お風呂 Side; M

瀞石桃子

第1話


遅く帰りたい、と思ったのには理由があった。


一年間お付き合いしていた女の子と別れてしまったからだ。つい数時間前の出来事、場所は夜の噴水の広場だった。周辺には多くの人が待ち合わせしたり、そぞろ歩いていたりする中で、彼女から別れを切り出された。改まった感じなどつゆほどもなくて、彼女の生活におけるありきたりなイベントのように僕には思えた。


ほんとうに今にして思えば、わざわざ時間まで設定をして直接呼び出すほどではなかったような気がする。自分の中で、人生のひとつの区切りである、と信じ込みたかっただけで、実際に会ってみると、かんたんに決着がついてしまった。

そして、その瞬間に小ざっぱりとした明確な白線が、ふたりの間に一条引かれ、ついに僕たちはおしまいを心に刻んで、それぞれの道に分かれた。


以上のことが今夜の顛末で、僕は人気のない漁港の近くをそぞろ歩いたのち、団地の中の公園で二度と膨らむことのないどん詰まりの感傷をぬるめのコーヒーとともに喉の奥に流し込んだ。そうして缶を錆びれたゴミ箱に投げ棄てた途端に無性にむなしくなってしまって、ひどく草臥れてしまったのだった。


さあ、僕はいったい何に対して意固地になって、家に帰ろうとしないのか。阿呆らしい。

実にくだらない。

やはりお前は彼女との別れを己の人生における分水嶺として定義するべくして、今日という日を、ふだんの、靄のようにぼやけた、つまらぬ惰性の日々とはかくも異なるのだということを、自分に、自分の未来に知らしめたいだけだったのだ。

やだな、とんだ図抜けたトンマなお前。


そんなふうに思っていたのだとすれば、僕は全世界の笑い者だ。笑い者にすらされない。所詮陳腐な人生だ、いくら気取ったところで、お前の行いには毫も意味はないし、まして汚点を悲しいくらいに卑下し、自分を貶めたって、誰も同情などしては呉れないのだから。


見積もるな、期待をするな、もとよりひとりの女も幸せにしてやれない男のエレジー。


そして僕はようやく家に帰る決心をした。



帰宅をしたのは時計の針が今日を跨ごうとしていた頃だった。独り身になってしまった僕の心は、からからの土壌のごとく無味乾燥としていたのだけど、それでもまっとうな生活くらいはしたほうがいいと思った。


玄関を開き、通路の照明を点けて、僕はとある呪文を呟いた。すると立ち所に目の前の宙に、細かい光の粒子が渦を巻くように集約し、いち、に、さん、の合図でパン、と爆ぜた。そしてたなびく煙りの中から、四枚の羽根の生えた小人が現れた。僕は小人を呼び出したわけだけど、そいつは青く透き通る半透明の羽根をゆさゆさと揺らして、空中で体勢を保持しつつ、なぜだか面妖な顔をして僕の顔をじっと見つめていた。


やあ、ただいま、と僕が言うと、


「随分遅かったではないですか。あるじ様がこんな時間に帰ってくるとは」と答えた。


まあいろいろあって、と僕は誤魔化してみたのだけど、小人は何かを察したのか、ふうん、とぼんやりした反応をしたぎり、深く詮索はしてこなかった。


「何はともあれご無事で何よりです。──ところで、」と話題を変えるように、胸の前でとん、と手を叩くと、小人はこう言ってきた。


「わたくしめを呼んだということは、お風呂の支度ですね」


僕は頷いた。こんな時間で悪いんだけど、どうか、よろしく。


「ええ、ええ、ただいま。ご要望とあらば、わたくし、“お風呂の精”はあるじ様のために、極楽の湯を用意し馳せ参りましょう。温度は41℃に設定の上、高級入浴剤を贅沢に二袋使い、肩凝り腰痛関節痛むくみ五月病に効くと言われる有効成分を配合した粉末を四袋投入いたし、極めつけに! なんと! 女子高校生と一緒に入浴している気分を味わえるという...──」


早く。僕は疲れているんだ。


「わかりました。すぐに準備いたしますね」と、小人もといお風呂の精は、煮え切らない表情をしたまま、ふわふわと浴場のほうへ飛んで行った。



しばらくして、キュッキュッ、と蛇口をひねる音、それからドドドド、と勢いよくお湯が放流される音がうっすら聞こえてきた。


「ごくらーくのゆーはー、おしゃかーさまーのー、つばーきー、みながー、こぞってー、はいれーばー、たーちまちー、たーちまちまちー、マチ子ちゃーん、そーなのよー、マチ子ちゃんはー、みんなのあこがれー、キーマカレー」


これはお風呂の精の声みたいだが、なんの歌かはわからない。というか、歌?


「マチ子ちゃんー、マチ子ちゃんー、あなたをいつもー、見ていますー、春夏秋冬、見ていますー、登校下校に入浴就寝、いつも欠かさず見ていますー、最近避けられ気味だけどー、抜け毛も増えて大変だけどー、今日もわたしはあなたをー、どこかでー、見ーつーめーてーるー」


ほんとに歌? 歌なの?


「わたしは愛を求める孤独のロンリーウルフ」


孤独って二回も言っちゃったよ。


「あなたも孤独のロンリーふんふふー」


ふんふふ。


「ふたり合わせてロンロンリー、やがて溢れる優しさがー、世界を救うだろうー、あと借金とか家賃滞納とか他人とのいざこざとか板挟みの苦悩とか肌荒れとか、ぜんぶ救ってー」


個人的な悩みまで、ふんふふ。


「人生ってしょっぱいよね。でも、甘いだけが人生ではないし、いろんなことを味わえるのが人生の醍醐味だよね。うん、人生って素晴らしい、そして愛おしい」


ちゃっかりまとめようとしてないかい。


「──さん24歳の方からのお便りです」


まさかのペンネーム(笑)


「よし、お湯張りはこんなところかなあ。あるじ様、喜んでくれるといいなあ」


蛇口の締まる音がして、少しすると、お風呂の精がまた戻ってきた。青く透き通っていた羽根は水分を含んで、重くなっているようだった。この状態では彼は空中で長くいられないため、僕は手のひらの上に導いた。蝶がひらひらと舞うように、お風呂の精は静かに着地した。と、同時に役目を果たし、力を使い果たしてしまったらしい彼は、僕がお礼を伝える前に、小気味好い破裂音とともに姿を消した。


廊下には、静寂がやってきた。夜風に吹かれる波のように穏やかに、速やかに、そっと、そして、あっという間に、ひとつの世界が終わったように。



僕はひとりだった。恋人を失ったし、小さい友人も今はいないし、愉快な歌も聞こえてこない。

まさしく僕は孤独になってしまった。孤独で、ロンリーな、何かだ。


しかし唯一。唯一、この世界に残されたものがあった。友人が僕のために用意してくれたお風呂だ。特上の極楽の湯だ。僕だけが入ることを許される、それを、なるべく時間をかけてじっくり楽しむのが、僕の役目だと思う。


お風呂はそういう楽しみかたをするべきだし、リラックスが大事だろう。要するにメリハリということなんだけど、そうすると逆にスイッチを入れるのは温泉(ON)のときということになるのかもしれない。

が、それはまたいつかの機会に楽しむことにするとして。


今日のところは、スイッチ・オフ(お風呂)。

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