、大きく溜息を吐いた。


「良かれと思って君を引き入れたけど⋯⋯あの2人にとって、君は大きすぎたんだ。こんな事になると思ってなかった。悪かった」

「⋯⋯⋯⋯」


 俺は何も言葉を返せなかった。

 どう反応すればいいのかすらわからなかった。

 監督が2人に歩み寄った。

 玲華は、犬飼監督に、深々と頭を下げて、顔を上げた。


「監督⋯⋯申し訳ありません。私、もう今のシーンの撮影できないです。もう、あと何回撮影しても⋯⋯きっと、もう感情を乗せられません」

「⋯⋯だろうな」


 監督がうんざりしたような表情を浮かべて、大きく嘆息した。

 撮り直しを命じる様子がないので、スタッフがざわついている。


「佐藤くん」


 監督が助監督を呼んだ。


「脚本家の藤くんとコンタクトを取って今日の夜までに長野に来るように伝えてくれ。ちょいと辛いが、及第点だ。私と彼で明日までに脚本を書き直す。今のやり取りに合わせて、前後も少し変える。残り日数は少ないから、脚本は明日の朝までに仕上げる」


 助監督は『うそだろ?』という顔をしていたが、犬飼監督が異議を許さぬ眼光で睨みつけたことにより、反抗を諦めた。


「山梨くん、いるか」


 犬飼監督は陽介さんも呼んだ。陽介さんは、大きく「はい」と声をあげ、駆け足で駆け寄る。


「このあとのストーリーが大幅に変わる。というか、”達也”と結ばれる相手を”沙織”に変える。せっかく台本を覚えてもらったところ悪いが、一旦気持ちを入れ替えてくれ」

「⋯⋯だと思いましたよ」


 陽介は天を仰いで、苦笑いをする。


「RINくんもそのつもりで」


 凛は顔を伏せたまま頷き、小さく「はい」と返事した。心なしか、声が小さい。


「REIKAくんには、シナリオを大幅に変えた責任、取ってもらうからな」


 犬飼監督は冗談っぽく言うと、玲華は「わかりました」と笑顔で答える。


「さて、現場スタッフと役者陣は明日以降のためにゆっくり休んでおくように。それ以外の奴らは寝れると思うなよ」


 監督がそう言うと、その場は一旦解散となった。

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