第2話



初秋のある夜、父が食材を得るために家を出ている間、娘は何枚も重ねられた布団の中で手をつないでくれている母に尋ねました。

「ねえ、お母さま。わたしの世界はいつになっても真っ暗ね。昔はみんな、わたしのことは可愛い太陽だと言ってくれたけども、今じゃもう、人の前にも出られません」

娘の弱々しい声に母は寂しくなります。この子と自分が入れ替わってあげられたら、どんなに幸せなことか、叶わぬ願いを何百回と繰り返しています。娘の頰にかかった真っ直ぐな黒髪を耳にかけてあげます。

「あのね、お母さま。わたし知ってますのよ。わたしはもう、あまり長くないのでしょう」

娘の言葉に、母は思わずハッとして目を見開きました。どうしてそれを、という反応が全身に表れていました。その様子を見て、娘はつい笑ってしまいます。大げさではなく、くすっと。

「だって自分のからだですもの。自分のことは自分が一番良く知っています」と娘は言いました。「それにね、お母さまたちは近頃とみにわたしを大事にしておられるでしょう。だからです」

娘のすべて見透かした言葉に、母は思わず涙が溢れました。助けてあげられない非力さを憎み、弱っていく我が子の姿を見、堪え切れなくなりました。

そうして娘を抱きしめてみますが、これだって、いったい何になるというのか。光のないところに閉じ込めて、人にも会わそうとせず、ひたすら我が子を慈しみ、籠の中に入れて守っていくことだけが、果たしてほんとうの愛であろうか。


──ほんとうの愛とは。

──真実の愛とは。


あゝ、そうだ。

その時、はじめて、母は己のすべきことを識りました。

我が子にさせたいことをさせてやること、それを応援することこそが、 私たちに与えられた大きな責務じゃないか。

母は意を決して、娘にしたいことを尋ねました。

すると、娘は目をぱちくりさせ、母の目を見つめました。母の目は慈愛に満ちており、どんなことでも聞き入れてくれそうな気がしました。なので娘は思い切って自分の気持ちを伝えることにしました。

「それではですね、お母さま。わたし、一生に一度でいい、恋をしてみたいのです」

考えてみればそれは、恋をすることは、娘にとっての希望でした。と同時に、普通のことをすることができない彼女にとっての強い憧れでした。そして恋をするということは、村の外に出るということを指していました。

「恋、とても可愛い響き。お花みたいね。咲いて、恵んで、散って。あっ、散ってはいけません」

娘はくすくす笑います。しかしすぐに真面目な表情をします。


「お母さま、わたし恋がしたいの」


この一言が、重かった荷物を一気に軽くしたような気がしました。それは娘にとってもそうですが、母にとっても同じことでした。

早速母は娘に恋のこと、そして諸々のことを教えました。父との馴れ初め、素敵な人の見分け方、女のこと、女の役割、子どもを産むこと、愛をめいいっぱい残すこと。死ぬまで。死ぬ間際まで。


「お母さまは素敵ね。わたし、お母さまの子どもで良かったわ。だって恋することの素晴らしさを教えてくださったんだもの。わたしも、ええ、ぜひ、真実の愛を見つけますわ」

娘の顔は輝きを取り戻しはじめた。光が増えていく。彼女はもう一度太陽になるかもしれない。

「それで、あの、お母さま。もうひとつだけお願いを聞いてほしいことがあります」

母は何でも言いなさい、と和やかに言いました。

「お母さまにとって、とても大事なものをわたしにください」


✴︎


見下ろす母の目のふちに、涙の乾いた跡があって、娘はそれを横目に最小限の荷物を風呂敷に包んで、小屋の入り口に立ちました。

「お母さま、今までありがとう。わたしをどうか、許してください」

この一言を最後に、娘は小屋に戻らなかった。

小屋の隣りの家は灯りが点っていた。お父さまが帰ってきたのだ。しかし顔を見せてはならない。お父さまの中では、わたしはずっとおとなしいまま、眠ってい続けよう。

「お父さま、さようなら」

娘は小さく囁くと、静まり返った村に別れを告げた。


人気のない山道。この先にあるのは、人がいっぱいの町。娘の恋の相手が、きっといる。母には恋のことを聞いたが、ほんとうに自分にもできるのだろうか。駆け引きとやらはたぶんできっこない。

然し、恋の話をする女の顔はいい。お母さまもそうだし、前に遊んでいた友だちの顔もそうだった。とても大事なことを思い出すような、球を取り出して白い布で磨いてあげるような、慎ましさがある。見ているわたしまで、いい気持ちになった。

きっと、恋はいいものなのだ。

やあねぇ、したこともないのに、にやにやしているんだわ、馬鹿みたい、ふふ。

さあ、頑張ってみましょう。

わたしは生きます。


その夜から朝にかけて、娘は歩き続けた。子どもの頃は毎日のように外で駆け回っていたので、からだ自体は丈夫なのです。ただ、肺のところが時折すごく痛くなって、頭がぼうっとするだけです。

朝の光がやってきます。とても懐かしい感じがします。全身にこびりついた汚れが、ぽろぽろと落ちていくようです。草木は露を溜め、樹木は日光をほど良く遮ってくれました。鳥が鳴いています。青い空の遥か上を、何度も、何度も。

真新しい一日の到来です。

そしてこの日のお昼頃、町に着きました。

人です。見たこともない人が、いち、に、さん、ああ、数え切れません。お店の前に胡座をかいて商品を売っている人がいました。そのような人は探せばたくさんいました。同じくらいの年の女性が立ち話をしていました。あの頭に付けているものはなんでしょう。わかりません。子どもたちは大人たちの隙間を駆けて行きます。

