3章 第6話 玲華の狙い⑥

(⋯⋯拍手?)


 何考えてんだ、このおっさん、と思ったが⋯⋯犬飼監督は、柔らかい笑顔をしていた。今日初めてこの人の笑顔を見たかもしれない。


「いやはや、すまないね。カメラを回しておくべきだったな、これは」


 凛は困惑の表情をしたまま、犬飼監督を見上げる。


「あの⋯⋯どういう⋯⋯?」

「いや、なに⋯⋯今の2人の口論の雰囲気こそ、まさに俺が撮りたい”優菜”と”沙織”だったのさ。本気で喧嘩をしているのか、演技を見せられているのか区別がつかないほどにね。思わず見入ってしまった」


 苦笑いをしながら、犬飼監督は頬を掻いた。

 玲華は、ふふん、と自慢げな表情だった。その顔を見て、俺は確信した。玲華のやつ⋯⋯仕組んだのか。これを。もう一度この舞台に凛を引き上げる為に、全部仕組んでいたっていうのか。サヤカという人がもう長くは保たないと読んだ上で。


「そうだな、ただ⋯⋯君に出てもらうには、まずは俺が君に頭を下げないとな」


 言うと、あの巨匠・犬飼監督が、姿勢を正して、凛に向けて頭を下げた。

 知らない間に集まっていた周囲のスタッフたちがざわつく。


「君を試すためだったとは言え、君の純情を著しく傷つけてしまった。俺は、自分の作品のことばかりで、君の気持ちを考えてなかった。アレはもちろん本意ではなかったのだが、あの時のことは謝らせてほしい」


 おいおい。まじかよ。

 大の大人が⋯⋯あの有名監督が、女子高生に頭を下げている。

 いや、違う。女子高生じゃない。監督はいち役者として、大人として凛を見ているのだ。


「ちょっと、犬飼監督!? やめてください!」


 凛が慌てて犬飼監督に寄ると、監督は続けた。


「その上で、君にお願いしたい。”沙織”の役をやってほしい」

「そんなっ⋯⋯急に言われても⋯⋯」


 凛が困惑して、あたりを見回す。

 凛と玲華が言い争いを始めたあたりから、他の役者やスタッフが外野として集まってきていた。今、大半のスタッフや演者たちがこの事の成り行きを見守っている。

 山梨さんも、面白いショーを見ているかの表情で、その光景を眺めていた。

 この重要な場面にマネージャーの田中がいないのが、彼らしいなと思ってしまう。


「翔くん⋯⋯」


 凛は、懇願するような、今にも泣きだしそうな顔で俺を見てきた。困惑と、嬉しさと、そんないろんな感情が入り混じっている。

 ばか。どうすればいいかなんて、わかりきってるだろ。ここで俺が言える事は、1つしかない。


「凛、昨日電話で自分が言ってた事思い出してみて」


 彼女は昨日、電話でこう言っていた。


『あのね、私⋯⋯⋯⋯もう逃げるのやめようかなって。玲華からも、逃げるのやめにする。だから、逃亡者同盟はおしまい』


 ここで逃げたら、また俺たちは逃亡者同盟を結ぶ事になってしまう。

 凛自身、それを望んでいないはずだ。

 彼女は俺のその言葉を聞いて、瞳にうっすら膜を張りながら⋯⋯こくりと頷いた。


「⋯⋯監督。私、やります」


 凛も姿勢を正して、監督に向けて頭をさげる。


「力が及ぶかどうかわからないですけど⋯⋯私に”沙織”をやらせてください」


 そこで、周囲のスタッフや共演者から拍手が巻き起こる。

 彼らも、もしかすると、さっきのやり取りを見ていて、監督と同じ事を思っていたのかもしれない。


「よし、”沙織”はRINくんで決定だ! じゃあ、各班代表者とRINくんはペンションの待合室に来てくれ。打ち合わせをしよう。他の連中も今日はゆっくり休んでほしい。詳しいスケジュールはまた明日に報告する」


 監督の明るい声が現場に響いた。

 その声を始め、スタッフたちは各々撤収作業を開始し始めた。

 混乱していた現場が一気にまとまり、活気が戻った。

 凛の決断が、さっきまでのどんよりとした空気を吹き飛ばしたのだ。


(すごいな、凛は⋯⋯)


 玲華だけじゃない。凛も十分に凄い。田中が凛に期待していた気持ちも、今ならわかった気がした。田中は凛のこういったところに魅力を感じていて、だからこそ成功すると信じていたのだ。

 そして、それは玲華も同じだ。凛の才能や魅力を信じていたからこそ、『いつも上を見て立ち向かってて、私が唯一仲良くできるって思った女の子』と評価していたのではないだろうか。

 凛は凛で、自分が劣等感を感じている玲華からそう高く評価されていた事で余計に逃げ出してしまった事への罪悪感を感じたのだと思うが、ただ、それでも。凛のこれまでの頑張りは、彼女を決して裏切っていたわけではなかったのだ。


「じゃあ、翔くん。私、ちょっと行ってくるね」


 凛が小走りで俺のところまで来てくれた。彼女の表情は、明るい。


「終わるまで待ってるよ」

「⋯⋯うん。時間かかりそうなら、連絡するから」

「わかった」


 言ってから、凛はにこっと少し照れたように微笑んでいた。

 嬉しそうな笑み。きっと、自分の気持ちに正直になれたからだ。

  このまま彼女がどこかに遠くにいってしまうのではないかという不安を抱えながらも、俺もそれに対して微笑み返す。これでよかったんだ、凛にとってのベストなのだ、と自分に言い聞かせる。

 俺の内心など知る由もない凛は笑顔で小さく手を振ってから、犬飼監督のあとを小走りで追った。

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