価値の重み
わたしがクリヤマに出会った日は、大雨に包まれた鎌倉だった。
学校から帰る途中、ふと思ったのだ。
「嗚呼、これ、もう辞めたい。なにもかも、リセットしたい」
馴染めない日常、合わない価値観。家も学校も、全部がぜんぶ、嫌になっていた。
目に入ったひと際大きな背のマンションに惹かれるようにして進み、気が付いたらちっぽけな街が見渡せる屋上にいた。
「わたしなんか、誰も気が付かないし、誰も悲しまない」
だったら、生きている意味なんかないし、それならいっそ飛んでしまおう。
腰ほどの鉄格子を必死に跨ごうとしていると、低い声が聞こえた。
「何をしている」
足音は全くせず、気配もなかったのに、振り返れば、考えられないくらい近くにいた男がわたしを見下ろしていた。
「何を、するつもりだ」
背が高く、筋肉質。かけた眼鏡には雨の水滴がたくさんついていて、無精ひげからは雨のしずくがいくつも落ちる。
「……し、死のう、かと」
唖然とした口からは、馬鹿正直に素直な本音が飛び出していた。
すっと、男の瞳が細くなる。
「俺、死ぬまでに一度でいいから行ってみたい店がある……死ぬ前に付き合ってくれないか」
「え……わた、わたし?」
「このマンションに住んでいる。店に行くには、雨に打たれ過ぎだ」
わたしの腕を大きな手が包み、鉄格子から降ろされた。
「そのままでは風邪を引く。おいで」
有無を言わさない背中に、わたしは素直に従った。
見た目とは裏腹に、北欧家具で統一された部屋は滑稽だったが、シャワーを借り、サイズがレディースの部屋着まで貸してくれた。
「ココアと珈琲しかない。どっちがいい?」
「こ、ココア」
「それなら、ここで作っていてくれ。俺は珈琲」
やはりシンプルなカップを二つ渡され、男はシャワー室へ向かった。
言われるがまま、わたしはお湯が沸騰するのを眺めている。
虚ろで悪かった精神状態が、ここで少しだけ戻って来た。
「……あの人、誰?」
「俺はクリヤマ」
わたしの独り言に、やはりいつからそこにいたのか、瞬時に返されてしまった。
「君は?」
「み、水谷葵」
「そうか。それじゃあ、葵。俺の行ってみたい店は、ここから少し遠い。今週の土曜日は休みか?」
シャワーを浴びるにはあまりにも早いし、服も変わっていない。が、真っ黒な髪は乾いていた。
「土曜日は、休み」
「そうか、土曜日にしよう」
しばらく無言だったが、クリヤマは珈琲を、わたしはココアを啜った。
あまり話もしないまま、ココアを飲み終えた後。
「申し訳ないが、俺はこれから用事がある。駅まで送ろう」
クリヤマは決して面白い話をしたわけではないし、若くてイケメンでもない。が、この時点で、かなりの安心感があった。
死ぬという考えも、鎌倉駅に着く頃にはなくなっていた。
「これ、俺の連絡先。土曜日に行く店を送るから、葵のも教えてくれ」
「あ、うん」
こうして別れたのだが、後日。
クリヤマが住んでいる、と言ったマンションで自殺体が発見されたのである。
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