第12話 take the first step
相変わらずのムーチューバーの日々。
機材も随分と充実し、オレ自身も放送に関わる操作や対処についてもスキルアップした。
まあそれは、週末になるとやってくる通い妻ムーブの姉のおかげ。
ひまわり姉さん。
もううちの部屋には彼女の荷物がいっぱい……というよりもほぼ同居状態かも。
それくらいの頻度でやってくる。
姉さんは地元の国立大、そこの大学院に所属しているけれど、それとは別に仕事もしている。
まあ資産家の家の子は別だけど、普通は仕事をしないと生活が出来ないからね。
けどその仕事の契約が年明けの3月に切れるという。
ついでに言うとドクターコースには進まないと決めているのもあって、来春からは姉さんもここに住むそうな。
お母さんとは最近よく電話で話をする様になったんだけど、一応それでお母さんは寂しくないの? と聞けば、意外とそうでも無かった。
母さんは母さんでスタジオを経営しているしね。
高科の本家からは距離を置いているうちは、本家がどれだけ資産家でも恩恵はない。
それ込みで母さんは家を継ぐことを放棄したからね。
それとは別に母さん自体が商才があるんだよねえ。
元々は既に他界しているお父さんが地元にいる時にリハーサルをしやすい様にと、当時は財力があったから作ったと言うスタジオ。
父さんのミュージシャンとしての浮世離れした人柄に惚れたのもあり、当然それに感化されている母さんは、名古屋市にいるインディーズバンドとかを後押しする様なポジションに収まったらしい。
それなりに最新の設備が整ったスタジオで、部屋数も結構ある。
なのにレンタル料はびっくりする程に割と安い。
学生やプロデビューしていないバンドはお金がないからね。もちろん慈善事業じゃないから、一般客にはそれなりの金額を取る。
そりゃ人も集まるよ。
何というか名古屋って土地自体が意外とミュージシャン多いしね。
そう言う土壌なのかもしれない。
前世でも有名なバンドやミュージシャンも結構いたしなあ。
なので母さんは母さんなりに自分の人生を楽しんでいるそうで、気にしなくても良いってさ。
で、姉さんが本格的に住むのは、オレの放送とか動画とかを本格的に自分の仕事としてやりたいからだって。
実際オレが放送をやり始めて1年近くにもなるけれど、密かにチャンネル登録者が10万人を越えたんだ。
何が楽しくて見に来ているかは理解できないけれど。
それでも目に見える成果だから素直に嬉しい。
そうなると収益の方が割と無視できない規模になっている。
当然上には上がいるけどさ。
だって100万再生もざらで、中には数百万再生にも届いたりも。
それにチャンネル登録者も100万人越えとか。
そう言う有名どころもかなりいるんだな。
けど個人チャンネルとしてはそれなりに勢いがあるようで。
実際チェリーとしてのアカウントで立ち上げたトイッターのDMで、かなり大手の事務所からうちに参加しないかとか、面倒事も含めてマネージメントするので、みたいなオファーが結構きてる。
オレはそれを毎回丁寧に断っているんだけど、それでもかなり煩わしくなってきた程だ。
面倒な部分を丸投げできる利点は理解しているけどさ、なんかこう、せっかくだし自分のペースでやりたいからね。
商業ベースになるなら、当然ノルマを課せられたり、やりたくもない企画をしなきゃダメだったり。
そういう”やらされてる”って感じは、多分オレには合わない。
姉さん的にもあと数か月もしないで20万人は行くと思うって言う。
そうなると大手からすると美味しいって事になるらしい。
けどオレ的にはそこまでやっちゃうとなんか違うというか。
その思いが強いんだ。
何というか、これを仕事と言うにはオレの中の根拠が足りないんだな。
かつての勤め人のメンタルが邪魔をするというか。大概古くさい感覚だと理解はしているけれど。
なにより、オレがワタシとして生きるための大いなるリハビリだからなあ。
さくらと言う自分であることはもう覚悟を決めている。
足りないところは山ほどあるけれど。
けどやっぱ、ふとした瞬間に自分を俯瞰して見ている自分に気が付く。
それって普通はあり得ない事だ。
自分を客観視なんて言葉があるけど、それは理想であって、基本的にはそれが出来ないから、人は苦悩したり後悔したりするわけで。
なのでその俯瞰した様な感覚がなくなるまでは、きっとオレは家族や、そしてリスナーを頼っているという気持ちを持ち続けていくんだろうと思う。
