第39話 闇の卵
「うひゃ、すげえな」
神殿の中心にたどり着いたとたん、ゼンが言いました。
フルートとポチは思わず絶句します。
石造りの広間の中は黒い霧でいっぱいでした。
霧はゆっくりと渦を巻き、壊れた天井を突き抜けて、空へ空へと立ち上っていきます。
ここの霧は今まで見てきたどこの場所よりもっと濃くて黒く、どろりとした液体のように見えました。
そして、霧の渦の中心には、ひときわ濃い闇が巨大な丸い塊になって浮かんでいました。
「これだ。これが真実の水盤に映ったんだ。闇の卵だよ……」
とフルートは言って、目をそらしてしまいました。
闇の卵は果てしなく暗くて、見つめていると吸い込まれてしまいそうな気がしたからです。
ポチが部屋に向かってウーッとうなり出しました。
「危険ですよ、この卵。ものすごく邪悪な気配がします」
「ああ。さっきから俺も全身に鳥肌が立ってる。ホントにやばいぞ、こいつは」
とゼンも薄ら寒そうな顔で首の後ろをなでています。
すると、霧がひと筋ゆるゆると広間から出てきて、子どもたちのすぐそばまで流れてきました。
フルートは、はっと気づいて、自分の後ろにゼンとポチをかばいました。
とたんに霧が黒い触手に変わってフルートに絡みつきます。
「フルート!!」
ゼンとポチが声を上げたとたん、霧がばっと飛び散りました。フルートの胸で金の石が輝いて霧を打ち払ったのです。
霧は何度も子どもたちに迫ってきましたが、そのたびに金の光に追い払われて、広間の中へと戻っていきました。
ゼンは手を打ちました。
「いいぞ、エルフが言ったとおりだ! フルートの金の石のほうがずっと強力なんだ!」
「ワンワン、早く! この卵をやっつけましょう!」
とポチも尻尾を振ります。
フルートは急いで首から金の石のペンダントを外しました。
ところが、それをかざそうとすると、闇の卵の中心で紫色の光が稲妻のようにひらめきました。
ォオオオオオオーーゴォオオオオオーーーー……
風が吹きすさぶような
フルートたちは思わず目をつぶって耳をふさぎました。
すると、ふさいだ耳の奥で、風の音がはっきりとした声に変わったのです。
来イ、来イ、我ノ元ヘ来イ……!!
それは強力な召喚でした。
圧倒的な強さで精神の中に食い込んできて、心と体を支配しようとします。
耳をふさいでも防ぐことができません。
ゼンとポチが目を開けました。
うつろな目つきで一歩二歩と前に進み始めます。
「いけない!」
フルートは我に返ると、仲間にしがみついて広間の外へ引き戻しました。
とたんにふたりも正気に返りました。
「ひぇっ、やばいやばい」
「ワン。引き込まれるところでした」
すると、彼らの背後からものすごい音が聞こえてきました。
フルートたちがびっくりして振り返ると、神殿の入り口の方向からたくさんの獣や鳥が迫ってくるのが見えました。
熊、オオカミ、鹿やタカやフクロウ……雑多な生き物が口々に鳴き叫び、蹄の音や羽音をとどろかせて突進してきます。
フルートたちがとっさに飛びのくと、獣や鳥は目の前を走り抜けて、次々と霧の広間に飛び込んでいきました。
誰もフルートたちには目もくれません。神殿の前で出会ったカラスの大群と同じです。
生き物の中には人間も混じっていました。
男も女もいましたが、皆とりつかれたような顔をして、闇の卵だけを見つめて走っていきます。
そこに見覚えのある顔を見つけて、フルートとゼンは驚きました。
「あいつは……!」
「シャーキッドだ!」
ビスクの町を雪猿で襲っていた魔法医くずれの男が、獣と肩を並べて走っていました。
フルートに切り落とされた両手には、乾いた血がこびりついた布が巻きつけてあります。
着ている服はぼろぼろに裂け、靴が脱げた足からは血が流れ出していますが、それでも全速力で走り続けています。
子どもたちがあっけにとられて見守る中、シャーキッドは広間に駆け込み、紫の稲妻がひらめく卵に近づいていきました。
「危ない!」
子どもたちは思わず叫びましたが、シャーキッドはためらいもなく卵へ身を躍らせました。
霧でできた卵は一瞬ぐにゃりとうごめくと、シャーキッドの痩せた体を呑み込んでしまいました。
他の獣や鳥や人間たちも、同じように次々と自分から闇の中心に飛び込んでいきます。
卵は全ての生き物をすっかり呑み込むと、ぐぐっと一回り大きくなりました。
「こいつ、生き物を取り込んで成長してやがる……」
ゼンが吐きそうな顔になって言いました。
フルートの顔も真っ青でした。
大量の生き物の生命を呑み込みながら育っていく卵。それがかえったとき、中からどんな怪物が生まれて来るというのでしょう。
「ワン、早くこれを消滅させてください!」
とポチが叫びました。
フルートは金の石を卵へかざそうとしました。
すると、突然、卵がまたぐにゃりと大きくゆがみ、表面に男の顔が浮かび上がってきました。
たった今呑み込まれたシャーキッドの顔でした。
シャーキッドは鋭くつり上がった目で子どもたちを見ると、にたりと笑いました。
「私をそれで消滅させようと言うのか? 金の石の勇者よ」
声はシャーキッドですが、話し方が違いました。闇の卵がシャーキッドの顔を使って話しかけているのです。
フルートたちが身構えていると、闇の卵がまた言いました。
「良いのか、金の石の勇者? 私はここまで育っている。私を破壊すると、私の内側の力が爆発しておまえたちを残らず打ち倒す。おまえたちは間違いなく死ぬぞ」
