第3話


朝が来て、男は宿泊している宿の周りが妙に騒がしくあることに気付いて目を覚ましました。

何事かと、窓の外から身を乗り出してみると、道のわきの柳の木がいくつか並んでいるところに人だかりはありました。

よく見てみると、人だかりの真ん中にはひとりの人間が倒れておりました。どうやら道と道の間を流れる川に転落したと見え、その人間が倒れているところだけ道の色が水で濡れたようになっていました。

いったい、こんな朝っぱらから川に落ちるやつがどこにいるというのか。

誰かは知らないが迷惑なものだ、と外の光景に呆れて部屋に目をやると、そこは男自身しかおらず、空っぽの状態でした。


昨夜の娘はどこに行ったのだ?


急に寒気がしました。

男はふたつ並んだ寝床のうち、娘が寝ていた方を手でさすってみました。まだ、熱は残っていました。

悪い予感がしました。

男は浴衣のまま、ドタドタと階段を駆け下り、宿から出て、人だかりへ一目散に駆けました。そしてその中に倒れているものの姿を見て、言葉を失いました。

そこに倒れていたのは、あの娘でした。

男は喧騒のさなか、血の気が引いていくのを白々と感じておりました。聴覚の機能が途絶えてしまったように、周囲の音がさっぱりと消えていきます。

視界は色を失い、透けていくようでした。白昼夢にいるような現実感のなさだけが男の背後をましろに塗りつぶしていきました。

何もかも真っ白になり、生気のない抜け殻のようになった男は無心で人だかりを離れ、宿に戻りました。もう何もしたくない、今日は死んでしまいたい、そう思っていたときです。机の上の燭台のそばに封筒が置かれているのを見つけました。

男は静かに近づき、封筒を手に取ってみます。裏にも表にも宛名はありませんでした。しかし、なんとなく誰が書いたのか予感はありました。男は封を切り、三つ折になった手紙を開きました。


「真実の愛を教えてくださったあなたへ

昨夜はどうもありがとう。寝ている間も、ずっと抱きしめてくださっていたのですね。とても嬉しく思います。あなたの愛は、わたしの信じた愛は間違いではなかったようです。しかし、いつの世も現実は儚いものです。ようやく愛に触れることができたのに、その途端に神様は意地悪をしでかしました。わたしのいのちの灯火を消そうとしております。わたしが昨夜、あなたの愛のある行為を避けようとしたのは、己に子どもを産むことができないこと、時間がないことをわかっておったからです。殆んど異国の土地のようなあなたのお国でも、結核くらいはご存知かと思います。

そうです、わたしはもうだめなのです。ごめんなさい。あんなにもわたしを愛してくださったあなたに、わたしの死に様を見せてしまうことはできません。これはわたしの勝手なわがままです。わたしもあなたを愛しているからこそ、わたしも最後まであなたの愛を信じてみようと思いました。

この手紙をしたためた封筒の中に、わたしのお母さまからいただいた大事なものが入っております。あなたはこれを持っておいでなすって。肌身離さず持っておいでなすって。

これは『忘れ物』です。あなたのもとへ大事な忘れ物をしたわけです。忘れ物をしたからには、それをいつか取りに行かなければなりません。

女たちは、好きな人のもとに行きますと、わざと忘れ物をしたと云います。もう一度会うに行くきっかけにするためだそうです。お母さまが教えてくださいました。

──わたしは、あなたのことを信じます。わたしはいずれ生まれ変わって、再びあなたのもとへゆき、忘れ物を取りに参ります。

伝えたいことは以上です。

さようなら」


封筒の中から出てきたのは、渦巻きの模様を描いた硬質なもので、糸がついた奇妙なものでした。男にはこれが何なのかわかりません。しかし、あの娘が大事なものだと言うのです。

忘れ物は、大切に保管しなければなりません。

いつの日か、取りに来る日がやってくるはずです。


✴︎


娘は男の手によって土に埋められました。やがてその地には、綺麗な花が咲きました。男が長年探し続けていた、幻の花でした。また、この花を守るために小さな神社が建てられました。したがって神社には花の名前がつけられました。

男は死ぬ直前まで、この神社に通い続けたそうです。


✴︎


太陽の光が射し込んできて、眩しい。

どうやらわたしはあの神社の本殿に入って、そのまま寝落ちしてしまったらしい。

起き上がってみると背中が痛かった。何時間も板張りの上に仰向けになっていたせいだろう。ぐっと背伸びをすると、ぱきぱきと音がした。

それから大きく息を吐いて、辺りを見回した。殺風景だ。昨夜は確か、箱があったように思うけれどそんなものはどこにもなかった。極一般的な神社と同じだった。


わたしは天井に頭がぶつからないように立ち上がり、服のほこりを叩いたあと神社から出た。

自分がここにいたのだという実感を得るために、今一度神社の中を見たのち、百メートルほどある石畳みの参道を引き返して行く。

歩きつつ、随分と長い夢の中にいたような気がするな、と振り返ってみる。その夢の内容はほぼほぼ思い出せないが、おおざっぱな印象で言うと、温かさがじんわりと染み渡って行く感じだ。けれどハッとしてしまうような痛みが潜んでいた。いずれにしても得がたいもので、なんとなく忘れたくないなあ、と思った。

