1章 第26話 傷ついた心

「凛ちゃん……やっと見つけたよ。今日、町で目撃情報があったから……会えてよかった」


 スーツ姿のサラリーマン風の男性が息も絶え絶えに話し出す。


「……田中さん」


 凛は声の主の名字を呼んだ。どうやら知人らしいので、ストーカーの類ではないみたいだ。


「誰? 危ない奴?」


 小声で訊いてみると、凛は小さく首を振った。


「私のマネージャー……だった人」


 小さな声で付け加え、ゆっくりと俺の腕を解放した。


「……何の用ですか」


 他人行儀で突き放す様な言い方。

 敬語を使ってはいるが、そこから感じ取れる明確な感情は『拒絶』だった。


「何の用って……そりゃ無いだろ。いきなり騒動起こして、辞めてからは勝手に連絡用の携帯電話まで解約して……僕がどんな思いをしたと」

「……ごめんなさい」


 凛は頭を下げた。

 そのまま、言葉を続けた。


「田中さんには沢山お世話になりました。こんな形で辞めてしまって、本当に──」

「違う! 僕が言いたいのはそんな事じゃないんだ!」


 田中というマネージャーは叫ぶ様にして言った。

 凛がびくっと震える。


「僕に迷惑をかけるのはいいんだ。僕は君のマネージャーだから。コキ使えばいい。ただ、どうして君が辞めるのか……それがどうしても納得できなくて」

「ですから、それは事務所で説明した通りで……」

「嘘だろう」


 田中は、言い切った。


「映画の話が来た時、あんなに喜んでいたじゃないか! 犬飼監督の映画に主演で出れるって……!」


 凛は俯いたまま、ぎゅっと唇を噛んでいだ。

 初耳だった話なので、単純に驚いた。おそらくRINファンの純哉も知らない話だろう。しかも犬飼監督と言えば、有名な映画監督で、数々のヒット作を出している大物映画監督だ。そんな監督の作品のオファーがきていたのか。

 凛は、芸能界が嫌で逃げてきたんじゃないのか……?


「それをいきなり断って引退だなんて……事務所の損害もだけど、君自身はそれでいいのか。女優になりたいって言ってたじゃないか。ほかにも化粧品のCMの話もあった。行く行くはバラエティだって……」


 マネージャーは続けた。


「君には将来があった! 才能もあった! それを活かして努力する心も持ってた……僕は君の担当になれて本当に良かったと思ってたんだ! なのに……どうして!」


 凛は何も答えなかった。

 俺もどうすればいいかわからず、立ち尽くしていた。

 この人が悪い人ではないというのは分かった。最初は、凛に恋愛感情を抱いているのかとも思ったが、そんな下世話な考えをしてしまった自分が恥ずかしい。この人は、本当に雨宮凛という人間に魅力を感じて、その才能を信じているのだ。


「だから、君が何を求めてここに来たのか知りたかった。夢以上のものがあるのか、と。それが……男とデートしているだけだなんて!」


 その言葉に苛っときたが、田中は俺の方を見てハッとして口を噤んだ。


「す、すまない……君を悪く言うつもりじゃなかったんだ。気を悪くしないでくれ」


 彼は一学生の俺に、頭を下げた。


「ただ……今日、君達が町を遊んでいてどんな話が流れていたと思う?」


 凛は何も言わなかった。ずっと俯いたままだ。

 だから、俺も何も言えなかった。彼女の意思がわからないから。


「目立ち過ぎたんだよ。まだそんな自由に遊べる時期じゃなかった。『モデル辞めたかと思えば早速男か』……そう町の人間は言っていた。この連絡をきれたのは知り合いの記者だ。たぶん、また週刊誌に君を悪く書く輩も出てくるだろう。なあ、わかるか? 君は芸能人とデートできたくらいの気持ちなのかもしれないが、彼女にとってはマイナスなんだよ。再帰するにあたって弊害に──」