だからなおさら、この配信とかを商業染みた感じにしたくないんだ。
そこで姉さんが言うのだ。
だったら私たちで仕切って、きちんと収益を前提としたチャンネルにしちゃおう。リスナーを思うならなおさら、中途半端じゃない方がいいって。
もちろんさくらちゃん、つまりオレが辞めたくなったらいつでも辞めても良いと。
ただ登録者の膨れ上がったチャンネル自体に価値があるから、姉さんが学んで来た事を活かす事も出来るしって。
なのでオレはオレのペースでやるとして、姉さんは姉さんとしての向き合い方で自分の力をチャンネル運営で試してみたいと。
まあそう言ってる時点で姉さんの中では決定事項なのだろう。
職業として姉さんはやりたいのだ。
週末に来た時に増えていく荷物もそうだし、何というか物腰はゆるふわ女子の癖に、芯の部分は猪突猛進系女子なんだなあ。
でも本質は、そこをきっかけにオレというワタシとの関係を作っていきたいんだと思う。
それはオレも大歓迎さ。
それにしても姉さんのパワーに流されつつあるオレ自身、実は結構いまの生活が嫌いじゃない。
ふと高科さくらとオレというパーソナルのギャップについて未だに悩む事も無くはない。
これからもやっぱり、どこかしらで鬱になったりするだろう。
けど先人が言う「住めば都」とか「朱に染まれば赤くなる」ってのは言い得て妙というか。
女性としての立ち居振る舞いとか、所作とか。
それこそランジェリーやコスメとか。
そう言う普段自分がしなければならない事を無意識にやる様になっている。
やらないと生きていけないからね。
そうなるともう、コレはそう言う物かと達観したというか。
女性として振舞っていて、その自然さに後ほど気付くみたいな。
なのでオレはもう自分の性別は男ではなく、正しく女である自分を認めているのだ、きっと。
まあそれは、これまでの間にいくつか深刻なやらかしをしてしまい、その経験が生きたって事かも。
具体的にはナンパをされた。
これはかなり衝撃的な出来事だった。
オレは普段、出歩く場所はある程度決まっている。
品川区とか港区界隈。
後は神奈川というか横浜から鎌倉を経て江の島あたりまでとか。
前者は生活圏として。
後者は気晴らしのツーリングコースとして。
江の島ってのはテレビのニュースとか、朝の情報番組でよく景色が映るけど、自分で行くと結構楽しいんだ。
下の方には色々お店もあるし、上の方には遊歩道で繋がっているから散歩するにも長さ的に丁度いい。景色もいいしね。
のんびり歩けば大量にいる野良猫とも戯れられたりもする。
鎌倉の中心街とか横浜市内は、そのついでにご飯を食べる場所ってイメージ。
で、問題は。
姉さんがいない時にソロで行ったんだけど、帰りに横浜駅のすぐそばにあるレストランに寄ったときのことだ。
まあ小汚い洋食屋とも言うけれど、前世でも通った店に似た佇まいで、メニューも似ていた。
だから一人でこの辺をうろうろする時には寄る事が多い。
オレはもともと、あちこち新規の店を開拓するよりは、気に入った店のリピーターになる事が好きだしね。
けどその時は丁度混雑していて、行ったはいいけどちょっと行列になっていた。
まあ並ぶよね。
洋食屋だから回転も早いし、待つと言ってもたかが知れている。
実際30分もしないで呼ばれるでしょ。
オレの前には20人くらいいたかな?
サラリーマンが結構多くて。
オレの後ろには10人くらい。
なので待つ間は退屈だと、スマホに入れておいた音楽をイヤホンで聞いていた。
前世では存在しなかったけど、こっちで開拓した中々良いアーティストとかの曲を集めたりしてるからね。
そういう意味ではとても新鮮だね。
そんな時に、肩をトントンと叩かれた。
振り向くと大学生くらいの男の子が二人連れで何かを言っている。
オレは結構な大音量で音楽を聞くから、全く何を言っているかはわからない。
ちなみに知らない男性を、ごく自然に男の子呼ばわりしているのも女に慣れた感あるな。
で、見た目は若干ちゃらい感じで、モラトリアムを全力で楽しんでます! って感じに見える。
オレは何となく会釈をして前を向く。
前の人との間に少し距離があったし、前が進んでいますよって教える意味かと思ったんだ。
なのでそそくさと前に進みつつ。
そしたら直ぐにまた肩を叩かれた。
今度は片耳を外して聞いてみると、お姉さん可愛いねとか言う。
あ、これナンパかとそこで漸く理解した。
そんな時ってどう返すのが正解なんだろう?