昨日は暗くて見えなかったけれど、参道のわきには古い看板があって、白字は掠れていたけれど、かろうじて読むことができた。


『勿忘草神社』


「なんとか忘れそう? やば、全然読めない。スマホスマホ。えーっと、なになに。ワ・ス・レ・ナ・グ・サ? やば、ちょー意味不なんだけど、ウケる」

その文字の隣には神社の由来が細かくびっしり書かれていたけれど、長すぎて読む気にならなかったので結局無視をして、神社を降りた。

朝早く起きたためだろうか、いつもよりも気分がすっきりしていた。何にしても、太陽の光を浴びることで、人は元気になるものだ。


✴︎


あの夜の不思議な光に包まれた日から、数年が経った。

わたしはついに女子大生となり、夢に見た楽しいキャンパスライフを送っている。つもり。あくまでつもり。

本心を言えば、彼氏を作って、毎週デートなんかして、リア充生活を送りたかったのだけど、ちょっと遠い。友人の惚気話に付き合わされるたび、嫉妬心が膨らみ、自己嫌悪でしぼんでしまって、今後運命の人に出会うことができるのか不安である。

口癖が、誰かに愛されたい、という時点でだいぶこじらせている感は否めない。

そう言えば、数年前にふらりと立ち寄った占いの館でわたしは占ってもらったことがあった。そこでは確か、そうそう、ammoniteのアクセサリーを付けている人が運命の人だ、と言われて、その言葉だけはなぜか今でも覚えていた。

不思議なものね。

恋をした記憶より、恋に敗れた記憶のほうが強く残っているなんて。

ついこの間、その占いの洋館を通りかかったときは既になくなっていて、代わりにラブホが建っていた。

ラブホか。わたしが利用する機会があるのでしょうか。いや、仮に彼氏ができたとして、あ、ラブホがある、行こうってなるのかしら。


「ねえ、聞いてる? あたしマジで独りの夜は耐えられそうにないから、知らない人とチャットしてるよ」

「え、うそ。あんたもついにそういうやつに手を出すようになったんだね。悲しいかな、悲しいかな」

「でもそこまで変じゃないよ。だいたいはどうしようもない人たちばかりだけど、たまに話聞いてくれる人もいるし」

「ふうん」

「流石にインコの糞たべれる? って聞かれたときは、即切りしたけど」

「それはないわー、いや、いろいろないわ」

「でしょー。ほれほれ、甘えん坊なお前さんはあたしの話聞いてましたか?」

ぼんやりしていると、友人からキャンパスノートで頭を叩かれた。

あ、ごめん。聞いてなかった。

「正直か」

バシバシ、また叩かれた。痛い。

「そう言えばさっき見た人、面白いもの付けてたね」

面白いもの?

「そう。なんていうんだっけ、ほら、あの、オウムガイだっけ、ねえねえ、あの生き物の名前なんだっけ。カタツムリみたいなやつ」

「あ、さっきの渦巻きのペンダント付けてた人のことでしょ」

渦巻き、カタツムリ、ペンダント。

「えっとね、待って、ここまで来てる、ここまで来てる!」

渦巻き、カタツムリ、ペンダント。

「三半規管まで来てるの!」

渦巻き、カタツムリ、ペンダント。

「アン、アン、アンモニアじゃなくて......」

「......アンモナイト」

「そう! それ!」

アンモナイトのアクセサリーを付けた人は運命の人。

ふいに胸の鼓動が高鳴る。

どくん、どくん、どくん。

いるの? まさか。

どくん、どくん、どくん。

「ねえ、その人どこに行ったか教えて」

わたしは知らぬ間にその人のことを探そうとしていた。

この感覚は、あれだ、ラブだ。

あの懐かしい感じだ。

わたし、この気持ち、知ってる。

行かなきゃ。

立って!

行け!

わたしは駆け出していた。

「えっとね、確か向こうの西図書館の方に...──って、ちょっとちょっと! あんた、これからどこか行くの?」

わたしは逸る気持ちを抑えて立ち止まり、友人に振り向き、咄嗟に嘘をついた。


「忘れ物を取りに行くの!」



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勿忘草の物語 瀞石桃子 @t_momoko

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