フルートは目を見張りました。金の石を掲げようとしていた手が、途中で止まってしまいます。
闇の卵の力はロムドの国全土をおおうほど広がっています。
こうしてそばに立っているだけで、計り知れないほど強大なエネルギーが伝わってきます。これを壊せば周りもただではすまない、とフルートは直感したのでした。
シャーキッドの顔が、闇の卵の上でまた笑いました。
「ことによれば、金の石の勇者は無事ですむかもしれぬな。石がおまえを守るだろう。だが、おまえの仲間たちは助からん。せっかくメデューサの呪いからよみがえった仲間を、また死なせるつもりか?」
金の石を握るフルートの手が震えました。
闇の卵はフルートの一番弱いところを突いてきていました。
そばにいるゼンとポチのことを思うと、石を掲げる勇気が出てきません。
卵を消滅させなければ、国中、世界中の人たちが危険になる、とわかっているのに……。
すると、ゼンが急に声を立てて笑い出しました。
「責めどころを知ってるじゃないか、卵! フルートが優しいことにつけ込みやがってよ。だが、そんなことを言い出すからには、おまえにはもうフルートを止める力がないんだよな。口先でおどかすくらいしか、できることがないんだ。へっ。どうせ俺たちは一度死んだんだ。もう一度死んだからって、どうってことないぜ。そうだろう、ポチ?」
「ワン、その通りです! ぼくとゼンの命で世界中の人間や生き物が助かるなら、安いものですよ!」
とポチも尻尾を振りながら言いました。
ゼンは笑ってポチを抱き上げると、フルートを振り返りました。
「俺たちのことは気にするな! 金の石の力で闇の卵をぶっ壊してやれよ!」
ふたりの目が、さあ行け! とフルートを促していました。迷いも曇りもない、まっすぐな瞳です。
フルートが何をしても――たとえ自分たちを死なせるようなことをしても、それを認めて許してくれています。
フルートの胸の内は激しく乱れました。
闇の卵を壊さなくてはならないのは、わかっています。けれども、仲間たちを死なせたくはないのです。
フルートはどうしていいのかわからなくなって、金の石を握りしめました……。
「小さな勇者たちよ。金の石を信じて進むのだ」
頭の中に突然声が響いてきたので、フルートは、はっとしました。
白い石の丘のエルフの声でした。
フルートたちが闇の神殿目ざして出発したときと同じように、深く静かに話しかけてきます。
「金の石は守りの石。おまえたちを必ず守るだろう。石を信じるのだ」
フルートは金の石を見つめました。
石は手の中できらきらと澄んだ金の光を放っています。
「フルート、早くしろ! 俺たちの命なんか惜しむんじゃない!」
「ワン、そうですよ! チャンスを逃しちゃだめです!」
とゼンとポチがまた急かしましたが、フルートは首を横に振りました。
おい!? とゼンたちは焦り、卵の上のシャーキッドの顔は満足そうに目を細めました。
「そうだ。何もしないのが賢明だ。私が壊れるとき、闇の力は
すると、フルートは仲間たちを振り返りました。その顔は意外なほど落ち着いていました。
「ねえ、ゼン、ポチ……一つ二つの命がたくさんの命より軽いなんて、誰が言えるのかな。ぼくには、君たちの命が世界中の人の命より安いなんて絶対に思えないよ。この世界を救っても、君たちが助からなかったら、それは世界を救ったことにはならない。ぼくには君たちが生きていることが何よりも大事なんだもの……。命は誰のものだって、おんなじに大事なんだよ。だから、ぼくは君たちの命を世界中の命と引き替えになんかしないんだ」
それから、フルートは闇の卵に向き直りました。
「白い石の丘のエルフが言っていた。金の石の力を信じろって。だから、ぼくは信じる。金の石は守りの石。おまえを破壊しても、絶対にぼくたち全員を守ってくれるはずだ──!」
ゼンは目を丸くすると、すぐに、にやりと楽しそうに笑いました。
「なら、なお上出来だ。思いっきり行け、フルート!」
「ワンワン! 金の石を!」
とポチも言います。
フルートは、左手の金の石を闇の卵に向かって突き出しました。
「消えろ!!」
ペンダントの真ん中で金の石がまばゆく輝き、澄んだ金の光があふれ出します――。
「やめろ! やめろ! やめろぉぉーっ!!」
シャーキッドの顔が狂ったように叫び、光の中で崩れて消えていきました。
闇の卵が光を浴びて身をよじり、広間の中の黒い霧がぐるぐると回転を始めます。
回転は激しい風が引き起こし、神殿中を揺さぶり、古い石の柱を引き倒しました。
あちらこちらで天井が落ち、神殿が崩れ始めます。
オォオーーーーオオオォオオーーーー……
卵から
金の光が卵のまわりから黒い霧のベールを一枚また一枚とはぎ取っていきます。
やがて、卵の表面に無数のひびが走り――
…………!!!
音にならない音をたてて、闇の卵が砕けました。
卵の中から真っ黒な光がほとばしり、あたりのものを一瞬のうちになぎ倒します。
神殿は砂に変わって消滅し、沼は干上がり、黒い霧は激しい風にあおられて、空の彼方へと吹きちぎられました。
何もかもが激しい流れに呑み込まれ、蒸発するように見えなくなっていきます。
卵から現れた黒い光は、神殿の上空でねじれるように寄り集まると、一瞬、黒い蛇のような形を作り、すぐに金の光の中で薄れていきました――
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