相手の男の子が好みだとか以前に、その手の気持ちは沸き立つ事も無いわけで。
瞬間、心の中でおろおろしてきた。
なので無難に”ありがとうございます”と返し、またイヤホンを装着。
けれどまた肩を叩かれる。
しつこい。イライラしてきた。
もう一度顔を向けると、食事を一緒の席にしない? とか言う。
なのでランチは独りで食べたいので遠慮しますと返しイヤホンを、って所で手首を掴まれる。
反射的に手を引いたんだけど、思ったよりもガッチリと掴まれていて離れない。
瞬間、とても怖くなった。
そこで本当の意味で理解したんだな。
精神がいくら男のつもりでも、肉体強度というか身体能力は女の物でしかないってさ。
昔なら何かあれば凄んでみる事もしただろうさ。
ガキの頃はそれなりに喧嘩の経験もあったし。
けど今は違う。
怒鳴ったりして向こうが逆切れでもしたら、今のオレじゃ蹂躙されるだけなんだと。
それがとてつもなく怖かった。
なので無意識に大声が出た「痛いです、止めてくださいっ」ってね。
すると前後の行列の人らがざわざわ仕出して、前にいたオジサンが控えめな声で「大丈夫かい?」と声をかけてくれた。
すると彼らは何かぶつぶつ言いながら、逃げる様に帰っていったんだ。
ホッとして泣きそうになって来たよ……。
結局その時はランチを食べるような気分も消えてしまい、オレもまた逃げる様に雑踏に飛び込んで、小走りで帰った。
駐輪場まで何度も後ろを振り返りながら。
それくらいに怖かった。
その日の夜は何とも言えない恐怖感と自己嫌悪に襲われて、数日鬱モードだったな。
自分が顔も知らない男に無理やり襲われる、そんな妄想が勝手に出てきたりして。
それ以降、それまで以上に周囲を気にする様になった。
結局、自分を守れるのは所詮自分だけ。
けど男としての行動は出来ない。
物理的に。これから先、ずっと。
人の視線の行く先を意識して、それを気を付ける様になった。
よく女性は男の視線の先を察知しているとかいうけどさ、笑えないよ。
そうじゃないと身を守れないからそうしてんだろうさ。
あ、この人凄い胸を見てきてるってわかるから、必要以上に近寄らないとか、予防線を張っているんだなって。
なので、それきっかけだなあ。
自分が正しく女なんだって身をもって理解したのは……。
努めてそうあるべきと決心したって意味でも。
「さくらちゃんを汚す不届き者はお姉ちゃんが倒すっ」
春がきてお姉ちゃんが越してきた。
これからは一緒に暮らすって事で、身の回りの生活雑貨をあちこちに買いに行って。
洗面所にある歯磨き用のマグとか、食器とか。
お揃いにできるものは全部するというレベルでお姉ちゃんが気合い入れてたよ……。
それも落ち着いたころ、お姉ちゃんが作ったナシゴレンを食べているとき、ふとナンパの件を言ったら、胸の前で拳を握って彼女はキレた。
曰く、これからはどこに行くでも、お姉ちゃんも必ず一緒に行くって。
けどお姉ちゃん、オレよりもずっと小さいからなあ。
逆にやられそうで心配だよ……。
もちろんそれは丁寧におことわりしたが。
過保護すぎるし、いくら身内とて、プライベートな時間が無いとしなくてもいい喧嘩をする事になるからね。
そういうとお姉ちゃんは、この世の終わりみたいな顔をしていたけれど。
相変わらず可愛い姉だなあ……。
それにしてもお姉ちゃん。
引っ越してきて第一声が「さくらちゃん。不束者ですが末永くよろしくお願いします」って、色々アレだよ?
ガチ身内の同性愛とか業が深すぎるでしょ。
ま、パーソナルスペースが狭いだけど思っているけれど(震え声)
だよね……?
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