「──ほっといてよ!」


 田中の言葉を遮って、今度は凛が叫んだ。


「私が何してるか、とか、誰と居るか、とか……もう関係無いじゃない……!」


 凛の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。


「でもっ」

「私の夢が女優? 私が犬飼監督の作品に出れるって喜んだ? そんなの……最初だけだった!」


 キッと睨む様に田中を見据える。


「あの人、私に何を求めたか知ってる? 主演にしてやるからマクラしろって言ってきたんですよ? 私は……そこまでしたくない!」

「なっ……!」


 俺と田中の驚きは、同時だったのだろう。


「私に才能と将来がある? もしそんなものが本当にあったなら……絶対にそんな要求されないでしょ!?」


 マクラは、たぶん枕営業の事だ。自分と寝る代わりに、良い地位や役をやろうって言う……噂には聞いていたけれど、本当にあったのか。


「結局私はそこまでの器だったの。それに、そんな風に自分が見られてるって思ったら惨めで……」


 凛の涙は留まる事を知らず、溢れ出て……綺麗な顔が涙で濡れていく。


「そんな……そんな事があったなんてッ」

「社長に相談もしました。でも……相手はあの犬飼監督だから、強くいえなくて。だから──」


 辞めました、という言葉を凛は言わなかった。

 田中はうなだれる様にして、頭を抱え込んだ。


「あっさり社長が引いたのもそれを知ってたからなのか……あれだけ君を気に入ってたのに、不思議だと思ったんだ……」

「もう、行っていいですか……? 思い出したくないんです」


 凛は力なく言い、返事を待たずに背を向けた。

 俺が立ち尽くしていると、田中はその背中に向けて話しかけた。


「……僕の次の担当、誰だかわかるか?」


 凛は立ち止まって、少し考えた。


「さあ? YUKIちゃん辺りですか? 確かマネージャーの方と仲が良くないって聞きましたけど」


 田中は首を横に振った。


「レイカちゃん、だよ」


 そこで、ばっと凛が振り返った。

 その表情には絶望にも似た色が広がっていた。名前が名前だけに、俺も思わず反応してしまう。


「レイカ? レイカって、あの……?」


 わなわなと震えながら、凛が問う。

 田中は苦々しく頷いた。


「ど、どうしてレイカが……? だって、辞めたのに……」

「詳しくは聞いてない。ただ、君の穴を埋める為にダメ元で社長が頼んだら、オーケーしたそうだ。彼女は、君の辞め方が気に入らなかった、とも言っているらしい」

「そんな……」

「君がキャンセルしようとしていた仕事の大半は彼女が引き継ぐ事になる。君は、それでいいのか……?」


 今ならまだ間に合う、と田中は言いたげだ。

 凛は暫く黙り込んだ後、涙を流しながら自嘲の笑みを浮かべた。


「……じゃあ、事務所的には問題無しですよね」

「凛ちゃん……!」

「元々レイカは私より人気があったし……レイカが辞めたから私に仕事が回ってきただけ。私が有名になれたのだって、レイカが居なくなったから。それだけじゃないですか」

「そんな事っ」

「そんな事あります! 私、レイカに何も勝てなかった! 勉強も、仕事も、恋愛も! 一つも勝てた事なんて、なかった……!」


 作っていた自嘲の笑みも崩れ……ただ、越えられない壁に屈した悔しさにまみれて、強さの欠片もなく泣き崩れる少女の姿がそこにあった。


「今、やっとレイカに勝てる事が見つかったの……! しかもそれは私の叶わなかったはずの夢だったの……もう邪魔しないでよ!」


 凛が捨て台詞の様に吐き捨て、走り出そうとしたので咄嗟に腕を掴んだ。


「離して!」


 初めて凛に睨まれて、拒絶されて……思わず離してしまった。

 凛は振り向く事なく走った。

 走れば追いつけたかもしれない。ただ、やはり自分と同じ様な気持ちを感じてしまったんだ。


『絶対に勝てない何か』


 それに打ち負かされた時の後悔と悔しさ。絶望と、自分への落胆──俺はその感情を痛いというほど知っていた。

 残された俺と田中は、どうする事も出来なかった。


(レイカ、か……)


 こんなにこの名前を聞いたのは、随分久しぶりだ。偶然もあるもんだ。

 俺のトラウマと凛のトラウマが同じ名前だなんて。付き合うべくして付き合ったのかな、俺等は。逃亡者同盟だし。

 そう茶化して自分に言い聞かせてはいるものの……正直なところ、薄々と確信めいた予感がある。

 ただ、もしそれが的中してしまうと、俺は凛を信用できなくなる。彼女は、どうしてそれを隠して、俺に近付いてきたのか、という話になるからだ。


「なあ……アンタ」

「なんだい?」


 田中は力なく首をこちらに向けてきた。


「アンタはどうしたかったんだ。その、レイカって子の話を出して」


 田中は自分の頭をばりばりと掻いて、溜息を吐いた。


「彼女とレイカちゃんは中学生の時一緒によく仕事をしていてね……学校も同じで仲も良かったんだけど、凛ちゃんの方は内心凄くライバル視してたから、ああ言えば戻ってくるかと思って」


 まだ間に合うから、と田中は悔しそうに呟いた。


「そのレイカって子の復帰はマジなのか」

「え? ああ、さっきのも事実だけど……君、レイカちゃんとも知り合い?」


 彼の問いに「まさか」と、首を横に振った。

 知り合いなもんか。知り合いであってたまるか。そう信じたかった。凛の言うレイカがあのレイカであるわけがない。

 ただ……あの凛が敵わないレイカが、そう何人もいるはずがない、ともまた思うのだ。


「すまない事をしたね。君にも、凛ちゃんにも」


 全くだ。初デートなのに最悪だ。本当に、最悪だ。

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