そして結核を患った娘が、身ひとつで恋をしに来ています。

ふふふ、わたしです。

娘は周りの人たちに向けて、自分のことをたくさん教えてあげたい気持ちになりました。これだけ人がいたら、誰かに恋をしたって神様は怒らないでしょう。

だけれども、人が多ければ多いほど、いろんな容姿の人を見れば見る程、自分の考えている恋から遠ざかっているような気がして、落ち着かなくなりました。それに、誰かを気に入ったとして、わたしはどうしたらよいのでしょう。

娘は問題にぶつかり、途方に暮れました。

そうこうしているうちに、日が沈みはじめました。人の数もまばらになり、娘も立ち続けてかなり疲れました。次第に目まいがしてきて、その場にへたり込んでしまいました。朝の勢いはよかったのですが、からだが弱っているという事実は看過されませんでした。

娘はどうにか宿屋に入りました。

居間に入り、娘は気を失い、ぱたりと倒れました。


✴︎


目を覚ましたとき、自分は横になっているのだと気づきました。窓の外は真っ暗です。あの夕刻から、そこそこ時間が過ぎてしまったのでしょう。

うすぼんやりと、月の光が輝いて見えます。開いた窓から夜風が涼しくそよぎ、そっと耳をすますと、虫たちが心地よい音色を奏でておりました。

村とは違う風景、感覚、生活。どれも新鮮でした。

ですが、恋は失敗しました。


娘が上半身だけ起こしてため息をついていますと、入り口のほうの扉が開きました。

そこに立っていたのは、浴衣を着た男でした。髪が細く、ふちなしの眼鏡をかけた、自分よりいくつも年上の人でした。

その人は娘が起きているところを見るとすぐに目を逸らしました。そうして縁側の籐椅子にもたれかかり、煙草を吹かし、何も見えない真っ暗闇に溶けていくけむりをぼんやりと見つめました。

灰皿に煙草の先端の赤い燃殻が落ち、ジッと音がしました。虫の音色、夜のしじま、煙草のにおい、男の人の、におい。

「あなたは何処からいらしたの」

娘は神妙に声をかけました。すると、男は眼鏡を一度取り外し、浴衣の裾でレンズを拭いて掛け直して漸く娘の方を向きました。

柿の国、と男は答えました。

「まあ、柿の国ですって」

柿の国は、この町や娘のいた村より随分遠方にあった。余程の理由がなければ、かのような辺鄙な町にやって来るはずはありませんでした。

娘はこの男にふかい興味を抱きました。

男はこの地の伝承にあるという幻の花を探しに来たのだと言います。既にひと月以上、辛抱強く探しています。とても綺麗な花です。あなたのような美しい人にも見てもらえないことが口惜しいものだ。

「美しい、などと、いけません」

娘は不意の言葉に、顔をまるまる赤くしました。


男は立ち上がり、娘の方に近づきました。娘は吃驚。遁げてしまいたくなります。けれども、起きたばかりで思うように身体は動かず、布団に足が引っかかり、うつ伏せに倒れそうになりました。即座に男は機敏な動きで、娘を抱きとめ、倒れるのを防ぎました。

今、娘は男の腕の中にいました。呼吸が苦しくなります。

なりません、わたしは病気なのです。

近づいてはなりません。

娘は全身で男に訴えかけます。然し、男は娘を解こうとはしませんでした。男の力が強くなるほど心の中の未使用のままだった囲炉裏の火が、ぱちぱちと弾けていきました。グングンとからだが火照るのが、娘にも、男にもわかりました。まるで熱い湯船の中にいるようでした。

いけません、いけません、娘の声が大きくなります。ついぞ、娘は精いっぱいの力で男の内から抜け出しました。

娘の衣類は滅茶苦茶にはだけ、広がった髪は熱気に浮かされた汗にまみれ、きらきらと艶めいておりました。目のふちには涙を溜め、気が抜けたように疲労しました。

男は、娘と一定の距離のまま、微動だにしませんでした。

しかし花瓶のような少女から、目をそらすことはもはや無理なことでした。男として情けなかったのは娘を悲しませたことでしたが、強く滾る思いを隠すことはできませんでした。

私はあなたを愛してしまった、男は言いました。

娘はほろほろと涙を零しつつ、男の瞳をじっと見つめて答えます。

「愛ですって。わたしを悲しませることが愛でしょうか。あなたは好い人です、けれど悪い人です」

いいや、違う。あなたは心の底から悲しんでいるのではない、と男は語気を高めて言いました。

娘は首をふるふると振ります。

あなたは私に恋をしてしまったのだ。

恋は、人間を根本から侵してしまう罪だ。その罪をあなたは今しがた背負わされたのだ。それはあなたが思っているよりもずっと激しい痛みを伴うものだ。

「痛みと知ってなお、あなたはわたしを愛してくださるとおっしゃるの」

男はその通りだ、と答える。

あなたを町で見かけたその瞬間に、私の内側に迫り来るものがあり、熱く焦がれました。この娘こそ、生涯をともにするべき運命の出会いであるという確信を得ました。

「運命の出会い──結構でしょう。それでは、最後によろしくって」

男はうなずく。

「真実の愛とはなんでございましょう」

娘は丁寧に身なりを整えつつ、己にとっての究極の質問に対する答えを待った。

決着を、覚悟したのです。

やがて男は答えました。


“その人のすべてを思うこと。迷惑と思われるほどに”


男の意思は不器用でありましたが、真心に満ちておりました。それがわかってしまって、娘はこの男を信じてみようと思いました。娘に、愛が芽生えたのです。

そして夜はしんしんと更けて行きました──




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